■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[タネという名の天使]

熱帯の陽光が降り注ぐ島の午後、全てのものが停止する痴呆のような一瞬がある。

乾いて白っぽい広場の片隅で、一基だけのサッカーのゴールポストが陽炎の中に揺れ、そのすぐ脇に、放たれた若い栗毛の馬が草を食んでいる。

僕が通りかかり、ふとそこで立ち止まる。そんな時、僕の感性が受け止めていた一切が動きを止める。

能動的な感覚や考えるという働きが消え、僕は、時空を浮遊する光のように自由だ。時間がゆるゆると遡行し、懐かしさが随所に感じられる。僕は、その退嬰的な恍惚感の向うを覗き込む。そんな現実と夢想の狭間に、折々、不思議な物語が滑り込んでくることがある。

若い馬が、日盛りの広場を横切って夢の中を進むように僕の方へやって来る。道々摘んできた野花をかざすと、馬はそれを食み、さらに前足で地面を打って催促する。僕は瑞々しい道端の草を千切って与え、鼻面と汗の匂いのするたてがみに覆われた首を撫でる。馬は、優しく大きな丸い目で僕を見つめ、まるで子犬のように、栗毛の大きな体を摺り寄せる。

ゴールポストの向うに茂みがある。その向うに家があるのか、その辺りから十歳ほどの男の子がやって来る。

褐色の肌に黒い髪がキリキリとカールし、大きな真ん丸い目は、若い馬の目と似て親しげだ。その疑いを知らぬ目が快く笑っている。
「バトゥ?」と、その子が問い掛ける。バトゥとは、フランス語で舟という意味。ヨットで来たのかと尋ねているのだろう。
「エ」と僕が答える。エは、現地語でイエス。子供の顔にさらに大きな笑みが広がる。

僕は、自分の胸を差し、「zen」といい、子供を指差して小首を傾げてみる。 「タネ」子供が答える。タネとは男という意味だ。この子の名前だろうか?ちょっと疑問があったが、僕は「タネ、イァ・オラナ」と呼びかける。イァ・オラナは、英語のハロー、またはハウアーユー。子供は「オラナ」と答える。

タネは、現地語とフランス語を混ぜこぜにして話し掛ける。僕には全然分からない。それでもめげずに、僕は英語と現地語を取り混ぜて、
「ここがタネのファレ(家)なのか?」と尋ねると、ちゃんと「エ」という答えが返ってくる。どうやら意味が通じているらしい。そのうち、僕にも何となく、タネの話す意味が類推できるようになってくる。

タネは、「zenのヨットはどれ?」と尋ねる。広場の外れの橋から港が見える。そこから沖を指差し、「ブリューの(青い)バトゥが見えるかい?あれが僕のヨットだ。ヨットもzenというんだよ」

タネが僕を馬に乗せてくれる。鞍も手綱もない馬はおとなしくタネの後について歩き、僕をジェティーまで送ってくれる。

いつの間に摘んだのか、タネは、僕が馬に食べさせたと同じような野花を、ディンギーに乗った僕に手渡す。
「いつか、ヨットに遊びに行ってもいい?」とタネが尋ねる。僕は、
「エ、ハエヴァ・マイ」(いいとも。歓迎するよ)と答える。

**

次の日の朝、デッキに大きなパンプルムースが置いてあった。ふと見ると、その横に野花が一輪添えてある。あ、タネが遊びに来たんだ。僕が寝坊していたので、起こさずにフルーツと花だけ置いて帰ったのだろう。

さらに翌日の朝も、デッキにマンゴーと一輪の花があった。花は、フレンチ・ポリネシアのシンボル、ティアレ。肉厚の白い花が、南国の魅惑的な香りを振り撒いていた。
お昼頃、僕は散歩の折、タネを訪ねるためにゴールポストの向うの茂みに分け入った。しかし、茂みの向うに家らしいものはなかった。

