■Part―4・The South Pacific Ocean / to Australia 《その先の海》


[南太平洋クルーズ・パート2]

《フィジー(FIJI)》続き

午後三時、スヴァ港へのパスに差し掛かった。港の奥に、岸辺の三角の標識と山腹の別の標識を一線に結んで入港航路を示す二層式の標識が見える。

ところが、10分おきにスコールがやって来て、標識はおろか周囲のリーフを含む一切の視界を奪ってしまう。僕らは、慎重に霧の合い間に標識を見つけつつパスを通って内港へ進入した。

右手奥に大型船のワーフが見える。その遥か左手に七艘のヨットがQ旗を掲揚して停泊している。その辺りの水面に見える黄色い点がクワランティーン・ブイ(検疫錨泊点)だろう。ワーフとヨットの中間にフィジーと英国国旗がはためくところは、多分、ロイヤル・スヴァ・ヨットクラブに違いない。

僕らは今までの苦難も忘れヨット溜まりへ急いだ。近づいてみると、それぞれのヨットのコックピットに屯する誰もが裸だ。そして彼らは、片手に缶ビールを掲げて、「ようこそ、南国へ!」と叫び僕らを迎えてくれた。ほとんどのヨットがニュージーランドからの自前の苦しい航海に耐えて今ここに碇泊している。誰もが、滴る汗と冷たいビール、肌を焼く熱帯の太陽への焦がれるばかりの渇仰を胸に秘めてやって来た人々だ。

[禅]もまた、クワランティーン・エリアにアンカーを深々と沈めた。周囲に碇泊中の旧知の艇に尋ねると、今日は土曜日で、加えて大型の貨物船が検疫と税関審査を受けているので、我々の入国審査は若しかすると月曜日まで待たされるかも知れないといった。陸を目の前にして二日間も待たされるのは辛いことだ。しかし、たった今まで荒波に揉まれて来たことを思えば、今夜、錨泊したヨットで眠れるだけでも最高の幸せだと思えた。

夜中に雨や風の音がしていたが、揺れないベッドでぐっすり眠った。そして、翌朝はいい天気だった。

それにしても[独尊]はどうしただろう。

クワランティーン・エリアには、金曜日から検疫を待っている艇も多い。VHFでカスタムスをコールしても、彼らが得られる返答は常に『もうちょっと待て』だけだった。陸を目の前にしてじれる彼らの気持ちが手にとるように伝わってくる。

十時過ぎ、やっと[独尊]から無線が届いた。パスまであと五浬といった。あァ、よかったと胸を撫で下ろしていたら、再びコールがあった。そして、『エンジンは動くが前進しない。そしてエンジン・ルームから激しく浸水している。いざという時、[禅]はすぐ曳航に来られるだろうか?』といった。

僕はアンカーを揚げにかかった。まだ[独尊]から要請はなかったが、こんな時、駆けつけるのが仲間というものだ。事情が分からぬ周囲の艇たちは、僕が抜け駆けして検疫を受けに行くのではないかと疑心暗鬼で[禅]を凝視していた。しかし今、そんなものに関わっている時間はない。僕はパスへ急いだ。

その頃丁度、[独尊]からカスタムスへ緊急入港したい旨のVHF通信が英語で発信された。傍受していたクワランティーン・エリアのヨットも事情が読めたらしく、何艘かはディンギーを出して応援に駆けつけてくれた。

パスの入口で[独尊]の曳航索を受け取った。碧ちゃんは、安心したらしくバウでおどけて僕を笑わせる。倫子さんの姿が見えないと思ったら、キャビンで浸水する海水をバケツで汲み出しているそうだ。

僕は、[独尊]を曳航してカスタムスのワーフへ向かった。そして、無事に[独尊]を繋留すると、[禅]は再びクワランティーン・エリアに戻った。

[独尊]からの報告によると、浸水はエンジンとプロペラ・シャフトを繋ぐカップリングが外れ、テーパーになっているシャフトとスターン・チューブに隙間ができたためとのこと。埠頭に繋留していることでもあり、原因が分かればもう心配はなかった。

