■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[トンガ(Tonga)]続き

***

翌朝、僕らは[禅]をネイアフのカスタムスの桟橋に着けた。本船用の桟橋だから、デッキに立って僕の目の高さが地面だ。カスタムスは、梯子を降ろして[禅]に乗船して来た。

税関のオフィサーが、タバコは何個積んでいるかと尋ねた。規定内の数量だったから、僕は手持ちのタバコをカスタムスの目の前に並べて見せた。そうしたら、その中の一個を黙ってポケットに入れてしまった。唖然としたが、彼らは入国を拒否する権限を持っている。タバコ一つで行き場を失いたくなかったから、僕は肚に据えかねたが我慢することにした。

次に検疫のオフィサーが乗船して来た。野菜や果物、タイヤに泥がついた自転車、ウッドカーヴィング(木製の工芸品)、採集した貝などを搭載していないかと尋ねた。貝類は、この先のニュージーランドへの持ち込みが難しいと聞いていたので、サモアでパッケージングしてアメリカのスミコの家に郵送してしまった。他のものは何も積んでいない。

さらに、オフィサーがソフトドリンクは?と尋ねた。何種類かは積んでいると答えると出して見せろという。コーラやスプライト、ピーチのネクターなどを彼の前に並べた。そうしたら、ネクターを手にとってプルトップを開け、平然と飲んでしまった。

その余りにも当たり前という仕種に、文句をいう意欲も失ってしまった。後進国ほど官憲が威張っていて、権力を笠に着て横暴を働くものだ。逆らっても無駄と判断し、僕らは顔を見交わすしか術がなかった。

釈然としなかったが、一応、入国手続きは終わった。僕らは上陸してチャーター・ヨットのムァリング社を訪れ、ブイを借りた。そして、既に碇泊していた[シーレーブン]の隣りに[禅]を移動した。

[シーレーブン]は留守だった。暫くして、ジェリーとビヴィアンが戻って来て隣りに[禅]を見つけ、オーバーなほどに大喜びしてくれた。

彼らは、ライアテアを出航してニウエ島(Niue Is.)に立ち寄ったそうだ。いい停泊地がなくて苦労したけど、とても美しく、人々が心優しい島だったといった。

夕食もジェリー、ビヴィアンと共に、ムァリング社の崖下にあるマーメードという素朴なレストランで楽しんだ。

マーメードでは何人もの旧知のヨッティーに出会い、積もる話に時を過ごした。その中に、サン・ディェゴのミッションベイ・マリーナで暫くいっしょだった[ミスチーフ]のプルーとケンがいた。彼らは、アメリカでヤマハの35fを買い取り、内装を徹底的に改造していた。時々、訪ねてみると、彼らは、仕事の成果を誇らしげに僕に見せてくれた。

その後、[ミスチーフ]はメキシコへ旅立って行ったので、この邂逅は半年振りということになる。ジェリーとビヴィアンを含め、それぞれの旅の話が夜の更けるまで続いた。

プルーは、僕が描いたタイオハエのケイハハヌイ・インのログ・ブックを見ていた。それに、モーレアなどで僕が催した書道のデモンストレーションのことも耳にしていた。それで、プルーは、[ミスチーフ]という彼らの船名を漢字で書いて欲しいといった。

ミスチーフとは、いたずらっ子というほどの意味なので、スミコは『戯』という文字はどうかと提案した。僕はそれを色紙に書いて、数日後、彼らが出航して行く間際に渡した。彼らは、とても喜んでくれた。

バヴァウ諸島には、ムァリング社が推奨する四十二箇所ほどのアンカレッジがある。ライアテア同様、ムァリング社では独自のチャートを刊行していて、それらのアンカレッジが全て番号で記載れている。さらに、アンカレッジごとに、日中のみ碇泊可とか、オーバーナイト碇泊も安全とか、さらに、この島にはいいレストランがあって、美味しいパンが買えるなどという情報も豊富だ。だから、チャーター客のみならず、全てのヨッティーがこのチャートをバヴァウ・クルージングの手引きとして利用していた。

特に便利だったのは、泊地の番号だった。僕らが初めてバヴァウに着いた時碇泊したカパ島の入江、マウレレ・ベイは七番で、その後、五番、十五番、十六番、十三番などのアンカレッジを渡り歩いた。他のヨットたちも、今日は十一番へ行くとか、八番で会おうとかやっていた。この辺りの地名は、どれもこれも似かよっていて分かりにくい。泊地を番号で呼ぶムァリング社のチャートは簡便で、僕らのクルージングにとても役に立った。

クニさんが、現地人の友達にお願いして、トンガ風の子豚の丸焼きディナー・パーティーを催すと知らせてくれた。会場のヴィレッジは十一番のビーチだったが、もう夕方も近かったからヨットを回航することが出来ず、僕らはタクシーで出掛けた。

