■Part―4・The South Pacific Ocean / to Australia 《その先の海》

[南太平洋クルーズ・パート2]

[ニューカレドニア(NOUVELLECALEDONIE)]

僕らは、さらに十日間もポート・ヴィラに滞在した。そしてヴァヌアツ最後の夜、武田さんは僕らのために焼肉パーティーを開いてくれた。とろけるような最高級のサント・ビーフを腹いっぱい頂いて、僕は明日からの航海に備えた。
谷さんは、そろそろ放浪の虫が騒ぎ出したらしく、[禅]といっしょにニューカレドニアへ行くことになった。彼は、出航準備と称し、免税店でラムとウォッカを買い占めた。航海中、互いの船影が見えなくても、また、たとえ谷さんがずうっと酔っ払っていようとも、旅に道連れがいるというのは楽しいことだ。
ニューカレドニアの入口、ハバナ・パス(Canal de la Havannah)までは、およそ三五四浬。のんびり走ってたった四日間の航程だ。針路はほぼ真南。風は、恐らく真正面から吹いてくるだろう。ただ、うれしいことに、荒れ続けた気象が一段落して晴天と微風が望めそうだった。
九月三日朝八時、航路などを相談しようと[エープリル・フール]を訪ねてみると、谷さんは既に出航した後だった。
僕らはいったん上陸し、武田さんにお別れをいって正午に抜錨した。針路はコンパス・コース一八〇度。この先に、ニューカレドニアを目指して[エープリル・フール]が航行しているかどうかは分からない。無線でコールしても応答がないし、谷さんのことだから、急に気が変わってソロモンへ向かっている可能性も大いにあり得る。
予想通りの南風。進行方向から十〜十五ノットで吹いてくる。メィンセールを中央に引き込み、エンジンでトコトコ走る。船足は遅いが、僅か三五〇海里の航程だ。急ぐことはない。
夜中になって風が絶えた。大きく滑らかにたゆたう海原に月光が照り映えていた。[禅]は、夜光虫がきらめく航跡を残してうねりをゆるやかに上下しつつ前方に南十字星を見据えて走った。

九月四日のシーガル・ネットの交信で、[エープリル・フール]が[禅]の前方十五浬にいることが分かった。谷さんは、出航以来、セールも揚げずに機走していると笑っていた。
ニューカレドニアの東側の入口、ハバナ・パスは名だたる難所と誰もがいう。パスの通過は引き潮と停潮時を避け、上げ潮で入るようにと忠告された。
六日の日中にパス通過を予定すると、潮時は午後二時半から三時半ということになる。そのためには、五日午後三時頃にリフォー島(Ile Lifou)を右に見て航過し、六日〇時にパスまで五十浬を残すように調整しなくてはならない。僕は、四日の夜半から艇速の調整に余念がなかった。
五日午後三時、予定通りリフォー島の際を通過した。リフォーの北東に突き出した岬は、深海からの強い潮流に打ち上げられたオーム貝の貝殻が収集できる場所として名高い。オーム貝は白亜紀の生きた化石として保護されるイカと貝の中間の希少生物だ。
リフォーを過ぎ、[禅]は十度ばかり西へ転針した。そのお陰で南東の風がセールを生き返らせた。やっぱりセーリングは気持ちがいい。神経を切り刻むようなエンジン音から解放され、僕は操船をスミコに任せ、暫し気持ちのよい昼寝を貪った。
夕方、時間調整でヒーブツーしている時、谷さんと無線が繋がった。僅か数浬前を走っているそうだ。僕が時間調整している旨を告げると、谷さんは、パスの潮時に関係なく進むという。百戦錬磨の谷さんのことだから、彼なりの成算があるのだろう。
九月六日。朝靄の中にニューカレドニアをランドフォールした。
十時。鯨のファミリーに出会った。親鯨がジャンプし、空中で巨体を反転させて黒と白の縦縞のおなかを見せ、物凄い水しぶきを上げて背中から着水する。子鯨がそれを真似る。しかし、簡単には親鯨のようにはいかない。ジャンプさえできないもの、ジャンプはしたものの空中で反転できないもの、何頭の子鯨がいるかは不明だが、親の仕種を真似る様子は千差万別だ。僕らは、彼らの近くを通過する間、おなかを抱えて笑い転げ、暫しのアトラクションを楽しんだ。
午後一時半、パスが目の前に迫ってきた。右に大きなGoro燈台。左には、日本の大型トロール漁船の眩しいほど白いレック(打ち上げられた難破船)が見える。その間がハバナ・パスだ。幅が三マイルもあって、ポリネシアのように数十メートルしかないパスと違い、見た目にはそれほど緊迫感がない。しかし、パスの中にはいたるところに浅瀬や岩礁があり、船舶が通るべき航路は決して広くはない。潮に流されれば、左手の日本漁船のようにリーフに打ち上げられ、あられもない残骸を曝すことになるのは明らかだ。
潮が差して、上げ潮が始まっていた。それでも、潮目は滅茶苦茶の方向に走り、あちこちに大きな渦を作っている。谷さんはどうしただろう。無事、ここを通れただろうか・・・。
[禅]はパスに乗り入れた。凸凹道を走る車のように艇は激しく揺れだした。エンジンは最高のパワーを出しているのに、艇は何かに引っ張られて滑るように前進したかと思えば、急に、大きな手で押しとどめられるように船足が止まる。そして、不意に船首があらぬ方向を向いたりする。やっぱり、パスの中を走る緊張感はどこも変わらない。
パスを通過し平水を走り出したのは午後二時半頃だった。ハバナ・パスから入国港のヌーメア(Noumea)まではさらに四十六・五浬あり、しかも、小島とリーフだらけの迷路のような航路だ。とても夜間走るような所ではない。
僕らは、事前に谷さんと打ち合わせたプロニー・ベイ(Baie du Prony)へ向かった。距離は凡そ九浬、二時間も走れば船を止めて休むことができる。外洋とは明らかに違う穏やかな水路を、僕らは右手に緑濃い山並みを眺めながら走った。
プロニー・ベイの入口を示す、ボン・アンス(Bonne-Anse)燈台を右手に巻くように回り込むと、目の前に静かな入江が開けてくる。緑が濃く水面に影を落とす辺りに[エープリル・フール]が錨泊していた。
僕は[エープリル・フール]の傍らにアンカーを落とし、谷さんに、何時間前に着いたの?と尋ねた。
「ほんの三十分前や。パスで、潮に押し戻されて三時間も行ったり来たりや。全然前へ進まへん。ホンマ、参ったわ」
さすがの谷さんも、潮汐には適わなかったようだ。

