■Part―5・East Coast of Australia《その先の海》

[再起。そして・・・](続き)

*****

ゲーリーのお陰で、[禅]の船積みの段取りがついた。
僕は、小さなフェリー・ボートで木曜島へ渡り、ポスト・オフィスでシースイフト社宛、船積み代金の3000AUSドル(凡そ20万円)の振込みをした。代金には[禅]の上下架とケアンズまでの運搬、そして、荷主である僕の乗船料が含まれる。
出航は八月二十日と決まった。それまでに僕は、みんなの手を借りてマストを倒す準備を進めた。マストを横たえる最後の作業は、船積み直前、船のクレーンを使わせてもらうことにした。
準備が進むにつれ、遠目に見る[禅]はまるで空家のように殺伐とし、加えてマストを支えるスティがだらりと弛んだ様は、さすがに敗残者のように哀れだった。

八月二十日早朝、ボブやゲーリー、松浦氏、それにたくさんのヨッティーたちが集まって手を貸してくれた。貨客船[トリニティー・ベイ]に横付けした[禅]は、大勢の人の見守る中、マストを倒され、クレーンに吊り上げられて貨物としてデッキに固定された。
この貨客船は、本土から離島としての木曜島やその周辺の島々、陸路の運搬が困難な本土側の僻地に物資を運ぶ傍ら、特殊な観光ツアーのルートとしても活用されている。
それは、ケアンズから4WDのRVでオーストラリア北部の原始林やアボリジニの村落、或いは目を奪うばかりの秘境をキャンプしながら訪ね歩き、最後に、ケープ・ヨークの西側に回りこんだBamaga(地元の人は「セィシャ」と、ヨッティーは「レッド・アイランド・ベイ」と呼ぶ) というとアボリジニの寒村に程近い港で車を船積みしてケアンズへ戻るというユニークなコースだ。
[トリニティー・ベイ]には、そういう船客が大勢乗っていた。彼らの大方はリタイアした年配の夫婦だった。みんなは、海上を走っているべきヨットが船積みされたことで好奇心を刺激されたらしい。
食事時ラウンジへ行きバッフェの料理を皿に盛り分けていると、どこかのテーブルから必ず「zen、きみの席をとってある。ここへお出でよ」と声がかかる。そして、毎食、異なったテーブルに同席し、僕は質問責めに遭う。僕は、都度同じ話しを繰り返さなくてはならなかった。

話しを戻そう。
僕は、ボブやゲーリーの手を言葉もなく固く握り別れと感謝の意を告げた。彼らは、
「また何時か、どこかの海で会おう!」といって僕を励ましてくれた。
それにしても、松浦氏には本当にご迷惑をかけたと思う。彼は、ケアンズ辺りから北上する[禅]を心待ちにいていたはずだ。
それが、リザード島で半月間も足止めを食らい、挙句の果て[禅]の航海断念の報を聞いた。この時点で彼は、今後の航海計画が一切白紙に返ったと思ったはずだ。
後に聞いたところによると、彼は、単独航や彼の三十フィートというヨットのサイズに限界を感じていたそうだ。場合によっては現在のヨットを売却し、クルーを乗せる余地があるサイズのヨットをアメリカ辺りで探そうかとも考えたといっていた。
そうしたら、[禅]がまた動き出した。さらに木曜島の到着を今日か明日かと待っていたら、今度はあのアクシデントだ。そしてこのケアンズへの撤退・・・僕のせいで、すっかり松浦氏を振り回してしまったことになる。

彼らに別れを告げた僕は、航海者から一人の船客になった。そして、もの珍しそうに船内を隈なく歩き回った。
本船のデッキから見る木曜島やホーン島、そしてそれを取り囲む海とそこに浮かぶ懐かしいヨットたちの佇まいが、かつて見たこともない高みから俯瞰された。同じ海にいながら、それは全く別の海のようだった。
どちらが良いかは人それぞれの好みだが、なるほど、こういう海との楽チンな接し方もあるものかと僕は感慨を新にしていた。
船橋を訪ね、船長に会った。
彼は、わざわざケアンズのヨットクラブで、[禅]を上下架するために船体を吊り上げる幅広のベルトや[禅]をデッキに固定する船台を借りてきてくれたとゲーリーがいっていた。それ以外にも一方ならぬ厚意を示してくれていたので、僕は船長に鄭重にお礼を申し上げた。