広場には、あの若い栗毛の馬がいた。僕が手をパチンと打ち鳴らすと、馬は、はしゃぐような仕種で駆けて来て、僕に鼻面をこすりつけた。
「タネを訪ねて来たのに、彼も、彼の家族も、彼の家も見つからなかったよ。タネはどこに住んでいるんだ?」話し掛けるともなく、僕は馬の首を撫でながら呟いた。

僕は、タネと彼の家族へのプレゼントとして持ってきたTシャツとスイスアーミーの十徳ナイフ、そしてビーフジャーキーの大袋を、ファスナーつきのビニール袋に入れて馬の首に掛けた。

夕方、船腹をノックする音がした。キャビンを出てみると、カヌーに乗ったタネがいた。日中、馬の首に掛けてきたプレゼントのTシャツを着て、腰には、肩から紐で吊り下げたスイスアーミーのナイフがあった。彼は、新品の衣服を身に着け、はにかみと誇らしげな笑顔で輝いていた。
「ハレ・マイ、ハレ・マイ!(Come in, come in!)」
僕は手を差し伸べ、タネをヨットに引き上げた。
「zen、素敵なプレゼント、ありがとう」そういって、彼は僕の目の前で気取ってくるりと回ってみせた。
「よく似合っているよ。気に入ったかい?」
「勿論。それに、このナイフは僕の宝物さ」
「気に入ってくれてよかった。ところで、お母さんが心配しなければ、いっしょにディナーをどうだい?」
「マルルー・ロア(ありがとう)」

僕らは、缶詰のミネストローネとフランスパン、缶詰のロースハムとパインアップルを重ねて焼いたハワイアンステーキを食べた。

素敵なディナーだった。タネは、僕が半分も分からない言葉で、楽しげに話し続けた。
その話は、大きくなったら、zenのようにヨットに乗って何かを探しに行くのだといっていた。何を探しに行くって?と尋ねたが、答えは分からなかった。くるくるとよく動く大きな目を輝かせ、タネはいつまでも話し続けた。その汚れなく無邪気な様は、意味がよく分からなくても、耳を傾け、ただ眺めているだけで心が洗われるようだった。

暫く話すうち、彼の口調が少し重くなってきた。と思う間もなく、タネは、言葉を半分残したまま、まるで糸が切れたように眠ってしまった。ソファに眠るその穏やかな表情に、幸せそうな微笑があった。天使というものがいるとすれば、きっとタネのような子供に違いないと僕は思った。

家族が心配しているのではないかと気になって尋ねたが、タネは、どこで覚えたのか、英語で「ノープロブレム」と寝言のようにいった。彼に薄手の毛布を掛けてやり、僕もまた夜更けて眠った。

***

明け方、ふと気づくとタネがいなかった。デッキに出てみるとカヌーがない。僕を起こさずに、そっと帰ったのだろう。僕は、そのまま朝まで眠った。

何度かデッキにフルーツと花が置いてあったけれど、あれからタネに会うことがなかった。ゴールポストの向うの茂みを訪ねてみても彼がいる気配はなく、そればかりか、広場には栗毛の馬も見当たらなかった。

アツオナを出航する前日、僕は、ワーフのガソリンスタンドに併設するストアで買い物をした。その折、ローカルの店員にタネのことを尋ねてみた。店員は、昔を想い起こすような遠い眼差しをした。そして、それに続く彼の言葉は、僕を哀憐の翳りを帯びた混乱に陥れてしまった。
「確かに、三、四年前、この辺りにそんな子がいたよ。そうそう、名前はタネ。六歳ほどの男の子だった。誰も気に掛けなかったけど、そういえばいつ頃からかぷっつりと見掛けなくなったねェ・・・」

あの子は孤児だった、と店員は語り続けた。両親は、他の島へ所用で出掛け、そのまま音信が絶えてしまったそうだ。風の便りによれば、ミクロネシアのどこかの島に生きているということだが、誰もはっきりしたことは知らなかった。