翌朝六時半、僕らはプロニー・ベイを出航して、ニューカレドニアの首都ヌーメアのモーゼル港(Port Mossele)へ向かった。
プロニーを出て、朝靄の立ち込める狭いウディン・パス(Canal Woodin)を西へ進む。タイド・テーブルをつぶさに調べてきたはずなのに、水面に段差をつけて潮流が押し寄せる。フル回転のエンジンで、艇はややもすると押し戻される。狭い水路を、前方からリフォーへ向かう客船が凄いスピードで突進してくる。しかし、こちらの舵が利かず針路が定まらない。先方は避けてくれる気配が全くないから、僕らはドラフトぎりぎりの浅瀬へ逃れた。
ウディン・パスを抜けると、水面は広々と開けた。十時半、Ilot Porc-Epicの特徴ある小高い岩山とその頂上の燈台を確認して針路をやや北へとると、ヌーメアへの航路の三分の二を過ぎたことになる。さらに進むと、有名なリゾート地のアンセ・ヴァタ(Anse Vata)やシトロン・ベイ(Baie des Citrons)が、そして、もうすぐ美しいヌーメアの街が見えてくるだろう。

**

午後二時半、[エープリル・フール]と[禅]はモーゼル港のマリーナに到着した。早速、クヮランティーンとカスタムス(検疫と税関)のオフィサーが乗船し、手際よく、しかも実に紳士的に業務を終えていった。入れ替わりにイミグレーション(移民局・入国審査)のオフィサーも来て、パスポートにスタンプを押してくれた。
谷さんは、持ち込み制限を越えるお酒をどうしたことだろう。持ち出しでは何にもいわないくせに、持ち込みはどこの国でも喧しい。見つかれば押収か、高額な税金を払わされる。
四時過ぎ、僕らは町外れにあるという「薩摩ラーメン」へ出掛けた。ラーメンなんて、僕の出国以来食べたこともない。期待に胸を膨らませ、夕暮れの迫る街を歩いた。中心街は、ウインド・ショッピングも楽しめるほど華麗で華やかな佇まいを見せていたが、さすがに町外れまで来るとどこにでもある田舎町だ。南太平洋のパリという形容は、いささかオーバーといわざるを得ない。
それでも、久々のラーメンは僕を感動させてくれた。ご主人に聞くと、日本のチェーン店並みの味を維持することは至難の技なのだそうだ。わざわざ日本から輸送することができない食材も多く、自給自足でまかなっているという。異国に根を張って暮らすということは、それなりに人知れぬ苦労があるものだ。僕らは、夜の更けるまでご主人の苦労話や懐かしい日本の話に花を咲かせた。