ビーチでは、すでに馨くんと碧ちゃんが、木の枝の棒を通した二頭の子豚を焚き火の上にかざし、ぐるぐる回していた。

馨くんに尋ねると、現地人の友人と朝から山に入って薪を拾い集め、豚を飼っている家を訪ね、子豚を売って欲しいと交渉して歩いたそうだ。

話がまとまると、飼い主は、豚を呼び集める『マー、マー』という叫び声を上げて豚を呼ぶ。碧ちゃんも馨くんも手に小石を隠し持ち、手頃な子豚に石を中ててしとめるのだそうだ。その後、腹を開いて内臓を出し、渚で石を擦りつけてきれいに毛を取り除く。

そんな話を聞くと、いま焚き火にかざしてぐるぐる回し、油を滴らせていい匂いを漂わせている子豚が、原始宗教の生贄みたいに感じ、僕はとても食物とは思えなくなってしまった。

でも、これを僕らが残酷と評することは、現地の人々への不当な非難だ。本当は、文明社会でもこれと同じ事が、僕らが見えない場所で機械的に行われているだけではないか。食物連鎖といえば大袈裟だが、少なくとも、食物がどういう過程を経て僕らの食卓へ届くかを端的に、隠蔽することなく見せてくれていると理解すべきだろう。

碧ちゃんも現地の数人の子供たちといっしょにその一部始終の作業を行ったと聞いて、彼女の精神的なタフネスに僕は感じ入ってしまった。そして、日本の子供たちには絶対に出来ない経験をしたことに、ちょっと風変わりな羨望を感じたものだ。

日が暮れて、ベイに碇泊するヨッティーたちが集会所のような建物に集まって来た。いよいよパーティーの始まりだ。

クニさんは、現地人の友人に、家族を連れておいでといったそうだ。その家族が壁際に蹲るように並んでいた。それが何と三十人以上はいただろうか。

彼らの大家族制では、本人の妻子や両親、兄弟姉妹の家族、その親や同居する親戚などなど・・・ファミリーといえば最低でも二十人を軽く超えるものらしい。クニさんは、彼の家族は四、五人かと思っていたそうだ。

ヨッティーたちが、僕らを含めて二十人はいた。二頭の子豚は、総勢五十人の食欲を満たすには、余りにも少なすぎた。

現地の人々は、豚を飼っていても、自分たちが食べる機会は皆無に等しいそうだ。彼らは、ヨッティーたちが食卓に群れて子豚の肉を取り分ける様を、壁際からじっと見ていた。

僕は、子豚が食べ尽くされてしまうと思った。現地の人々に、食卓へ行ってそれぞれの分を取り分けるようにと促した。しかし、子供も大人も、食卓に白人たちが群れている間は、誰一人テーブルに近づこうとはしなかった。

やっとテーブルに人影がまばらになる頃は、肉といえる部分はほとんど食べ尽くされていた。僕は、さらに彼らを促した。一人、二人と食卓に歩み寄ると、たちまち三十人ほどのファミリーがテーブルを囲んだ。本当に粗末な残り肉とその他の料理を皿に盛り分け、彼らが再び壁際へ戻って食べ始めた頃には、食卓には、正に子豚の骨と空のお皿だけが残っていた。

結局、スミコも僕も何一つ食べなかった。ヨッティーたちが派手に肉を取り分けている間、ローカルの子供たちが瞳に諦めの翳を漂わせてそれを見ていた。そんな情景を眺めてしまっては、僕らは、一口だって食べる気にはならなかった。

パーティーが終わって艇に戻ると、僕らはインスタント・ラーメンを拵えて食べ、空腹を満たした。

国際電話は、電話局へ行って申し込む。回線が空けば繋がるのだけど、その待ち時間が十分なのか五時間なのか、申し込んでみなければ分からない。場合によっては、電話局の営業時間が終わってしまい、また明日出掛けて行って申し込むということもあるとか。

僕が日本への電話を申し込んだ時は三十分で繋がった。係の人が、申込書に書いた僕の名前を呼ぶ。僕が答えると、二番のボックスへ入るようにと命令口調でいった。そこには三十年ほど昔の黒い電話機があった。受話器を耳に当てると、いま呼び出しているから受話器を置くようにと横柄な声がいった。暫くすると、ベルがなった。手続きも態度もひどく勿体振っていたから、さらに何かの儀式でも執り行われるかと思ったが、受話器からは普通の日本語が聞こえてきた。入国手続きでもそうだったが、官民を問わず、何か大衆を相手にする役職につくと、トンガの人々は急に横柄になり職権を笠に着る傾向があるようだ。

