■Part―5・East Coast of Australia《その先の海》

[北上。オーストラリア東岸]

ムルラバは僕のホームタウン、[禅]はマイホーム。一年半にも及ぶ休養はほとんど定住のようだった。
その間には、様々なことがあった。詳説は避けるが、わざわざ出掛けたニュージーランドでオーストラリアのヴィザの取得に失敗し、オークランドのアパートメントに三ヶ月も住むはめになったり、さらにヴィザを得るために十日間ほど日本へ一時帰国したり。或いは、エレンというオランダ人女性や英子というワーキング・ホリデーの女性との束の間の恋が芽生えたり。
勿論、その間も艇の補修や次期シーズンの航海計画に、僕は休む間もなく働いた。
しかし、何といっても、僕が夢に描いていた生活が日本にはもう存在しないということが明らかになったことが、この空白のような休養期間最大の出来事だった。
この手記の冒頭で触れた陽子との暮らしの可能性が消滅した。
日本を離れてから、既に五年の歳月が流れていた。僕の方にもいろんなことがあったが、五年間の空白は彼女の心を様変わりさせるに十分な歳月だった。
帰国しても、もう日本で僕の理想とする生活は描けない。僕の内で、帰国する国としての日本までが消滅してしまった。そしてそれは、僕がヨットを所有する限り、終わることのない航海の継続を決定づけたともいえる。まるで、最後の審判のその日まで海上を放浪するという、あの『さまよえるオランダ人(Flying Dutchman)』みたいに・・・。

**

かねてから痛んでいた奥歯を抜いた。抗生物質で一時凌ぎしても、インドネシアやタイ辺りで悪化したら最悪だ。
ムルラバに桟橋つきの豪邸を構える木綱さんは、かつて日本で歯科医院を営んでいらっしゃったご夫妻だが、僕の歯を診察してオーストラリアで治療するようにと忠告してくれた。或る国で抜歯したらエイズに感染したという事例も稀ではないそうだ。痛む歯の処置は、出航前の最優先事項だった。
そして、あらたにインドネシアのヴィザも取ったし、六月はじめには出航前の最後の作業である船底塗料も塗り終えた。
さあ、いつでも出航できる。

五月三日、日本のヨット[夢丸]がムルラバに到着した。沢さんご夫妻は、西欧的常識で分類すればクルーザーではなくばりばりのセーラーだ。艇も四十二フィートのレーサー・タイプで、少々の時化も気にせず突っ走るタイプとお見受けした。
[シーマ]の松浦氏が、同行艇として[夢丸]を選んだことに僕は初めから危惧を覚えていた。沢さんはレーサー・タイプ、松浦氏は『予定は未定』のクルーザーだ。歩調が合うはずがない。しかし、まさか僕が[夢丸]は連れとして不適当だなんていえやしない。
強風注意報が出ている朝、二艇は出航していった。[シーマ]はみるみる引き離され、バンダーバーグに着いた時には、[夢丸]が次の寄港地へ出航する時だった。どだい、四十二フィートと三十フィートでは艇のスピードがまるで違う。それに、[夢丸]の乗員は二人。ご主人が休養しても、奥さんがヨットを走らせることができる。それに引き換え、[シーマ]は松浦氏一人だ。[夢丸]について行こうとすれば、彼は眠る間がないことになる。
グラッドストーン(Gladstone)辺りで、[シーマ]は[夢丸]のペースから脱落してしまった。松浦氏は、その後、マイペースで北上を続け、折々、僕はネットの無線で彼の消息を聞いていた。

[夢丸][シーマ]の出航に一ヶ月以上も遅れ、六月十九日、[禅]は二年間近くも滞在したムルラバを出航した。
グレートバリアリーフの夜間の航行は安全ではない。だから、ほとんどのクルーザーは、日中だけ走って夜はアンカリングというペースになる。しかし、[禅]は航海のシーズンにかなり遅れていたし、ダーウィンには七月末までに到着したかったので、僕はオーバーナイトでグレートバリアリーフを駆け抜ける計画を立てていた。
バンダーバーグへ、例のグレートサンデー・ストレイトを抜けて行くと最低でも三日間は掛かる。まず手始めに、[禅]はフレィザー島の東の外洋を徹夜で走った。

