■シルバーロマン・シリーズ/第二話

青春ドライブ

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内田敬三が自動車学校に通い出してもう半年になる。

仕事が忙しかったりしてせっかくの予約もキャンセルすることが度々で、カリキュラムは遅々として進まない。それでも教官は、

「なかなかいい運動神経してますね」などと褒めてくれる。最近は受講生が少ないせいか、かつては悪評しか聞かなかった自動車学校の教官もお世辞をいうようになった。それに元気づけられて何とかここまで続けてこられたようなものだと彼は苦笑する。

二年前、病弱だった妻が呆気なく他界して以来、寡をかこつ歳でもあるまいと執拗に再婚を勧められたが、今更という思いもあって彼は独り身を通してきた。独立していった子供たちからは、それならば何か打ち込むべき趣味を持てと習い事を始めさせられたものだが、なに一つ実を結ばなかった。自動車学校もその中の一つだったが、何故かこれだけは細々と続いている。

めずらしく今日は午後のスケジュールに穴があいた。出先は学校に近かった。彼は会社へ電話をして今日は戻らないと告げた。

午後も間もない自動車学校は学生と中年の主婦で賑わっていた。受講申告のコンピュータにカードを差し込み必要事項をインプットすると、デスプレーは待ち時間四十分と表示した。四十分なら待てない時間じゃない。予約のキーを押すと機械がレシートのようなカードを吐き出した。

ロビーのソファはどこも塞がっていた。若い女が腰掛けた両側の椅子をバッグや教本で埋めている。荷物を除けて欲しいとでもいうものなら、痴漢でも見るような目で睨まれるのがおちだ。彼はほかの空席を探した。

隅の喫茶コーナーに空いたスツールが二、三見えた。腰を降ろし、彼はホットコーヒーをオーダーした。機械で淹れるコーヒーは待つ間もなく出てきた。

壁際のスツールにひっそりと教本に見入る女がいた。彼は、この雑駁な雰囲気に全く馴染まないものを見たと思った。

女は白い麻のサマードレスに光沢のある幅広の白いベルトでウエストの細さを際立たせていた。脇につば広の白い帽子、その上にちょこんと品のいい水色のサングラスが載っている。胸元をターキッシュブルーの小さな石を連ねたネックレスで飾り、全体を爽やかにまとめている。一見して知的で育ちのいい良家の奥様といった風情だ。

露骨にならぬように、それでも注意深く彼は女を観察した。彼女の唇がかすかに動き、聞き取れないほど小さな声で教本を読んでいた。おっとりとして涼やかなこの女のどこかに、思わずふっと笑みを誘う可愛いらしい茶目っ気が潜んでいるに違いないと彼は思った。

突然女が顔を上げた。真正面に敬三の視線があった。音読の声が聞こえたと思ったのか女は頬を赤く染めた。首をすくめ、照れて小さく笑うと再び教本に視線を落とした。しかし、どう見たって文章が頭に入っている風ではない。

「ごめんなさい。勉強の邪魔をしてしまったようですね。しかし、どうかお気になさらずに。私も声を出して読む癖があるんですよ。よく若い者に笑われますがね」とりなすように彼がいった。

「あら、男の方でも声を出して読む方がいらっしゃるのですか?私は熱中するといつの間にか音読しているのです」

「いやァ、私も同じです。周りに人がいないとつい音読しているんですね。誰かが側に来ても気づかずに声を出しているものだから、いつも若い者に笑われていますよ」うきうきと、敬三は自分の癖を多少オーバーに話した。

「ソノダヨウコさん。二十五号車へどうぞ」

スピーカーが告げ、彼女が席を立った。

「ソノダヨウコさんとおっしゃるのですね。私は内田敬三といいます。どういう字を書くのですか?」

「田園の葉っぱの子です」

「え?あァ、分かりました」

彼女は教習コースへ続く廊下を進んで行った。女性にしてはやや背丈が高い方だ。細いウエストと形のいい長い足、それに中年らしくやや丸みを帯びた体の線がとてもセクシーに見える。小さな頭がリズミカルに揺れ、彼女は涼しげな笑顔を浮かべてちらりと彼を振り返った。


