■Part―5・East Coast of Australia《その先の海》

[魔のケアンズ以北]

マリーナには空きバースが全くなかった。時間も遅くオフィスには誰もいなかったから、どこに[禅]を舫うかの指示も得られない。途方に暮れていると、古めかしいヨットから男が現れ、外のパイル・ムァリングへ行けといった。
それでもなおマリーナを彷徨っていると、片隅のバースに[ガーディアン]が繋留しているのが見つかった。
僕は「ジョーン、アチーラァー!」と何度も叫んだ。ドグハウスからアチラが顔を出した。事情を話すとアチラは、コの字形のバースの両側にそれぞれヨットが繋留し、大型のモーターボートでも留まれそうなその中間のスペースに[禅]を導いてくれた。上陸するには[ガーディアン]を跨いで行かなくてはならないが、それでも、いろいろあった一泊二日の航海の後、安らかに眠れる場所を確保できただけでも幸運といわなければならない。
何はともあれ、今夜は休養だ。そして、明日からはエンジンの徹底的な修理を始めよう。

翌朝、僕は大型艇のバースへ移った。碇泊料は滅茶苦茶高いが、他に空きがないのだから仕方がない。
僕は、ロッカーからシアトルで買ったポンプ付きの油水分離器を引っぱり出して取り付けることにした。そのためには燃料用の耐圧チューブや様々なパーツが必要だ。
ケアンズでは、街外れのケアンズ・クルージング・ヨット・スコードロン(Cairns Cruising Yacht Squadron)の近くまで行かなくては船具屋はない。マリーナからタクシーに乗って出掛けたが、耐圧チューブは船具屋にはなかった。さらに工業機械のパーツ屋を何軒も訪ね歩き、僕はやっと必要な数種類の部品を揃えた。
油送管に詰まりはなかった。燃料フィルターをチェックすると、見た目には異常がなかったが一応新しいものに交換した。
さらに、燃料の高圧噴射管の破損も懸念されたが、油水分離器を取り付け、フィルターを交換しただけでエンジンは順調に回り続けたので換えなかった。
やれやれ、ひとまず修理は終わった。差し当たって、エンジンはこの先これで何とか動いてくれるだろう。
それにしても、ポンプ付きの油水分離器は優れものだった。燃料の供給もスムーズでフィルターやチューブに入り込んだエアも簡単に排出でき、厄介なデコンプの操作など必要ない。買ってすぐ取り付けず、今までロッカーに放り込んでおいたことは愚行だった。

ケアンズは華やかで楽しげな街だが、数日間滞在してみると、それは観光地特有の外面でしかないことがすぐに分かった。
この街は日本人観光客で成り立っているらしい。だから、街は日本人だらけで看板には日本語の書き添えがあり、おまけに物価が日本並みに馬鹿げて高い。
ヨッティーたちは過度の商業主義や物価高にとても敏感だ。ケアンズのような港では、インターナショナルのヨッティーたちは艇の整備を終えるとそそくさと出航して行ってしまうのが常だ。
[ガーディアン]もそうだった。彼らはゆっくり静養することもなく、僕が入港した翌日にはケアンズを出て行ってしまった。
しかし、僕にはエンジンの修理や水と燃料の積み込みがある。物価高をぼやきながらも、僕は表層の華やかさを楽しみつつ八日間もケアンズで過ごしてしまった。

ネットで[シーマ]が木曜島の隣り、金曜島のパール・プランテーションに錨泊していることが分かった。松浦氏によると、今後の航海計画は白紙だそうだ。[禅]が来るなら、新たな計画をいっしょに練り上げたいといっていた。

**

エンジンの修理で駆け回っている間、気象は安定し素晴らしい天候が続いていた。しかし、いざ出航のタイミングを計りだした頃から周期的な気象の崩れが始まった。
オーストラリア南部を次々と大きな低気圧が西から東へ進み、地形的にオーストラリア東岸を密集した縦の等圧線で覆う。つまり、コンバージョン・ゾーンだ。そういう気圧配置になると、沿岸は何日間も強風の連吹に曝される。
二十日の予報では南東の風十五ノットといっていたのに、実際は二十五ノット以上吹いた。でも、二十五ノットならさしたる問題もない。
七月二十一日朝のネットで、僕はもう少しケアンズに留まり気象の推移を見るといったのに、十二時四十五分、何かにそそのかされるように舫いを解いた。
行き先は二二〇海里先のフリンダーズ・アイランド(Flinders Is.)。完全に二日二晩を要する距離だ。しかも、今までのようなポピュラーなコースではなく、航路のど真ん中にも孤立した岩礁がある狭い水路だ。GPSの航路偏差を0.2海里ずれたら危険を覚悟しなくてはならない。僕は、腹を括ってケアンズを出航した。