ここは紛れもないフランス圏だ。マリーナのすぐ隣りは、六角形の五軒の建物が連なるマルシェ(市場)だ。朝早くから新鮮な食品が商われ、六時半頃には大型バスで観光客が大勢訪れる。いろんな種類の活きた魚や海老や蟹、ドロのついた野菜やもぎたての真っ赤なトマト、南国の果物、地元の産物らしい装飾品や雑貨、観光客や地元の人が仕事前に立ち寄るカフェのこうばしいコーヒー、そして、何といってもパリパリの外皮に覆われたフワフワのフランスパンとバターの香りも芳しいクロワッサン・・・。
フランス文化圏の人々は何よりも食に拘り、その味の追求に余念がない。勿論、ハンバーガー文化も浸透しているとはいえ、求める側が確かなものを求めれば失望することはない。それに、パンが美味しいということは、例外なくそれを引き立てるバターやチーズ、そしてワインが美味い。僕は、ヌーメアに滞在中の一ヵ月半、質素とはいえ食味に拘ることに暮れた。
或る日、谷さんとマルシェへ出掛け、魚屋で刺身になりそうなサーモンを見つけた。腹身の脂がのった辺りを買って帰り、わさび醤油で食べてみた。どうも鮭の味がしない。スペルがどうだったかはもう覚えていないが、確かにサーモンと読めた。後日、堀さんのお宅でそれをいうと、サーモンと読めた魚は赤マンボーだったことが分かった。堀さんはフランス語の魚類図鑑を示しながら、名前は赤マンボーでもマンボーとは別の種類の魚だといった。そして
「高級魚だけど、あんまり刺身で食べたという話は聞かないねェ」と大笑いになった。

僕らは、度々、堀さんのご自宅に招待して頂いた。堀さんは武田さんに劣らぬゴルフ狂で、お宅はゴルフ場のど真ん中にあった。プール付きの豪邸のガレージには、メルセデスなどの車といっしょに、コースを巡るゴルフカートが並んでいた。
お宅には、大型のジャーマン・シェパードがいた。名前はジュニアという。ジュニアは、自分の大きな図体に自覚がないらしく、意識は子犬のままだった。甘えん坊で、堀さんが車のエンジンを掛けると同乗する気で駄々をこねるし、僕らにまでまとわり着いて甘えた。若し犬好きの碧ちゃんがいっしょだったら、きっと大の仲良しになったことだろう。
堀さんのお宅へ向かう折、彼は度々ヌーメアの名所を案内してくれた。
山の手の教会のさらに上の丘に公園があった。その見晴らしは、今でも目に焼き付いて忘れ難い。眼下に荘重なカテドラルを見据え、その向こうに整然と拡がる瀟洒な町並みと港がある。それとは対照的に、複雑に入り組んだオード色の岬と入江、その向こうにはコーラル・リーフの海の透明な水色と青緑、そこに浮かぶ夢のように真っ白い小さな島々、さらに遠く、果てしなく続く茫洋たる大洋の藍・・・。
また、別の折、堀さんは要塞跡へ僕らを連れて行ってくれた。巨大な大砲が今でもPasses de Boulariという南側のパスに狙いを定めている。聞くと、第二次大戦の折、パスから侵入してくる日本軍の艦艇を狙い打つものだったそうだ。ところが、オーストラリアから運ばれてきた大砲は、実験の結果、パスまで砲弾が届かなかったという。従って、巨砲はついに一度も火を噴くことなく、今もなお平和のシンボルとして丘の上に鎮座し、遥かなパスを見据えている。

そろそろ都会に飽きた谷さんが、僕らが入国前夜に仮泊したプロニー・ベイへクルーズに出掛けた。
それから一週間ほど過ぎた頃、かつてライアテア島に遊びに来てくれた宇宙工学博士の小暮女史がヌーメアを訪れた。久々のお客に僕らは大喜びだったが、小暮さんはいま一つ楽しまない様子だった。ライアテアの折は、飲み友達の真美ちゃんがいっしょだったが、今回は酒の相手がいない。
或る日、そろそろ辺りが夜の帳に閉ざされる頃、頼りなげな船外機エンジンの響きと共に、
「おーい、zenさーん、わしドライなんやー」という声が聞こえてきた。
小暮さんもスミコも、何のことやら見当もつかずにいると、やがて、手巻きタバコのフィルターを口の端にくわえた谷さんがディンギーで現れた。僕は、グラスに並々と注いだウォッカを、コックピットによじ登ってきた谷さんに差し出した。彼は、息もつかず、喉を鳴らしてそれを美味そうに飲んだ。そして、
「プロニーは、人がだーれもおらへん。静かでええ所や。でもな、酒が買えんのがどもならん。水が切れてもかまへんが、酒がのーなると、禅が思い出されたんや。zenさん飲まへんから、なんか酒あるやろうってな。あァ、わし、まだドライなんや・・・」僕は、もう一杯ウォッカでグラスを満たした。
事情が飲み込めた小暮さんとスミコが腹を抱えて笑い転げた。そして、その後、谷さんと小暮さんは最高の飲み友達になり、毎夕、禅のコックピットは愉快な酒場に変身した。