しかし、若し天候が悪化せず、[独尊]がミネルバ・リーフへ行っていたらどうなっていただろう。分かってみれば原因は他愛のないものだが、人目もない絶海の岩礁地帯で同様のことが起きれば容易ならざる事態になったことは当然だろう。それを思うと、僕は背筋に冷たいものを感じた。それにしても、何と皮肉な話だろう。天候の悪化が、こんな幸運を恵むとは・・・。

午後、緊急入国を終えた片嶋ファミリーは、VHFでこれからシャワーを浴び、その後マクドナルドでハンバーガーを食べてきますといった。何日も足止めを喰らっている僕らにしてみれば羨ましい限りだったが、彼らは、災いを見事に福に転じたことになった。

結局、僕らの入国手続きは月曜日のお昼頃まで待たされた。

《スヴァ》

フィジーというところは、奇妙な文化性を帯びた国だ。異文化という以前に、フィジー文化とインド文化が、溶け合うことなくそれぞれ独立して存在を主張している。そうかと思うと、実に不思議な度合いで混じり合っていたりもする。それらが局面に応じて表れるから、どれがフィジー本来の文化的独自性なのか、外国人としては戸惑ってしまう。

本来のフィジー人は非常に暢気でお人好し揃いだ。しかし、国民の半数を占めるインド系フィジー人は、正に生き馬の目を抜くばかりに功利的で野心家で自己主張のかたまりだ。正反対の傾向の人種が狭い島国に同居しているのだから、文化の様相も自ずと混沌としてくるのは当然だろう。

観光で訪れた人々は、スヴァを美しい街という。しかし、仕組まれた観光ルートに無縁なヨッティーの僕らは、彼らの日常に直に飛び込む訳だから全てが見えてしまう。そういう目で見れば、スヴァはカレーの匂いに満ちた雑然とした街なのだ。

勿論、商業活動の盛んな街は活気に満ちているし、不潔さを厭わなければ面白い出来事に溢れている。しかし、コマーシャリズムの露骨さや、インド人が異常なほど幅を利かせている実態は、僕にとってあまり好感の持てるものではなかった。

商店はほとんどインド人の経営だが、市場はフィジー人の暢気さと陽気な雰囲気に溢れていて面白い。僕らは、野菜や、これから始まる島めぐりに不可欠なカバを買いによく市場へ行った。

フィジーの島や村を初めて訪れる場合、カバという胡椒科の植物の根を干したものをチーフ(酋長)に献上するのがマナーとされている。

訪問者はまず集落のスポークスマンに会い、どこから来たか、訪問の目的は何か、名前や滞在の日程などを告げる。スポークスマンは、訪問者を案内してチーフの家を訪ねる。そこにはチーフのほかに長老などが待ち構えていて、スポークスマンは彼らに祝詞(のりと)のような節回しで訪問者を紹介する。それが終わると、カバをチーフに献上し、チーフは長老たちに順繰りにそれを回して贈り物の品定めをする。満足がいけば、『ブラ・ブラ』といって掌を打ち合わせ、チーフは訪問を認める旨を告げる。しかし、それらは全てフィジーの言葉で、しかも独特の節回しで行われるから訪問者はただ奇妙な儀式を物珍しげに眺めていることになる。

最後に、スポークスマンは訪問者に、『チーフは贈り物に満足された。あなたたちは我々の客として迎えられる。この島の住民と同様に好きなところを訪ねてもよい』という趣旨のことを告げる。

さらに、贈り物のカバでカバ・ドリンクが作られる。チーフをはじめ多くの村人が集まりカバ・パーティーが始まる。儀式のようなパーティーは、セブセブといい、日本の茶道のような厳格な作法があるのだそうだ。

