■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[ヒバオア(Hiva Oa)]

ヒバオア(Hiva Oa)イラスト

夜中に一度スコールがあった。突風がひと時海上を騒がせたが、その後、次第に風が衰え、午前三時には無風になった。

セールを丁寧に畳んで、僕は機走に切り替えた。エンジン嫌いのスミコも、この時ばかりは目の前に迫ったヒバオアへの渇仰が勝るのか、機走に文句を挟まなかった。

五時、朝靄の中に島影は見えなかった。水平線の雲の峰を指し、あれがヒバオアだ、イヤ、こっちのがそうだと云い合っていると、次に見た時にはその形が変わっていた。

六時半。雲の峰とは明らかに違う奇怪な形状が見えた。水平線上に、山頂と見える黒っぽいとんがりが二箇所。あれだ!僕らは、夢にまで見た南太平洋の島々の最初の一つ、ヒバオア島のランドフォールを確信した。

遂に来た。憧れの南太平洋諸島、その入り口に位置するマルケーサス、ポリネシア文化が色濃く残るヒバオア。スミコは感無量の面持ちでバウデッキに立って前方を見つめている。その顔は、ここまで来た者だけに許される達成感に酔い、青々と澄みわたる潮風の中で輝いていた。

遥かにヒバオアの島影を視認して以降、それはぐんぐん大きくなって、手前には小さなモタネ島(Motane)やその向うにタフアタ島(Tahu Ata)も見えてきた。左舷遥か遠くには霞むようにファツヒバ島(Fatu Hiva)も見える。

ヒバオア島に近づくと、その景色の瑞々しさは息を呑むばかりに美しかった。

朝の陽光を浴びてたった今生まれたばかりの眩しいほど真っ白な雲が高い山の頂きを優雅に覆い、貿易風に曝される東側の荒々しく岨立つ断崖からは、幾筋もの滝がコバルトブルーの海へ垂直に落下していた。風が穏やかな西側は、たっぷりと水気を含んだ柔らかな緑に覆われている。深い緑、浅い緑、若い緑、強い緑、光を透過する緑、反射する緑、笑みを湛えて差し招く緑・・・緑には驚くほど豊かな表情があり、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。南国の楽園の風景は眩しいほど僕らの目に染みた。

いつかどこかで見た風景・・・。ふと僕は思った。デジャヴ?いや、映画『南太平洋』だったか、それとも、憧れが僕の中で結晶したイメージ?それが、目の前の風景とダブって見えて、僕は幸せな目眩を覚えた。そして、飛び上がってはしゃぎたい気持ちと、感動が極まった敬虔な気持ちとが胸の内にせめぎ合い、暫し僕らの口を閉ざしてしまった。

そんな景色の中、僕らはヒバオアの南岸沿いを西進し、アツオナ港(Baie Atuona)へと向かった。

**

一九九七年四月九日、午前十時三十五分。[禅]と僕らは、カリフォルニアのサン・ディェゴから三二三〇浬(5910km)を走破し、いまヒバオア島のアツオナ・ベイに着いた。三十一日と二十二時間三十六分。永かったようで短い航海。いや、短いようで永かったのだろうか・・・?

いずれにせよ、アンカー(錨)は今、がっちりとアツオナの海底を捉え、パラダイスは僕らの目の前にある。一刻も早く憧れの地をこの足で踏みしめたい。僕らは、浮き立つ気持ちで入国の準備を整えた。

規定にのっとり、訪問国のフランス国旗と黄一色のQ旗を掲げ、港外でクワランティーン(検疫)のオフィサーを待った。時々、VHFでジェンダーメリー(憲兵隊)をコールし、[禅]の到着を告げるが全く応答がない。一体、どうしたのだろう?

二時間が過ぎ正午になった。のんびりした南の島といっても、ちょっと悠長過ぎる。僕らがアンカーを打ったのは湾内とはいえ港外だから、艇はうねりで大きく揺れて居心地がよくない。遥かに見える静かな港内には、濃い緑を背景にゆったりと寛ぐたくさんのヨットが見えるというのに・・・。

双眼鏡を取り出し、港内を偵察してみる。どうも、多くのヨットのマストにはQ旗が揚がっているようだ。ということは、検疫前でも入港して構わないということなのだろうか?