***

小暮さんの帰国後、僕らは、イル・デ・パン(Ile des Pins)へのクルーズを敢行した。イル・デ・パンは、日本語に訳すと松島ということになる。物の本によると、最初の発見者であるキャプテン・クックが、島を覆う杉の木を松と見間違えて命名したとか。また、日本では《天国にいちばん近い島》とかいう小説で有名になった島でもある。
イル・デ・パンは、ハバナ・パスの南東二十九浬、プロニー・ベイからは東南東四十三浬に位置する。日中、モーゼルからプロニーへ走って入江に仮泊し、翌朝、リーフだらけの航路を辿ってイル・デ・パンへ向かうという航程だ。
僕は、再びプロニーに隠遁した谷さんと無線で打ち合わせをした。そして、谷さんもイル・デ・パンへ行くことになった。
しかし、プロニーに着いてみると、入口の入江に[エープリル・フール]の姿が見えなかった。プロニー・ベイ全体は猛烈に奥が深い。最奥には有名なハリケーン・ホール(ハリケーンを凌ぐことができる錨泊地)があり、そこまでには無数のアンカレッジがある。探して探し切れるとは思えないし、若しかすると谷さんは先に行ったのかもしれない。そう思って、翌朝、僕らはイル・デ・パンへ向かった。
イル・デ・パンは、折り重なるようなリーフに囲まれた島だった。そして、僕らがアンカーを打ったクト・ベイ(Kuto Bay)は、今まで見たどこのビーチよりも真っ白だった。砂の粒が、まるでパウダー・シュガーのように白く細やかなのだ。だから、照りつける太陽の直射にも砂は熱くならず、足の裏を焼くこともない。
しかし、この白いビーチの眩しさといったら、まるで雪原にいるようだ。写真を撮っても、自動測光のカメラでは砂の白さが影響して人物の顔が真っ黒にしか写らなかった。
イル・デ・パンに[エープリル・フール]はいなかった。美しいクト・ベイの真ん中には[禅]だけがぽつんと碇泊し、時折、ローカルの帆走カヌーが観光客を乗せてエメラルド・グリーンのベイを横切って行った。
島には宿泊費だけは超高級というリゾート・ホテルがある。そして、その泊り客の九〇%以上が日本人のハネムナーだった。
僕は、ビーチに寝そべっていたカップルに、「コンニチハ」と声をかけた。どこの国でも通りすがりに挨拶を交わし、気軽に言葉を掛け合うのは当たり前のことだ。しかし、男は怪訝そうに僕を見据えただけだった。暫くすると、後方で男が連れの女性に、
「オイ、おれ、彼奴とどこかで会ったっけ?」と尋ねているのが聞こえた。あァ、ここは日本だ・・・。僕はそのまま歩き去った。
小さな岬の根元のくびれた辺りを進むと、中ほどに緑に覆われた小高い小島を抱えた静謐な入江に出る。クト・ベイよりも変化に富んだ景色が美しい。こちらのビーチにはバックパッカーのリゾートがあって、日本人は一人もいなかった。僕らは椰子の葉を葺いただけの粗末なカフェに立ち寄りランチをとった。そのリゾートで僕らはいろんな国から来たバックパッカーの若者たちと友だちになり、何時間も歓談した。深々と差し掛ける涼やかな椰子の葉末の先に広がる空はあくまでも深く青く、出来たばかりの真っ白い入道雲が瑞々しく光っていた。

****

もう十月だった。そろそろ先を急がなくてはならない。モーゼル・マリーナのレストラン&バーの前に茂るポインシアナ(火炎樹)が真っ赤な花を咲かせ始めた。火炎樹が咲くと真夏が来る。そして、夏はサイクロン・シーズンの始まりだ。
[禅]は、イル・デ・パンの帰りにプロニーに居続けだった[エープリル・フール]と共に数日を過ごし、十月四日にモーゼル・マリーナへ帰還した。

シーガル・ネットの中継によると、[シーマ]は、九月三十日、フィジーのスヴァを出航したらしい。ニューカレドニアまでは直線で七五〇浬ほどだから、十月七日頃にはモーゼルに到着するだろう。モーゼル港で、僕らは[シーマ]の無事到着を待った。
予想どおり、[シーマ]は十月七日、昼過ぎにモーゼル・マリーナに到着した。
松浦氏は、ヨッティーには珍しい謹厳実直なビジネスマン・タイプの方だった。ご本人も、福岡の農協で鬼部長といわれていたといっていたから、多分そうなのだろう。そして、頑固そうなところは僕とそっくりだった。ヨットで日本を飛び出してくる奴なんて、どこか社会に収まり切れないパーソナリティーを秘めているものだ。
しかし、僕らは互いに頑迷を衣の下にひそめ、[シーマ]に二日遅れてプロニーから戻って来たこれまた偏屈者の谷さんを含めた珍妙なグループでヌーメアの街を彷徨い歩いたり、マルシェをひやかしたり、堀さん宅におよばれしたりして結構楽しい日々を過ごしていた。

