■Part―4・The South Pacific Ocean / to Australia 《その先の海》

[南太平洋クルーズ・パート2]

[ヴァヌアツ(VANUATU)へ]

七月二十五日、[独尊]がラウトカからブンダ・ポイントへ移って来た。天気が変わらなければ、明日、僕らは揃ってヴァヌアツへ向けて出航する。
ウインド・ワーニングは解除された。西側の気象は安定しているようだ。しかし、風邪を引いたらしく僕の体調が今いちスッキリしない。まあ、航海中には治るだろう。
因みに、マリーナの碇泊料は、十泊、電気料込みで110ドル90セント(米ドル)だった。かなり高いが、マリーナが希少なこの地域ではやむを得ない。
航程は、ヴァヌアツの主島エファーテ島(Efate Island)のポート・ヴィラ(Port Vila)まで、真西へ五三四浬。恐らく、五日か六日間の航海になる。
ヴァヌアツには、かつて南太平洋を巡ったヨット[北斗]とそのオーナーの武田さんご夫妻がいる。お会いしたことはないが、無線で何度か話をした。それに、随分昔だけど、舵誌で[北斗]の記事を読んだことがある。とても気さくな方のようだし、はじめて訪れる国に知人がいるということは心強いものだ。ポート・ヴィラは、きっと楽しい滞在になるに違いない。

**

七月二十六日、十一時十五分、[独尊]と[禅]は、ブンダポイント・マリーナの舫いを解いた。スヴァに到着してより一ヶ月と二十日間、フィジーには随分楽しませてもらった。それも今日でお別れだ。僕らヨッティーは、知り合っては際限なく別れを繰り返す。そのほろ苦い惜別の思いは、いつまで経っても慣れるということがない。
紺碧の海面は滑らかに凪ぎ、所々に浮かぶ純白のサンド・バンクが眩しい。マロロライライ島が右手を過ぎてゆく。小型飛行機が着陸のために降下して行く辺りがマスケットコーブのリゾートだろうか。
向かい潮が激しいマロロライライ・パスを過ぎた。外洋の波が[禅]を揺すり上げる。ついにフィジーを後にした。さあ、ヴァヌアツまで五三〇浬あまりの航海だ。帆を揚げろ!風を拾え!真西へ向けてひた走れ!
しかし、風は八ノット。とてもひた走るような風ではない。仕方がない、機帆走で行くとしよう。

航路の大半は微風か凪ぎだった。その微風がまた、真後ろから吹いてくる。ご存知の通り、真後の風でヨットは効率的に走れない。ジブを反対舷へポールアウトして観音開きで走る手もあるが、そうした作業をするのは僕一人だ。急な海況の変化に対応するには忙し過ぎる。だから、メィンセールの陰になって働かないジブを取り込んで、代わりにエンジンでサポートするということになってしまう。それでも、メィンのパワーを少しでも生かそうとすると、針路は大きくラムラインを外れ、計画した針路上をジグザグに走ることになる。
吹かれるよりは、少々パワーが足りないほどの風の方が航海は楽だ。強風に魅入られた僕だったけど、今回は七浬ほど後方を走る[独尊]のツキをもらったのかもしれない。彼らは、北太平洋でも三十五ノット以上の風に出会ったことがなかったという。逆に、[禅]は強風続き。そのジンクスを[独尊]にプレゼントしたのでなくてよかった。時間はいくらでもある。到着が一日遅れたからって大勢に影響はない。
ヴァヌアツへの航路の半分はエンジンの音と道連れだったが、それだって慣れればどうということもない。それよりは穏やかな海を楽しもう。
月は宵の口に水平線の彼方へ沈んだ。星は、一つひとつの宝石を指差すように鮮明に夜空を彩っていた。銀河は、ミルキーウェーという曖昧な表現よりは、本当に河が流れているようだった。
僕はコックピットに寝そべって夜空を見上げた。ヨットのローリングで揺れる視界の中を、北西から南東へ赤味を帯びた灯を明滅させて人工衛星が過ぎっていった。じっと見つめていると、まるで僕が宇宙を浮遊しているような錯覚に囚われる。
僕の目と星との間は塗り込められた闇だ。その黒々とした空間を、鳥だろうか、何かが悠然と通り過ぎる。さらに目を凝らすと、遥かな銀河の宇宙へ向けて立ち昇る仄かに白い気体のようなものが見える。何だろう、あれは?宇宙の霊気のようなもの・・・、そんな気がする。僕は、現実世界では説明のつかない不思議な現象に見とれ、何時間も飽くことなくそれらと一体になって、海面ではなく、宇宙の真っ只中を航海していた。