五日後、出勤前に敬三は印鑑証明をとりに市役所に立ち寄った。

湿度が低く、真夏というのに爽やかな朝だった。いつもの出勤時間より多少遅く、彼は異なる道筋を駅へ向かっていた。周囲には出勤を急ぐ慌しい人波があった。こんな爽やかな朝、自発的というでもなくほとんど習性的に職場へ向かう自分を含む人間というものに、彼はいい様のない虚しさを感じた。そして、改札口へ向かう彼の足は重い鉛でも引き摺るように、いつの間にか群集の中に停まっていた。

奇異な感覚だった。五十歳を超えた今日まで、仕事こそ天命と信じ彼は微塵も疑うことがなかった。生甲斐とか面白いとかいうのではなく、彼にとって仕事とは正に為すべき全てだったはずだ。同業他社が土曜日を全休にした時も彼は月一の土休に不足を感じなかったし、幹部社員として何の手当もつかない残業や休日出勤にも不満はなかった。

その敬三が、こんな日には仕事以外にやるべき何かがあるのではないかと感じ、出勤の足を停めたのである。それは、彼にとって内から湧き上がった異変、或いは精神革命といっても過言ではない出来事だった。

彼はベンチに腰を降ろし、タバコに火を点けた。改めて見ると、目の前を駅へ急ぐ人間の群は、まるでアリの行進のように悲しく、滑稽で、画一的だった。一人一人が個というものを持たないから、群は一匹の生き物のように、ただ長い連なりとなって彼の前を過ぎていった。

彼は近くの公衆電話の受話器をとった。

「あァ、内田だ。今日は欠勤する。役員会?いいって。総務に内田は急用で欠席と伝えてくれ。それから、印鑑証明は明日届けると・・・

いや、病気ではない。抜き差しならない用ができただけだ。それじゃ、頼むよ」

彼の胸の内に見たこともない新鮮な風景が拡がっていた。それは頼りないほど自由でカラリとした心象風景だった。

さて、何をしよう、と彼は思った。日常の縛めを解いてみると、彼は心細ささえ感じていた。しかも自分に何が出来、いま何をしたいのかが分からない。学校をさぼって街をぶらついた子供の頃の方が、まだ自由に対応できる自分というものがあったなと彼は苦く笑った。

周囲を見回すとロータリーに自動車学校の送迎バスが停まっていた。彼は迷うことなくそれに乗り込んだ。車内では数人の主婦がかしましく世間話に興じていた。

まだ朝が早いせいか、待ち時間もなく講習を受けることができた。彼は、いつもよりゆったりとした気分で車を走らせた。

仮想の踏切で一時停止してふと前を見ると、前方で交差するコースを通り過ぎる葉子が見えた。何かしきりと教官の指示をうけているらしく緊張の面持ちだった。彼が車庫入れにトライしている時は、彼女の車はS字カーブで片方の車輪が路肩を越えて立ち往生していた。

その日のカリキュラムを終え、敬三は喫茶コーナーのスツールに腰を降ろしてコーヒーをオーダーした。見ると、葉子が汗を拭きながら車を降りてくるところだった。彼女がロビーに差し掛かる時、彼は手を上げて合図をした。彼女はすぐに気づいて上気した顔に笑みを浮かべた。手招きすると、彼女は精根尽き果てたといった様子で喫茶コーナーへやって来た。

「大分苦労していたようですね。何度かコースで会いましたよ。お気づきでしたか?」

「とんでもありません。緊張で目の前のコースさえ見えない状態ですもの、他の車など目に入るものですか」

「おー怖い。今度あなたの車が見えたら物陰に避難することにしましょう」

「まあ、いじわるをおっしゃるのね」

二人は教程を終えた解放感で明るく笑い合った。


送迎バスに乗るつもりで二人は学校の建物を出た。ちょうどその時、門の前で客を降ろすタクシーが見えた。

「これから何かご予定がありますか?」と敬三が尋ねた。

「いいえ、特には・・・」彼女がいった。

「行きましょう」そういって葉子を促し、彼は客を降ろしたばかりのタクシーへ突進した。

「とりあえず鎌倉市内へ向かってくれ」運転手にそういうと、彼は呆気にとられている葉子に尋ねた。

「どこへ行きましょうか?」

「なんだか誘拐されたみたい。気がついたら訳も分からず私までタクシーに乗っているのですもの」瞬発的な彼の行動とペースに巻き込まれた自分に驚きながら、彼女はそれが愉快でたまらないといった口調でいった。