カバは麻酔のような作用があって、飲むと意識が弛緩して朦朧となってくる。そしてそれは、概ね夕方から始められる。

乾燥したカバは、まず粉々に砕かれる。それを布の袋に入れ、カバ・ボールという水を張った木の器の中で素手で揉みしだかれる。出来上がったカバ・ドリンクは、見た目には泥水のようだ。それをチーフが最初に毒味し、例の『ブラ・ブラ』と手拍子でパーティーが始まる。

聞くところによると、島などで行われるセブセブで肝炎に罹るケースが非常に多いそうだ。それに、煮沸しない水は僕らには飲めない。加えて、とても清潔とは思えない手で揉み出されたカバ・ドリンクが泥水のような色合いをしていれば、飲むにはちょっとした覚悟が必要だ。

僕らの苦肉の策は、チーフを訪問する時刻をお昼前にすることだった。午前中からセブセブは行わないから、カバを献上したらさし当たっての儀礼はすんだことになる。今にして思えば、一度もセブセブに同席しなかったのは残念だったが、お陰で肝炎には罹らなかった。

スヴァでは、これから訪れる島々でチーフに献上するカバや、島では手に入らない野菜を買ったり、オーストラリアのヴィザを取得したりして十日間を過ごした。

その間、以前から無線で連絡をとっていた[オーロラ]という日本のシングルハンドのヨットが、六月十日夕刻、スヴァに入港して来た。

オーナーは森脇一郎くんといった。世界一周航海の予定というが、航路も訪問国も未定だそうだ。年齢は四十歳過ぎなのに、見た目は二十歳代後半にしか見えず、飄々として生活感というものが全くない。夢の中を流浪するように生きてきた僕よりもさらに浮世離れした人のようだ。

彼のスヴァ到着を祝って、僕らはその夜、食事を共にした。楽しいひと時だった。

[オーロラ]は、僕らがヤサワ・アイランズ(Yasawa Islands)をクルーズ中の六月二十七日、スヴァを出航し、航程2800浬のダーウィン(Darwin/オーストラリア北西岸の港)を目指し、飄々と出航して行った。


《ベングァ島と南海岸》

六月十六日、僕らはベングァ島(Beqa Island)へ向けスヴァを出航した。ベングァは目と鼻の先という距離だから、とてもクルーズとはいえない。それでも、複雑なリーフに囲まれた見知らぬ島だから、それなりの緊張感はある。

余談になるが、フィジー近辺には地名に面白い読み癖がある。僕らが訪れたベングァは『BEQA』と書くし、アメリカン・サモアのパンゴパンゴは『PAGOPAGO』と書く。また、ニュージランドからの航路で通過した島カンダヴは『KADAVU』、フィジー国際空港があるナンディーは『NADI』と書き、字面にはない『ン(N)』の音を挟む。こういう例は随所に見られて、この地域特有のものであることが明らかだ。

また、ツツカカ・マリーナの隣りの村は『ングルングル(Ngrunguru)』といって、日本では全く例を見ない『ン』の音で始まる地名などもある。これらの言語的特異性や共通点を比較観察してみると、マオリやポリネシアの歴史的な人類の流れが見えて非常に興味深い。

危うくリーフにぶつかりそうな場面もあったが、午後五時半、[独尊]と[禅]は無事ベングァ島のヴァンガ・ベイ(Vaga Bay)に錨泊を終えた。

岸辺からは、島の人々が興味深げにヨットを眺めていたが、チーフへの挨拶は明朝にすることにした。前にも書いたとおり、夕方に表敬訪問をすれば例のセブセブの儀式に参加することになり、泥水のようなカバを飲む羽目になる。僕らは、ひっそりと夜を過ごした。

翌朝、快晴の入江に元気な子供たちの声が響いていた。半分に千切れたサーフ・ボードや何かの板切れや流木に跨った何人もの子供たちがヨットの回りではしゃいでいる。英語で話し掛けても言葉は全く通じない。それでも、天真爛漫に白い歯を見せて明るく笑う。笑いは直截なコミュニケーションであり、和を通じ合える世界共通語だ。僕らは、たちまち子供たちと友だちになった。

