西久保 隆
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ガスのトーチが屋外に設えたテーブルと数組のカップルの姿を青白く照らしている。日中はあんなに暑かったのに、夕暮れを過ぎた今、綿ニットのセーターを着ていても肌寒さを感じる。秋の宵の憂愁とでもいうのか、街のたたずまいはちょっとメランコリックだ。
ぼくはガスランプ・クォーターの、とあるイタリアレストランで脇目もふらずサラミソーセージとスピナッチのビザを食べていた。滴り落ちようとする溶けたチーズと格闘しながら。
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隣のテーブルにアメリカ人の男とオリエンタルの女性が座った。小声で何か口論している様子だ。
彼女が、「だって、あなた自身のことじゃない。私にはどうすることもできないわ」といった。
「そうじゃないよ。ぼくら二人のことじゃないか。そこをくぐり抜けなければ、ぼくらはいっしょに楽しくやっていけないんだから。きみはぼくを見殺しにするつもりかい?」
「そうじゃないってば。あなたはあなた自身のことを全うする。私もそうするわ。その上に私たち二人という世界があるのでしょ」
「分かったよ。きみはぼくをへルプしようとはしないんだ。日本人はリッチだと聞いていたけど、きみはそうじやないんだね」
会話は自然に耳に入ってきていたけれど、ぼくは「日本人」という言葉に思わず聞き耳を立ててしまった。
二人はどこかの大学に通う学生カップル。よくあるやつだ。名前はビルとトモコ。口論のポイントは、男が相場か何かに手を出して借金がかさみ学費がままならぬということ。それを彼女に肩代わりさせようという魂胆らしい。自己責任に対しまことに脆弱なアメリカ人の若者によくあるケースだ。何とも虫のいい男だとぼくは思う。
いつの闇にか彼らの話にはまっている自分に気づいて、ぼくはひそかに赤面した。気をそらし、ぼくは再びピザに取り組んだ。
その時、男は唐突に、「分かったよ。きみとはもう終わりだ」といって席を立った。そして、後も見ず足早に賑わう夜の雑踏に消えて行った。
トモコはスパゲッティのフォークを置いて、膝に掛けたナプキンを見下ろしていた。どうやら泣いている様子だ。
やがて椅子の背に掛けたハンドバッグからテッシュを取り出し、そっと鼻をかんだ。その拍子にバッグが膝から滑り落ち、キーやコンパクト、それにいくつかの小銭なんかがテーブルの下に散らばった。
ぼくはトマトソースとチーズで汚れた指を紙ナプキンで拭ってから、それらを拾う手伝いをした。クォーターの硬貨を3つとアドレス帳を手渡すと彼女は「サンキュー」といい、ぼくは、「どういたしまして」と答えた。
「あら、日本の方だったのですか?」とトモコが尋ねた。その目が、まだわずかにピンクに染まっている。
「そうですよ。席が近いものだから、お話が全部聞こえてしまいました。彼が、日本人は金持ちだ。きみはそうじやないのかといった時、あなたか日本人だということが分かった訳です。ごめん。別に聞き耳を立てていたんじゃないんだけど」とぼくは多少の嘘を恥じながらいった。
「よければ、ぼくの席に移りませんか?一人じゃますます気も滅入るというものです」
「よろしいんですか?でも、何だか恥ずかしい。お話が全部聞こえていたのですもの」
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ぼくらは、互いに当たり障りのない程度の自分を語り、小一時間程でそのレストランを出た。
彼女の名は智子と書く。年はいわなかったがおよそ23。東京出身でサンディエゴ市の大学に通い、理工科でコンピュータ関係の勉強をしている。3年前にサンディエゴに来て、ウエスト・ポイント・ロマのアパートメントに住んでいる。
ぼくは山崎努。同姓同名の俳優かいるが、ぼくの場合、ヤマサキと読む。歳は35。大手電子機器メーカーのカリフォルニア・ブランチを開設し一応の軌道に乗せるため3年前にサンディエゴに来た。先頃、単身赴任の不都合から夫婦仲にひびが入り離婚した。子供はない。まあ、そんなところだ。
「ジャズは好き?」とぼくが尋ねる。