夜中、予報とは裏腹に猛烈な時化がやって来た。特に、フレィザー島北端の岩礁帯ブレークシー・スピット(Breaksea Spit)は夜目にも壮絶に荒れていた。先端の燈台まで行けば安全なのだが、燈台と岩礁の間の水路を回り込めば八浬も近道になる。
暗闇の中、真っ白い怒涛は五メートルも[禅]を揺すり揚げ、サーチライトの光芒が照らし出す左右の岩礁帯は、ただ白々と狂い立つ坩堝だった。その間の水路を[禅]はプレーニングして、転げるように疾走した。
暫くして、波が僅かにリズムを取り戻した。ブレークシー・スピットの内側に入ったようだった。その時、僕は、左胸の肋骨の辺りに衝撃のような痛みを覚えた。

***

何だろう。
舵を手放せる状態ではなかったが、僕は脇腹を抱えてしゃがみ込むことしかできなかった。
かつて松浦氏が、極度のストレスで起こる心臓発作の可能性を語ったことが思い出された。そして彼は、若しもの場合に備えてと、ニトロの舌下錠をくれた。
それに違いない。僕は、呼吸も覚束ないない胸をかき抱くようにしてキャビンへ降りた。そして、件の舌下錠を含んで床に蹲った。
このまま心臓発作で死ぬのか・・・。そんな思いが曖昧に僕の内を過ぎった。しかし、死の恐怖もここで果てる悔恨もなく、寧ろ放浪の航海者として、それもいいかもしれないと思った。
五分もすると潮が引くように圧迫感が消えていった。もう、体を労っている余裕はない。僕はコックピットへ飛び出した。いつの間にか、怒涛は後方の闇の彼方に過ぎていた。

六月二十日、早朝。ネットの交信に日本のヨット[シーガル]の野村氏が出た。
「お変わりありませんか?」と彼がいった。僕は、「特に異常ありません。未明に軽い心臓発作がありましたが、今はもう大丈夫です」と応えた。
九時、バンダーバーグ・ポート・マリーナに入港すると、桟橋で大勢の人が並んでいた。不思議に思いながら接岸すると、丁度クルージングで来合わせていた木綱夫人のLouが凄い勢いで乗船してきて、「zenさん、動かないで!」といって僕を拘束した。彼らは、ネットの交信を傍受していたそうだ。
桟橋に集まった人々が舫いをとってくれて、[禅]の碇泊作業は瞬く間に終わってしまった。その後、木綱氏ご夫妻に付き添われ、僕はマリーナの車で救急病院へ連れて行かれた。手際よく厳重な検査が行われたが、六時間も経過した発作の痕跡は何も発見されなかった。

****

二十二日六時半、[禅]はバンダーバーグを出航して、航程一三三浬のロスリン・ベイ(Rosslyn Bay)へ向かった。およそ二十六時間ほどの航海になる。
海況は実に穏やかに経過し、僕は久し振りに美しい夕焼けや星空やイルカとのミーティングを堪能した。
明け方、ひどい霧が発生した。
折悪しく、航路はケッペル島付近の多島海域に差し掛かっていた。風はなく、海面には波もなかったから、僕はのんびりとレーダーで水路を模索しながら機走で走った。しかし、緻密な方位調整をしていなかったので、レーダーには多少方向のずれた島影が映り、僕はそれを頭の中で修正しながら何も見えない海を進んだ。
朝七時頃、急に霧が晴れた。後方を振り返って僕はぞっとした。沖が見通せないほどたくさんの小島が折り重なっていた。如何にレーダーを備えているとはいえ、知っていたら濃霧の中のあんな海域を誰も走らないだろう。海図上に描いた想像と実際に見る海がこんなにも違うものかと、僕はあらためて驚いた。
初冬とは思えない暑い日だった。六月二十三日九時半、[禅]はヤプーン(Yapoon)という街に程近いロスリン・ベイ・マリーナに舫いをとった。
そういえば、ロスリン・ベイは南緯二十三度一〇分辺りに位置する。つまり僕は、南回帰線(The Tropic of Capricorn)を越えて熱帯域に入ったことになる。