「さあ、どこといって思い当たる所もありませんわ。お任せいたします」

「申し訳ない。私は時々こういう身勝手をやるようだ。以後気をつけます。ところで、身勝手ついでに夕方までお時間をいただけたら嬉しいのですが。如何でしょう」

「もう乗りかかった舟、いいえ、乗りかかったタクシーですもの。どうぞご随意に」

「それはありがたい。それじゃあ運転手さん、逗子マリーナへやってください」

敬三は、自分の中にまるで手練のプレイボーイのような素養があったのかと驚いた。いやいや、これはものの弾みというものだ。そう思いながらも、彼はこの胸おどる展開に有頂天になっていた。


抗う間もなくとんとん拍子に運ばれて行くこの快適なテンポに覚えがあると葉子は思った。そう、あれは都内の女学校に通っていた頃のこと、夏休みにテニス部の合宿で軽井沢へ行った時のことだ。

皇太子と正田美智子さんの出会いが、軽井沢にテニスブームを呼んでいた。

葉子は、混雑するコートサイドから自分を見つめる視線を感じていた。嫌な気はしなかったが、視線の主を確認する積極性もなかった。

或る日、大学の付属女子高校との練習試合が行われた。奮戦したが、葉子は僅差で試合に敗れた。肩を落としてコートを去る彼女に真新しい白いスポーツタオルが飛んできた。反射的にそれを受け、彼女はタオルを放った顔を探した。それは試合相手の高校が付属する大学テニス部の男子学生だった。勿論面識はなかったが、彼女は、あの視線が彼のものに違いないという確信があった。

「驚かしたかな?汗を拭くといい」と彼がいった。そして、あたかも以前から面識があるかのように、

「反応がいいのに球についてゆけないのは、もっと走りこみが必要だということだ。神経の反応が体の反射運動になるようにトレーニングすれば、きみは素晴らしい選手になれる。僕は毎朝五キロ走ることにしているんだ。よければいっしょに走ろうよ。明朝六時、このコートで待っているよ」そういって彼は去って行った。

ランニングが必要だと、彼女は前から思っていた。正にそんなタイミングだった。しかも、気がついてみればタオルはまだ彼女の手の中にあった。タオルを返さなくては・・・彼女は誘われるままに何日間かいっしょに走った。

合宿が打ち上げになり帰京する前日は一日がフリーだった。彼女がそう告げると、彼はその日を浅間山のハイキングに当てた。全ての準備は彼が整えてくれたので、彼女はただついて行けばよかった。

快晴の空になだらかな山容が美しかった。頂上をきわめ遠い山並を見渡した時、二人はとても幸せな気分だった。流れる互いの汗がいい匂いだと思った。

「とても男らしい匂い」と彼女がいった。

「女らしい素敵な香りだよ」と彼がいった。

下山の折、火山灰に足をとられて彼女は軽く足首を捻った。さらに折悪しく夕立が襲い、二人は崩れかけた小屋に避難した。 

閃光が墨色の空を裂き、雨と雷鳴が小屋を打ち据えた。彼は葉子の足首を濡れたハンカチを当てて冷やしてくれた。二人は背中合わせのまま無言で座っていた。

雨がさらに激しさを増すと、小屋の中は屋根を打つ雨音に満たされた。その時、彼はくるりと体を巡らせると、あっという間に彼女の唇に接吻した。何故かそうすることがとても自然なことに思われ、彼女は彼のなすままに任せた。

ただそれだけだった。しかし、それは葉子にとって、彼女の青春の中でいちばん素敵でロマンチックな想い出だった。

今、あのときめきが繰り返されようとしていると彼女は思った。しかも、念のいったことに、彼女は敬三にあの学生の面影を見たような気がした。


窓の外のマリーナでは大小のヨットが妍を競い、南国風の街路樹が南フランスのような風景を描いている。ロゼのワインとシーフードのフランス料理が、そうした景色によくマッチした。二人は真に打ち解けて寛ぎ、青春の頃のような高揚感に充足していた。