ヨット[シーマ]がトンガのバヴァウ諸島ネイアフ港に碇泊中らしい。シーガル・ネットが、松浦氏のメッセージを伝えてくれた。
[シーマ]は、この後、フィジーのスヴァに立ち寄り、ニューカレドニアで[禅]に追いつくそうだ。そして、[禅]が碇泊を計画しているオーストラリアのムルラバ・ヨットクラブ(Mooloolaba)のマリーナへいっしょに行きましょうとの伝言だった。
[独尊]はヴァヌアツで僕らと別れ、北上して日本へ帰国のコースを辿る。従って、彼らは[禅]と[シーマ]の邂逅には立ち会わない。[独尊]の片嶋夫妻は僕の我侭振りを十分にご存知だから、シングルハンダーの偏屈老人二人がどういう付き合いを始めるか大いに興味があると無責任に揶揄する。
僕自身、指摘されるまでもなく、人付き合いには全く自信がない。それに、自己中心的で我侭なことは僕がいちばんよく知っている。シングルハンドなど始めようという人間に協調性と社会常識を求める方がどうかしている。恐らく、それは松浦氏も同じだろう。彼とは、ハワイへの緊急入港で無線を通じナヴィゲーターをしたという経緯があるが、まだお人柄に触れる機会はない。さてさて、ニューカレドニア以降、どういう人間模様が展開されることか、片嶋夫妻に劣らず僕も大いに興味があった。船影こそ見えないが、[独尊]とのVHF交信は、暫しその話題で賑やかだった。

***

七月三十一日、十時半、[独尊]と[禅]は相前後してポート・ヴィラへ入港し、市街地が目の前のクヮランティーン・ブイ(検疫錨泊ブイ)に舫いをとった。
武田さんとは、航海中も随時連絡をとり合っていたから、彼が検疫と税関に連絡をとってくれてオフィサーがすぐ僕らを訪れるはずだった。しかし、午後になってもカスタムスのボートはやって来なかった。
午後四時が近づくと、業務が四時半で終了するので今日中に上陸できなくなる恐れが出てきた。僕らがそれをいうと、武田さんが余程強い調子でねじ込んでくれたのだろう、関係書類を持ってカスタムスのオフィスへ直接来るようにという連絡が入った。
馨くんと僕は、急いでディンギーを降ろしてランディング・キーへ向かった。そして、帰り仕度をしているオフィスへ駆け込み、いとも簡単な入国手続きを終えた。
それぞれの艇へ戻ると、僕らは[エープリル・フール]というヨットの谷安さんに案内されてイリリキ・アイランド(Iririki Island)とエファーテ本島の間の狭いパスを通ってポート・ヴィラ港のインナー・アンカレッジへ入って行った。左手には、ウォーター・フロントのバーやレストランが賑わっている。ヨット・クラブと称するレストラン&バーはバンド演奏も華やかに、世界中から集まってきたヨッティーたちで既に盛り上がっていた。
僕らは、港内のムァリング・ブイもとらず、イリリキの静かな島陰に舫う武田さんの[北斗]にアロング・サイドで碇泊させていただいた。武田さんは、[北斗]のブイは小型の客船でもびくともしないと豪語していたし、僕らを両脇に抱える[北斗]それ自体も四十二フィートのスループで二十五トンという堂々たる雄姿を誇っていた。
何はともあれ、僕らはヨット・クラブへ赴きシャワーを浴びた。熱帯だから、クラブのシャワーから湯が出ることはない。水は縮み上がるほど冷たかったが、一週間振りのシャワーは心地よかった。
そのまま先刻入港の折、横目に見て通り過ぎたレストラン&バーでドリンクとバンド演奏を楽しみ、食事を済ませた。やはり、陸の食事、特にフランス圏の料理は素晴らしい。
十分に味覚を満足させ、居合わせた旧知のヨッティーたちを含む気心の知れた仲間との歓談に夜が更けていった。
しかし、そろそろ艇に戻ろうという頃から、僕はひどい頭痛と寒気に襲われていた。フィジーで引いた風邪が治りきっていなかったし、ヴァヌアツに着いたという気の緩みと、さらに冷たいシャワーが災いして風邪がぶり返したようだ。僕は、風邪薬を飲んで早々に寝床についた。