十月十四日、サン・ディェゴのチャート屋に頼んでいた海図が届いた。さあ、いつでもオーストラリアへ出航できる。そう思って、この先もう会えないかも知れない谷さんを招いて[禅]でディナー・パーティーを開いた。谷さんは相変わらずフレキシブルで、このサイクロン・シーズンをどこで過ごすかまだ決めていないらしい。しかし、僕らといっしょにオーストラリアへ行く気はないようだった。
いつもそうだが、いざ出航となると天気が荒れる。オイル交換や燃料の積み込み、搭載物の固縛などを終え、クリアランスを済ませた十九日辺りから、天候は本格的に狂いだした。
二十日には、いま正に吹いている三十ノット・オーバーの強風だけでなく、気象ファックスには、いつサイクロンに発達しても不思議がない低気圧がオーストラリア北端とニューカレドニア間の海域に三つも現れた。さらに、オーストラリア東岸のタウンスヴィル(Townsville)近辺に活動中の奴が一つ。こんな海況に出る馬鹿はいない。
無聊を察し、二十二日の昼過ぎ、堀さんが僕らを迎えに来てくれた。
堀さん宅ではBBQとスミコが持参したカリフォルニア・ロールを腹いっぱい食べ、今日到着したばかりの撞球台で遊び、ニューカレドニア最後の歓談に花が咲いた。ここで谷さんはビリヤードの妙技を披露してくれた。
気象図には相変わらず不穏な低気圧や前線がわだかまっていた。しかし、これ以上待っても理想的な気圧配置が訪れる保証はない。航海はいつも賭けだ。僕らは、翌朝出航と決めた。

[オーストラリア(AUSTRALIA)へ]

十月二十三日、朝六時、[シーマ]と[禅]はモーゼル・マリーナの舫いを解いた。行き先はオーストラリア東岸のバンダーバーグ(Bundaberg)。航程はおよそ七八二浬。八日間ほどの航海になるだろう。
ラグーンの中を十二・五浬走り、八時過ぎ、Passe de Dumbeaを抜けて外洋へ出た。久し振りのクルーズに僕はたちまちシーシックに陥った。それでも南東十五ノットの理想的な風をセールいっぱいに孕み、[禅]は快調に走った。翌二十四日午前六時のデイラン(二十四時間の走行距離)は一三四浬だった。悪くない。
しかし、あまりマイペースにも走れない。[シーマ]が[禅]を追従しているので、VHFの届く距離を維持する必要があった。
二十五日の日中、[シーマ]は[禅]から視認できる位置を走っていた。しかし、夜中に風が北東に変わり、加えて強烈なSouth Sub Tropical Currentという海流の水域に入ると、[シーマ]は三十浬も南へ離れてしまった。VHFでコールしても応答がなく、二十六日のシーガル・ネットのロール・コールでやっと[シーマ]の位置が確認できた。恐らく、松浦氏はウインド・ベーンに舵を任せ、途中チェックすることもなく朝まで眠ってしまったのだろう。彼はGPSに[シーマ]自身の航路設定をしていない。「航路?いいですよ、zenさんの後ついて行きますから」といっていたから、僕がコースを作って彼を導くしかない。それにしても三十浬の距離をどうやって追いついてくるのだろう。
二十六日以降は、頻繁にサンダー・ストームがやってきた。方向が定まらない二十五ノットから三十ノットの風と豪雨。三十分ほどでそれが過ぎると、今度はあるか無しかの軽風・・・その繰り返しだ。航海中、こういうパターンがいちばん消耗する。
それにしても、[シーマ]はどうしただろう。僕は、進行方向よりも[禅]の後方ばかりに目を走らせていた。
二十八日は本格的な時化になった。三十ノットの風と凸凹の海面に苦労して艇を走らせていると、南側やや前方に忽然と[シーマ]が現れた。バンダーバーグまでは、もう残航一二〇浬ほどしかない。厄介なグレート・バリアリーフに入る前に接近できて、本当によかった。僕は、ほっと胸を撫で下ろした。