ものは試しだ。入港してみよう。僕らはアンカーを揚げ、恐る恐る[禅]を進めた。

港内に入ると、錨泊したあちこちのヨットから底抜けに明るい声が呼びかけた。

「ウエルカム、ツー、ヒバオア。ウエルカム、ツー、パラダイス!」

手漕ぎのゴムボートが近づいてきて、マンゴーやパパイア、パンプルムース(凄く甘いグレープフルーツ)を差し入れしてくれた。「どこから来た?何日かかった?」遠距離航海者が交わす初対面の対話に続き、彼は、フランスから来たエリックと自己紹介した。僕らは、たちまち旧知の友人のように打ち解け合った。

バウ・アンカー(船首側の錨)を打ち終えると、スターン・アンカー(船尾側の錨。狭い泊地では、船が振れ回らないように二錨泊する)の投錨を手伝おうと別のテンダー(足舟)が来てくれた。一見、年老いたヒッピー風の彼は、オレゴン州から来た[LOVE]というヨットのオーナー、通称ブラッキーといった。名前は、彼のオールド・ファッションの自作ヨットが黒一色で塗られていることに由来する。

ほかのヨットからも親しみのこもった声が呼びかける。大洋を越えてここまで来た者という連帯感が、誰をも瞬時に親友にしてしまう。そして、誰もが思いっ切り心を開き、共に憧れの地にあることの至福を身振りいっぱいに表して見せてくれる。このアツオナ港に満ち溢れる親近感に包まれて、僕らは、非の打ち所なく幸せだった。

***

尋ねてみると、入国手続きはこちらから出向くのだそうだ。パスポートとヴィザ、船籍証などを持参し、所定のボンド(保証金)を銀行で払い、その受け取りをジェンダーメリーへ提出する。それで仮入国手続きが完了する。本検査は主島であるヌクヒバ島(Nuku Hiva)で行うということだった。

コックピットやキャビンを片付けたり、オーニング(日除け)を掛けたり、一通りの碇泊作業を終えると、僕らはゴムボートを膨らませ、エンジンを取り付けて岸へ向かった。

久しぶりに踏む大地の確かな感触。南国の太陽が剥き出しの土に照り返す灼熱感。潤いを含んだ圧倒的な緑と花の匂い。そして、真っ黒い顔をほころばせ、親しげに「ボンジュール」と呼びかけるヒバオアの人々・・・。僕らは今、まるで約束されていたかのように、このパラダイスに受け入れられていた。

村は、[禅]が碇泊したベイをぐるりと巡り、さらに先のベイの奥にあるそうだ。距離にして約一マイル。暫く歩くことのなかった足には、ちょっとした強行軍かも知れない。

それにしても道端の景色は素晴らしい。ブーゲンビリアやハイビスカス、さらにいろんな種類の蘭が咲き乱れ、名前も知らぬ花々は数えるいとまもない。そんな中に、ゴージャスな時計草の花や自生するバニラの繭形の実まであった。

見上げれば、道端に椰子の実やマンゴー、パパイヤ、パンプルムース、パンの実、バナナなどがたわわに実り、手を伸ばせば届きそうだ。ただし、これらの木には、ちゃんと持ち主がいるそうで、勝手に取ってはいけない。欲しければ、そういえばいい。満面に笑みをたたえたローカル(地元の人)が、もぎたてのフルーツをプレゼントしてくれる。

僕は見るもの全てに感動し、しきりにシャッターを押した。僕のアルバムには、南国の花々や木々の、まるで図鑑のように鮮明な写真が感動の証としてページを飾っている。

上陸したジェティー(桟橋)からベイをぐるりと回って反対側の崖上まで来ると、衰えた足の筋肉が痙攣を起こした。僕は、道端の草原に座り込んで足を休め、ガラスのように平らな海港を見下ろした。目の下にはたくさんのヨットといっしょに、長旅を終えた[禅]が午睡をまどろむように静かに寛いでいるのが見えた。

何という美しさだろう。それらは贅沢に降り注ぐ熱帯の太陽に照り映えて、フレンチ・ポリネシアならではの独特な彩りに輝いていた。

全てのものが、形よりも先に色があった。目の下の海も、たくさんのヨットも、花々や木立も、緑濃い背景のジャングルも、それぞれが生気みなぎる固有の色彩を喜々として放散していた。

ジェンダーメリーはすぐに分かった。書類を提出すると、ボンドの納入を完了しなくては手続きが出来ないという。急いで銀行へ行くと、今日の営業は既に終わっていた。入国手続きは明日に延期された。

仕方なく、僕らはマーケットで買い物をして帰ることにした。しかし、輸入食品などの物価が驚くほど高い。パラダイスとはいっても、現実はなかなか厳しいようだ。ただし、フランスパンとバター、チーズ、ワインなど、生活の基本をなす食品には特別な離島補助があるらしく非常に安い。しかも、その美味しさにはビックリしてしまった。こんな寒村にどれほどの設備があるのか知らないけれど、フランスパンなどは日本の都会で一流ベーカリーと称するものよりも格段に美味しい。チーズもワインも種類が多く、フランスの美食の伝統がこんな離島にも生きていることに驚かされた。