初日は予報どおり穏やかに経過した。夜間航行も、時折現れる漁船に注意を払えば他に脅威となるべきものはなく、シリアスな覚悟が何だか気恥ずかしいほど何事も起こらなかった。
ポート・ダグラス(Port Douglas)を過ぎると、岸辺には永遠に続くかと思える灰色の崖がどこまでも連なり、航路から人工物は何一つ見当たらなかった。勿論、所々に小さな村落があり生活が営まれているのだろうが、見る限り、それは無人の大陸のように人間の気配は皆無だった。
二十二日の朝も同じ景色が続いていた。クックタウン(Cooktown)が近づくと、崖はなだらかな丘の連なりに替わったが、それでも航路から人工物は何も見えない。僕は、全く人間が存在しない不思議な世界に紛れ込んでしまったという未だ覚えのない思いに囚われていた。

正午少し前、小高い山が二つ重なる景色のケープ・ベドフォード(Cape Bedford)を、さらに三時間後にはケープ・フラットリー(Cape Flattery)を通過した。これから先は、岩礁帯を縫う航路に入り、いよいよ正念場に差し掛かる。
横をコーストガードのガンシップが通り過ぎた。例によってVHFで船名や乗員、行き先などを質問された。出航前、僕はコーストガードに凡その予定航路を通報していたので、彼らは好意的に対応してくれた。そして、「ハッピーな航海を!」といいつつ、「これから吹いてくるから気をつけるように」といった。
正にその直後だった。二十ノットの南東風が、いきなり三十ノットに吹き上がった。そして一時間後には四十ノットになった。
ガンネルを越えて海水が容赦なくコックピットに打ち込んだ。左前方の航路に続く海面はもう真っ白に泡だっていた。
もうじき夜が来る。障害物もない外洋なら、追っ手の四十ノットも脅威ではない。しかし、こんな時化の中、夜中にホーウィック・グループ(Howick Group)の岩礁海域を乗り切れるだろうか。僕の中でけたたましい警鐘が鳴り響いていた。
近くにリザード・アイランド(Lizard Is.)がある。グレートバリアリーフで最も美しい島というだけでなく、アンカレッジとしても最高の入江を擁すると聞く。僕は、VHF無線でリザード島に停泊するヨットを呼んでみた。そうしたら、さっき[禅]をチェックしたコーストガードが応答してくれた。僕は、ワトソンズ・ベイ(Watsons Bay)の錨泊の余地や入江の安全度などを尋ねた。
コーストガードは、「まだ一〇〇艘ほど錨泊できそうだ。入江は安全だから、早くお出でよ」といってくれた。
日没が二時間後に迫っていた。しかし、リザードまではまだ優に十八海里はある。エンジンを三〇〇〇回転で回し、ツーポイントにリーフしたメインとフルに展帆したジェノアで、[禅]は壮絶に荒れ狂う海をかっ飛んだ。

***

今まさに水平線に太陽が没しようとする時、僕は全身ずぶ濡れになってリザード島のワトソン・ベイに駆け込んだ。ベイの入口では、件のコーストガードのガンシップが見守っていてくれた。
僕は、入江の奥深く入ってアンカーを沈めた。近くには、[Bounty]がいたのに、僕はそれさえ気づかなかったほど疲れ果てていた。
ベイの中でも風速は三十ノットを越えて[禅]は激しく揺れ、アンカーチェーンは不気味に軋んだ。しかし、今や暮れようとするこの時化の海を、命を脅かすばかりに禍々しい航路で難渋していることを思うと、僕はリザードに錨泊した幸運に素直に感謝した。

リザード島のワトソン・ベイは美しい入江だ。白い砂浜、聳え立つ山とあふれるばかりの緑に囲まれた珊瑚礁の海。ヨットが十艘ほど碇泊し、その景色に彩りを添えている。
しかし、強風が収まる様子はなかった。時には、アンカーが保つだろうかと不安になるほど吹き募ることもあった。初めのうちは気にも掛けなかったが、三十ノット以上の風が一週間も吹き続くと、いい加減、嫌気も差してくる。