出航は、貨物の積み下ろしが終わった夕方だった。
ひと時、ポート舷と埠頭が賑やかだと思ったら、船はいつの間にか出航していた。エンジンのかすかな振動が伝わってくるとはいえ、前後進や転舵の運動慣性も僅かな揺れも感じない。それは、何年間も海上を旅してきた僕にとっては、全く衝撃的な驚きだった。
左舷には、木曜島の街の灯が華やかだった。三十分も歩けば尽きてしまうほど小さな街なのに、船から見る灯は、どうしてあんなに煌びやかに見えるのだろう。

夜中にセィシャの港に着いた。
朝、デッキへ出てみると、抜けるように明るい風景の中、すぐ前にはレッド・アイランドがあり、潮流がきつい美しい入江には二艘のヨットが錨泊していた。埠頭ではアボリジニの子供たちが釣りに興じ笑い声が絶えない。全てが別世界のように長閑だった。
ここからは、数台のRVと乗客が乗り込んできた。僕の船室にも、ドイツ人の若いバックパッカーが加わった。彼は、車ではなく、ブリスベンから自転車で砂漠と原始林を3000kmも走ってきたそうだ。彼は深夜まで美しい森や壮大な滝、或いは道々出会った心優しい人々のことを語った。
21日午後、[トリニティー・ベイ]が出航した。僕は、船橋で航海士の傍らに張り付いて、彼らの航海術を学んだ。再び来ることがあればきっと役に立つ・・・そういう思いで航路標識や島々の見通し線、或いは、良さそうなアンカレッジなどをメモしていった。
ラウンジでお茶を楽しんでいると、船客が、度々僕に航路の解説を求めてきた。一度通ったコースを逆行している訳だから、僕は緻密に説明することができた。終いには、船橋からデヴァィダーを借りてきて、壁に貼った海図を前に、僕は航海術の講義までするはめになった。
22日早朝には右舷にナイト島を、午後にはフリンダー島を航過した。夕方通過したメルヴィル岬とピポン島の間の狭水路は僕を心底ぞっとさせた。そこはかつて僕が真夜中にGPSだけを頼りに通過した場所だったが、航路の際には牙のような岩がいくつも突出していた。
二十三日早朝、船は遥か左舷にリザード島を、右舷にフラットリー岬を見て航過した。
それらは、折々心を奪うほど美しかったり、僕を苦しめ抜いたりした所だったが、こうして安全なデッキから眺めていると切ないほどの懐かしさで僕に迫ってきた。
あれほど苦労して北上した航路を[トリニティー・ベイ]は事も無げに通過して、正午、ケアンズに到着した。三日半の航海が終わった。
船旅で親しくなった船客と握手を交わして別れると、僕は船長に会いに行った。
船長は、[禅]の下架は、全ての貨物を降ろしデッキ上の障害物を取り除いてから始めるといった。そして、もう少し時間が掛かるから、ヨットを上架するマリーナへ下見に連れて行って上げようといった。
船長は、埠頭に停めてあったメルセデスに僕を乗せ、ケアンズ・クルージング・ヨット・スコードロン(Cairns Cruising Yacht Squadron)へ案内してくれた。
道々、船長は、自分もヨットを嗜むが、あなたのように木曜島まで行こうとは思わないといった。そして彼は、僕の航跡を尋ねた。僕は大雑把に越し方の五年間を語った。船長は、「あなたは実に勇敢だ。さもなければ向こう見ずな狂人だ」と笑った。
マリーナでは、船長が僕をマネジャーのアレンに紹介し、[禅]が到着する時間などを告げて協力を求めてくれた。船長はこのマリーナのメンバーでもあり、マリーナの全ての人々と親しかった。
船長のお陰で初めて入る港を下見できたことは、僕をとてもリラックスさせた。
船に戻ると、[禅]の下架作業が始まっていた。やがて海上に浮かんだ[禅]に乗り込み僕がエンジンを始動していると、船長は、着岸には人手が多い方がいいからと、航海士を一人つけてくれた。本当に、何から何まで、船長にはお世話になってしまった。

[終息への坂道]

