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4月21日(土)/晴・曇・雨・28℃・東の風15Kn/Commonplace

フルートの少年

 これといって変化のない毎日です。

 やはり、航海を中止してしまうと、日々の緊張感が薄れます。逆にいえば、今までは航海に向けて緊張していたということでしょうか。

 確かに、いったん舫いを解くと、後は自分の技量と自然の気紛れ任せ。いくら技量があろうとも、自然の猛威に立ち向かう力なんて人間にはありません。自分の腕を信じ、後は幸運を祈るしかない航海は、出航まで後何日と指折り数えるだけでも緊張するものです。

 それが取り払われてみると、日々は、まるで中央オーストラリアのブッシュランドのように平坦です。好きな時間に起き、好きな時間に食べたいものを食べ、PCに向かっては懐かしい人々に、暇に任せたメールを送ります。

 それでも、一日に一度くらいは外を歩き、運動不足でぶくぶく太ることの予防をします。

昨日も、今給黎さんから、“いい天気に、キャビンにばかり居ては、体が腐っちゃうよ”というメールを頂き、それではということで、舷側にスピンハリヤードで吊り下げているディンギーを降ろし、カナルの奥のKawanaショッピングセンターへでも行ってみようかと思いました。

 ディンギーを降ろし、いつも一発でかかるエンジンのスターターロープを引きました。ウンともスンともいいません。何度も、何度も繰り返し、へとへとになって、やっとエンジン故障を納得し、分解に掛かりました。

 一年に何日もないような素晴らしい天気です。暑過ぎもせず、風は爽やかで、何もかもが透き通っているような天気です。しかし、私は、ドックに引張り上げたエンジンの分解、そして、あまり分かりもしない修理で油まみれです。

 キャブレターを分解し、先日、少し開き過ぎたと気づいていた調整のねじを僅かに閉め、きれいに内部を洗浄して、組み立て、自信満々にスターターを引きます。ぜんぜん反応なし。また、エンジンをドックに引張り上げて、分解です。今度は、電気系統を重点的にチェックしました。プラグからはかすかなスパークの火花も見えました。念の為、プラグのカーボンをサンドペーパーできれいにして、今度こそ!

 やっぱりウンともスンともいいません。そんなことをしているうちに、夕方になり、手元が薄暗くなってきました。もう、フラストレーションの塊です。

 こういう日に、ディンギーをプレー二ングさせて、パッセージから外洋へでも、或いは、なだらかな砂浜に続く個性的な家々と、さらにそこから突き出したプライベートポンツーンに美しいヨットやモーターボートを繋いだ風景が続くカナルを走ったら、どんなに爽快か知れません。もともとはキャビンに燻っていたくせに、いざエンジンが故障と分かると、そして、労多くして成果はゼロとなると、そういうフラストレーションが私を飲み込むほどに膨れあがります。

 達成感なし。何もする気が起きません。もう、すっかり夜になり、あたら一日、油にまみれて終わりました。晩飯を作るのも億劫で、お茶漬けを掻っ込んで終りです。

 さて、今日こそはエンジンを何とかしなくてはなりません。とはいっても、やるべきことは全て昨日やった訳ですから、特に何を試みるというあてもありません。昨日と同じことを、もう一度繰り返すのみです。機械が分からないくせに、2サイクルエンジンがそんなに複雑な訳がないと呑んで掛かっています。ですから苛立ちも激しいのでしょう。

 心を平静に保って、キャブ、スターター、プラグ・・・と辿って行きます。どこにも異常はありません。きのう絞った燃料噴射のネジを少し開け、試しにプラグを新しいのに換えました。

 それで直っているなんて、もう、頭から考えてもいません。これでダメなら、ディンギーは諦めて、フォアデッキに上げてしまおう。そう思ってロープを引きました。

 何と、一発でかかったのです。しかし、何を直して故障を解消したのか?全く手応えというものがありません。ただ、いじっているうちに直ったという感じです。ですから、今日も達成感はゼロです。