電話が終わって、郵便局へ向かった。トンガといえば、あの見事な切手が有名だ。

僕は期待感でわくわくしながら、窓口で美しい切手を見せて欲しいといった。そうしたら、何かのシールみたいなちゃちなものを出して見せた。こんなのじゃなく、美術品のような切手が見たいのだというと、ああいうものは行政改革以降、廃止されたといった。

これといって観光資源もないトンガで、豪華な切手を粗末なシールにすることが、どうして行政改革なのか、僕は首を傾げてしまった。

いろんな島を渡り歩いてきて、僕らもローカルとの付き合い方を身につけてきた。単に、ギフトショップの店員と表面的な話をするのではなく、その人の家にまで出掛けて行って、彼らの生活に短い時間でも浸ってみる。そういう付き合いは、観光では得られない現地の生活感を理解させてくれるものだ。

そんな中で、或る教会関係の婦人と行き来するようになった。彼女は、島では子供の衣服が欠乏しているといっていた。

[独尊]には碧ちゃんが着古した子供服がたくさんあったから、ノビさん、倫子さん、それにスミコと碧ちゃんが、僕らの不要になった衣服といっしょに、段ボール函いっぱい持って行った。とても喜ばれて、僕らも満足したが、後で別の婦人が来て、彼女は教会には関係なく、あの子供服は誰かに高く売りつけるのだといった。

僕らは、ちょっと厭な気がしたが、そうしたいざこざに巻き込まれるのだけは御免だ。僕らは、自分たちが出来る善意を行った。それから先のことは、島の人々の領域だ。海から見ると、陸には、人間を疲弊させるしがらみがあり過ぎるようだ。

そんな日々を過ごしているうちに十月十日になった。僕らは、次の寄港地に向かわなければならなかった。

ムァリング社へ行って、チェックアウトをしていたら、僕宛のファックスがあった。

以前から喉頭癌で闘病中だった末弟の雅之が昨夜死去したという知らせだった。はじめは事情が飲み込めず、何度も読み直していたが、文意が伝わるにつれ体中の力が抜けていった。

バヴァウ・グループのネイアフに[禅]を置いて一時帰国なんて出来ない相談だった。ストームでも襲って来たら船の安全は全く保証出来ないし、船に残るスミコの安全だって同様だった。

それに、帰国するためには、週に二便ほどの船便を捕まえてフィジーか、首都のヌクアロハまで行かなくては日本へ向かう飛行機に乗れない。船は明後日まで便がないし、船旅は二日もかかる。さらに、フィジーですぐ航空券が入手出来るという保証もない。急いでここを出発しても、下手をすると日本に着くのが一週間後ということになる。それでは葬儀に間に合わないし、帰国する意味もない。

僕は思案に暮れながら、取り敢えずファックスで次弟の希光宛に弔意を送った。そして、葬儀にはどうしても間に合わないし、船を置いての帰国が不可能な状況をしたためた。しかし、後日、確かめてみると、そのファックスさえも希光には届いていなかった。

通信や交通手段が極度に不整備な場所でこういう緊急事態に立ち至ってみると、僕らは手も足も出なくなってしまう。僕らの生活とは、如何に危なげな機能のバランスの上に成り立っているかというということを、この出来事は痛いほど感じさせてくれた。

僕は、[禅]に戻って、次の寄港地の十五番へ向かった。静かな入江に錨を打ち、夜、月が銀色の帯を延べる海に向かって、一本の線香と般若心経を手向け、弟に対する僕だけの葬儀を終えた。

その後、十六番、十三番などの泊地を巡り、十月十五日、[4・4・II]、[独尊]、そして[禅]の船団はバヴァウ・グループを後にしてハーパイ・グループ(Haapai Group)へと向かった。

トンガの島々は、北のニウエトプタプ辺りから南西のトンガタプ・グループへと続き、それらは活発な火山列脈上に散在する。島々の土台になっている海台は、水深がせいぜい200メートル前後だが、海台を外れると周囲は急に5000メートル級の深海へと落ち込む。こういう地形が潮流や波、気象に与える影響は計り知れない。

しかも、チャートにも特記されているとおり、火山活動が現在でも非常に活発で、火山列脈上では先月あった島が海中に沈下したり、忽然と島が出来たりする。僕らが航行する航路は、深海から吹き上がって海台を洗う潮流に加え、突起やら窪みやらの複雑な海底地形が影響して猛烈に波が悪かった。

気象が穏やかなら別かも知れないが、僕らが南下を始めた時はフィジーの西にサイクロン崩れの熱帯低気圧があって、強烈な南東風が吹き荒れていた。海面は、まるでモーグルのゲレンデのように凸凹で、クルージングという言葉が予感させる楽しさなんか微塵もなかった。