**

航程八日間と踏んだのに、どうやら七日間で踏破できそうだった。十月二十九日、午前六時、レディ・エリオット島(Lady Eliot Is.)に近いウェイ・ポイントを通過し、針路を三十度ばかり南へ転舵した。バンダーバーグまでの残航は僅かに四十四浬だ。
レディ・エリオット島の近くに、レディ・マスグレーヴ島(Lady Musgrave Is.)という美しい島がある。スミコのリクエストで、入国前にこの島へ立ち寄る計画があった。
しかし、聞くところによると、オーストラリアのコーストガードが麻薬持ち込みの取締りで、入国手続き前に寄港するヨットを厳しくチェックしているそうだ。もともと入国前にどこかの港や島に上陸することは違法だから、マスグレーヴに立ち寄って謂れもない嫌疑をかけられるのもいやだった。僕は、エリオットをかすめてバンダーバーグへ直行することに決めた。しかし、スミコはえらく落胆し、いささか不機嫌になった。

バリアリーフの中の海面は陸が近いことが原因して方向が一定しない強風が吹き、さらに水深の浅さが不快な変則波を作る。そんな中を、[禅]は[シーマ]を後方一〇〇メートルに導いて走った。
午後一時、石積みの防砂堤を巻き込むようにしてバンダーバーグへの河口の水路に入った。水深は極端に浅く、航路ブイを見落とすとたちまち座礁だ。
河口に入ってすぐ、左手にバンダーバーグ・ボート・ハーバーが見えてきた。プラン・チャート上で見ても浅そうなハーバーだったが、近づいてみると満潮時以外の入港は不可能だと知れた。VHFでポート・マスターをコールし安全な碇泊場所を尋ねると、水路をさらに五〇〇メートルほど遡れば海図にはまだ載っていない新しいマリーナがあることが分かった。
バンダーバーグ・ポート・マリーナに舫いをとったのは午後二時、ヌーメアから六日と八時間の航程だった。
早速、カスタムスとクヮランティーンのオフィサーが乗船してきて、好意的に、しかも実務的に手続きを済ませてくれた。やっぱり本物の文明国は違う。それに、オージー(オーストラリアの国、または人を指す愛称)は陽気で、開けっぴろげで、とても付き合いやすそうな人々だ。この国も、きっと僕のお気に入り国リストに加えられることになるだろう。
ところが、カスタムスに驚くべき情報が入っていた。それは、レディー・マスグレーヴ島に入国手続き前の[ZEN]という名のヨットが寄港したというものだった。いろいろと質問を受けたが、それは大型のモーターヨットということだったのでじきに[禅]の嫌疑は晴れた。しかし、若し僕らが寄港していたら、とても厄介なことになったことは間違いない。オーストラリアの麻薬事情は近年相当に深刻で、コーストガードは厳重な警戒態勢を敷いていることが分かった。
何はともあれ、僕らは七日間の航海の垢を落とすべくシャワーに向かった。シャワーは、文明国の証として気持ちよい温水がふんだんに噴き出し、僕の心身の疲れを優しく癒してくれた。

日本の文化の日、十一月三日は、オーストラリアではメルボルン・カップ・デーだ。競馬のクラシック・レースがメルボルンで行われ、英国系の国オーストラリアでは祭日に準ずる日になっている。
碇泊中のヨッティーたちも、当日はマリーナのマイクロバスを仕立てて近くのライトハウス・ホテルのバーへ出掛けた。飾りつけられたバーは、朝からTV観戦の客でお祭り騒ぎだった。誰もがビールやワイン、それにフィッシュ&チップスを楽しみながら、今日ばかりは興奮気味に気前よく賭けを試みる。
[イザベラ]というヨットのヴィンスというオーストラリア人が相当に酔っ払ってバーの回廊に蹲っていた。彼は、僕らを見つけると陰湿な調子で絡みだした。
話を聞くと、ヴィンスの父親は、第二次大戦の折、赤道近辺のなんとかいう島で日本軍の捕虜になったそうだ。劣悪な環境と食事、言語を絶する強制労働が災いして、父親はマラリアと栄養失調に罹った。戦後、オーストラリアへ帰還してからも健康が優れず、父親は不遇な晩年を送ってヴィンスがまだ小さい頃に他界した。だから、ヴィンスは薄幸な幼年期を送ったのだそうだ。
要するに、第二次大戦を契機とした反日感情が、酔った勢いで僕らに向けて噴出した訳だ。しかし、こういう話に反論の余地はない。ましてや敗戦国の日本人としては。
松浦氏は、ヴィンスが完全に酔いつぶれると僕にいった。
「ヴィンスは、帰ってきた親爺がいただけ幸せだ。俺の親爺は硫黄島で戦死したんだ」しかし、それをいっても始まらないことを松浦氏は知っていた。世界中の人々が教養と理性のヴェールに覆われた心の片隅にいまだに癒えることのない戦争の傷跡を抱え、ひそかに反日感情を潜めていることを僕らは痛感せずにはいられなかった。

[ムルラバ(MOOLOOLABA)へ]