八月二十三日夕方、ケアンズ・クルージング・ヨット・スコードロンのボートヤードに上架された[禅]で、僕の陸の生活が始まった。
何もかもが、何年間も慣れ親しんできた海上生活とは異なり勝手が違った。そんな中で、僕は夢中になって[禅]の修復作業に取り組んだ。
バラストキールを船底から取り外したり、そのために船体を持ち上げたりするには起重機などの機械が不可欠だった。さらに、欠損部分の除去やその部分をあらたにガラス繊維とエポキシ樹脂で積層する一連の作業を考えると、プロを頼むのが時間も経費もはるかに得策だったから、僕はアレンに優秀な職人を紹介してもらった。
アレンは折々、[禅]の船底のクラックを見、或いはバラストキールのぐらつきを確かめたりしながら、この船は本当に丈夫に出来ていると感心していた。
或る日、グレートバリアリーフの海底から引き揚げたという船尾が完全に破壊し尽くしたモーターボートがマリーナに運ばれて来た。それは見るも凄惨な姿だった。そのボートを陸揚げしながらアレンは、僕に、通常のプロダクション・ボートだったら[禅]もああなっていたに違いないといった。それは、船体の破壊や沈没ということに連鎖して、僕の命も失われることを意味していた。

例によって、オーストラリア人特有のいつ終わるとも知れぬ作業が始まった。あまりの暢気さに苛立つことも多かったが、僕もそれを上手に御する術を学んでいたから可能な限り迅速に船底補修を終わらせることができた。
船底は、従来よりもはるかに丈夫に仕上がった。職人も仕上がりに満足したらしく、「zen、今度はもう少し強くぶつけても大丈夫だ」と冗談をいっていた。その後彼はクレーン車を持って来て、契約外のマストを立て、リギンの調整までしてくれた。僕は、取り決めの代金2000ドルに10%のボーナスをプラスして支払いをした。
[禅]を海上に降ろしたのは、九月五日だった。シーズンとしては、オーストラリア東岸を遡るにも、インドネシアへ渡航するにも既に時期を逸していた。それでも僕は、GPSに残存している木曜島までの航路に加え、木曜島からダーウィンへ、さらにバリまでの航路の検索と設定を続けた。急げば何とかなるかもしれない。若し、航行不能の大時化で足止めされることがあれば、それは僕の不運と諦めよう。

[禅]にはもう一つ、どうしても徹底的な修理を必要とする個所があった。
エンジンだ。以前から、度々、重要な所でオーバーヒートを起こす。記述が煩瑣になるから書かなかったけど、あの厳しい潮流のアドルフス島から木曜島の航路でもトラブルは起きた。あれが若し、大時化の暗闇の狭水路だったり潮波が猛り立つパスだったりしたら絶体絶命なのは火を見るよりも明らかだ。
アラームがけたたましく鳴り、エンジンを止める。冷却水を調べると、いつも薬缶に一杯分も減っている。どこかで水漏れをしているらしい。
僕は、ボートヤードで知り合ったレオ・ウルフというちょっと変わった名前のドイツ人エンジニアに相談してみた。レオのガールフレンドは札幌に住む日本人女性で、僕が札幌をよく知っていることからとても親しくなった。レオは、明日、[禅]が水面に降りたら見に行って上げようといった。
翌日、彼はエンジンを回し、暫く触れたり眺めたりしていたが、やがて眉をひそめるようにしていった。
「zen、これは多分、シリンダーヘッドのガスケットが破れていて、そこからシリンダー内に冷却水が流れ込んでいるらしい。ガスケットは特殊とはいえ一枚の紙でしかないけど、交換するにはエンジンのほとんどを分解しなくてはならないし、関連的な故障個所もあると思う。その分、手間賃が嵩むがどうする?僕はいま直しておいた方が絶対にいいとは思うんだけど」
勿論僕は即断し、レオに修理をお願いした。
翌日、朝からレオの分解作業が始まった。彼が予測したように、ガスケットが破れていて、シリンダー内にもかすかな錆が出ていた。彼は、ヤンマーに部品注文をするので、中一日作業を中断するといった。そして、調べてみたいからといって、冷却機構の一部を持ち帰った。
翌々日、彼は新しいガスケットを持って[禅]を訪れた。そして、
「ヤンマーは仕事が速くて助かるよ。これがボルボだったら、値段は張るし、取り寄せに時間が掛かるし、全くエンジニア泣かせなんだ」といった。
そういえば、フレンチポリネシアのモーレアで、カナダの[Sea Raven]が、ボルボのパーツを取り寄せるのに一ヶ月もクックス・ベイに足止めされたことがあった。それに引き換え、同じモーレアで、或るアメリカ艇がヤンマーにEメールでパーツをオーダーしたら、三日後にエンジニアがその部品を持って艇を訪れ、取り付けまでしていったことがある。[Sea Raven]のジェリーとビヴィアンは、その余りの違いに憤慨したものだ。そんなエピソードを語ると、レオは、全くそのとおりなんだといって笑った。
彼が持ち帰って調べた冷却機構にも問題があった。清水が循環して機関を冷却する細管に、なぜかべったりとオイルが付着していたそうだ。
九月八日の夕方までに全ての作業は終わった。
僕はまた、かねてから気になっていたブームの高さを調整した。いままでのブームは、前方遠くを見ようとコックピットのベンチに立つと、ブームの高さが、丁度僕のテンプル(こめかみ)にくる。若しこの高さで過激なブームパンチを食らえば、場合によっては、ひどい事故だって起こりかねない。
僕はマスト側のグースネックの取り付け金物を三〇センチ上げた。やってみれば実に簡単な作業だった。ドリルで既存のリベットを壊し、マストのあらたな位置に正確な穴をあけ、金物を置いてリベットで留めるだけだった。これで、リーフ作業は少し大変になるが、コックピットの安全度は格段に良くなった。