夜を徹し、湿度が高く寒い時化の海を走り、翌朝、僕らはハーパイ・グループのリフカに着いた。

航路誌には、リフカの内港は安全な泊地とあったが、狭く、浅く、しかも多くの船が出入してとても安全な港なんかじゃなかった。仕方なく、僕らはコーラル・ヘッドだらけのベイにアンカーを打った。吹きさらしの不安な泊地だったが、昨夜からの疲れがどっと出て、僕は日中から寝込んでしまった。

月光をまともに顔に受けて、午前一時に目が醒めた。体調は随分よくなっていた。デッキに出てみると、風は収まり、昼間のように明るい満月が、リフカの港と黒々とした島影、そして沖のリーフに砕ける真っ白な怒涛の風景を幻想的な趣で見せていた。

****

僕らは、リフカの次にウオレヴァを経てウイハ(Uiha Is.)へ向かった。ハーパイ・グループの島々は、火山島ではなく珊瑚砂の島が多い。美しいビーチにそびえる椰子の木立や背景の椰子の林、飛び交う南国の海鳥などを眺めていると、スヴァロフを彷彿とさせる。

クニさんに促されて、僕らはウイハに上陸した。たちまち子供たちが集まって来て僕らを取り囲んだ。大きな子は「マロエ・レレイ」と挨拶するが、小さな子たちは「What's your name?」が挨拶らしい。何十人もの子供たちが、口々に「What's your name?」を連発する。そういえば、ネイアフでは、「どこへ行くの?」が子供たちの挨拶だった。

豚の糞だらけの道を歩いて行くと、道は必ずどこかの家に通じて行き止まりになる。或る家では、近所の女性たちが集まって、花嫁に持たせる豪華で美しい敷物を織っているのを見学した。散歩はさらに続いたが、子供たちは僕ら一人々々に七、八人で取り囲み、一挙手一投足を観察している。碧ちゃんも例外ではなかった。同い年ほどの子供たちに取り囲まれた彼女の顔は、困惑と緊張で引きつっていた。

クニさんが、料理が美味しいゲストハウスを見つけてきた。僕らは早速予約をして、夕方から出掛けて行った。

食事までの時間、真正面の水平線に沈む夕陽に歓声を上げたり、長閑なヴィレッジの佇まいを楽しんだりして過ごした。

さて、待ちかねたディナーの時間になった。料理は、魚、貝、蛸、マンゴー、バナナなどをココナツ・ミルクを使って調理した素朴なトンガ料理だったが、噂に違わずとても美味しかった。とっぷりと暮れた海辺の差し掛け小屋を涼風が吹きぬけ、沖には、ヨットのアンカー・ライトが揺れていた。バッフェ・スタイルの料理を賞味しながら、僕らは、満ち足りた時間を心ゆくまで楽しんだ。

ゲストハウスには何人かの泊り客がいて、その中に、二歳の男の子を連れた日本人の若い女性がいた。

首都のヌクアロハ(Nukualofa)へだって、そう多くの日本人は来ない。まして、ちっぽけな船の便が週に一、二本しかないウイハへ来る日本人なんぞ皆無といってもいい。そんな所へ小さな子供を連れた若い女性が来て、しかも長期にわたって滞在していた。

何か訳ありで、抱えきれないほどの悩みを背負っているのだろうということが察しられた。誰もが、彼女と当り障りのない話をしていたが、こんな所まで来た理由のようなものは、ついに分からなかった。

雨と強風の日々が続いていた。

南緯十度、東経一七五度辺りに停滞していた低気圧が、僕の危惧していたとおり熱帯低気圧に発達した。もう十一月も目の前だ。そろそろサイクロン・シーズンだから、小さな低気圧でも勢いのあるものは侮れない。

十月二十六日、僕らは、トンガタプへの中継点としてハアフェヴァ島(Haafeva Is.)へ移動した。バリアリーフに囲まれているとはいえ、北側のパスから打ち込むうねりで、泊地として快適ではなかった。

強風の真夜中、碇泊していた[アンタレス]といアメリカのヨットが走錨した。コーラル・ヘッドだらけの真っ暗闇の荒れた海面を、[アンタレス]はアンカー・ポイントを探して彷徨っていた。彼らの不安な気持ちを思うと、僕はとても他人事とは思えなかった。

そんなことがみんなの気持ちを急かすのか、翌二十七日、僕らはトンガタプへ急ごうということになった。

[キスメット]というアメリカのヨットがトンガ海域にいて、衛星電話で得た気象予報を多くのヨットに提供して喜ばれていた。その[キスメット]が、『トラフが再び活発化し、南東三十ノットの風が吹く』と通報した。僕らは、出航すべきかどうか思案していたら、間もなく訂正が入り、『東、または南東の風十五ノット』といった。僕らは躊躇うことなく出航に踏み切った。