帰り道、僕の足がまた痙攣を起こした。しかも、今度は両足だった。道端にしゃがみ込んでいると、ローカルのおばさんが運転する小型トラックが通り掛り、僕らを拾ってくれた。荷台には、すでに何人かの先客があった。

車に少しでも余地があれば、彼らは必ず乗せてくれる。手を上げれば、素通りして行ってしまうなんてことは絶対にない。それは、助け合いなどという大層な意識ではなく、彼らにとって当たり前のことのようだ。利害感覚なんか微塵もなく、ただ、歓ばれることをするという彼らの感性に慣れるのに、僕らは相当の時間を要した。そして、そうした習性は、南太平洋の島々に共通するものだった。

[禅]に帰って、僕らは久し振りの美食を堪能した。何もかもが素晴らしかった。イメージした憧れを、そのイメージのままに享受していると、ふと痴呆になったような幸せな時間が僕を包み込んでいった。

辺りには夕暮れが訪れようとしていた。そそり立つ奇怪な山容が背伸びするように黒々とした宵闇の中に溶けていって、甘美な南国の夜がやって来る。あちこちのヨットのコックピットに灯が点り、誰もがこの至福の時を楽しんでいた。

僕はキーボードをコックピットに持ち出し、映画《南太平洋》の主題曲、《魅惑の宵》を奏でた。それは、映画の舞台であるマルケーサスの小島で《魅惑の宵》を演奏するという、かつてからの僕の念願だった。

クラリネットの音に調整したキーボードが奏でるその曲は、淡い海霧のように水面をわたり、映画が描いていたのと全く同質の南国の夜に溶けていった。

****

夜半、デッキをたたく雨の音がしていた。その音を聞きながら、僕はとても安らかな気分で眠った。

八時まで夢も見ずに眠り、僕らは遅い朝食をとって十時半過ぎに村へ向かった。今日もまた、素晴らしい天気だった。

着いてみると、銀行は十一時半から一時半までは昼休みだった。僕らは村を散策することにした。

近くにミュージアムがあったので立ち寄ってみると、丁度パレオ(体に巻きつける色彩豊かな布)の染色をしているところだった。それはとても素朴な染色方法で、布のたたみ方やねじり方で、鮮やかな色彩の面白い模様を作り出し、僕らを楽しませてくれた。

ミュージアムは、ほとんどがゴーギャンの絵の模写で飾られていた。館長のフランス人は、昼休みなのに僕らのために館内を案内してくれ、さらに作業所と彼が製作中の模写を見せてくれた。そこで僕は、ゴーギャンがほとばしるばかりの制作意欲を湧き立たせた風土を見る気がした。無尽蔵に降り注ぐ太陽光、おおらかに輝く自然、溢れる色彩、絶えることのない人々の笑顔、そして、人に喜ばれることをするというポリネシア人の民族的な心の優しさ・・・。館長は、「僕もまた、ゴーギャンを突き動かしたと同じものに駆り立てられているんだよ」といっていた。

昼休みが終わって、銀行でボンドを預けた。一人、89000フラン(約US$1000)と手数料5000フラン。預かり証を持ってジェンダーメリーへ行くと、入国手続きは瞬時に終わってしまった。

僕らは、フランスパンとチーズ、そしてコーラを買い、村から十五分ほど坂を登ったゴーギャンの墓を訪ねた。十基ほどの墓石が横たわる素朴な墓地だった。暗褐色のゴーギャンの墓石には、現地の人が供えたらしい何本かの造花とビーズで編んだネックレスが飾られていた。

ゴーギャンの霊に祈りを捧げた後、僕らは墓地を巡る石垣に腰を降ろしランチを摂った。分厚い緑が織り成す木陰に涼しい風が吹き抜けていた。

渺茫とした南太平洋が目の下に広がり、微かな潮騒が聞こえてきた。文明に追い立てられ、漂泊の果てにゴーギャンはここに眠る。僕は、伝記には語り継がれない彼の内面の孤独に思いを馳せていた。

*****

夢見るような日々が過ぎていった。

そして、毎日たくさんの友人が出来た。相互に、遥かな大洋を越えて来た者という敬意があるから、僕らの周囲には謙虚で円満な友情が育まれた。

フランス人のエリックは、北海や北極海を巡り、大西洋を南下して南米各国や南極に立ち寄り、マジェラン海峡を抜けて太平洋へ、そして、ツアモツ環礁を南端から訪ねてヒバオアへやって来た。彼は、商業的なものを極度に嫌う浮世離れして純粋な青年だった。

