■シルバーロマン・シリーズ/第一話

三時のおやつ

午後三時。山下達男は、いつものように京橋三丁目のドトールコーヒー店へ出掛けた。

おかしなものだ、と彼は思う。子供の頃からの習慣なのだろう。三時になると、婆ちゃんが長火鉢の小抽斗から砂糖菓子をつまみ出して四つに切った半紙に包んでくれた情景が脳裏にちらついて落ち着かなくなる。何のことはない、三時に反応するパブロフの犬だ。そんな冗談で部下たちを煙に巻いて、今日も彼は三時のドトールに陣取った。達男は、決まってコーヒーとペストリーを楽しむ。

二ヶ月ほど前、会社の若い娘たちに意見されてから、彼は三時のおやつとはいわなくなった。

「常務、三時のおやつなんて、いまどきもう誰もいいませんよォ。コーヒー・ブレィクっていうんですよォ」

その後で「三時のコーヒー・ブレィク」といって彼女らの失笑をかったことを彼は大いに反省した。どうしても三時に拘ってしまうようだ。

奥の壁に沿った長椅子に一人分の空間と四十センチ平方のテーブルが一台空いていた。セルフサーヴィスのコーヒーとペストリーを用心深く運び、達男は人間が横向きでやっとすり抜けられるテーブルとテーブルの間を抜けて長椅子に腰を降ろした。

美味しくはないが、コーヒーの味と香りがする飲み物に一人分にパックされたミルクを注いだ。彼は舌を焼くほどに熱い飲み物が嫌いだったから、コーヒーをそのままにしてタバコに火を点けた。何にせよ、職場をエスケープして嗜む一服は格別だ。そんな充足感で、彼は深々と煙を吸って吐き出した。

肩も触れんばかりの隣席の客が微かに反応した。その様子には嫌煙権がどうこうという種類の嫌味はなかった。

「失礼。タバコがお嫌いでしたか」と彼は詫びをいった。

「いえ、そんなことはありません。私も吸いますから。ただちょっと、びっくりしただけです」微かな笑みを湛えて隣席の女性がいった。

四十という年格好にしては垢抜けた女だった。会社のユニフォームなのだろう、紺地に白のパイピングを施したスーツを自然に着こなしている。栗色の髪はやや短めで裾にふんわりとボリュームをもたせたマッシュルームというスタイルだ。品位が伺えるばかりか、窮屈そうに組んだ足は均整がとれていて十分に官能的だ。それに、表情に険がなく、どこかおっとりした様子もいい。これはなかなかの美形だ。達男は横目で盗み見てそう思った。

彼女は熱心に女性週刊誌の海外旅行の広告を見ていた。ギリシャの紺碧の海を背景に真っ白い建物が写っている写真に見惚れ、ふっと溜め息をもらすとページをめくった。ページを繰る左手の中指にサファイヤの指輪があったが、薬指には何もなかった。

女はページを繰る手を止め、熱心に記事を読み出した。それは星占いのページだった。やれやれ。女とはいくつになっても夢に心を奪われる生き物なのだ。そんな彼の思いが感じられたのか、彼女は僅かに顔を巡らし達男をちらりと顧みた。

彼は慌てて笑みを浮かべ、

「今週の恋愛運は如何ですか?」と軽口をたたいた。

「素敵な男性が現れるそうです。でも、狼だから用心しなさいといっています」

目元に茶目っ気を湛えた小皺で微笑み女がいった。彼女はコルムのリスト・ウォッチに目をやり、週刊誌を閉じて席を立った。とても爽やかな微笑を残して。

達男はその笑顔にショックを受けた。そんな思いで見るせいか、歩き去る後姿のなんと美しく官能的なことか。


三日後の午後三時、同じ席で彼女を見つけた時、彼は去る二日間もまた、彼女の姿を探し求めていたことに気づいた。五十歳にも差し掛かって、このときめきは一体何だろう。彼は自分の心の昂ぶりを怪しんだ。

彼女の隣りの席では若い男がスポーツ新聞を読んでいた。こんな狭い場所で新聞を広げなくてもいいではないかと彼は腹立たしかった。暫くするとどこかでポケベルが鳴った。若い男はポケットからそれを取り出すとスイッチを切り、デスプレーを眺め、入口近くの赤電話へ立って行った。やがて戻って来ると、男はあたふたと店を出て行った。ざまあ見ろ、と達男はほくそえんだ。勤務時間をサボってお茶など飲んでいるからだ!