僕らは、トンガタプへの最後の中継点として、途中のノムカ・グループ(Nomuka Group)を目指した。ノムカまで行くと、トンガタプはデイセーリングで行ける距離になる。

十一時抜錨。小島を縫うように南下を始めて二時間もすると、予報に反し風は二十五〜三十ノットに吹き募ってきた。トンガ海台で二十五ノット以上の向かい風が吹くと、航海は地獄の様相を見せる。潮と波と風が、それぞれ別な方向へ力を及ぼし、艇は苦しげに軋んだ。しかし、戻ったって安全という保証はないのだから、出航したからには行くしかない。不安な思いのまま、僕らはひた走った。

ノムカ島とノムカイキ島の間の海峡に投錨したのは、もう夕方だった。風はさらに勢いを増し、狭い水路に収斂した風は凶悪だった。それに加え、海峡に流れ込む潮は、まるで河のように早かった。

アンカーが持つだろうか?

僕は、アンカーのホールディングを最大にするため、六十メートルのチェーンを全て出していった。その時、物凄いブローがきた。風圧で艇が押され、折り悪く手で持っていたチェーンが支え切れなくなった。鉄の塊みたいなチェーンが猛烈な勢いで流れ出した。手で掴んで止めることなど到底出来ない。デッキシューズを履いていたことが幸いした。靴で走るチェーンを踏みつけ、勢いが衰えたところを手で掴まえた。しかし、惰性がついた艇の流れは、僕がチェーンを握る力を超えていた。

チェーンの端末はフォルクスのバルクヘッドのアイにロープで括りつけてある。この勢いでチェーンが全部流れ出せばバルクヘッドが破壊され、下手をするとバウデッキさえも突き破られるかも知れない。その上で、さらにアンカーもチェーンも失ってしまう。

僕は必死でチェーンを握りしめた。チェーンの流出は止まったが、それを握りしめる僕自身がずるずると引き摺られた。バウのパルピットに体が押し付けられ、顔にフォアステイが食い込んでくる。手の骨が砕けるのは時間の問題だと思った。

僕は、大声でスミコを呼んだ。強風が僕の声を吹き飛ばし、彼女には届かないらしい。さらに僕は叫んだ。何度も叫び続けていると、疲れ果ててうたた寝をしていたらしいスミコが寝ぼけまなこで現れた。

僕は彼女をバウヘ呼び、チェーンの根元側で弛んだ部分をウインドラス(揚錨機)の歯車に掛けるようにといった。しっかりチェーンが歯車に噛み、ストッパーが掛かっていることを確認して、僕はチェーンを離した。骨に異常はなかったが、手は擦りむけ、顔にはフォアステイに抉られた傷が残っていた。

ノムカは僕にとって地獄だった。しかし、他のヨットも、この海況を脅威と感じたらしく、各艇が呼びかけ合ってVHFで航行計画を相談した。結果、日の出寸前の午前四時にノムカを離脱することに決まった。

午前四時。碇泊艇六艘がアンカーを揚げ始めた。そして、仄かに黎明の兆す荒れ狂う海峡を、一艘、また一艘、明滅する灯台を迂回してトンガタプへと出航して行った。


*****

十月二十九日。ノムカを離脱し、二時間ほどして日が昇った。それが合図のように風は徐々に穏やかになり、雲の切れ目も見え出した。海は移り気な女のように、さっきまでの狂気じみた灰色の混沌を、何食わぬ顔で輝くコバルトブルーに塗り替えていった。

ニュージーランドへの長途を残しているとはいえ、トンガタプ(Tongatapu Group)のヌクアロハ(Nukualofa)に着けば一息つける。トンガでの最終レグという励みで、僕らは二十五ノットのアビームをフルセールで走り切った。

ヌクアロハのボートハーバーは、旧知のヨットでいっぱいだった。港内では再び強風が吹き荒れていたが、前着のヨッティーたちのサポートで、[禅]は無事スターン・ツーの碇泊作業を終えた。

その夜、デッキを打つ雨音を聞きながら、僕は泥のように眠った。通奏低音のような雨音は身と心の痛手を柔らかく包んで癒してくれた。そんな音を聞きながら、僕は、虚空をどこまでも墜落してゆくような底知れぬ深い眠りに閉じ込められていった。