僕は、以前からオフシーズンをムルラバ・ヨットクラブ(Mooloolaba Yacht Club)で過ごすことに決めていた。
ところが、バンダーバーグに来合わせていたムルラバ・ヨットクラブのメンバーのロン&ドロシー夫妻が、「予約せずに行ってもバースが取れないかも知れないぞ」といって僕らを不安にさせた。しかし彼は、マネジャーのイアンに電話をして、[禅]と[シーマ]のバースを用意するように頼んでくれた。
一週間バンダーバーグに滞在した僕らは、十一月六日の朝五時半、ムルラバへの今期最後のクルーズに旅立った。
航路の一部が、本土と東に居座るフレーザー・アイランド(Fraser Is.)という世界一大きな砂の島の間、グレート・サンディー・ストレイト(Great Sandy Strait)を通っている。それは、日中しか航行できないくねくねと曲がりくねった五十海里にも及ぶ奇怪な水路だった。
そしてそのハイライトは航路のほぼ中央辺り、まるで湿地帯の中を遡る小川のような十五浬だ。それは小川ではなくれっきとした海だから、双方向へ流れが入れ替わる潮汐流があるし、満潮でなければ通れない(干潮には干上がってしまう)浅瀬が随所にある。さらに、水路の両端が外洋に抜けているから、その中間点には山頂の分水嶺のような個所があって、そこで潮流は一転して逆へ流れる。
両岸にマングローブの茂みが迫る蛇行した水路を辿りながら潮汐を上手に利用したナヴィゲーションを組み立ててゆくクルージングは、どこかスリリングな頭脳ゲームに似ていた。日本人セーラーの僕にとって、こういうクルージングは得がたい体験だ。僕らは好奇心にワクワクしながら、同時に未知への不安に怯えながらバンダーバーグの舫いを解いた。

**

今日の寄港地は、およそ五十浬のハーヴィー・ベイ(Hervey Bay)を横切り、その先のグレート・サンディー・ストレイトを僅かに分け入った辺りにあるキング・フィッシャー・ベイ(King Fisher Bay)だ。
ハーヴィー・ベイは平坦な内海と侮っていたが、意外な向かい潮に悩まされた。効果的な風もなく、セールはあまり役に立たなかった。そのほとんどが潮に押し戻される苛立たしいほど鈍足の機走だったから、僕はすっかり疲れ果ててしまった。そして、日没寸前の五時半、僕らはキング・フィッシャー・ベイにアンカーを落とした。
不思議な風景だった。文明国にいることは確かなのに、周囲はまるで未開の地のようだ。リゾートの木組みのジェティー(桟橋)以外、人工物が全く見当たらない。平坦な水路と本土の陸影を覆うように、渺茫とした大空に真っ赤な夕焼けが燃えていた。
翌日は出航を見合わせ、キング・フィッシャーを探訪した。砂の島とはいえ全長一二〇キロメートルにもわたる陸地だから、島には予想もしなかった湖や立派なリゾートがあり、鬱蒼とした森林には野犬が島固有の生態系として定着したディンゴーもいた。僕らは一日中、島の散策を楽しんだ。

十一月八日、朝十時少し前、[シーマ]と[禅]は次の停泊地ギャリース・アンカレッジ(Garry's Anchorage)へ出発した。
今日の航路では例の分水嶺を越える。正確に潮時を読み上手に連れ潮を利用しなくては、航海は苦しいものになってしまう。
入り組んだ支流やサンドバンクだらけのマングローブの茂みに書き割りされた水路を、見落としてしまいそうなブイを頼りに細心の注意を払って進む。水深は驚くほど浅い。チャートにはところどころに八〇センチメートルというところもあって、満潮時でなければ通れない。分水嶺に向かう連れ潮に乗って僕らは快調に進んだ。
S22のブイの辺りが分水嶺、すなわち潮汐の分かれ目のようだ。折から停潮時に差しかかり、海面が気だるく淀んでいた。さらにゆるゆると進むうち、やがて引き潮が始まった。僕らはまた潮に乗って快調に走りだした。
さあ、急げ!潮が引いて航行不能になる前にギャリースへ急ごう。

ギャリース・アンカレッジは、リゾートの小島とフレーザー島の間に割り込んだ隙間のような泊地だった。そして、南北二箇所にある出入口は満潮でなければ通れないほど浅い。折も折、そろそろ干潮も半ばに差し掛かった頃だった。[禅]は北側の入口でサンドバンクに乗り上げてしまった。
気のせいか潮はどんどん引いて小島に続く砂洲がせり上がっていくようだった。僕は前後進を繰り返したり、スミコをバウやスターンへ移動させて艇のトリムを変えたり、また二人で片舷へ身を乗り出してバラスト・キールを浮かせたりと悪戦苦闘した。その結果、どうした加減か[禅]は座礁から逃れることができた。僕らは急いで南側の入口へ向かった。こちらの方は航路ブイがあって、大きな苦労もなく進入できた。
泊地は漣ひとつ立たず、沼のように静かだった。まるで原始のような静寂の中を純白の大きな鸚鵡や極彩色のインコの群れが舞い、鳥たちのけたたましい囀りだけが響きわたっていた。
アンカー作業を終えて一息ついた頃、松浦氏が僕を呼んでいた。彼が指差す方を見ると、たった一時間前[シーマ]と[禅]が通って来たばかりの入口の水路が干上がり、その砂地の上をシギが砂に潜む虫を漁って忙しく歩き回っていた。

