或る夜、イルカが・・・

いい歳をして、僕は犬が怖い。恐ろしそうな犬の脇を通る時など、犬がこちらの気を呑んで威嚇していることが敏感に感じられる。

勿論、僕だって、子供の頃、子犬を拾って帰って母に叱られたことがある。ただ無性に可愛くて、しゃがみ込んで頭を撫でているうち、もうそのままにして帰ることが出来なくなり、抱いて帰ったのだ。子犬は、小さな僕の腕の中で甘え、そのうちに眠ってしまった。多分、幼かった僕にとってさえ、何の疑いもなく全てを委ねてくる存在が、無意識のうちに、庇護すべきものに思われたのかも知れない。

家に飼い犬がいたことだってある。犬は、家族の誰よりも僕に馴れた。学校から帰り遊びに出掛ける時など、犬は、かならず僕について来た。野球をしにグラウンドへ行く時も、友達の家に行く時も。

だから、僕は、犬の可愛さは知っているつもりだ。犬のそばを通る時、僕は、その見知らぬ犬と親しくなりたいと思う。でも、犬の方は、内心、僕が恐れていることを知っていて、僕がそばへ寄ると威嚇する。それは何か、こちらの恐怖心が犬に伝わり、追い込まれた者が、恐怖に駆られて唐突に攻撃をしかけたりすることを、先読みされているみたいだ。

僕が犬を恐れるようになったのには、きっかけがある。それは、とても悲しい記憶だ。

或る日、僕の家で飼った三頭目の犬、シェパードのマイクが、公園を散歩していた家族の小さな女の子を噛んで怪我を負わせてしまった。最初、上の男の子が放った小石が、マイクの腰に当たった。犬は小さく悲鳴を上げ、すぐに反撃の態勢に入った。僕は、必死に引き綱を握りしめ、マイクをなだめた。その時、下の女の子が、兄の真似をして小石を放った。小学生の僕に、成犬のシェパードを引き止める力はなかった。マイクは、まっしぐらに女の子を襲った。

傷は大したこともなかったが、精神的に受けた影響が大きいと裁判になり、当然、こちらがいろんな責めを負うことになった。

先ず、傷の治療費を負担する。これは当然だ。そして、慰謝料として五十万円。さらに、今後も、人に危害を加える可能性があり得るとして、マイクの薬殺が申し渡された。

マイクは、既に野犬収容所に捕らわれていたから、僕は、ついにマイクに逢うことは出来なかった。マイクが、僕を待っているだろうと思うと、その気持ちに応えられない僕は、泣くことさえ出来なかった。

そんなことがあってから、僕は急に犬が怖くなった。それは、犬が人に危害を加えるからではなく、僕が、実に無力にマイクを死なせたということに起因する。

話が随分横道に逸れたが、犬や知能の高い哺乳類と人間は、或る種の意志の疎通が出来るということをいいたかった。

航海は、既に十日目を数えていた。

もう、いろんなことにも慣れ、僕は、航海を楽しむ余裕さえ出てきた。

その日は、この航海を始めていちばん美しい海と空が広がっていた。僕は、コックピットに本やクッキー、果物、コーヒーの入ったマグカップなどを持ち出し、カセットテープのジョージ・ウインストンのピアノ曲を聴いていた。

気分は上々だった。時にかすかにまどろみ、目覚めては音楽に耳を傾け、飽くことなく海を眺めた。

その時、ふと理由のない不安が心を過ぎった。何だろう?僕は、その不安の原因を考えたが分らなかった。

そうしているうちに、海面にイルカの大群が現れ、ヨットの周りを思い思いに泳ぎ回った。背中のフィンのつけ根に白い傷のような模様があるイルカが、艇に衝突するかのような勢いで突進してきて、寸前で体をかわしていった。そんなことを何度も繰り返し、イルカたちはどこかへ姿を消した。

僕は、そのまま、僕のうちを過ぎった不安を忘れてしまった。

その夜は、日中にも益して美しく、穏やかな月夜だった。風は十二ノットの追い風。ヨットを走らせるには物足りない風だが、焦ったってしょうがない。少し寒かったので、僕は、オイルスキンにフリースのインナーを着けてデッキに出た。艇にどこも異常がないことを確かめると、僕はまた、コーヒーのカップを持って、コックピットに腰を降ろした。

月が海面を昼間のように照らし、水平線にわだかまる雲の上辺を白く光らせていた。艇がかき分ける水音が、心地よいバックグラウンドミュージックのように心を和ませた。気象ファックスが告げる通り、今夜中に天候の悪化がないことは明らかだった。