十月三十日。晴れて暑い日だった。

クニ、ノビ、片嶋ファミリー、そして僕ら七人は、朝からカスタムスやニュージーランド高等弁務官事務所、銀行、ポスト・オフィスなどを歩き回った。カスタムスは入国手続きのため、高等弁務官事務所はニュージーランドのヴィザ申請のためだ。全ての用件は順調に捗ったが、ヴィザは土日が挟まって十一月三日、月曜日に発給されるとのことだった。四日はトンガの祭日だったから、出国のクリアランスが出来ない。ニュージーランドへの出航は、自ずと五日以降ということになった。

天候は目まぐるしく変わっていた。特に、オーストラリアに発生した低気圧と前線が、三日の周期でニュージーランドへの航路を横切っていたし、南緯十五度辺りに連なる低気圧も、いつサイクロンに変わるか予測もつかない。実際、二日には、熱帯低気圧がサイクロンに発達し、出航したヨットが引き返して来た。

そういう気象状況だから、全てのヨッティーたちは、為す術もなく毎日をのんびりと船の修理や観光などに費やしていた。しかし、ニュージーランドへの長い航海を控え、出航のタイミングを伺っているせいで、誰の表情にもぴりぴりした緊張感が漂い、心から寛ぐということはなかった。

五日、水曜日、[4・4・II]、[独尊]、[禅]の三艇は、出国の手続きを完了した。 クニが得た最新情報によると、オーストラリアを通過中の前線が、週末頃に南緯二十五度海域を通過しゲールになるそうだ。今日出航すれば、正にジャストタイミングで大時化に遭遇することになる。

仕方がない。出航は明日以降にしよう。

六日は強風、そして雨。ヌクアロハに碇泊する全てのヨットがひっそりとしていた。こんな日に出る奴なんかいない。

七日。快晴。しかし、五日にゲールを警戒したと同様の前線がオーストラリア東岸に発生。またもや南緯二十五度から三十度海域でのゲール警報が出た。

八日、九日と過ぎ、気持ちばかりが焦った。苛立たしい日々を送るよりは、若し荒天に遭遇したら、途中のミネルヴァ・リーフで時化を凌ぐ方が得策ではないかという切迫した考えがみんなの気持ちに芽生えてきた。

ミネルヴァ・リーフ(Minerva Reeefs)とは、凡そ南緯二十四度、西経一七九度辺りの絶海に潜む一辺の陸地もない魔の岩礁帯だ。大時化になって航行が難しくなった場合、バリアリーフに逃げ込めば、風は凌ぎようもないが波からは多少は守られるといわれている。しかし、避けられるものなら、そんな地獄は見たくもない。荒れ狂う大海に囲まれ、リーフを越えて押し寄せる怒涛と嵐を、闇夜、牙のような岩礁に取り巻かれて過ごすなんて、想像しただけでも胃が痛くなる。

九日。オーストラリア方面の気象が安定してきた。明朝、九時十五分のメルボルンの気象ファックスを検討して出航するか否かを決断することになった。

もう、待つのは御免だ。それに、気象のためとはいえ、クリアランスを済ませた五日以降は、厳密にいえば僕らは不法滞在していることになる。


[ニュージーランドへ]

十一月十日、正午抜錨。さあ、いよいよ今シーズン最後のレグの始まりだ。

トンガのヌクアロハからミネルヴァ・リーフ経由で、ニュージーランドのベイ・オブ・アイランズ(Bay of Islands)までは、凡そ1050浬(1900km)。約十日間の航海になる。

南の風が十ノット以下の快晴の海を、三艘のヨットはのんびりと南下を始めた。ミネルヴァ・リーフには、250浬先の北ミネルヴァと、さらに二十浬離れた南ミネルヴァがある。どちらへ立ち寄るかは、接近する時間次第だ。夜間の接近は見合わせたいし、大きなチャートもないバリアリーフに入ることを考えれば、海底がよく見えるよう太陽光線の角度も大きな問題になってくるからだ。

十一日正午。ヌクアロハから七十七浬南下した南緯二十一度五十分、西経一七六度二十六分辺りを航行中、海面に、チャートには記載のない高さ100メートルほどのきれいな三角形の島が聳えていた。狐につままれたように、僕がぼんやりと島を眺めていると、[独尊]からVHFのコールがあった。

「ZENさん、見ましたか?確かに、あれは島ですよね」と馨くんも信じられないという調子でいった。

「いやー、僕もいまチャートを調べていたんだけど、あの辺りにはリーフしかないよ。火山活動で隆起したのかねェ」

トンガ海域でそういうことは珍しくもないのか、島の近くを一艘の貨物船がのんびりと航行していた。

微風が災いして、北ミネルヴァは十二日の夜中に航過した。立ち寄るとすれば、もう南ミネルヴァしかない。しかし、たった二十浬しか離れていないから、僕らは、時間調整のため、ジグザグにタックを返して走り夜明けを待った。