「ええ、ロックよりモダンジャズの方が性に合っているみたい」
ぼくらはジャズのライブをやっているクローチェというクラブへ行った。独りの所在無さをもてあました時よく行く店だ。
「何が飲みたい?」とぼくは智子に訊く。
「よくは知らないけど、マルガリータを飲んでみようかしら」
ぼくはバーテンダーのトムに、
「彼女にはマルガリータ。ぼくはいつものやつ」といった。トムは「いつものやつ」をいっしょになって、口調まで真似ていった。年老いた真っ黒な顔が陽気に笑う。いつも思うことだけれど、その笑い顔と嗄れ声がサッチモ(ルイ・アームストロング)に似ていると思う。どうやらトム自身もそれを意識しているらしいけれど。
バンドはクヮルテットでピアノ、ヴァイヴラホーン、ベース、それにドラム。時折、ピアニストが弾き語りでバラードを歌う。 「朝日のあたる家」や「バグス・グループ」「オータム・リーブス」を演奏するとバンドはブレイクに入った。
レコード演奏になると、何組かのカップルがホールに出てダンスをした。ぼくらもスローバラードを2曲ばかり踊った。智子の頬は3杯のマルガリータでほのかに赤く燃えていた。背丈はぼくと同じか、ぼくよりも少し高いくらい。もちろんヒールの高さも入れてのことだ。踊っていると、黒く長い髪が背中に回したぼくの手をサラサラと撫で、ウエストがとても細いと感じる。それに弾力のあるバストがぼくの胸に弾み、シャンプーかリンスの香りが混じった彼女の髪の甘い匂いに包まれて、智子がとてもいとおしいものに思えてくる。
「のどが渇いたわ。もう一杯マルガリータを飲みましょう」そういって彼女はぼくの手を引いてバーへ戻った。
「ワンモア マルガリータ プリーズ」と彼女が少々怪しげな呂律でいう。トムはサッチモそっくりに目を丸くして見せ、「いいのか?」と目配せで問う。
「OK、トム。心配ないよ。ぼくが彼女をちゃんと送って行くから」そういいなから、ぼくは、彼女の中にぼくと同じ甘く親密な想いが育ってくれればいいと思う。
バンドがステージに戻り演奏が始まった。智子はバーに背を向けてバンドを眺め、宙に浮いた綺麗な足を曲のリズムに合わせブラブラと揺すっている。彼女の手は、ぼくの太ももの上でぼくの手の中にある。時折、強く握ると智子は強く握り返してくる。
「帰ろうか?」とぼくがいう。
彼女は子供のようにこくりと頷き、高いスツールを滑り降りる。カウンターの上のハンドバックを取り、「スィユー トム」という。
「またツトムといっしょに来てくださいよ。グッナイ トモコ」***
ぼくらは人通りの少疎らになった夜の街に出る。少し酔った頬に冷たい夜風がとても心地好い。智子がバッグを待った手を大きく広げて伸びをし、「とても素敵な夜!」といった。
「ぼくの車で送って行こう。ガレージが4thのDストリートだ。ちょっと歩くけど、いいかな?」
「ええ、すぐに車に乗るよりは少し歩きたい気分」智子がいう。
ぼくらは手をつなぎ、ホームレスがうろつく多少不気味な街を歩き出す。店を出る時に演奏していた「ララバイ・オフ・バードランド」を歌いながら。
前方からホームレスがやってくる。近づいてみると一見年老いた芸術家といった風貌。ぼくはすぐにこの界隈で有名な「メリークリスマス・グランパ (爺さん)」だと気づく。赤のとっくりセーターにグリーンのベスト。この老人は一年中クリスマスカラーの衣服を着込み、会う人ごとに「メリークリスマス」と呼び掛けるのだそうだ。
「お若いの、人生を楽しんでいるかね?」と老人がいった。
「勿論さ。楽しんでいるように見えないかい?」とぼくか答える。
「見えるとも。見えるとも。わしにもそんな時代があったものさ。この若者に神の御加護がありますように。メリークリスマス」
「サンキュウ オールドマン。あなたにも神の御加護がありますように。おやすみなさい、おじいさん。メリークリスマス」
年老いた男は口の中で何かブツブツ呟き、何度も頷きながらぼくらが来た方へ歩き去った。ぼくらはしばらくその後ろ姿を見送っていた。 突然、智子がぷっと吹き出し、そして、「あゝ楽しい。あのお爺さんのいう通りだわ。もっともっと人生を楽しまなくちゃ」といった。さっきの一件を一生懸命吹っ切ろうとしているのかも知れない。