彼はフランス人だから、フレンチ・ポリネシアでの滞在に何の支障もない。ヒバオアに永く留まったらしく、その後出会うことはなかったが、心に残る爽やかな友人だった。

南アフリカのリチャードとソフィアのカップルは、愛艇[アクア・ココ]で世界一周ラリー・レースの途中、画一的なコースと規律に嫌気が差してリタイアし、独自のクルーズを始めたというが、よく聞くと、この度で三度目の世界一周航海とのことだった。

彼らは、僕らをお茶に誘ってくれて、つい先頃までアパルトヘイトで混乱していた南アフリカが、本当はどんなに素晴らしい彼らの故郷であるかを一生懸命説明してくれた。

彼らとは、フレンチ・ポリネシア以降のコースが異なって会うことはなかったが、快活で若者らしい友として想い出が深い。

アメリカのシアトルから来たジョンとリサ、そしてリサのお父さんのボブは陽気なグループだった。彼らのヨット[Jazz]は、ヒバオアへ向かう航路で、ラダー(舵)が脱落してしまったそうだ。僕らが入港した頃、船尾にスピンポールを長く突き出したヨットがいたことを覚えている。それが、応急ラダーをつけた[Jazz]だった。

「海況はわりと穏やかだったよ」とジョンが話してくれた。ふと船尾後方を見るとラダーが浮かんでいた。ジョンは、後先も考えず飛び込んでそれを回収した。ところが、ヨットは走り去って行く。ボブがセールを降ろし、とりあえず行き足だけは止めた。

「ヨットが戻って来て、ジョンを拾い上げてくれたのかい?」と尋ねると、彼は、

「それは無理だ。だって、逆戻りしたくても、舵は僕の腕の中にあったんだからネ」といって笑っていた。ボブがいたから助かったんだと、ジョンは義父の逞しい腕をたたきながらしみじみといっていた。

ボブは、タヒチでクルーズを終えて帰国したが、ジョンとリサのカップルは、思い掛けないところで度々出会いを繰り返し、彼らがクルーズを終えたニュージーランドまでいっしょだった。

黒塗りの優雅なヨットが入港してきた。アツオナ港在泊のヨットの中でそろそろ古参になった僕は、テンダーを漕ぎ出して、かつてブラッキーがそうしてくれたようにスターン・アンカーを打つ手伝いをした。新しく到着したヨットの長旅をねぎらうのは古参の役目だ。そういうコミュニケーションを切り口にして、ヨッティーたちは調和し、クルージングの仲間意識を育んでゆく。

黒塗りの優雅なヨットは、[ディプロマティック・リトリート(引退した外交官)]といって、艇名どおり、元シンガポール駐在のカナダ大使夫妻、ヴァーニーとメリールーのヨットだった。彼らは外交官をリタイアして、これからは、今まで夢見つづけてきた豊かな人生を満喫するのだと張り切っていた。

Tシャツと短パンにゴムサンダル姿で岸辺の水場にかがみ込み洗濯にいそしむ元大使は島の自然に溶け込み、天職を得た者のように輝いていた。彼らとは、ポリネシアの全航程を通じ折々同航し、今もなお連絡を取り合うとても親しい仲間になった。

その他にも、オーストラリア艇[ワミンダ]のゲーリーとスー、今年ヨットで生まれた最年少セーラーのタイラーや、アメリカ艇[エスカペィド]のダレルとクルーのマイク夫妻、[ホーンパイプ]のグレンとジュディーなどなど・・・アツオナで出来た素敵な友は枚挙に暇がない。

アツオナ港内には、入れ替わりながらも常時十艘ほどのヨットが錨泊していた。その中には、ラダーを欠損した[Jazz]以外にもたくさんの故障艇がいた。マストを折ったのがペルーのカタマラン(双胴艇)[サギタウロ]、そして、ブームを折ったヨットは、イギリス艇の[アンワゴミ]など三艘もいた。さらに、ほとんどのヨットが何がしかの故障を抱えている。

いろんな艇に招かれて聞く話によると、やはり、パラダイスは無償では手に入らないもののようだ。ここまで来るには、誰もがそれなりの修羅場をくぐり抜けていた。

******

こんなに素晴らしい所なのに、マルケーサス諸島は、幸いにも観光スポットとして全くメジャーではない。その第一の理由は、ノーノーだった。

ノーノーとは、ブヨのようなごく小さな羽虫で、刺されると何日間も火がついたように痒い。ディンギーでビーチに上陸しようとすると、時には、無数のノーノーがひとかたまりの雲のように人間めがけて押し寄せて来ることがある。