十三日、朝九時。目の前に白く波立つ筋が見えて来た。さらに近づくと、はっきりと海面の岩礁も見える。水深2000から3000メートルの絶海にそそり立ち、海面に禍々しいその頂上を僅かに覗かせる魔のリーフだ。夜だったら、肉眼でもレーダーでも、絶対に発見出来ない。どうしてこんな魔性のリーフにギリシャ神話の女神アテナのイタリア名がついているのか理解に苦しむ。それとも、発見した男の皮肉を込めたウイットだろうか。

リーフを越えて西側に[4・4・II]と[独尊]のマストが見えた。僕らは、慎重にリーフの縁を迂回して、彼らがアンカーリングしているパスの入口へ[禅]を回した。

パスは真東を向いてラグーンに繋がっていた。だから、朝日が海面に反射して海底が全く見えず、彼らは、昼頃まではラグーンに入れないといった。

アンカーリングした[4・4・II]からスターンのラインをもらって[独尊]が碇泊していた。僕らは、その[独尊]から、さらにラインをもらってひと時の休息をとった。碧ちゃんが僕らを指差し、しきりと「金魚のウンコ!」と囃し立てていた。

十一時半の気象ファックスによると、ニュージーランド方向に気象上の危惧は皆無だった。僕らは、安定した気象の中、今のうちに走れるだけ走っておきたいからと告げ、ラインを解いた。

風は腰のある南東二十ノット。[禅]は、艇速七ノットのクローズドホールドで小気味良く走った。遠くに、[禅]を追う[4・4・II]の白帆が見えていた。どうやら、ミネルヴァ・リーフに居残ったのは[独尊]だけらしい。

**

出航以来、GPSの不調には泣かされ通しだった。ONにしても、衛星を掴まえて現在位置を計算するまでに恐ろしく時間が掛かったし、その計算結果もたちまちエラーとなって消えてしまった。

考えてみれば、僕のGPSはマジェランのバージョンの中でも、ハイキング向きのいちばん初歩的なものだった。いま思えば、こんなものでよくここまで来たものだ。

しかし、高級機と比べても原理は少しも変わらない。正しく作動さえすればさしたる問題もないのだが、最近になって、ここ一番の時に限って計算不能に陥り、現在位置をロストしてしまう。

馨くんにいわせれば、GPSこそお金を掛けて損のないものだという。ニュージーランドに着いたら、僕も航海の規模に合わせた信頼できるGPSを手に入れることにしよう。

気象には気象帯といものがある。同種の気団が推移して、一定の気象パターンを繰り返す地域のことだ。地球の自転によるジェット気流が西から東へ気団を運び、その気団によって気象が変化する訳だから、気象帯は概ね地球を横に敷衍していることになる。

ところが、地球を縦に移動すると、必然的に異なった気象帯を横切ることになり、気象の苦労がついて回る。

大まかにいって、南緯二十五度から二十八度辺りが気象帯の分かれ目らしく、[禅]の航海でも、気象パターンの変化は折々僕らを苦しめた。

十一月十七日。ラッセル・レディオ(Russel Radio)が、南緯二十八度から三十度海域を、明日、強い前線が通過し三十ノット以上の風が吹くと告げた。

ラッセル・レディオは、ニュージーランドのベイ・オブ・アイランズ、ラッセルという小さな街に拠点をおく個人のボランティア局で、インターナショナルのヨットをサポートしてくれる。航行中のヨットが現在位置と気象リポートを定時ネットの無線で通報すると、翌日の航行海域の天気予報をくれるし、ヨット間の連絡などもとってくれる。情報収集の拠点を持たない外国のヨッティーたちにとって、ラッセル・レディオはとても貴重な存在だった。航海で、陸からのこの種のサポートは大いに助けになるし、如何にもヨットの盛んな国のサポートだと感心したものだ。

因みに、この手のボランティア局は、世界中、クルーズの盛んな海域には必ず存在する。ただし、周波数は、日本ではアマチュアが使えない4メガとか8メガで送受信するから、インターナショナル・クルーズを計画される方は、せめてクリアに受信できるアンテナを用意されることをお勧めする。

さて、問題の前線だが、確かに気象ファックスにも鮮明に現れていた。[禅]の位置からすると、明日、十八日の未明に遭遇しそうだった。

考えてみれば、あんなに警戒してスタートしたこのレグで、僕らはまだ本格的な時化には一度も会っていなかった。一つ、二つは辛い目に会うと覚悟していたから、さしたる杞憂もなく、僕は荒天準備に取り掛かった。そして、真夜中の〇時以降、朝までのウォッチは僕が専任することにして、スミコには寝てもらった。