タネは、ゴールポストの奥の小屋やヴィレッジの空家を、一人で転々としていたそうだ。

南太平洋の島々では、いろんな家の子供が一つの家族として暮らしているケースをよく見かける。親がいなければ、他所の子供でも隔てなく面倒をみるのがここの風習だ。しかし、タネのように一人で暮らすという例はほとんど見掛けない。そういう意味で、タネは風変わりな子供として店員の記憶にあった。
タネが何かを探しに行くといっていた。それが両親のことだったということを、僕はその時になって知った。孤児という宿業のような孤独を抱え、あてもなく両親を探しに出掛けることを、あの子は、まるで人生の憧れのように話していた。明るく、あどけなく、そして、キラキラと時空を浮遊する光、或いは、汚れを知らぬ天使のように。

出航の朝、デッキには、露をとどめたひときわ見事なティアレがあった。花はタネの憧れの象徴だった。僕はタネの憧れを載せて船出した。


[タフアタ(TAHU ATA)]

ヒバオアに、僕らは十四日間も滞在してしまった。アツオナ港は、僕らにとってそれほど居心地よく、初めてのパラダイスの名にふさわしい泊地だった。

四月二十三日、午前十時半、[禅]はたくさんのヨットに見送られ、アツオナ港を後にした。行き先は、たった九浬離れたタフアタ島の北西の入江、ハナモエノア(Hana Moe Noa)だ。ハナモエノアは、マルケーサス諸島の中で最も美しいベイという。スミコは、シュノーケリングが出来ると大喜びだった。

アツオナ港は、泳ぎやシュノーケリングには適さない。一つには、ビーチがなく水に透明度がないこと。もう一つは、航海誌に、港内にも大型のシャークがいると書いてあったことによる。

港内ではほとんど風を感じなかったのに、アツオナ港を出ると強風が吹いていた。それはまた、ヒバオア島とタフアタ島を隔てるボーデライス海峡(Canal du Bordelais)にも激しく吹き込んでいた。

風は東の二十五ノット。しかも、海峡のカレント(潮流)は西から流れ込む。潮と風がぶつかると、海は必然的に波立つ。たった九浬の航海なのに、僕は結構マジに操船に取り組んだ。

有視界航行でなんの問題もなかったけど、僕は予めGPSによる航路計画を編んでいた。ところが、何回位置を取り直してみても、GPSが示す航路は、タフアタ島の北側の崖に突き当たってしまう。ハンドベアリング・コンパスによる位置確認も試みたし、潮流による航路偏差も計算してみたが、僕の航路計画に間違いはなかった。これは、明らかに海図の誤りが原因している。タフアタ島は、海図よりも北へ約一浬、西へ〇・五浬ずれた位置にあった。

海図のずれという話は折々聞いていたが、実際に出会ったのは初めてだった。僕は少なからず当惑した。しかし、そんなことは、商業的航路を外れたこの辺りでは少しも珍しいことではなかった。僕は、成熟した航海者というものは、海図に絶対的な信頼をおかないという航海術をこの海域で学んだ。


**

ハナモエノアは噂どおりの美しい入江だった。目の覚めるようなブルーグリーンの水にほとんど白に近いベージュ色のビーチ、その背景は濃緑の椰子のプランテーション(農園。コプラを採取する)。しかし、残念ながら強風が災いして海面は白く波立っていた。

スミコは、一刻も早く海底散歩を始めたい様子だ。しかし、この風ではおちおちシュノーケリングというわけにはいかない。美しい景色を眺めながら、僕らはウインドジェネレーターの耳障りな音をバックグラウンド・ミュージックに、その日の午後を為すこともなく過ごすことになった。

このベイには、プランテーションの番人の若者が二人だけ住んでいる。他には、ハナモエノアから二浬南のハパトニ村に僅かな住民がいるだけの島だ。

カヌーに乗ったその若者たちが[禅]を訪ねて来た。舟底には、極彩色の熱帯の魚が何匹も転がっている。彼らの一人が、青と緑の大きなパロットフィッシュを差し出し、僕らにくれるといった。こんな色鮮やかな魚が食べられるのだろうかと逡巡していると、若者は、「グッド・フィッシュ」とたどたどしい英語でいった。