さらに、互いの境遇が、それぞれの行動を拘束する状況にないということを確認して彼らを隔てる距離は急速に狭められていった。

「私の夢は、免許を取ったらクラシックなコンバーチブルのアストンマーチンかモーガンに乗ることなの」と彼女がいった。敬三はそれがどんな車なのか見当もつかなかったが、

「それは素敵だ。カーライフがただの利便性だけで考えられるのでは貧しすぎるもの。私はまだどんな車に乗るか決めていないけど」

「あなたならブリティッシュグリーンのモーガンが似合うと思うわ。ツイードのジャケットにアスコットタイ、ハンティングキャップを被ってパイプをくわえるの。そうしたら私、どんなドレスがいいかしら。ワァー、そんなドライブ旅行をしてみたい」

その言葉は敬三にかなりのショックを与えた。何がなんでもそのモーガンとやらを手に入れなければ、と彼は思った。そして、ツイードのジャケットを着た彼の隣に座る美しい花を想像した。


人間とは何と弱く気まぐれなものだろうと彼は思う。しっかりと自己管理して厳しく取り組めば何だって克服できそうなものだが、カリキュラムに縛られなければ運転免許の取得ひとつままならない。そればかりか、何やかやと理由を見つけては不得手なものを後送りしてしまう。敬三の自動車教習が正にそうだった。

ところが、逗子マリーナでのデート以来、彼は時間をやり繰りしては講習を受け、教官が驚くほどめきめきと運転技術を上達させていった。

会社では車に詳しい若い社員を集め、様々な知識を吸収した。モーガンという車はいまだにシャーシーに木材を使っていること、オーニングの雨漏りは当たり前と考えるべきこと、ボンネットには革のベルトが掛けられていること、運転の技術難度が極めて高い本格的スポーツカーであること、そして、受注生産なので納車までに三年近くを要することなどを知った。

敬三はひそかにディーラーを呼んだ。三年はかからないが、納車まで一年は覚悟して欲しいといわれ、彼は急いで契約書を作成した。革張りのシートはクリーム色、車体はブリティッシュグリーンと指定して。

「運転がとてもデリケートな車です。失礼ですが免許取立てで簡単に転がせる車ではありません。新車に乗られる前に、一年間、中古のモーガンで練習されては如何なものでしょう。リースでお世話いたします」


ついに免許証交付の日が来た。

ディーラーは二俣川試験場の門前に中古車とはいえピカピカのモーガンを乗りつけて敬三を出迎えた。衆目の淫するばかりの注視の中、彼は大いに照れながらも昂然と胸を張って助手席に乗り込んだ。自分が運転をして葉子を隣に乗せることになれば、こんな視線を気にしてはいられないのだと自らを鼓舞しながら。

それにしても何と目立つ車なんだ。思わず彼は嘆息した。これに乗る葉子の夢とやらは一体どんな形をしているのだろう。若しかすると、御者を従えた二頭立ての馬車とオーバーラップしているのかもしれない。

本村インターで保土ヶ谷バイパスに乗り、直結する横浜・横須賀道路を経て日野インターから鎌倉街道に出る。ディーラーの運転するモーガンは敬三を乗せて自動車学校へやって来た。彼は学校に交渉して教習コースを走らせてもらった。

「何とかなりそうだ」と彼はディーラーの男にいった。

「本当に大丈夫ですか?当分は学校で習った通りに慎重運転してくださいよ。当てたり擦ったりは保険でカバーしますからご心配は無用です」そういい残してディーラーは帰っていった。

「買ったの?」素っ頓狂な声が彼を背後から襲った。上気した顔の葉子が立っていた。彼は納期までのリースである事情を説明し、

「乗っていくかい?」といった。

「当然よ。私がリコメンドした車ですもの。あっ、そうか。今日は免許証の交付日だったんだ。それではキミ、免許証を拝見!」

彼女はおどけた調子でいって手を差し出し、彼はその手に免許証を渡した。

「おめでとう。車もあなたもとても素敵よ」と彼女がいった。

教習で走ったことはあったのに、自分で運転する公道がこんなにも困難なものとは思わなかった。彼は、運転に集中すると口が利けなくなったし、ものをいおうとすると運転が全くおろそかになった。冷や汗を拭いながら隣を見ると、葉子は完全にリラックスしている。そればかりか、この恐ろしく目立つ車に乗って些かも気後れしている様子もない。彼女は、満面に笑みを浮かべて彼にウインクしてみせた。