熱いコーヒーを口に含んだその時、僕は昼間と同じ不安が胸の内を領するのを覚えた。それは、どこからとも知れず、極度の警戒心か特別な意図を以って誰かにじっと見つめられている・・・そんな種類の不安だった。何だろう?と僕は考え、日中よりはいくらか余裕をもって思いを巡らした。

こういう感覚に覚えはないか、僕は考えた。例えば、大きな屋敷を囲む塀の内側で、巨大な番犬が、吠えもせず僕の動向を窺っている。そんな感じに近い。或いは、ただの想像だが、姿の見えないスパイか探偵に後をつけられていたら、こんな感じだろうか。何にせよ、敵意とはいわぬまでも、かなりナーバスな警戒心を剥き出しにした感覚がビシビシと伝わってくる。

冗談じゃない。ここは北緯四十度、東経百五十六度、太平洋のど真ん中だ。こんな所に犬やスパイがひそんでいる訳がない。僕は、その不安を、初めて長期航海に出た緊張のせいとして無視することにした。

緩やかに波うつ海面に月光の帯があった。ヨットがかき分けるさざ波でそれが千々に砕け、その上を千鳥が鳴きながら飛び交っていた。

その時、ふいに海面が裂けイルカが姿を現した。それは、昼間にも益して物凄い大群だった。海はイルカの跳躍に沸き立ち、滑らかなイルカの背に月の光が白く反射した。

何か超現実的で、ファンタスティックで、そして、とても不安な感じだった。僕は、恐る恐る口笛を吹いてみた。ピッ、ピーピッ、ピッ、ピーピッ。

すると、一頭のイルカが艇に向かって突進してきた。衝突寸前で反転する時、月の光に、背のフィンのつけ根に白い傷のような模様が見えた。昼間の奴だ!と僕は思った。

僕の耳元で、誰かが(アナタ、ドコヘユクノ?)と囁いた。えっ?僕は急いで周りを見回した。勿論、誰もいない。暫くすると、また同じ声がした。いや、声というのとは違う。ただ、そう感じるのだ。テレパシー?

そこで僕は、(キミはダレ?)と考えてみた。
(あなたの、すぐ目の前にいるじゃない。あなたはどこへ行くの?)
(えっ、キミはイルカなの?本当にそうなの?)
(イルカってなに?とにかく、私はわたし。それよりも、私といっしょに行こうよ)
(冗談じゃないよ。僕は、きみたちのように水の中で生きていけないもの)
(どうして水の中では生きられないの?それに、もうすぐひどい嵐が来るわ。だから、みんな、南へ行くところなの)
(嵐が来るのは知っているけど、そんなにひどい奴かい?)
(そう。私たちの中でも何頭かは死ぬわ。それは仕方がないことなの。多分、そう決められていることだから。仕方がないことだけど、私たちは、死なないように、いろいろやってみなくてはいけないの。あなたみたいにのんびりしていたら、間違いなく死んじゃうわ。さあ、私といっしょに行こうよ)
(待ってくれよ。それは僕には出来ない相談だ。その嵐に、僕とこの船がどこまで耐えられるかやってみる以外、僕には方法がないんだ。多分、そう決められていることだからね)

テレパシーというものが、こんな形で異生物と意思の交換が出来ることに、僕は、ただ驚いていた。そして、それが素晴らしく、しかも稀有な体験であることに気づき、僕は興奮した。

突然、理解できないノイズが僕を襲った。海面を見ると、あの白い模様のあるイルカが、大きく黒々とした別のイルカに追われていた。月明かりの海に、その姿はすぐに見えなくなったが、遠くから、助けを求めるような悲しい思いが伝わってきた。それは、何かとても切なく、僕の胸を締めつけた。

恐らく、あの白い傷のような模様のあるイルカを執拗に追い求める雄が、離脱しかけている彼女を、群れに連れ戻そうとしているのに違いない。そして、若しかすると、嫉妬のような感情に突き動かされているのかも・・・と、僕は思った。

そんなことを考えていると、月が雲間に入り、ふっと辺りは暗くなった。再び月光が海面を照らした時、海は、完璧な静謐の中にゆったりと揺蕩っていた。

あの夥しい数のイルカの群れは、もうどこにも見えなかった。それは、あまりにも唐突で、僕にはとても信じられない暗転のようだった。

夢?・・・冗談じゃない。あのイルカが右舷から左舷へ移った時、僕は、ハーネスのフックをそのように掛け替えたのもちゃんと覚えている。

僕は、久々に恋する切なさのようなものを胸に刻んで、メインハッチをくぐりキャビンへ降りた。イルカとの恋?そんなこと、誰が信じるだろう。僕はどうかしてしまったのかも知れない。このことは、誰にも内証にしておこう。
僕は、ふっと笑うと、新しくコーヒーをカップに注いだ。

[完]

* 1995・6・25著作/2000・7・1加筆


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