彼らに案内されて島に上陸した。

話に聞いていたとおり、スポークスマンらしい大人が現れ、僕らの話を聞くとチーフの家へ案内してくれた。不思議な節回しで僕らが紹介され、何人もの貫禄のある島の老人たちが居並ぶ中、チーフの前にカバが献上されて儀式が始まった。式が進むと、老人たちは時折「ブラブラ」といって二度かしわ手を打った。どうやら僕らは村の客人として認められたらしい。

僕らは狭い島を探訪した。兄弟らしい子供たちがそんな僕らを案内してくれた。そして、この島は今まで見てきたどの島よりも貧しいことが分かった。

三十分も歩くと見るべきところは全て見尽くされた。兄弟は、とある家へ僕らを招いた。突然の訪問なのに、その家で僕らは歓待された。お昼が近かったので、主婦がカッサバという芋を蒸かしたものを出してくれた。

これは多分、彼らの昼食だったに違いない。僕らが食べてしまうと、貧しい彼らに食べるものがなくなる。それでも、誠心誠意、僕らをもてなそうと一生懸命なのだ。遠慮は彼らのプライドを損ない厚意を裏切ることになる。僕らは、彼らの温かい心と共にカッサバを頂いた。

大きなカップに紅茶が注がれた。インスタント・コーヒーの空き瓶に砂糖が入っていて、大きなライススプーンが添えてある。彼らは、それを二、三杯も紅茶に入れる。

僕らに砂糖が回ってきた。見ると、瓶の中には砂糖にまみれた蟻がたくさんいた。僕もまた、彼らの仕種に習って砂糖をどっさりと紅茶に入れて飲んだ。彼らの厚意を意気に感じて飲むと、蟻入り紅茶は僕の文明人意識の障りにはならなかった。

突風に吹きさらされて夜が過ぎた。六月十八日、朝、泊地としてあまり快適とはいえないヴァンガ・ベイを後にした。[独尊]と[禅]は、フィジー本島ヴィチ・レヴ(Viti Levu)の南岸沿いに、折からの強風の中、クヴ・ハーバー(Cuvu Harbour)へ向けて豪快に帆走した。

クヴ・ハーバーはリゾートとして有名だ。しかし、そのジョイフルな雰囲気に触れるために上陸すると二十五ドルも徴収される。ヨッティーはそんなところに用はない。

夜になると、岸辺のリゾートからネイティヴなフィジアン音楽が聞こえてきた。恐らく、観光客たちのディナーショーが催されているのだろう。太鼓や手拍子に混じって美しいコーラスが流れ、南国の夜の闇に静かに溶けていった。

六月十九日、僕らは、たった七浬西のナタンドラ・ハーバー(Natadola Harbour)へ移動することにした。

十時過ぎクヴ・ハーバーを出航し、十二時半にはナタンドラに錨を降ろした。入江はしっかりしたリーフにプロテクトされていてとても静かだ。それになだらかで真っ白いビーチも美しい。

ホテルはないが、ナタンドラのビーチには近隣のリゾートから観光客が大勢押し寄せる。案内書によるとヴィチ・レヴでいちばん美しいビーチと書かれている。

また、岸からそう遠くないところにはヴィレッジがあって、椰子の林の向こうに粗末な家並みが覗いていた。しかし、ここは観光地だからセブセブの儀礼は不要だろうと僕らは判断した。

ビーチの美しさに魅せられて、僕らはディンギーで上陸することにした。岸辺へ向かっていると、大勢の子供たちが何頭もの馬を引き、僕らの上陸地点を目指してビーチを走っている。何をしているのだろうと訝っていると、まだ岸にも辿り着かないうちに、子供たちが馬に乗ってくれと殺到して来た。「観光客じゃないから乗らないよ」と断っても、全然屈する気配が見えない。断っても、断っても僕らにつきまとい、馬に乗ってくれと呪文のように繰り返す。少々強い調子で断っても全然効果がない。この執拗さには、ほとほと困惑し、また呆れ返ってしまった。