 でも、昨日、エンジンに取り組んでいる折、一人の男がやって来ました。マリーナのブローカーから禅を紹介されたといいます。つまり、中古ヨットを探している人です。

 私はといえば、故障の原因がわからず、ひたすら苛立っている時です。勝手に観ていってくれ。何か聞きたいことがあれば、どうぞ、と素っ気ない態度でした。それでもRobert(彼の名前)は、一生懸命細かなところまでチェックし、かなり込み入った質問をします。

 私も一服して、ティーを淹れ、コックピットに坐って、少しRobertの相手をしました。彼はとても陽気な男で、ホリディーアパートメントの管理などをしているといいました。“もし、陸の家でリラックスしたくなったら、いつでもこの電話をコールしてくれ。それに、オレはイタリア人で、イタリア料理が得意なんだ。クルージングの話を聞かせてくれれば、Kawanaのビーチに面した部屋を都合して上げるよ。”といいます。

 艇が売れる売れないの問題ではなく、私は、彼の陽気で屈託のない人柄を思うと、昨日の素っ気ない態度が、ひどく気になり出しました。それで今朝、彼に電話して、昨日はエンジンが直らず苛立っていて悪かった、と電話をしました。No problem! 例の明るい調子で答えます。そして、“本当に、いつでも構わないよ。リラックスしたくなったら、コールしてくれ”といっていました。

 ここで一つ白状すると、私は、時々ブローカーといっしょにやって来る客に、微かな敵意を持っているようです。よくよく自分の心の内を覗いてみると、禅という私の愛艇を譲り受けようという奴は、可愛い娘を嫁にくれといって来る若者のように見えるらしいのです。どの道、娘は親元を離れ、好きな男の元へ行ってしまうものなのに、世の父親は例外なく娘の求婚者を憎むもののようです。さてさて、困った心理が私の内面に巣を作ったものです。

4月25日(水)/快晴・30℃・北東の風10Kn/Very fine

 物凄くいい天気。上空には一片の雲もなく、地平線には、真夏と見まがうばかりの入道雲が真っ白に輝いています。

 さすがに、怠け者の私も、キャビンに燻っている訳にはいきません。

 考えてみれば、コーヒーのクリームパウダーも品切れですし、先日来、今給黎さんに送ると約束した未発表の短編のコピーもとらなくてはなりません。

 サンダルに短パン・ポロシャツで、いざマリーナを出てみると、満杯になる事なんかあり得ないといつも思っている広いパーキングが満車です。おや?今日は何の日だ?

 駐車場に続き、公園のBBQプレイスはファミリーで大賑わい。ビーチも、天気が今一だったイースターよりもずっと混んでいます。ビーチ沿いに連なる板敷きのボードウォークと呼ばれるプロムナードも、いつもはあまり人が通らないのに、今日は、しきりと散歩する人々とすれ違います。海には、たくさんのヨットが走り、今日ばかりは、レンタルのホビーキャットも出払っているようです。

 はハァー、そうか、今日はAnzac Dayか。戦没・戦傷者記念日です。

 まあ、クリスマスやイースターに比べれば、マイナーな休日だろうとたかをくくり、街へ出ました。いくつかの商店は休業です。そして、お目当てのコピーショップもお休み!やれやれ・・・その足で、スーパーへ向かいました。エッ、スーパーもお休み!!

 日本で類似した祭日といえば終戦記念日でしょうか。私たちは、うっかりすると、今日は何の祭日かを意識せず、終戦記念日の休日を楽しんでいます。そんな意識で、私はアンザック・ディーを考えていたかも知れません。そして、ふと思い出しました。

 それは、15年前なら、アンザック・ディーに日本人は外を出歩かなかったという話です。意外に思われるかも知れませんが、第二次世界大戦で日本軍によりオーストラリア人が蒙った被害は、相当なものなのです。中国大陸や朝鮮半島への侵略と残虐行為は、覆うべくもなく誰もが知るところですが、オーストラリアについて、日本では全くといっていいほど語られていません。