午前二時。雲行きが早くなり、たちまち空は厚い雲で覆われた。風は西に振れて二十五ノットになった。ぎりぎりのクローズド・ホールドをツーポイント・リーフのメィンと半分ほどにファーリングしたジブで凌いだ。

海は真の闇だった。風は次第に募って三十五ノットになった。しかし、風向はやや北に振れた。アビームから後ろの風の三十五ノットなら特に脅威にはならない。僕は、ウインドベーンに全てを任せ、キャビンで読書に親しんだ。

四時間ほどで過激な時化は終わった。 [禅]が南緯三十度海域に入ったことと相まって、寒冷前線は、熱帯に慣れ切った僕らに、久しく忘れていた寒さという感覚を残して通り過ぎた。寒さに震えながらも、このレグでこれが唯一の時化だったことを、僕はとても大きな幸運だったと思った。

***

しかし、翌十九日も天気は回復しなかった。くるくると変わる気象と時々襲うガストに翻弄されながらも、僕の体調は悪くはなかった。

残航はたった200浬。もう、ニュージーランドは指呼の距離だ。二十日未明から絶えてしまった風にエンジンで対処しつつ、僕らは、世界一厳しいというカスタムス(税関)とクワランティーン(検疫)に備え、持込み出来ない食品を食べ尽くすことに専念した。

或るアメリカ艇は、冷凍庫に1kgほどの冷凍肉を残していたそうだ。クワランティーンが没収すると譲らないので、彼と奥さんは、オフィサーの目の前でステーキを焼いて食べ尽くしたという話も聞いた。

また、後ほど[独尊]の倫子さんがいっていたが、食べ切れなかった野菜を入港寸前から料理して煮込んでいたそうだ。しかし、オフィサーは鍋の蓋を開け中身を問い質すと、有無を言わせず持ち込んだ大きなビニール袋に空けてしまったという。野菜、果物、肉、魚、卵、採集した貝殻、タイヤに泥のついた自転車、十分乾燥していない木の細工物などは間違いなく没収されてしまう。

ただ、スミコは芸が細かく、全く没収するものがないのも不自然だからと、ほとんど芯しか残っていないキャベツをとっておいた。僕らが入国港オプア(Opua)で没収されたものは、そのキャベツの芯だけだった。

十一月二十一日。前夜から吹き出した強い西風に、[禅]はラストスパートの走りをみせた。全ては快調だ。雲に覆われていた空も晴れわたり、久し振りに星空が美しい。

未明から陸の灯が見えていたが、夜が明けると右舷には緑滴るニュージーランドが連なっていた。

目の前にケープ・ブレットが見える。その手前に見えるのがケープ・ウィキウィキ。その間の入江がベイ・オブ・アイランズだ。ついに来た。そして今、パイヒアの三色灯火の航路マーカーも捉えた。

ベイの中は本当に島だらけだ。島にはたくさんのアンカレッジがあって、素晴らしいクルージング・ポイントがいくらでもある。その間を、いろんなボートが行き交っていた。

やがて灯火のマーカーを逸れてヴェロニカ・チャネルに入った。あと二浬少々でオプアだ。

チャネルがくびれた辺りに、無数のヨットがアンカーリングしている。そこには、南太平洋を共に旅したヨットがたくさんいて、みんな口々に歓迎の言葉を叫んでくれた。

「オプアへようこそ!」

「何日かかった?」

「時化にあったか?」

「また会えたね。後で遊びにお出でよ」

VHFで[禅]の到着を告げると、黄色いブイをとって碇泊し、コールされたら検疫ワーフに船を着けるようにとオフィサーがいった。僕らは、いわれた通りブイをとって待った。

まだ入国手続きも済まないのに、旧知のヨッティーたちが次々にディンギーでやって来て、久闊を延べると共にいろんな情報をくれる。僕らは疲れも忘れ、懐かしい友やこの喧騒に酔い痴れた。

検疫、税関、入国の手続きを終え、やっと上陸が許された。僕らはまず、オプア・ヨットクラブのシャワールームへ向かった。個別に仕切られた清潔なシャワーが僕を感動させた。そして、ピカピカの器具から温かな湯が噴き出し、僕の全身を潤した。

「あァ、文明とは、シャワーから湯が出ることなんだ!」僕は、思わず感嘆の声を漏らしていた。

数日間の碇泊の後、僕らはオプアを出航し、ラッセル、ワンガムム、ワンガルルなどを経て、十一月三十日、ツツカカ(Tutukaka)へ立ち寄った。本当は、ファンガレイ(Whangarei)まで行くつもりだったが、ツツカカの素朴な佇まいと、飾らない人々との交わりが気に入って、ツツカカ・マリーナを次のシーズンまで半年間、[禅]の碇泊地に決めた。

[第三章・完]




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