僕らは、お近づきのしるしにそれを頂戴し、コーラ、ビール、ラムのいずれがお好みかを尋ねた。一人がコーラ、一人がラムと答えた。缶コーラとグラスに満たしたラムにライムを添えて差し出すと、彼らは美味そうにそれを飲み干し、明日もまた何か採ってきて上げようといった。

魚は塩焼きにして食べた。思っていたほど不味い魚ではなかった。

翌日、また彼らがやって来た。大きな魚はなかったが、中型のグルーパー(ハタ)とアジのような小魚を数匹頂いた。昨日と同じく、コーラとラムを上げようとすると、ラムの青年がボトルごと欲しいといった。

ここまで来る航海者の中にはカリブ海を経て来る者が大勢いる。そういう船は、考えられないような安値でカリブ産のラム酒をどっさり積んで来る。そして、世間を知らない若者に、気前良くボトルごと振舞うのだ。

しかし、僕の船のラムは、マイヤーズのダークラムか、かつてのイギリス海軍御用達のコニャックと比べてもひけをとらないパッサースラムだ。とてもじゃないがボトルでどうぞという代物ではない。

しかし、この飛躍は面白かった。彼らの要望に応えられないとしても、いかにもパラダイスならではのおおらかさではないか。

彼らがどう納得したのかは知らないが、夕方、浜辺でバーベキューをやるからおいでよといって帰っていった。

昨夜九時過ぎまで吹き募った風も、いくらか穏やかになっていた。日中は、ディンギーを出し、僕はスミコのシュノーケリングにつきあった。

僕はあまりシュノーケリングが好きじゃない。海底の景色は物凄く魅惑的で美しいと思うが、マスクと髭の隙間から入る海水が、鼻腔に溜まって頭痛の原因になった。それでなくても、天気の変わり目には偏頭痛で苦しむ僕にとって、シュノーケリングは苦行に等しかった。大抵の場合、僕はディンギーで、海面を漂うスミコの後を追う役目だ。

夕方、島の若者の招きに応じてビーチへ向かった。どんな野生味豊かなバーベキューかという興味が尽きなかった。何人かのヨッティーがいっていたが、野生の豚を捕って、鉈のようなブッシュナイフで捌いて食うのだそうだ。

ビーチに着き砂浜へディンギーを引き上げていると、スミコが頓狂な声を上げた。促されるままに前方を見ると、夕暮れの淡い光の中を、雲のように曖昧な塊が僕らの方へやって来る。ノーノーだった。アツオナで十分懲りているスミコは、既に後退っている。僕は、大急ぎでディンギーを海面に引きずり出して、後も見ずに沖へ漕ぎ出した。あんなノーノーの大群に襲われたら命だって危ない。もう、バーベキューへの興味はなかった。[禅]に戻り、僕らは缶詰を開けて質素な夕食の準備に取り掛かった。

***

いくらか収まったとはいえ、強風が吹き続いていた。折角美しいベイなのに、風の音とウインドジェネレーターの飛行機が離陸するような唸りを聞いていると、気分はどんどん滅入ってしまう。どんなに素晴らしい場所でも、天気次第で全然精彩がない想い出しか残らないことがあるものだ。

アツオナ港にいたヨットが、次々とハナモエノアに入って来た。ラリーレースの派手なヨットが続々と入港して来て、アツオナで巾を利かせているそうだ。自然の静けさと慎ましい楽しみを重んずるクルーザーのヨッティーたちが、もっとも苦手とする連中だ。

この狭いベイに、いま十一艘ものヨットがアンカーリングしている。[ワミンダ]や[アクアココ]、艇名は忘れたがオーストリアから来たアレキサンドラとボーイフレンドの歯医者の青年。グレンの[ホーンパイプ]、ジョンとイングリットの[ビヨンド]、それに、元カナダ大使夫妻の[ディプロマティック・リトリート]etc.