 オーストラリア本土に対して目立ったものはありませんが、木曜島や外郭の島々、或いは、オーストラリアの統治領への攻撃と、それを防衛せんとしたオーストラリア人が受けた被害はかなりのものがあります。

 まあ、戦争ですから、掘り返せば、どこにだって残虐行為はある訳ですし、しかもオーストラリア側から見た戦争被害だけでいわれれば、私たちに弁明の余地はありません。日本にだって、それなりに悲劇はあった訳ですが、ここオーストラリアに住む日本人として、このアンザック・ディーにそれを公然と口にする勇気はありません。

 去年のクルーズで大事故を起こし、木曜島の向かい側のホーン・アイランドに錨泊していた時のことです。「シーマ」の松浦氏と、ホーン・アイランドの博物館を訪ねました。入ってみると、展示のほとんどが、木曜島、ホーン・アイランドなどの第二次大戦における記録でした。屋外には、未整理の資料が散在し、中には日本軍の戦闘機や魚雷艇の残骸もありました。

 一人の太ったオーストラリア人が、私に、何処から来た?と尋ねました。日本から。そう答えると、彼は、私の手を引いて或るコーナーへ連れて行きます。そして、一枚の写真を示し、「これを見ろ!」と、激しい調子でいいました。その写真は、越中ふんどしだけ身にまとい、目隠しされ後ろ手に縛られたオーストラリア人が、日本軍の士官に、いまや日本刀で首を切られようとしているものでした。私は、うめくこと以外、何一つ出来なかったのは当然です。

 松浦氏は、以前、バンダーバーグという港で、酔っ払ったオーストラリア人に絡まれたことがありました。彼の言い分は、“オレのおやじは、南洋諸島で日本軍の捕虜になった。ひどい待遇で栄養失調になり、加えてマラリアに罹ったせいで、終戦後、帰国してからも普通に働くことも出来ず、しかも早死にしてしまった。我々子供たちは、そのためにとても辛い子供時代を経験した”というものでした。

 言葉も十分ではない私たちにして、ましてや敵地にあるような状況では、反論の余地もありません。松浦氏のお父上は、硫黄島で戦死されているのです。彼にしてみれば、帰って来たおやじがいただけでも幸せじゃないか、ということです。しかし、泥酔した男を相手にしても始まらないと、彼は何もいいませんでした。

 戦争は、双方の人間の心に深刻な傷跡を残します。しかし、日本国内に居る分には、かつての敵対者の感情と真っ向から向き合う機会はありません。せいぜい、教科書問題で、韓国や中国から、戦争の実態を秘匿しているという非難を聞き、それほど声高にいうことが何かあるのだろうかと首を捻る程度です。

 勿論、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、南洋諸島でも、敵意をあからさまにして日本人に食って掛かる人は稀です。普通の人々は、全人的な平和と、より友好的な人間関係を構築しようと努め、戦争の記憶は、過去の不幸な出来事と認識しています。

 ニュージーランドの小さな街にも、サモアの寒村にも、アンザック・ミュージアムがありました。オーストラリアでは、戦没者慰霊塔に花と灯火が絶えることはありませんし、退役軍人や戦没者の遺族の活動は非常に活発です。そして、アンザック・ディーの今夜7時半からのTV番組では、日本軍に撃沈された潜水艦の、4日間にわたるサバイバル記録が放映されます。

 残念なことですが、世界の多くの国々では、もう半世紀以上も昔の悲劇を、今でも絶対に忘れてはいません。

4月26日(木)/快晴・31℃・東の風10〜15Kn/Very fine

花のソナタ

 木曜日は、恒例のバーベキュウ・パーティーです。

 各自が自分のBBQの食材を持参し、飲み物だけはバーで買うという仕組みです。これは、Mooloolaba Yacht Clubが、インターナショナルのクルーザー(ヨッティのこと)へのサーヴィスとして、クラブのスペースとBBQ設備を開放してくれるものです。ヨッティたちは、このパーティーを社交と情報交換の場として活用します。