翌朝、久し振りにゆっくり眠ったので疲れはすっきりと抜けていたが、風邪による頭痛は相変わらず続いていた。
馨くんが朝のジョギングの折に買ってきてくれたフランスパンが美味しく、フレンチ・ポリネシアを思い出させた。パンが美味しいということは、全ての食味の完成度が高いことを物語る。知らない国を訪ね異文化に触れることの大きな部分に食文化がある訳だから、パンが美味しいということは、僕にとってとても大切なことなのだ。

シングルハンダーの谷さん(谷安氏)は面白い人だ。愛媛県の出身だが東京や千葉での暮らしも永い。職歴は恐ろしくバラエティーに富んでいて、あまり定職を持ったことがない。そして、何事にも計画というものを建てない主義なのだそうだ。
例えば、「ヴァヌアツの次はどこへ行くの?」と僕が尋ねた。すると彼は、
「ワシ、フレキシブルやさかい、どこと決めてまへんのや」といった按配なのだ。
彼は随分昔にも一度、南太平洋を航海したそうだが、今回は日本から南下してオーストラリアに辿り着いた。いくつかの港を訪ね歩いた末、やがてフィジーへ向かおうとオーストラリアを船出した。ところが、貿易風帯を東へ向かう困難に遭って急遽ヴァヌアツに針路変更したそうだ。もっとも、ヴァヌアツまでだって、谷さんのように桁外れにフレキシブルなマインドでなくちゃ普通のクルージング・セーラーは敢行しない。彼は、これ以上東へ向かうのは、もう真っ平だといっていた。
谷さんは、外国ではポピュラーな手巻きタバコを常用していた。手巻きタバコにもフィルターを巻き込むようになっていて、彼はタバコを吸っていない時も次に巻くフィルターを唇の端にくわえている。外国人のセーラーと谷さんのことが話題になると、「あァ、いつもフィルターをくわえている人?」といった具合で彼が特定できる。
谷さんはめっぽうお酒が好きだ。ヴァヌアツを出国する時など、デューティー・フリーのお店にあるだけのウオッカとラムを買い占めたことがあった。
また、彼は函入りワインを常用していた。三リットル入りが一般的だが、或る日、谷さんは四リットル入りの函ワインを見つけてきた。勿論、三リットル入りよりも割安なのだが、それよりも一リットル多く入っていることがうれしいらしい。彼は、酒屋の倉庫にまで立ち入って、希少な四リットル入りの在庫五函を全て買い取った。特に彼が注目したのは、函がつぶれたり傷がついたりして正価で売れないものだった。彼は、戦利品のようにそれらを並べて悦に入っていた。谷さんは酒飲み心理を絵に描いたような愉快な人だ。
彼はまた、あらゆる遊びに長けている。恐らく、若い頃は相当の道楽者だったのだろう。僕らが実際に目にしただけでも、ゴルフはシングル、ビリヤードも玄人はだし、楽器はクラリネットを見事にこなすし、ギターもビックリするほど上手だ。恐らく、他の楽器も相当の腕前らしい。船にはマージャンなどのツールを積んでいないからお手合わせの機会がなかったが、多分プロ並みの腕前だろうと推察する。或いは、彼の意外性から推し測ってチェスとか高度なカードゲームのブラックジャックなんかも年季が入っているに違いない。
僕も、社会的にいってはみ出し人間だが、谷さんの奔放さにはとても適わない。そういう意味で僕は彼を尊敬したし、特別の親近感をもって付き合いをさせて頂いた。谷さんは、僕の永いクルージング生活の中で、特別に味わい深い友人だ。

武田さんご夫妻の生活はゴルフを中心に回っているといっても過言ではない。
片嶋夫妻も僕らも、ゴルフはほとんど未経験だ。武田さんは、そんな僕らと谷さんを連れてゴルフに出掛けた。
武田さんと谷さんはシビアなゲームをやっていたが、僕らはただの球転がし。ボールがまともに飛びもしない。ハーフを回るのに四時間近くを要したのだから、腕前が想像いただけるだろう。
しかし、谷さんには驚いた。航海中なのだからゴルフなど何年もやっていないだろうに、毎日コースに出ている武田さんとほぼ互角に渡り合っている。目の醒めるような彼のロングショットや寄せの小技に、僕はただ呆れ返るばかりだった。
武田さんのお宅は、ポート・ヴィラ港を眼下に見下ろす高台にあった。近くには、有名なホテルや国会議事堂もある。そんな一等地の豪邸に、武田さんご夫妻は犬のハナコと悠々自適に暮らしていらっしゃる。そして、お仕事を手際よく片付けては、毎日ゴルフ場へ出掛けて行く。
時には、奥さんのヨーコさんが、ゴルフで武田さんを負かすことがあるらしい。彼は、あのゲームは女房のマグレだというけれど、どうもそうじゃないようだ。ご夫妻の実力は、かなり伯仲していると見えた。