そしてついに八月になった。
僕は本気で焦った。こんな状態で、今年のシーズン中にオーストラリアを出国できるだろうか。後のないこの時期に、為す術もなく無為な日々が続く。焦りながら、毎日、大時化の海ばかり眺めてもう十日間も過ぎてしまった。それは、実に巧妙な精神の拷問だった。そして、気分は際限もなく打ち沈んでいった。
今にして思えば、僕は極度に疲労していた。そこへ身を捩るばかりの焦慮がストレスとなって圧し掛かってきた。肉体の疲れが精神の疲労へと浸潤し、僕の内に僅かに残っていた気力さえも奪い尽くした。
航海だけでなく、何もかもが物憂かった。立ち上がることもできないほど、僕は心が重いと感じた。その重さに引き摺られるように、僕はさらに、傷悴した精神の奈落に落ち込んでいった。
僕の内で何かが切れた。
それは、余りにも執拗な時化という理不尽な暴力と、終わりのない航海の苦しみに耐え続けることへの徹底的な嫌悪だった。

何故、こんな苦しみを耐えているのだろう。そして、この航海は、僕にとって一体何なんだろう。
航路の危険とかナヴィゲーションの難しさなんか問題じゃない。そんなものは今までやってきたように、この先もやっていける。それよりも、そういう苦しみを耐える意味が見えて来ない。

****

「航海を止めたいだって?止めて、お前に何が残るんだ?」
「多分、何も・・・」
「航海を止めるなんて、きれい事で自分を誤魔化すなよ。それは人生の挫折だろ。精神の敗北だ。航海を止めたその時からお前は人生の負け犬だよ。
航海を止めるということは、敗北を受け入れることだ。お前にそれができるか?それを受け入れて、お前は生きて行けるのか?」
「多分、できない・・・」
「航海が楽しくない?当たり前じゃないか。シングルの航海がルンルンだなんて誰がいった?昨日今日の駆け出しセーラーじゃあるまいに、ムルラバを出る時、それを承知で出て来たんじゃないのか?」
「・・・・・」
「でも、喜びだってあっただろう?」
「しかし、分かち合わない喜びは不毛だった」
「喜びを分かち合う対象を持たない航海もまた不毛だったというのか?」
「うーン、そうは云わないよ。でも、分かち合わない喜びや報われない苦しみにどういう意味がある?
人間は、誰かに理解されたいと願う生き物だろ。そして、喜びは誰かと共有することで真の輝きを得るし、感動だって一人じゃ完結しなかったじゃないか。随分ドラマチックな場面にも遭遇したよ。そして、その極まる感興を誰かと共鳴させて、初めて感動として昇華するということも学んだと思う。つまるところ、人は孤独に徹しては生きられないのかもしれない・・・」
「フン、人生に共感に孤独か。今時、少年少女だって洟もひっかけないぜ。ところで、航海の継続がお前の存在理由だったよな。それを捨てて、それでもお前、生きて往けるか・・・?」
その時僕は、北太平洋以来はじめて、函館の穴澗(あなま)の情景を見ていた。そして、シドニーで自害された多田雄幸さんの苦悩が、明瞭な形となって僕の脳裏を過ぎったと思った。

*****

僕は正に背水の陣にいた。精神の極度の圧迫感で胸がきりきりと痛んだ。
リザード島のワトソン・ベイに投錨して二週間目のその夜、二度目の心臓発作が僕を襲った。激烈な発作だった。胸郭を内側から突き破るように痛んだ。息を吐くことができるのに吸うことができず、肺の中が空っぽになった。僕はキャビンのソファから転げ落ち、体を丸めて床の上で悶えた。
そしてそれが、僕の逡巡に止めを刺す出来事となった。
僕はもう、敗北の屈辱を受け止めるしかなかった。そして翌朝、僕はシーガルネットで、航海の中止を宣言した。

全てが終わった。

僕は一人っきりのキャビンで号泣した。間断して一日中子供のように泣き続けても、口惜しさという感情だけが洗い流せなかった。
その時僕は知った。口惜しさとは、人間の最後の希望でありエネルギーであることを。口惜しさという感情があるからこそ人間は絶望の底から再起できるのだ。
苦しみを耐え続ける意味が見出せないことと、耐え続けてきた六年間の意味が対称形に等価だった。その六年間の意味が、いま潰えようとしていた。口惜しさはそこから来ていた。それを受け入れてしまったその時、僕は正真正銘の敗者となるのだ。

畜生!挫折してたまるか!

夜が更けていった。僕は米を研ぎ、飯を炊き、熱いにぎり飯を握った。そして、まんじりともせず夜明けを待った。
漆黒の夜、キャビンの外では半月間も吹き続いた強風が、僅かに衰え出しているようだった。

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