やがて葉子も免許証を取得した。二人はモーガンを駆って度々ドライブに出掛けた。

彼女の運転は見かけによらず大胆で、時には乱暴でさえあった。加えて未熟さがありありとしているのに、彼女自身にはそういう認識は全くないらしい。

ドライブは決まって日帰りだった。

敬三は、リースではなく、本当の自分の車を手にするまで彼女との一線を越える旅行に出掛けようとはしなかった。そんなこだわりを彼女はひそかにじれったく物足りないと思った。

葉子の夫は大手商社の海外駐在員で、ローマに大きなアパートメントを構えていた。夫が日本に滞在するのは、一年間にせいぜい一ヶ月程度だった。そんな折にもイタリア語の女文字の手紙が舞い込んだ。それが彼の現地妻であろうことは容易に知れたが、いい立てても詮ないことに思えた。それでも、ある時、些細な口論の末そのことを詰ると、夫は、

「おまえだって、留守中適当にやっているんだろう。お互い、遠慮することないと思うよ」といった。その時から、彼女はその男を夫と思うことを止めたのだと語った。

「もう十二年も昔の話。だからもう、私たち、夫婦じゃないの。それでもあなたに会うまで、男の方とこんな風に親しくしたことはなかったわ。

でも、考えてみれば馬鹿馬鹿しいことだと気がついたの。周りの目や因習に囚われている間に、私の人生の半分が過ぎてしまった。誰も取り返してくれないわ。私の夢や悔いのない人生、私の命が燃え上がり、私が輝いて見えるそんな生き方は自分で手にしなくてはいけない。素敵な誰かが私の目の前を通り過ぎようとしたら見送ってはいけない。だって、対象もなく自分一人で命を燃え上がらせることなんて出来ないもの。だから、私はあなたに出会えて幸せだと思っているわ。

でも、あなたは半分しか燃え上がらせてくれないし、私は本当には輝けない。ねえ、何故?」納車まで後二ヵ月の頃、伊豆のドライブの帰りが深夜に差し掛かった折、彼女はそういって彼を問い詰めた。

「ある種、ぼくの個人的なこだわりだ。ぼくは我を忘れてきみを抱きたいと思う。しかし、ぼくらの結びつきであるモーガンが借り物では、きみまでが借り物みたいに思えることが嫌なんだ。もう僅か二ヵ月じゃないか。そうしたら、ぼくは、きみが思う以上にきみを占有することになるだろう。その時になって音を上げないように今から覚悟をして欲しい」そういって、彼は葉子の唇にクールなキスをした。彼女は、その夜の失望と二ヵ月先の期待の狭間で熱い吐息をもらした。


納車の日、二人は想い出の逗子マリーナに赴き、ドンペリのピンクシャンパンでモーガンの到来を祝った。

「きみにプレゼントがある」といって、彼は書類封筒とリボンの掛かった小さな包みを彼女に渡した。

「何かしら?」呟きながら、彼女は包みのリボンを解いた。それは、プラチナ台に周囲をダイヤで飾ったサファイアの指輪だった。

「まァ」葉子は小さく歓声を上げた。彼女の左手を取り、彼はそれを薬指にはめてやった。葉子の瞳が輝き、潤むように瞬いた。

書類封筒からは車検証が出てきた。訝しげに、彼女はそれに目を通した。そして、その視線が或る一点で凍りついてしまった。

「まァ、あなた、これは・・・」彼女は驚きの眼差しで口篭った。

「モーガンはもともときみの夢だ。この車はきみのものさ」

彼女の唇は何かいおうとしていたが、言葉は出てこなかった。敬三の心尽くしにすっぽりと包まれて彼女は幸せだった。

彼は、シャンパングラスの向こうで輝いている女を満ち足りた思いで眺めていた。それは、人間とは、心の在りようでこれほどまで美しくなれるものかと彼を感動させた。

夜更けて、伊豆へ向かう湘南海岸の道をひた走る一台の車があった。深まる秋の夜寒もいとわぬブリティッシュグリーンのオープンカーからは、青春を謳歌する若者の歓声が響いていた。

[完]


■一九九二年夏制作

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