到着した翌日には、お風呂に入れていただくために武田さんのお宅を訪れた。そこで僕らはお汁粉や枝豆をご馳走になった。それらは故国を思い出す懐かしい味だった。僕らは、日本語で語られる新鮮な話題に時を忘れ、夕方までお邪魔してしまった。
また、武田さんご自慢のパエリアのパーティーには、地元に住む日本人たちや武田さんが面倒をみている海外協力隊の若者たちが大勢集まってくれた。話題もバラエティーに富み、海外に根を張って暮らす日本人の様々な姿に接して、驚いたり感心したりの充実したひと時だった。
武田さんのお宅へ向かう時は、いつも山のような洗濯物とお風呂道具を持参した。常々、僕らは手洗いの洗濯ばかりだけど、武田さんのお宅へ行けば洗濯機が使える。それに、全身を湯に沈めて入浴できるなんて、これに勝る贅沢はない。
南国の花々が甘く薫るベランダへ出て海から吹き寄せる風に湯上りの肌をさらすひと時は、日本人の僕らにとって幸せの極みだった。

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僕の風邪はなかなかよくならなかった。
或る日の朝早く、ハッチの隙間から呼ぶ碧ちゃんの声で目が醒めた。間に[北斗]の巨体を挟んでいるというのに、僕が激しく咳込む声が[独尊]まで聞こえ、見に来てくれたのだそうだ。細く開けたハッチから碧ちゃんの心配そうな幼い眼が覗き込み、
「zenさん、大丈夫?」と尋ねてくれた。
僕の体調がそんな具合だったことと天気が安定しなかったために、僕らは為す術もなくポート・ヴィラに居座り続けた。十日間に七日は雨か曇り、しかも折々激しい風を伴う気象の毎日だった。
二週間以上も無為な日々が続くと、誰もが次の寄港地へと心が逸るようだ。特に[独尊]は、これからヴァヌアツの北の島々を辿ってソロモンへ渡り、帰国の途につく時期にきていた。

八月十八日、ついに僕らは舫いを解いた。
前夜は、[北斗]のコックピットで、武田さんご夫妻と、折から来島中の堀さんご夫妻もお招きして天婦羅パーティーを催した。ポート・ヴィラ滞在中、僕らが武田さんご夫妻に頂いたご厚意に感謝する集いだったのに、僕ら自身が心置きなく楽しんだパーティーだった。
堀さんご夫妻は、ニューカレドニアのヌーメア在住の日本人で、彼らもまた、三十年ほど前、南太平洋をヨットでクルーズした方々だ。その航海中、奥さんの妊娠に気づき、ご夫妻は折から差し掛かったニュージーランド(NZ)で出産を予定した。
当時、NZは一切の医療が無料だったから、出産の間近かなヨッティーたちはNZへ押しかけるのが一般的だった。堀さんたちもまた当然のようにNZを目指した。
長期滞在にはヴィザが必要だった。そこで、ニューカレドニアへNZのヴィザ取得に立ち寄った。しかし、何日か暮らすうち、「ここもなかなか好い所じゃないか!」ということになって住み着いてしまったそうだ。当初は随分ご苦労されたそうだが、今や手広く事業を営み、彼は誰もが認めるニューカレドニア在住日本人の出世頭だ。
[北斗]でのパーティーで、堀さんはとても無口でシャイな方のようだった。ところが、宴もたけなわになると、彼のお得意の洒落が連発しだした。洒落といっても言葉のアレンジのような他愛もないものだが、それが生真面目そうな堀さんの口から飛び出すと特別の可笑しさがあった。[北斗]のコックピットは、その夜遅くまで絶えることのない哄笑に溢れていた。