十一月九日、僕らはインスキップ・ベイ(Inskip Bay)へ向かった。インスキップは、グレート・サンディー・ストレイトの終点で、外洋への出入口のワイド・ベイ・バー(Wide Bay Bar)へ続く入江だ。
湿地帯の小川を行くようなクルーズも終わり、僕らの目の前に広々とした水路が拓けた。相変わらず水深は理不尽なほど浅いから、チャートだけでは不十分で、間隔のあき過ぎた前方のブイを血眼で捜し出し、それを辿るように走った。
午後になって南風が卓越してきた。島と本土の間の水路だから風は自ずと収斂し、しかも真正面から吹いてくる。セールは役に立たず、潮と風に逆らう機走は苛立たしいほどに遅かった。
インスキップ・ベイに接近してみると、広い海面は真っ白にささくれ立っていた。強風は単なる収斂ではなく、気象が急変したことが分かった。さらに、ベイのアンカレッジには、難所として名高いワイド・ベイ・バーを越えられずに足止めされたヨットでいっぱいだった。僕らは、インスキップ・ベイの錨泊を諦め、チンカンベイ・インレット(Tin Can Bay Inlet)の奥にあるマリーナへ行くことにした。

強風は三日間続いた。
マリーナの裏手から見渡す広々としたベイは砂色に濁り、その水面は僕を悄然とさせるほど真っ白に波立っていた。恐らく、インスキップ・ベイはもっと荒れているに違いない。ベイに錨泊していた仲間たちはどうしているだろう。吹き荒ぶ三十五ノットの風に打たれながら、僕は、小さく侘しいマリーナとはいえ、ここに碇泊できた幸運に感謝した。

十一月十三日、十時四十五分、僕らはチンカンベイ・マリーナを後にした。今日の停潮時は午後一時半だから、ワイド・ベイ・バーまでの航程に二時間少々を見込んだ。
風は、昨夜半から衰えだし、今日はほとんど無風だった。早朝の停潮時に出航したらしく、インスキップ・ベイにヨットの影はまばらだった。
ワイド・ベイ・バーは、コースト・ガードが通行可否の予報を出すほどの難所と聞いていた。しかし、余程条件がよかったのか、僕らは難なくバーを通過した。さらに、[シーマ]と[禅]は針路を南にとり、十浬ほど離れたダブルアイランド・ポイント(Double Island Point)の岬の陰に錨泊した。クルージング・ガイドには良好な泊地と記されていたが、実際にはうねりがまともに打ち込む危険なアンカレッジだった。

夜中に何度もサンダーストームに襲われた。激しい雨と風に翻弄されながらローリーで不快な夜が明けた。
十一月十四日、[シーマ]と[禅]は、視界が開けた午前五時、ダブル・アイランド・ポイントの泊地を脱出し、ムルラバへ向かった。航程は四十六浬。五ノット平均なら十時間で着ける距離だ。
天候は、時化が始まった時と同じく唐突に快晴になった。風はフォローの十二ノット。沿岸のデイ・クルーズとして、そして今期最後のクルーズとして申し分ない条件だ。
正午前、右舷をリゾートとして名高いヌーサ・ポイント(Noosa Point)が過ぎていった。緑濃い丘に散見する瀟洒な家並みが美しい。
午後一時には、マルチドール(Marchydore)の街並みが、さらにその前方にはムルラバのマンションやリゾート・ホテルが見えてきた。海は明るいブルー。それらが太陽光を反射してキラキラと輝いている。
今日は土曜日。海上にはたくさんのヨットやボートが往来し、岸近い波間には大勢のサーファーが戯れている。みんな喜々として楽しげだ。南カリフォルニアに似て突き抜けるように透明な情景の只中で、人々は心に翳りもなく人生をエンジョイしているようだ。
右手にサンシャイン・コースト(Sunshine Coast)のなだらかで美しいビーチが続く。その先に突き出た岬が、ムルラバ・ヨット・クラブへ続く水路の入口ポイント・カートライト(Point Cartwright)だ。
あと一浬。今期最後の航海が終わろうとしていた。岬の上の燈台と水道塔が初夏の太陽に輝き、僕のホームストレッチに声援と歓迎のサインを送っているようだった。

[第四章・完]


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