やっと乗馬を断ると、今度は、ヨットに乗せてくれといいだした。こんなに大勢じゃとても無理だというと、僕一人だけこっそり乗せて欲しいという。それが二十人ほどの子供全員から繰り返し、繰り返しせがまれるのだから堪ったものではない。

いい加減うんざりしていると、ヴィレッジのチーフと称する老人に、持って回った言い回しで訳の分からぬ嫌味をいわれ、挙句の果て、ボートのエンジンを直してくれといわれた。快く修理に手を貸そうとすると、故障ではなくガソリン・タンクが空っぽだということが分かった。セブセブを怠った負い目があったから、馨くんと僕はそれぞれ二リットルずつ老人にプレゼントする羽目になった。カバの代わりと思えば腹も立たないが、手練手管に翻弄されたという不快感が僕らの心に残った。

こんな嫌味な執拗さや狡獪な駆け引きがフィジーの素顔とは思いたくない。たった二、三日前、ベングァであんなに真心のこもった歓待を受けたばかりではないか。僕らは、やり場のない困惑と悲しみを心の隅に畳み込み、翌朝、次の目的地へ向けて出航した。

《ママヌカ諸島(Mamanuka Is.)》

六月二十日、僕らはママヌカ諸島南端のマロロライライ島(Malolo Lailai Island)へ向けて出航した。

ナタンドラ・ハーバーのパスを出て岸沿いに西へ走る。

いい天気だ。あちこちに綿を千切ったような貿易風雲を浮かべた真っ青な空、そして見ている僕の目が染まってしまいそうな紺碧の海。風は穏やかなフォローだ。こんな日の船足は軽快で心も弾む。

ヴィチ・レヴの南西端ナヴラ・ポイントを過ぎるとマロロ・バリアリーフが北西へ伸びている。暫くリーフに沿って走り、三番目の切れ目、マロロ・パスを入ると左前方にマロロライライ島が見えてくる。

アイランド・リゾートとしてのマロロライライはフィジーで最も有名な所だから、リゾートだけでなく航路標識やアンカレッジもよく整備されている。それに、島の中心のマスケット・コーヴ(Masket Cove)には去年まではムァリング社のチャーターヨット基地があったので、その名残としてのマリーナもある。

僕らは、これから先の長期にわたるアイランド・クルーズに先立って、良質の飲料水や燃料の積み込み、艇の整備、国際電話の使用、それに当分は我慢しなくてはならないシャワーなど、設備の整ったリゾート機能を存分に利用させてもらった。

しかし、マスケット・コーヴは、何故かとりとめのない夢のような場所だった。海やビーチはフレンチ・ポリネシアに劣らず美しく、整った設備とリゾートらしい華やかさに溢れているというのに、不思議なことに、僕がそこに滞在したという実感が全くない。何だか、絵葉書写真を覗き込んでいるように非日常的な時間が僕を置き去りにして勝手に流れているようだった。