ぼくは再び彼女の手をとった。立ち止まったまま、ぼくらは向かい合い互いを見つめ合っていた。
「楽しい?」とぼく。
「ええ、とても」と彼女。
そして、自然に二人の唇が触れ合った。ぼくの耳に夜道を転げてゆく枯れ葉の音だけが聞こえていた。
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フリーウエィ5号線を北上し、すぐパシフィック・ハイウエィに乗換え、バーネットからミドウエィに入る頃、ぼくはどうしても彼女が欲しいと思った。
「ぼくの所に寄っていかない?」ぼくはカーラジオのミュージックに耳を傾けている彼女にいった。
「私のところに寄っていって欲しいの。何だか、これで今夜が終わってしまうのがとても惜しい気がする」
「OK。きみさえ好ければ」
真ん中に広い中庭を囲んで同じ形の4階建てのコンプレックスが5棟ほど並ぶ区画のドライフウエィに車を入れ、ぼくはゲスト用のパーキングを探した。
「私の所が空いているわ。そちらに入れて」彼女がそういって右斜め前方を指差す。
「私の部屋は右から3つ目のコンプレックス。ルームナンバー440。4階の左端よ。その前の一つだけ空いている所が私のパーキング」
いわれる通りにぼくは車を進め駐車する。エレベーターを降りると彼女は外廊下を先に立って歩き、右端のドアのキーを開けた。
「さあ、どうぞ。あんまり綺麗にしていないけど」そういってぺろりと可愛い舌を出しておどけて見せる。
部屋は女性らしい色彩と調度でまとめられて美しい。ぼくは自分の居室を思い出し、彼女を連れて行かなくてよかったと思う。それにしても、男性のぼくにしてみれば、どこかの女子更衣室にでも紛れ込んだように落ち着かない。
「どうしたの?そんな所に立っていないで、こちらにお座りになって。今、ティーを淹れるわ。私はもうお酒は十分だし、あなたはまだこの先ドライブか残っているのだから」
キッチンでエプロンをしてお茶の用意にかかる彼女を眺めていると、さっさよりもっと強い感情でいとおしさが感じられる。ぼくはソファを立って、キッチンとリビングを分ける仕切り壁の所へに行き、
「トモコ」と声を掛けた。
「えっ?」といって彼女が振り返る。しばらく、といっても2、3秒だけど、ぼくらは見つめ合い、そしてどちらからともなく近づき互いを抱きしめた。彼女の唇は柔らかく潤い、頬はダンスの時よりも熱く燃えていた。
「トモコ、きみが欲しい」とぼくはいい、彼女は俯いた。やがて小さく頷くと彼女はエプロンを外し、ガスの火を消した。
「シャワーをつかってくる」といって彼女はバスルームに消えた。
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時計が午前2時半を差していた。
そのまま深い眠りに落ち込んでいった智子を起こさぬようにベッドを出て、ぼくは彼女の乱れたベッドを直し、きちんと布団を掛けてやった。
衣服を着けている時電話のベルか鳴った。多分さっきの男かも知れない。4回ベルが鳴ってアンサーフォンに切り替わったがメッセージはなかった。彼女はやすらかに眠り目覚めることはなかった。
ぼくは自分のアドレスと電話番号とちょっとしたメモを残し、彼女の額にキスをして部屋を出た。ドアの内側でカチリとオートロックの掛かる音がした。
ぼくはとても彼女が好きだ。それは愛といっていい程に濃密な感情だ。また逢えるだろうかと思うと、ぼくの胸の中に、ある種の苦しみのような切なさが湧き上がってきた。一瞬引き返そうかと思ったけれど、彼女の本当の気持ちを知らぬためらいがぼくを引き止めた。 愛って一体何だろう。少年のようにぼくは悩み、小声であの老人の口調を真似て、「ゴッド ブレッス ミー」と咳いた。
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外の空気はひんやりと冷たく、少し欠けた月が地上のもの全てを銀色に染めていた。ぼくは車のドアを明け、座席に滑り込むと煙草に火をつけた。頭上を、いま空港を飛び立ったばかりの貨物便の飛行機が、月光の中できらりと光って通り過ぎて行った。
[終]
Oct. 21, 1996