昨日別れたばかりなのに、何故か物凄く懐かしい連中だ。互いのヨットを行ったり来たりして、強風で何も出来ない無聊を、いつ果てるとも知れぬ暢気な雑談で慰めた。

二十四日、昼。[禅]の無線機が、珍しくシーガルネットを捉えた。日本では、二十五日の朝七時。コーディネーターの久津見ドクターが、ニッチャレ(アメリカスカップの日本チームの略称)のキャプテン南波さんの落水、行方不明を伝えた。まさか!あの大ベテランが?
スミコもニッチャレがサン・ディェゴでキャンプを張った折、南波氏と面識があったのでショックは隠せない。
レースで大時化の黒潮流域を走っている夜中の事故とのこと。無事を祈ること切だが、ヨット乗りとして無事ではないことが分かっている。ヨット乗りなら誰でも、若しもの時の覚悟は出来ていたはずだった。南波さん、安らかに。
落ちたら終わりだ。特に夜は!僕らは、この悲報を警鐘として気を引き締め合った。
強風、ベイの混雑、南波さんの悲報・・・僕らの気分もすぐれない。スミコは、もうこのベイは飽きたといった。


[ウアポウ(UA POU)]


美しいベイなのに楽しめなかった。強風さえ吹かなければどんなに素晴らしかったか知れないのに。
二十六日、十時半。僕らは、ハナモエノアを後にし、再びヒバオア島へ向かった。今度の目的地はウアポウだが、二十五ノット以上の強風の中、オーバーナイトの航海を強行する必要なんかない。中継点として、ヒバオアの北西端にあるハナメヌ(Hana Menu)に仮泊する航路を計画していた。
ハナモエノアを出ると、すぐカナル・ド・ボーデライスだ。海峡は、三十五ノットの横風と巨大な波に猛り狂っていた。何故こんな時化の海へ出て来てしまったのだろう。もっとしっかり気象と海況を把握しなくてはダメだ!
今回は、スミコの「このベイは飽きた」という一言で出航してしまった側面があった。臆病になることはないが、キャプテンとして他に惑わされず、もっと冷静に、もっと自分の直感を信じなくてはいけない。舵にしがみつきながら、僕は猛省していた。
もみくちゃにされながら、[禅]は、たった十・五浬の航程を五時間もかかってハナメヌに着いた。

陰鬱な印象の入江。原始のままの風景。両側に暗褐色の崖が海面から垂直にそびえ、頂きには風になびく形の樹木が見える。その合間に群れ動く影は野生の山羊(Mountain Goat)だろうか。岸辺にはマングローブが茂り、水面には全く透明感がない。今すぐにも夜がやってきそうな荒涼とした入江だ。

風が回る。[禅]はあちこちに振れ回って落ち着かない。バゥ・アンカー(船首錨)だけで安全だろうか?

[ホーンパイプ]が入って来た。声も届かない場所に投錨したが、強風の中、グレンが何度もアンカーを打ち直しているようだ。

谷深い入江は夜が早い。夜七時にもなるともう真夜中だった。僅かに開いた上空を雨雲が過ぎり雨を降らせた。一点の灯もない原始の闇の中に、ごうごうと磯に砕ける怒涛の響きだけが轟いていた。

アンカーの不安があったので、ほとんど熟睡することもなく朝を迎えた。朝とはいっても午前四時。まだ入江は夜明け前だ。

磯波の音が昨夜よりは低かった。レーダーにも、顕著な外洋の波の反射が写らない。
出よう!
午前四時五十五分、抜錨。五時十分、[禅]が外洋に差し掛かると、丁度、水平線に朝日が昇った。