**

六月二十四日、四日間滞在したマスケット・コーヴを後にして、僕らは次の碇泊地マナ・アイランド(Mana Island)へ向かった。

マナ島は、フィジアン音楽の発信地として有名な所だ。場合によっては、大奮発して正真正銘のフィジアン音楽を体感するためディナー・ショーに繰り込むのも悪くない。

期待に胸を膨らませ、迷路のようなマロロライライの浅い水路を抜け、さらにマナ島のパスの激しい潮流を乗り切って、昼過ぎ、僕らはリゾート前に到着した。

しかし、ベイは期待していたほど美しくなかった。しかも、吹きさらしのベイは泊地としてあまり良好とはいえない。沖からリーショァの強風が吹かないことを祈るばかりだ。

ディナー・ショーは六時から始まるそうだ。それまでの時間、僕以外のみんなが島の北側のリーフへシュノーケリングに出掛けた。

読書をしたり昼寝をしたりして気侭に過ごしていると、三時頃から風が吹き募ってきた。しかも沖からの風だ。アンカー・チェーンが張り詰めてギーギーといやな音で軋み、岸辺のリーフが目の前に近づいてくる。シュノーケリングに行ったみんなは大丈夫だろうか。僕は、ちょっと不安な気分で彼らの帰りを待ちわびた。

やがて、連中が帰ってきた。どうだった?と尋ねると、海が汚れていて良くなかったという。みんな、フレンチ・ポリネシアをはじめ世界最高の海を満喫してきた者ばかりだから、評価は相当に厳しいようだ。

夕方になって、風は三十五ノットにもなった。ベイは一面真っ白に波立ち、ディンギーで気軽にディナー・ショーへという状況ではなくなった。[独尊]も[禅]も、大きくヒールしながら突風に翻弄され、右に左に触れ回っている。そればかりか、強風は一晩中吹き荒れ、アンカレッジに錨泊しながら、僕は十分な睡眠もとれなかった。

***

朝になって、やっと風が収まった。僕らは何も得るものもなくマナ島を後にした。 今日の行き先は、クルージング・ポイントとしてかなり期待が持てるナヴァンドラ・アイランド(Navadra Island)だ。

しかし、この島にはジンクスがあって、セブセブを怠った船は事故に遭うという。かつて、ビーチ正面の岩陰の洞窟で、攻め寄せたトンガ人をフィジアンの戦士がバーベキューにして食べたという所謂カナバルがあったそうだ。そのお清めのためにセブセブを怠ってはいけないとムァリング社のクルージング・ガイドブックにちゃんと書いてある。

迷信家ではないつもりだが、長く航海を続けているといろんな不思議に遭遇するから、ヨッティーはどんな忠告にも素直に耳を傾けるようになる。それに、セブセブは訪問者の当然の儀礼だ。僕らはそれを怠るつもりは毛頭なかった。

ところがナヴァンドラは無人島で、この島のチーフは五浬ほど南のタブア・アイランド(Tavua Island)に住んでいる。マナ島を出航した僕らは、タブア島へと急いだ。

ベイに錨を降ろし、僕らは早速上陸してセブセブを行った。しかし、それは座敷に車座になってというものではなく、粗末な小屋の軒先に立ったままの随分おざなりな儀式だった。

それが終わると長老の一人が、ナヴァンドラには何泊するかと尋ねた。多分、三泊か、或いは五泊。僕がそう答えると、一艇一泊十ドルだと長老がいった。

冗談じゃない。どこの世界にベイにアンカーリングして金を取るところがあるものか。[独尊]と[禅]の二艇が五泊すれば一〇〇ドルにもなる。全く冗談じゃない!

馨くんが顔色を変えてその理不尽に抗議した。そして、どうしても碇泊料を取るというのなら他所へ行くから献上したカバを返してくれと迫った。そうしたら長老が、神様に献上したものだから、返すことは出来ないといった。

押し問答の挙句、仕方なく意味不明のお金を十ドル払ってタブア島を後にした。先日のナタンドラ・ハーバーでもそうだったが、とてもフィジアンの民族性とは思えない狡獪さにまたもや直面してしまった。長閑なフィジーにあって、このしたたかさは一体何だろう。憤るというより、ただガッカリした。使い古したエンジンオイルを心の内壁にでも塗りつけられたようなドロドロした不快感だけが残った。

嫌なことは早く忘れよう。気分を変えて僕らはナヴァンドラ島へ急いだ。

午後二時半、[独尊]と[禅]は北に開いて三方をプロテクトされた静かなベイに到着しアンカーを入れた。先着艇が三艘いた。その中の[Jananna]という無骨な手作りヨットから髭面のキャプテンが泳いで来た。嫌なこと続きだったので身構えていると、