今回のクルーズはわりと楽だった。ひどい疲れもなかったから、一日だけ休養して先を急いだ。
六月二十五日午後二時半、僕はロスリン・ベイ・マリーナを出航した。天気は高曇り、風は南東二十ノット。まあまあ標準的なコンデションだ。
今回の寄港地は、ウイットサンデー諸島(Whitsunday Group)の対岸、本土側に位置するラグナ・キー・リゾート(Laguna Quays Resort)。航程は二一四海里もあり、二晩の徹夜航行になる。こんな長丁場だけは、時化は勘弁願いたいと本気で祈った。
ケッペル諸島を縫うように走る。無数に散在する小島の間から、まるで遺恨でもあるかのように唐突な潮流が押し寄せ[禅]を翻弄する。さらにこの先も島だらけの海域だから、恐らく難儀は続くのだろう。
夕方六時頃、風は勢いを増してきた。そして七時には風は三十五ノットになり、空は厚い雲に覆われてしまった。
完全な時化だ。風波と潮波がぶつかって巨大な三角波が立つ。忌々しいことに、僕が心を込めて平穏を願えば、海況は大抵逆になるようだ。
真っ暗闇で何も見えない。ただ、出航前に検索したウエイ・ポイントとGPSに設定した緻密な航路だけを頼りに走った。
真夜中になって、時化は壮絶を極めた。しかも周囲は小島や岩礁だらけだ。五分だって居眠りひとつできる状態ではなかった。しかし、こういう時に限って耐えがたい睡魔がやってくる。ログブックを見ると、一時間毎の記載はあるものの、半覚半睡で書かれた文字はのたくってほとんど判読が難しい。
時化は明け方まで続いた。そして、すっかり明るくなった朝七時、この航路を通じ三十分だけ、僕は舵を引きながら眠った。
それ以降、時々サンダーストームがやって来たとはいえ、海況は概ね安定した。そして、二十七日朝九時半、僕はぼろぼろに疲れ果ててラグナ・キー・リゾートのマリーナに到着した。

ラグナ・キー・リゾートは、広大なゴルフ場を擁した明るい雰囲気のリゾートだ。マリーナから二キロメートルほど歩くと豪壮なホテルがあり、贅沢な設備が何でも整っている。
二キロメートルの道は僕の絶好のプロムナードだった。人気のない道の傍らには南国の花々が咲き乱れ、歩いていると、突然カンガルーやワラビー(小型のカンガルー)が目の前を横切ったりする。
二晩の徹夜航行は、思いのほか僕に深刻な疲れを残したようだ。少し休養が必要だった。僕は、折々ホテルを訪ねてヨッティーには不似合いなディナーを楽しんだり、ホテルのバスで近くの街を訪ねたりして疲れを癒していた。

十日間が瞬く間に過ぎた。ムルラバを出航して以来、先行艇をどんどん抜き去って来たのに、ここでのんびり休んでいる間にまた追いつかれてしまった。何はともあれ、そろそろ腰を上げる頃合いだった。
次の寄港地はタウンスヴィル(Townsville)。航程は一七二海里だから一泊二日の航海になる。

七月七日朝六時十分、ラグナ・キー・リゾートを解纜。六時四十分、朝日が昇った。快晴微風の海に、ウイットサンデー諸島のパノラマが美しく展っていた。
十時、ウイットサンデー・ストレイトに入った。島陰や水路のあちこちに、活動を始めたばかりのヨットが見える。
左舷にロング島(Long Is.)、右舷にデント島(Dent Is.)を見て航過すると、デント島の向こうにハミルトン島(Hamilton Is.)が見えてきた。高級リゾート地ウイットサンデーの中でも最も華やかで有名な島。しかし、何てことだ!この雄大な自然のど真ん中に摩天楼のようなホテル群が聳えているではないか。これほど無神経で不調和な意外性も珍しい。世界に名立たる観光地かもしれないが、微塵も自然に敬意を払わず、その余りにも人為的で通俗的な華美さに僕は呆れ返ってしまった。

計算通り航海が進めば、タウンスヴィルに明日の夕方五時に入港できる。しかし、少しでも遅れると夜になってしまう。知らない港への夜間入港は何とか避けたい。僕は、海図上にマークした十五個ものウエイ・ポイントにそれぞれ通過予定時間を設定し、それをチェック・ポイントとして航行した。
穏やかな気象が続いていた。夕方には、西へ傾きかけた三日月を浮かべた空を雄大な残照が染めた。そして、真っ赤な夕陽を浴びたカスタムスのセスナが低空で[禅]をかすめ、VHFで船名、乗員、寄港地を尋ねた。答えると、セスナは「ハッピーな航海を!」といって南へ飛び去って行った。グレートバリア・リーフを夜間航行するヨットは、近年、深刻な社会問題になっている麻薬の密輸船として警戒すべき対象なのだろう。
ウイットサンデー・ストレイトを抜ける頃、夜の帳が降りた。しかし、これから先は、明朝九時に航過する予定のボーリングリーン岬(Cape Bowling Green)までは障害物もない広々とした本船航路だ。本船は一晩に三隻ほどしか出会わないし、風さえよければ、ウインドベーンに舵を任せて仮眠がとれるかもしれない。
十一時、風が衰え、そして月が沈んだ。力なくブームが左右に振れる。真っ暗な視界に距離感のない灯火がいくつも見える。それらのほとんどは航海灯だが、さらにその大半は漁船だ。漁船は動きが予測できないので警戒を要する。特にトロール漁船は、目の前にヨットがいても絶対避けようとはしない。さてさて、今夜もまた眠れぬ夜になりそうだ。
低いエンジン音とオートパイロットの作動音が眠気を誘う。八日の未明から朝にかけて、また睡魔との苦闘で過ぎた。それでも、ボーリングリーンを航過する時、その不思議な風景に眠気が覚めた。海面すれすれに細くどこまでも続く浅緑の岬。デッキからでも岬の向こう側の静かな水面が見わたせる。ボーリングリーンとは、球転がしの芝生の競技場という意味。何となく頷ける名前だ。
チェック・ポイントは、ほぼ予定通り過ぎていった。この航路は、折々風が絶えたり風向がくるくる変わったりしたが概ね順調だった。そして、大過なく、七月八日午後四時半、[禅]はタウンスヴィルのマリーナに入港した。マリーナにはたくさんの仲間がいて僕を温かく迎えてくれた。