スミコは、アツオナ到着翌日のゴーギャンの墓と、その翌日、岸辺での洗濯の折に露出していた胴回りを徹底的に刺された。

赤く腫れ上がって、狂うほどに痒いばかりか、終いには熱まで出てくる。病院は見当たらないし、痒み止めを塗って炎症が引くのを一週間以上もじっと待つしかない。他には、虫除けスプレーを露出した皮膚に満遍なく塗布して虫刺されを予防する。

しかし、ノーノーは太古の自然を観光開発から守るという意味では、どんな自然保護運動にも勝っていた。ノーノーこそはマルケーサスの守護神というべきなのかも知れない。

アツオナ滞在七日目、僕らは、前夜、[ディプロマティック・リトリート]のハッピーアワーの折に話題になったペテログリフ(古いポリネシア文化が残す岩面陰刻画)を見にジャングルへ分け入った。勿論、ノーノー対策に、小泉八雲の『耳なし法市』の経文よろしく、虫除けスプレーを全身に塗布したことはいうまでもない。

アツオナ港から村へ向かう道路を進み、素朴なカフェの角を右に曲がると、やがて、山側に『テフエト・ペテログリフ入口』というフランス語のサインが見えてくる。そこから、けもの道ほどの道路が、異次元かと思えるばかりに濃密な緑のジャングルの奥へと伸びている。

在るかなしかの道はますます不確かになり、突然、水晶のように美しい流れに突き当たった。本当にこの方向でいいのだろうか?ジャングルは、とうの昔に僕らの方向感覚を失わせていた。周囲は、背丈の何倍もある羊歯や芭蕉や見たこともない巨木に覆われ、熱帯の鳥の声以外物音ひとつ聞こえない。見回せば、パパイヤ、ココナツ、何種類ものバナナなどが手が届くところにたわわに実っていた。

僕らは、正にジャングルの神秘の真っ只中にいた。マルケーサスには毒蛇や猛獣はいないが、若しそんな脅威があったら、たちまちパニックに陥りそうだ。小休止の折、僕は、Tシャツ、短パン、スニーカーのまま小川の流れに仰向けに全身を浸した。折り重なる熱帯雨林の梢越しに、目が染まってしまいそうな青空が見えていた。

道とおぼしき辺りを辿って行くと、蘭やジンジャーの花が咲き乱れる辺り、太古の時間へ引き込まれそうな不思議な空間にペテログリフがあった。

幅八メートル、高さ三メートルほどの岩面には、図形化された猿、鳥、亀、トカゲ、魚などが陰刻され、無言で圧倒的な時の経過を告げていた。

アフリカに発し、インド洋を越えて太平洋のあちこちへ散って行った人々。距離と時間という概念もなく、幾世紀にもわたって、ただ本能が促すままに、原始的な文化や風習を担い地球の果てのようなマルケーサスまで辿り着いた人々。我々が思うロマンなんかとは全く関係ない民族の流浪は、ドラマというには余りにも壮大過ぎた。

ペテログリフの表面に掌をおいて、僕は、そうした軌跡の果てにここで無心に岩面を刻んだ一人の人間に思いを馳せてみた。熱帯の陽射しに照らされながらも、岩肌は、頑なに文明を拒むかのようにひんやりとしていた。

[禅]に戻ると、エリックが、先日招待したディナーのお礼に果物をどっさり持ってきてくれた。テフエトのペテログリフへ行ってきたというと、彼は、ローカル(現地の人々)はほとんど行かないよ、といった。迷信的な忌避感があるのだそうだ。写真に撮っても、決して写らない場所があったり、夜中、誰もいないジャングルの奥から賑やかに祭祀の太鼓の音が聞こえてきたりするという。

ついさっき、あの不思議な空間に身をおいて悠久の時の流れを遡ってみた僕にして、ローカルの過剰な畏怖を単なる迷信と軽々に嘲笑し排斥することは出来なかった。

アツオナに錨泊して、やがて二週間を過ぎようとしていた。このままでは、ここに根を降ろしてしまいそうなほど、何一つ煩いのない日々が過ぎていた。心の赴くまま、随分楽しんだものだ。まだまだ書き切れない素晴らしい出来事がいっぱいあるが、旅人としては、そろそろ先を急がなくてはなるまい。僕らは、すぐ目と鼻の先にあるタフアタ(Tahuata)島のハナモエノア(Hana Moe Noa)という美しいビーチへ向け、出航することにした。




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