彼は新たにコーヒーをオーダーすると、いかにも今来たばかりという素振りで女の隣りに腰を降ろした。

「やあ、先日は失礼しました。今日はタバコを吸ってもよろしいですか」彼がいった。

「ええ、どうぞ」彼女はいい、「お代わりなさって、コーヒーがお好きですのね」とさりげなくいった。何のことはない、この女は先刻から達男が来ていたことも隣りの男を睨みつけていたことも知っていたのだ。彼は年甲斐もなく顔が赤らむのが分かった。

「今日の星占いは如何ですか?」

「雑誌の週が替わらないと、おかしなことに私の運勢も変わらないもののようですわ」そういって女は可愛らしく笑ってみせた。

「それでは素敵な男性が現れるという占いはまだ有効なわけですか。もっとも要注意だそうですが」真面目な表情で彼がいった。

「ごめんなさい。あれは私のつくりごと。いたずらでした。でも、当たっていなくもないなんて、私には霊能があるのかしら・・・」

小首を傾げて、彼女はいい感じで笑った。達男は、自分が急に若くなったような気分に襲われた。

「美味しいケーキを出す店を知っています。如何です、河岸を変えて三時のコーヒー・ブレィクというのは」

倒錯した若さほどに言葉も軽快に口をついて出ることに彼は驚いた。

「ダイエット中ですからケーキは遠慮しておきます。でも、コーヒーだけで構わなければおよばれしようかしら」

彼は胸の内で、若者のように「ヤッター」と歓声を上げた。

女の名は加山優子。不躾ながらと年齢を尋ねると四十二といった。

「お若く見える。せいぜい四十前とお見受けしました」達男はお世辞だけではない感想を述べた。

「ご家族は?立ち入ったことでしたら勘弁してください」

優子はちょっと言葉に詰まり、やがて気を取り直したように語り出した。

「丁度去年の今頃、離婚しました。子供はおりません」

彼は、「勿体無い!」と口まで出掛かった言葉を慌てて呑み込んだ。

「何でまた・・・。こんな素敵な女性を離婚する男の気が知れない」

そういいながら、これもまた余計なことだったかと彼は反省した。案の定、彼女は、

「そのことはまだお話ししたくはありません。でも、離婚されたのではなく、私の方から離婚をしたのだということを念の為に申し上げておきますわ」といった。

優子は、京橋にあるホテル関係の大手企業に学卒で就職して二十年目になるといった。彼女は入社三年目に職場結婚し、昨年離婚した。その間、世間というものをことごとく夫の目を通して見てきたことに気づいて、今更ながら自分の主体性の欠如に驚いているといった。

現在は役員である前夫に気を遣って、社内では誰も、特に異性は彼女と親身な付き合いをしてくれようとはしない。だから、朝九時に出勤し、三時に独りでお茶を飲み、夕方五時にまっすぐ帰宅する。判で押したような味気ない生活を一年間も続けてみて、もう少し自分を解放しなくてはと考えているところだと、優子は話を結んだ。

十五分ほどのつもりが一時間を超えていた。優子は慌てて席を立った。彼は、この千載一遇のチャンス逃してなるものかと、喫茶店の出口を通りながらいった。

「金曜日の夜、ごいっしょに食事など如何ですか?」

「考えておきます。ご返事はお名刺の番号へお電話してよろしいですか?」

銀座一丁目界隈は、互いの会社の者が多く行き交うので離れて歩くことにした。達男は彼女を先に行かせ、五歩ほど後から六〇%かた親密な関係に接近することに成功した女を観察した。

「実にいい。まるで神様が俺に下さった素敵な子羊だ・・・」彼は、感想が口をついてこぼれそうになるのを懸命にこらえた。


金曜日、午後七時、二人は『ザ・ヨコ』と称されるホテルのラウンジにいた。

達男が予約した窓辺の席からは、暮れなずむ横浜港の景色が俯瞰された。いくつになっても夢を追う女にとって、この風景が限りなくロマンチックな気分に誘う魔力を秘めていることを彼は知っていた。

予想に違わず、優子は街の灯に囲まれた水面に点々と灯る大型船の停泊灯や音もなく行き交うランチの赤と緑の航行灯、明滅する燈台の灯などが織りなす風景に、若かりし日のような陶然とした心の高まりを覚え溜め息をもらした。

洗練されて抑制のきいた態度の達男にもてなされ、加えて、甘いメロデーを奏でるピアニスト、料理のポイントを説明にやってくるシェフやウエィターなどにかしずかれて優子は夢見心地だった。

「優子さん、今夜のヒロインはあなただ」と達男がいった。昼日中、こんな殺し文句を耳にしたら鳥肌が立つほど気障な言葉なのに、こんなシテュエーションでは何故か心がさざなみ立つ効果をもたらすというのも女心の一面だった。

『そうか、この陶然とした幸せな心地は、私がこのステージのヒロインだからなんだ』という思いが彼女の心の中に納得となって広がっていった。優子の背筋が伸び、昂然と頭をそびやかし、ゆったりとした動作には王妃のような品格さえ漲ってきた。