南緯十九度十二分のタウンスヴィルは正しく熱帯の街だ。鬱蒼としたガジュマルの街路樹が涼しい木陰を落とし、公園の芝生にはトキ(Ibis)が屯していた。トキといっても日本の天然記念物の朱色のそれとは異なり、白い鳥体の頭や尾羽、翼の一部を黒と青の羽毛が彩りを添えている。
[エープリル・フール]の谷さんは、かつて数ヶ月もタウンスヴィルに滞在していたが、野鳥として孔雀が人を怖れる風もなく街中を闊歩しているといっていた。しかし、季節の関係か、残念ながら僕は孔雀には出会わなかった。

*****

昨年、いっしょにインドネシアのヴィザをとった[ガーディアン]のジョンとアチラに会った。彼らも、何らかの事情で昨年はグラッドストーン止まりだったそうだ。貿易風帯の大海原を西へ走るイージー・セーリングと違い、世界一厳しいといわれるグレートバリアリーフの北上航海は、誰をしてもそうすんなりとは踏破できないもののようだ。
ジョンもアチラも親しい仲間だ。これからの航路に[ガーディアン]という相談相手が出来たことは心強かった。
何しろ、オーストラリア東岸海域をカバーするアラン・ルーカスの[Cruising The Coral Coast]というガイド誌があるとはいえ、それはアンカレッジの解説のみで航路を網羅するものではない。ムルラバから北端のケープ・ヨークまで幾重にも折れ曲がって一五〇〇海里(2700km)以上にもわたる沿岸の航路を往くとすれば、ガイド誌は単なる参考文献に過ぎず、ナヴィゲーションは悉く航海者本人の工夫と決断にまたねばならない。
ただ、ジョンの航海術は、往々にして独断的でセオリーを逸脱するきらいがある。まあ、全てに歩調を合わせることもあるまい。どう進もうと、航海は所詮、航海者本人の責任に帰するものなのだから。
他に、ムルラバのマリーナで親しく交際した[Bounty]のバーニーとウェンディーやヴァヌアツとニューカレドニアでいっしょだったという[Moonshadow]のジョンとデビーにも出会った。しかし、おかしなことに、僕はジョンとデビーに覚えがない。ただ、特徴的な[Moonshadow]という船尾のロゴだけがはっきりと僕の記憶に刻まれていた。

[ガーディアン]が九日早朝に出航していった。
彼らは、ケアンズ(Cairns)で船の整備を兼ねて少し休養をとるといっていたからまた会えるだろう。
ケアンズまでは厄介な航路とはいってもまだ緊急時に逃げ込む港もあったし、必要ならパーツの調達もできた。しかし、ケアンズ以北はもうそんな安穏な航海は期待できない。正真正銘のサバイバル・クルーズが始まる。相談相手が必要になるとすれば、正にケアンズ以降なのだ。