「西側のショアのリーフがとてもきれいだよ」と教えてくれた。ヨッティーらしいその無垢な一言がとてもうれしかった。警戒心でささくれた僕らの心の縛めがふんわりと解けていくようだった。

何と美しいベイだろう。

みんなが心を奪われたように、時を忘れてシュノーケリングに打ち興じている。日が西へ傾き、やがて夕暮れが迫ると、目に見えている一切が未だ見たこともないほど真っ赤に染まった。干潮には陸続きになる岩山とその頂の松の木がシルエットになって夕闇に溶けていく様は、マグマの中に飲み尽くされてゆく世界のように壮大でドラマチックで、しかも幻想的だった。そして、夜の帳が全てを包む頃、インディゴブルーの夜空は降りこぼれるばかりの星に埋め尽くされた。

あァ、やっと僕らがいるべき場所に帰って来た!

風が絶え、リーフに寄せる波音も聞こえない夜中、デッキに出てみると満点の星空に細い鎌のような月があった。その月光に照らされて、切り絵のような島影が夜空に刻まれていた。僕は、人知れず夢の中を彷徨っているような仄かな寂寥感を帯びた感傷に浸っていた。

ラグーンに隔てられた島の磯とおぼしき辺りの暗闇に小さな火影が揺れていた。多分、近くの島の漁師が仮泊しているのだろう。しかし、曰く因縁の島と思えば、焚き火にさえそこはかとない畏怖を覚える。

そんなことを思い巡らせている時、月光の照り映える水面に音も立てず一艘のカヌーの黒い影が現れた。あまり唐突だったので、一瞬、僕は息を呑んだ。

カヌーには一人のフィジアンの男が乗っていた。そして、囁くような小声で抗生物質の薬剤が欲しいといった。どうしたのかと僕までが小声で尋ねると、子供が怪我をして熱を出しているという。怪我をして発熱といえば、重症の化膿性疾患か破傷風だろう。若し破傷風なら、抗生物質では効果がないし、僕が破傷風の血清なんか持ち合わせているはずもない。

抗生物質では十分でないから、すぐラウトカ(Lautoka・二十五浬ほど東のフィジー第二の都市)の病院へ行くようにというと、彼は、抗生物質さえあればいいと主張する。僕は、いくつかの症例を想定して数種の薬剤を探し、四時間毎に服用するようにといって彼に与えた。しかし、この人影もない海上で、彼が辺りを憚るように終始小声で話したことが解せなかった。彼は薬を受け取ると、現れた時と同様に音もなく闇の中へ消えていった。

何だか夢を見ているようだった。それに、子供の病状も気懸りだったから、翌朝、火影が揺れていた辺りの磯へ行ってみた。しかし僕は、そこで古い焚き火の跡しか発見出来なかった。

[Jananna]のキャプテンがいっていた通り、リーフは本当にきれいだった。外洋に面しているのに、沖のバリアリーフが波浪を遮っているからビーチはとても穏やかだ。

僕らは、青緑に輝く海と眩しいばかりに真っ白いビーチ、突き抜けるような青空を背景に茂る椰子の林という情景に囲まれてシュノーケリングをしたり、椰子の実をとってジュースを飲んだり、薪を集めてバーベキューをしたり、砂浜に寝そべって無為の時間を過ごしたりした。また、僕は童心にかえって、碧ちゃんと砂浜に小石を並べて絵を描いた。馨くんは、三十センチほどもあるシャコガイやグルーパー(ハタ)を獲って来て、僕らのディナーを華やかにしてくれた。

美しい日々・・・それは、ヨットの旅に憧れを抱く人なら、必ず想い描く情景そのものだった。僕らはナヴァンドラ島で、満ち足りて心に欠けるものがない幸せな数日を過ごした。




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