 これからどこそこを経て何処ヘ向かうというと、既に、そのルートを経験した者が、さまざまな情報や助言をくれます。なにしろ、半分以上のヨッティが、既に地球を一回りしている人たちですし、中には、3度世界を廻り、今度が4度目なんて人もいますから、情報と一言にいっても、質の高さは最高です。

 私がキールをヒットしたタートルヘッド・アイランドのエスケープ・リバーにある(海図には載っていない)ロックも、ここではすっかり有名になりました。中には、海図を持ってきて、私にそのポイントをプロットしてくれという人もいました。

 今日の話題は、先日、近くの病院で急死したレッグの思い出話から始まりました。

 因みに、遺言により彼の葬儀は行われず、レッグの親友の誰かが、レッグの指定したオフショアの或る場所へ行き、灰を海に撒いてきたそうです。いつもいっしょに散歩していた白い小さな犬は、彼が亡くなった病院の誰かが引き取ったと聞きました。雨が降ると、犬にレッグお手製のレインコートを着せ、一日中、犬を連れて散歩していましたが、時々、歩き疲れた犬を小脇に抱えて帰って来たレッグの姿が思い浮かびます。

 驚いたことに、レッグの通ってきた南太平洋のレグ(航路)は、私とほとんど同じでした。

 マルケーサスはヒバオア島で入国し、ヌクヒバ島の後、彼はツアモツ環礁のマニヒへ向かっています。その後、ランギロア環礁に立ち寄り、タヒチ島、モーレア島と航海したそうです。やがて、トンガを経て、ニュージーランドへ。そこで6ヶ月間の休養の後、フィジーへ。さらに、バヌアツ、ニューカレドニア、そしてオーストラリアです。

 細部に少々の違いはありますが、大筋では、全く同じ航路を辿ったようです。私と、どこかで出会わなかったのは、クルーズした年度が、私の方が一年、彼より早かったからでした。

 そんなことが切り口になって、バヌアツのポートヴィラで、日本のヨットに逢ったという男がいました。どんなヨット?と尋ねると、30フィートほどの白いボートで、大酒呑みの男が一人だったといいます。艇の名前が思い出せないが、何か面白い名前だったというので、私は、すかさず“APRIL FOOL!”といいました。そう、そのエープリル・フールだ!ということで、すっかり話が盛り上がってしまいました。

 エープリル・フールのオーナーは、谷安さんといい、通称、谷さんです。出身は和歌山らしいのですが、日本中を歩き回っています。ヨットの登録は千葉だといっていました。

 全く面白い人で、ありとあらゆる遊びに長けています。ヨットは、まあ当然としても、ゴルフ、ビリヤード、そしてクラリネットやギターも得意です。恐らくは、江戸っ子そこのけの、宵越しの銭は持たぬ感覚で遊びまわった人だと思います。そして、道楽の果てが、どうやらヨットによる風任せの航海だったのでしょう。

 しかし、何といっても、彼のお酒は一流です。何も目立ったことはありませんが、ただ気持ちよく愉快に飲みます。どんなに深酒しても、人が変わるということもなく、平然と、静かに飲んでいます。

 かつて、バヌアツを出国する時は、デューティーフリーのお店で、お店にあるだけのウオッカとラムを買い占めました。免税の商品は、お店が税関へ持って行き、証印をもらって、ヨットに届けてくれます。そして、出国するまでは開封しないのが決りです。しかし、谷さんに、そんなことは関係ありません。商品を受け取った岸壁で、ウオッカの封を切り、美味そうに喉を鳴らしているのです。

 バヌアツを出て、エープリル・フールと禅は、ニューカレドニアへ向かいました。

 ニューカレドニアの東側の入口は、ハバナ・パスといって、潮流が物凄いことで有名です。私は、停潮時を待ち、沖でヒーブツーをしていました。無線で谷さんを呼び、潮待ちしている旨を伝えると、谷さんは、このままパスに突っかけるといいます。“潮汐の時間、知ってるの?”と尋ねると、“潮汐表、あるんや、去年のだけどナ”といいました。