午後二時、[独尊]と[禅]は、西へ僅か四浬のハイダウェイ・ベイ(Hideway Bay)へ向けて出航した。
ハイダウェイ・ベイに着くと、岸に程近い急深かの海底にアンカーを沈めた。
海岸から三〇〇メートルほどしか離れていないメレ・アイランド(Mele Island)はちょっとしたリゾート島だ。ビーチと島の間は、頻繁に水上タクシーが観光客を運んで行き来している。みんなは、早速ディンギーを降ろして島へ遊びに行ったが、僕は、相変わらず頭痛に悩まされて艇の留守番だった。
天候が目間苦しく変わる。気象ファックスを取ると、ニューカレドニア全体を覆うように前線が接近している。こいつは荒れるぞ!そう思う間もなく風が吹き募ってきた。やれやれ、安全なポート・ヴィラからわざわざこんな無防備な所へ来て時化に遭うなんて!体の不調も影響して、僕は次第に暗澹たる気分に陥っていった。

武田さんの所で会った海外協力隊の女性が、ハイダウェイの幼稚園で保母さんをしていた。そんな縁で、[独尊]にはたくさんの現地人の園児や保母さんたちが遊びに来た。
碧ちゃんは今や完全な国際人だ。どこへ行っても言葉も通じない子供たちをたちまち友だちにしてしまう。出来立ての大勢の友だちを従え、狭いヨットのデッキを駆け回る彼女の姿はいつ見ても頼母しい。
とはいえ、彼女の航海中の悩みは同世代のきまった友だちがいないことだ。行く先々で新しい友だちを作っても、ヨットの出航は、容赦なく出来たばかりの友だちとの別れを強要する。作っても作っても、また必ず新たな別れがやってくる。だから、[独尊]の出航日が近づくと碧ちゃんはいつも無口になり、とても悲しそうだった。
それに、本来なら今年四月で小学一年生の彼女の就学問題は、片嶋一家にとって重要課題だった。新学期が始まる来年四月までには、彼らはどうしても帰国しなくてはならない。ヴァヌアツを北上し、ソロモン諸島、赤道を越えてカロリン諸島、北マリアナ諸島、グアム、サイパンなどの南方諸島、小笠原諸島を経て日本への航程に、もう僅か半年も残っていない。馨くんは帰国の途につく日取りを懸命に模索していた。

気象は荒れっ放しだった。そして、僕の風邪はさっぱり快方に向かわない。
[独尊]を見送り方々、僕は、せめてエピ島(Epi Is.)やアンブリム島(Ambrym Is.)、マラクラ島(Malakula Is.)辺りまでは行くつもりだった。特に、マラクラ島のさらに北、エスピリツ・サント島(Espiritu Santo Is.)のルーガンヴィル(Luganville)の街には、今までとは全く異なった文化・風俗があるそうだから興味があった。そのためにも、僕らはニュージーランドでマラリアの予防薬まで用意してきたのだ。
しかし、僕の体調ではハードな航海を望めそうもなかった。スミコも、やっと深刻な状態を理解して、ポート・ヴィラへ戻ることを了承してくれた。

翌二十三日、午前九時、東風が吹き荒ぶ中、僕らはポート・ヴィラへ向けて出航した。[独尊]とは、ここでお別れだ。彼らには本当にお世話になった。彼らの手助けがなかったら、僕らがここまで来られたかどうかも分からない。奥さんの倫子さんも随分苦しい航海を耐えているようだが、どうか無事に帰国してほしい。
碧ちゃんに、「世界中にいいお友だちをいっぱい作ってね」というと、気軽に「ウン」と答えた。もう、航海中に会えないなんて思わないのかもしれない。いつだって、[独尊]と[禅]は、暫くすればどこかで出会っていたのだから。
ハイダウェイの西、常に潮波が厳しいデヴィル・ポイントは名のとおり禍々しく荒れていた。[禅]はそれを後方に眺めながら、真向かいから吹きつける二十五ノットの風に逆らって懸命にポート・ヴィラを目指した。しかし、船足はせいぜい二ノット以下だ。がぶられて、流されて、やっとポート・ヴィラに着き[北斗]の舷側に舫いをとったのが正午過ぎだった。
武田さんも谷さんも留守のようだった。どうやら、ゴルフに行ったらしい。僕は、崩れるようにバースにもぐり込み、泥のように眠った。夢の中で、碧ちゃんが心配そうに僕を覗き込み、「zenさん、大丈夫?」と呼びかけていた。



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