**
一日も早く木曜島へ戻りかった。
若し戻れたなら、今までの不運は全て帳消しになり、あの悪夢のような出来事もちょっとしたアクシデントに過ぎなくなる。百分の一でも木曜島に戻る可能性があるものなら、僕はもう一度だけ再起に挑んでみたいと思った。
しかし、出航を見据えて待つ時はいつも時化が来る。今回も例外ではなかった。
特にこの時の時化は、地元の人が、時期外れに大荒れする気象を〈ミニ・サイクロン〉と呼ぶそれだった。出るに出られないし、そればかりか、マリーナ周辺のマングローブの茂みに縁取られた川筋には、時化を逃れて避難して来るヨットが日毎に増えてきた。港口のパイル・ムァリングでは危険を感じるほど港外は時化ているそうだ。
シーズンが終わろうとしている。僕は、半ば絶望的な気分で天気の回復を待った。

そして、遂に九月十六日になった。
僕は朝から体調が勝れずバースに臥せっていた。昼頃、デッキをノックしてレオがハッチから顔を覗かせた。そして、僕の顔をまじまじと見ると、どうしたんだと叫んでキャビンに飛び込んで来た。
「ひどい顔色だ。すぐ病院へ行こう」そういって彼は、僕を強引に連れ出して車に乗せた。
やがてレオのトラックはアボット通りの病院に着いた。そして僕は、救急扱いで診察を受けた。検査は、概ねバンダーバーグの時と同じだった。
暫くして年配の医師が現れた。そして、今すぐ発作に繋がるという所見はないが、心臓がかなり弱っているようだといった。
僕は、今まで繰り返した発作とそれが起こったシチュエーションを詳しく説明した。そうしたら医師が、
「いずれにせよ心臓機能そのものに発作の原因が見当たらないのだから、その折々に加わるストレスが発作の原因と考えざるを得ないね。
航海が原因でストレスが起き、それが心臓発作を引き起こすというのなら、航海を止めれば問題は解決するんじゃないのか?それで全てが解決だ」と単純明快にいってのけた。
「ドクター、それはないですよ。航海は僕の人生そのものなんだ。もっと精神力を強く持って立ち向かえば、どうにか航海を続けられるんじゃないでしょうか。例えば、死ぬ気で立ち向かえば、大抵のことは成し遂げられるというでしょう」
そうしたら医師が急に怒り出した。
「健康な人が死ぬ気でやれば困難を突破するかもしれない。しかし、あなたがやれば、ただ死ぬだけだ。
あなたは日本人だろう。この国には客として留まっている訳だね。それならば、客としてのマナーがあるんじゃないのか。世話になっている国で、敢えて命の危険をおかす非常識を、私は黙って見過ごす訳にはいかない。あなたは、それをよく考えてみるべきだ」そういって医師は救急治療室を出て行ってしまった。
僕としては気安くいった言葉であったのだけれど、それにしても[禅]をとり巻く状況を踏まえ、医師の正論はずっしりと胸に応えた。
レオのトラックでマリーナへ戻る間、僕の心の動揺を察して彼は一言も話し掛けなかった。そして、僕を送り届けると、明日また様子を見に来るよ、といって帰って行った。

冷静に考えてみれば、再びオーストラリア東岸を北上し、ダーウィンへ西進して、さらにインドネシアへ向かう航海シーズンはもうすでに終わろうとしていた。健康上の問題を度外視しても、無茶な航海計画と飛びっきりの幸運が噛み合わなくては、僕のリベンジ航海の達成が不可能なことは明白だった。そして、十一月中旬にジャワ海北上の航海がスタート出来なければ、その先のインド洋も紅海も地中海も僕には存在しない。本人にはさっぱり自覚がないのだが、僕はどうやら終息への坂道を転げ落ちているようだった。そして、僕の意思とは無関係に舞台の幕は降りようとしていた。