 その後、二時間ほどして、私たちもハバナ・パスに挑みました。停潮時というのに、潮目がくっきりと海面を分け、所によっては激しく渦を巻いています。潮の吐き出してくる時に、ここを通った谷さんは、さぞや苦労をしたことだろうと思いました。

 プロニー・ベイという入り江に入ると、先着のエープリル・フールが見えました。近くへ行き、アンカーを入れ、パスはどうだった?と、尋ねました。

“ぜんぜん進まへんのや。前へ行って、戻されて、同じとこ、行ったり来たりや”

“そうだろうね。パス通りながらいってたんだ。谷さん、大変だっただろうねって”

“フン、そいで、ちょっと前ここに着いたばかりや。ハハハハ・・・”

 ヌーメアに落ち着いて暫くすると、真っ白いビーチが有名なイル・デ・パンへクルーズすることになりました。イル・デ・パンとは、日本語に直すと松島ということです。

 谷さんは、大分前にヌーメアを出て、かつてアンカーを入れたプロニーへ行っていました。イル・デ・パンへ行くには、リーフだらけの海域を行くので、日中以外は走れません。ヌーメアのポート・モーゼルを出て、いったん、谷さんがいるプロニーへ立ち寄り、翌朝ディセーリングで行くことになります。イル・デ・パンへ行くことは、既に谷さんと打ち合わせていたので、当然、ベイの入口近くに待っていると思っていたのに、遂に姿が見えません。しかたなく、翌朝、禅はプロニーを後にしました。若しかすると、一足先に行っているかも知れません。しかし、イル・デ・パンでもエープリル・フールは見当たりません。

 翌々日、イル・デ・パンを後にし、プロニー・ベイへ戻ると、谷さんと無線が通じ、入口から三つめのベイにいるといいます。谷さんは、いつも私がアンカーで苦労していることを知っているので、サイド・バイ・サイドで舫いをとってくれました。

 面白半分に釣りをすると、大きなハタが釣れました。それを肴に、谷さんは美味そうにオールド・パーを飲んでいました。

 翌日、遥か奥にあるハリケーン・ホール(嵐が凌げるアンカレッジ)に移りました。アンカレッジに入って行くと、“You & I”という馴染みのヨットが居ました。この辺りが場所がいいよ、と彼がいいます。もう、名前は忘れましたが、シングルハンドの男で、谷さんは、“おしゃべり兄ちゃん”と仇名をつけていました。谷さんは、側へ行くと、彼のおしゃべり相手にされるから、こっちへ来て、エープリル・フールに横抱きにしろ、といいます。おしゃべり兄ちゃんの方は、エープリル・フールに横抱きにすると、コックローチが乗り移って来るぞと脅します。まあ、結局は、谷さんのお言葉に甘え、エープリル・フールに舷を並べました。

 2、3日間、ハリケーン・ホールに滞在し、エープリル・フールを残して、禅はまたヌーメアのポート・モーゼルのマリーナへ戻りました。

 それからさらに一週間ほどした或る日の夕暮れ時、ポンコツのエンジンを響かせてディンギーがやって来ました。“おーい、禅さーん、わし、ドライなんやァー”という大声は、紛れもなく谷さんでした。何がドライなのか、初めは分かりません。そのうち、はハーと思い当たりました。エープリル・フールの酒が切れているということなのです。後で聞くと、水や食料はどうにでもなったが、人っ子一人見当たらないプロニーでは、酒だけは手に入らない。“それで帰って来たンや”とのことでした。私は勿論、彼の好みのウオッカ、やオールド・パーを振舞いました。本当に、これ以上のものはないという風に、美味そうに飲みながら、谷さんは“禅へ行けば、ぜんさん飲まへんから、絶対酒あると思ったんや”と、満足げにいっていました。

 BBQパーティーの席で、そんな思いで話を聞かせると、“そうそう、そんな感じの人。なんか、とってもユーモラスで、それでいて飄々とした人だったわ”と、彼の奥さんも愉快そうに笑っていました。

 航海というものは、場所というよりは、むしろ、人と人とのこんな楽しい想い出がぎっしり詰まった放浪の旅なのですよ。

Zen/西久保 隆


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