ジュヴレ・シャンベルダンは彼女の気分をさらに高揚させた。縁に金を巻いたキリコのワイングラスに注がれたそれは、シャンデリアの光の粒を映して甘美な血のように輝いた。彼女はグラスを優雅に捧げ持ち、彼のグラスに軽く打ち当てた。二人の間に澄んだ美しい音が響いた。

「きみの離婚に乾杯!」と彼がいった。

「素敵なディナーに誘ってくれた狼さんに!」と彼女がやり返した。

料理は申し分なかった。ワインもウエィターたちのサーヴィスも最高だった。ピアニストは、優子のためにと前置きしてショパンの夜想曲を演奏してくれた。

全ては完璧だった。

二人は急速に接近していった。酒の力も手伝って、優子は触れなば落ちんという風情だった。しかし、達男は自重した。

互いに無意味な節操を云々する歳でもないし、男と女のつき合いが行き着く先は知っている。それでも急ぎ過ぎてはいけない。彼女がそれを予期しているだけに、いま俺がせっかちに踏み込むと、今後ずうっと付きまとう負い目になりかねない。何故俺が求めてこなかったのだろうというミステリアスな部分を残すことが今夜のポイントだ。特に、一回切りではなく、今後永くつき合いたいこんな上質の女であれば尚更のことだ。

十一時過ぎ、彼は葉山へ彼女を送って行った。潮騒が聞こえるほど海に近いマンションだった。

「海を眺めながら、お茶でも召し上がっていってくださいな」と彼女が誘った。

「いや、こんな夜更けでは迷惑をかけるし、それに海も見えないでしょう。今度、景色が楽しめる時にお茶を頂きに上がりましょう」そういって、達男は葉山を後にした。


「三時のコーヒー・ブレィク」は、いつの間にか京橋三丁目のドトールから銀座一丁目の「ポーラ」に移っていた。達男は、月曜日の三時に「ポーラ」へ出向いたが優子の姿はなかった。何となく物足りなさを覚えて午後が過ぎた。

翌火曜日、意気込んで出掛けた彼はやはり失望した。今日も彼女は姿を見せなかった。

午後は会議が長引き、デスクワークで夜遅くまで会社に居残った。誰もいないオフィスを見渡し、何故とはなしに彼は人生の虚しさを思った。

五年前、妻を病気で失ってからは、無人のオフィスや待つ者もいない家路を辿る時、或いは、夜中ふと目覚めた寝床で、彼は耐え難い侘しさに苛まれることがあった。結婚して家を出た娘に再婚を勧められたこともあったが、新たに家庭を築くことの煩わしさが先に立った。しかし、侘しさは独り身だからではなく、歳を重ねて認識する人生の根源的な孤独に起因することを彼は知っていた。

彼は受話器をとると優子の家の番号をダイアルした。呼び出しの音が三度なった。

「加山です」と優子の声が応えた。

「昨日も今日もポーラに姿を見せなかったので、病気でもされているのではないかと電話をしました」

「ご心配をお掛け致しました。元気ですわ。先日は素敵なディナーにお誘いいただきありがとうございました。お礼も申し上げず気にはなっておりましたが、お茶に出掛ける間がとれずにおりました。明日は多分、ポーラでお茶をいただいていると思います」

元気そうな声を聞くと、彼は今までの杞憂をよそにかすかな腹立たしさを覚えた。

「それなら結構です。夜分、電話をして失礼しました。お休みなさい」彼は事務的な口調でいって受話器を置いた。


優子は、受話器を手にしたまま会心の笑みをもらした。

金曜日の夜半、彼女は辿りつくべき結末に心の準備を整えていた。誘われたら一応はさりげなく断ろう。その上で彼のアプローチに抗いながらも、妥当なところで彼の懇願を受け入れよう。そうすることで、彼女は本来身持ちのいい女であり、彼の切なる情熱にほだされて抗す術もなく押し切られたというパターンが出来上がる。以降、彼は強引に押し切った側の負い目を自覚し、二人の関係において常に真摯な気持で接することになるはずだ。何にせよ初めが肝心なのだと彼女は考えた。

・・・しかし、あの夜、彼はそんな素振りを微塵も見せなかった。しかも、焦りから私は自宅へ誘うというミスを犯し、弱味を露呈してしまった。マイナス1ポイント!

ならば、私の姿を探し求めて彼が狼狽するように仕向け、ポイントを奪還しなくちゃ。だから、二、三日はポーラに行かないことにしよう。

さらに彼は電話を掛けてくるに違いない。そうすればポイントは逆転し、私は彼に対し優位な立場で振舞える・・・。

案の定、電話が掛かってきた。しかし、あの口調では少し腹を立てているなと彼女は思った。そこまで追い込むつもりはなかったから、彼の立腹は計算外のファクターだった。逆転と確信していたのに、これでは再びゲームはドローということになってしまう。

やれやれ、明日からは、また彼との心ときめく『三時のおやつ』に精励恪勤することにしようと優子は思った。

[完]


■一九九二年夏制作

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