翌日、仕事に出かける前にレオが立ち寄ってくれた。
「どう、元気になった?」
僕は、ことのほか明るく装って、
「うん、もう大丈夫。そして、航海はここで終わりだ。ムルラバへ戻って、艇の処分でも考えるよ」といった。
「Sorry・・・(お気の毒に)」レオは、ひとこと呟くようにそういって仕事場へ出掛けて行った。
ついに僕は、航海の終息を口にしてしまった。それは、何とか避けたいと願っていた人生の変節に踏み出す僕自身への宣告でもあった。
彼の姿が見えなくなると、かつて覚えのない激しい脱力感に打ちのめされ、僕は抱えた膝の間にガックリと項垂れた。

何というアイロニー。何と呆気ない幕切れだろう。人生なんて悉くこんなものかもしれないけれど、今、唐突に訪れたその幕切れに僕はただ呆然とするばかりだった。
やれやれ、今日九月十七日は、僕の六十四回目の誕生日。そして、その日が航海断念の日になろうとは・・・。まるで僕の人生を書き上げた脚本家が、最後の茶番にドンデン返しを書き加えたような顛末じゃないか。

[エピローグ]

人生って何だろう。そして、僕にとって航海って一体何だろう・・・。
漂泊うように、無目的に、僕はヨットで世界を巡ろうとした。風と潮にまかせ、流浪の道筋に出会う名も知らぬ貧しい村や文化も言語も異なる人々と織りなす心豊かな感興の時空に身を置いて旅することが僕の夢だった。
煩わしい人間関係や浮世のしがらみから自らを解き放ち、大らかに飛翔する海鳥のように、文明とは全く無縁の真の自由を身に纏いたかった。
或いは、南太平洋ヒバオア島のぺテログリフ(古代の先住民が残した岩面陰刻)に掌を置いて古代に語り掛けたように、北アフリカや中東やギリシャなどの内陸を旅し、数千年の歴史の果てに向かって人類の叡智と愚昧を尋ねてみたかった。
さらに、行く先々で、本当の心の幸せを体得したヴァガボンドのヨッティーたちと真の友情を交わし、彼らに多くを学びたいと願った。そして、僕が心に蓄える幸せを誰かに分け与えることが出来ればどんなにか素晴らしいことだろうと思った。
僕は世界を一回りし終えても日本へ帰るつもりはなかった。年齢からいっても、さらに十数年も経た将来、霞が空に消えてゆくように、どこかの海で人知れず果てることが出来れば、それが僕の人生の最も自然で好ましい終焉と願っていた。
それらの願いが、僕をして分に過ぎる望みだったのだろうか。
航海のシーズンや僕の健康、そしてあの忌まわしい事故のみならず、国々が定める滞在期限やそれを補う高額な課税、国家間の紛争などが行く手を阻み、僕の夢は呆気なく潰えてしまった。航海断念・・・他の選択肢は存在しない。

それにしても、航海を辞めた僕とは一体何だろう。そして、僕は一体何処ヘ向かって歩いて行こうというのだろう。僕は今、自分が別のものに変身していくような不思議な思いの中を漂っている。
この何年間も、余りにも航海だけに心を尽くしてきたせいで、僕は何気なく降りてしまった見知らぬ鉄道駅の無人のプラットホームに佇んでいるような気分だ。或いは、体の中まで浸潤してしまいそうな濃霧に包まれ、自分が何処にいるのかも定かでない。どこかへ向かって歩き出さなくてはならないのに、しかし、先には何も見えない。

その後、僕は、ケアンズから1000浬(1800km)もの航路を南下してムルラバへ戻った。それは、敗走に似て打ちひしがれた撤退の航海だった。
僕は、艇の整備をする傍ら、若しかしたら起死回生のチャンスが訪れるかもしれないという未練で、さらに半年間をムルラバのマリーナで過ごした。しかし、再びチャンスが巡ってくることは遂になかった。

2001年、僕は日本へ帰ってきた。
しかし、今にして僕は思う。僕の内で航海は終わっていないのだ、と。僕の耳は船縁を洗う潮騒と心地よいリギンの軋みを聞き、僕の命は今も大海原の大らかなリズムの中に生きている。
海は紛れもなく僕の内面に存在し、僕はそれを激しく恋い慕う。だから、いつの日かきっと、再び大洋へ向けて船出する日がやって来るに違いない。そう信じて、僕は暫しの休息をしよう。

[完]


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