いつものことながら出航のタイミングには逡巡する。出てしまえばどうということもないのに、出航するまでは、まるで冷水に飛び込むみたいに二の足を踏む。
十日、遅くても十一日と思っていたのに、[禅]が出航したのは、七月十二日の朝六時十五分だった。
航程は一六九海里。今回も一泊二日の航海になる。つまり、十三日の夕方、ケアンズ入港の予定ということだ。
マリーナはまだ静まり返っていた。別れの言葉を交わす相手もなく、[禅]は舫いを解くと真っ直ぐ沖へ伸びる堤防に沿って早朝の海へ向かった・
今日も快晴微風。早朝とはいえ、熱帯の太陽は容赦なくデッキを焦がす。
タウンスヴィル港の正面に居座るマグネチック・アイランド(Magnetic Is.)を左舷に巻き込むように沖出しし、[禅]は八時にケアンズへの針路に乗った。
風は南南東から六ノットで吹いてくる。針路は三三三度だから、ほとんど真後ろからの風だ。しかも風速が追っ手の三メートルでは[禅]は走らないし、ささやかな涼の足しにもならない。
今回もウエイ・ポイント毎のチェック・ポイント航行をやっている。本来、単調になりがちな航海に数時間毎の目標を置くというのはいい方法だ。遅れた三十分を取り返そうと夢中になったり、十五分予定時間を上回って喜んだり・・・それなりに目先が変わって退屈しない。
夕方になって風が北東に変わった。風速も十二ノットになり、久し振りにクローズド・ホールドの帆走を楽しんだ。しかし、それも夜半には真正面からの風に変わった。今夜もまたエンジン音と道連れだ。
〇時、風は北西に振れた。エンジンを止めてフルセールで走る。いい走りだ。空はこぼれるばかりの星のページェント。その中を人工衛星が規則正しく明滅しながら西へ飛んで行った。
明け方、また風が絶えた。エンジンを稼動したら調子がおかしい。具体的にどこがということではないが、何となくおかしいと感じる。回転数を押さえ気味にして明け初めた無風の海を走った。
午前七時、突然、軋むような音を立ててエンジンが停止した。止まり方も音も全く唐突だったので、僕は決定的に重大な故障を想像した。例えば、シリンダー・ヘッドを突き破ったとか、ピストンのロッドが折れたとか・・・。
恐るおそるスターターを押してみても、スターターは正常に動くのに、エンジンがウンともスンともいわない。
ケアンズまではあと四十五海里しかない。そして、僅か一〇〇メートルほどの至近距離にフランクランド・アイランズ(Frabkland Islands)という岩礁帯のような小島群があった。風は完全に絶えているのに、潮が勢いよく[禅]を小島の方へ運ぶ。僕は必死になってラダーリングで[禅]を小島の群から遠ざける。少し離れたかと手を休めると、また実に滑らかににフランクランド群島の方へ[禅]を連れて行く。
救助を呼ぼうか?
周囲に漁船が一艘いた。でも、僕が逡巡している間に漁に出掛けてしまった。モーターボートがやって来たが、声が届く距離には近づかなかったし、手を振って合図したら、先方も長閑に手を振り返して行ってしまった。
残るはコーストガードだけだ。恐らく親切に対処してくれるだろうが、事故として扱われることに躊躇があった。もう少し自力でやってみよう。それでも駄目だったら、その時はコーストガードに曳航を頼もう。

理論的に考えられることは何でもやってみた。それでもエンジンは身じろぎさえしなかった。
もう十一時も近い。こんな状態では、多分今日中にケアンズ到着は無理かもしれない。途中のフィッツロイ島(Fitzroy Is.)、或いはミッション・ベイ(Mission Bay)にでも仮泊することになるのだろうか。
僕はもう、半分自棄になっていた。
かつて、アメリカのシアトルで油水分離機に燃料が上がらずに苦労したことがあった。その後、何かの折にゴム製のグリップ式のポンプを見つけ、燃料タンクと油水分離機の中間に取り付けた。僕は、自棄っぱちにそのゴム製のポンプを数回握っては放し、握っては放しを繰り返した。そして、全く期待感もなくスターターを押した。
何と、エンジンが動き出した。
ただ、そのまま放っておくと回転数が下がり自然に止まってしまう。油送管か燃料フィルターか、どこかが詰まったらしい。
僕はケアンズへ向け、猛然と走り出した。三分毎にポンプで燃料を送り込みながら、僕はまるで池のようにまっ平らな海をひた走った。考えてみてばラッキーだった。若しこれが強風を前から受けての航行だったら、多分僕は、その日の内にケアンズに着くことはなかっただろう。
ケアンズ港を擁するトリニティー・インレット(Trinity Inlet)は、干潮時には水路以外の海は干上がってしまうほど浅い。その浅海を、地元の船が走っている所ならどこでもお構いなしに最短距離を走った。そして、七月十三日の夕刻、落日と競うようにケアンズ港の入口に位置するマーリン・マリーナ(Marlin Marina)の水門に駆け込んだ。

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