**

うねりは残っていたが、風は随分穏やかになっていた。ウアポウ(Ua Pou)島のハカハウ(Hakahau)港までは五十八浬。六ノットで走っても十時間近くかかる。帆走で平均六ノットはちょっと読み切れない。僕は、迷わず機帆走で走りまくった。
昨夜の寝不足が原因して船酔いと頭痛に悩まされた。途中、イルカの伴走などもあって変化に富んだクルーズだったのに、僕の気分はさっぱり盛り上がらなかった。
飛ばしに飛ばした甲斐あって、ハカハウには、午後三時に着いた。マルケーサス諸島で三番目に大きなヴィレッジだ。狭い港に向かって整然とした家並みが美しい。背景には、天を指差すような奇怪な岩山がいくつもそびえていた。
バゥ・アンカーを打ち、およその船位を決めてから、浅すぎるのでスターン・アンカーをディンギーに積んで岸寄りへ運ぶ。水深五十センチもない岸辺にアンカーを放り込み、スミコが[禅]側からアンカーロープを手繰り込む。十分錨掻きが効いたところで、今度は、さらにバゥ・アンカーをつめる。これでアンカリングが完了だ。今日の投錨作業では、スミコが大活躍だった。クルーズ全般に、彼女は随分熟練してきたようだ。彼女はもう、立派な[禅]の乗り組み員だった。
上陸してみたがシャワーはなかった。ポリタンに水だけ汲んで[禅]に戻った。水は赤茶色をしている。それに浮遊物もあって質は良くないようだ。いやいや、ただでもらって贅沢をいっては罰が当たる。これだって真水には違いがないのだ。島の水事情を思えば、感謝しなくてはいけない。

フランス政府の建物が多いせいか、村はとても整った感じだ。明日は、買い物方々、村を散策してみよう。
天を指差すように垂直に聳える岩山。大昔は、きっと男性神のシンボルとして信仰の対象だったのかも知れないネ・・・。僕らはそんな揶揄めいた感想をいい合う。
その山顛に激しく雲が去来していた。荒れるのだろうか?初めての島だから、観天望気(自然界の変化で、地域固有の天気を判断する方法)が分からないが、それにしても変化が激し過ぎる気がした。
早い夕食を摂って、昨夜からの疲れを休めるべく八時に就寝した。

横になって間もなく、雷鳴と共に物凄いサンダーストームが来た。アンカーリングしている[禅]が右に左に大きくヒールする。僕は、土砂降りの雨の中、下着のままデッキに飛び出した。風速計が五十ノットを指していた。そして、寝る前に確認した他船との位置関係が大きくずれているような気がした。

試しにスターン・アンカーのロープを引いてみた。なんの手応えもなく、手繰るだけいくらでもロープが揚がって来た。

僕は、バウへ走った。バゥ・アンカーも同様だった。スミコを起こし、エンジンを起動させた。三十メートルのアンカーチェーンは、ウインドラス(揚錨機)を使わず素手で引き揚げた。そうする間も、強烈な突風が唸りを上げて襲い掛かり、[禅]を狭い港のあちこちへ漂流させる。全てのアンカーをデッキに上げる作業は、腕の痛みや息切れなどをいっている暇もなかった。

いったん岸辺を離れ、機走で最適な場所を探した。船が触れ回る余地さえあれば、確実な単錨泊の方がこの烈風には却って安全なようだった。外洋から直にうねりが入るが、僅かに広い水面に[禅]を進め投錨した。今度は、チェーンを四十メートル出し、エンジンの強力なアスターン(後進)で、錨が海底の泥に完全にめり込むまで引いた。

突風は度々襲ってきたが、先程のようにひどいやつは息をひそめていた。

二時間ほどは何事もなかった。十時を回った頃、再び激しい突風がやってきた。デッキに出てみると、雨がしぶく闇夜に、あちこちで懐中電灯の明かりが明滅し激しく揺れている。港の奥の方でヨットが走錨したようだ。船同士の間隔が極端に狭いので、走錨艇の周りは大混乱を呈していた。ついにカタマランが、別のヨットを巻き添えにして堤防のコンクリートに激突した。

[禅]には何事も起こらなかった。宵の口の走錨は、考えてみれば幸運だったのかも知れない。より強烈な突風が来る前に完璧な対策がとれたのだから。そういって自分を慰め、前夜に続いて、僕はつかの間の仮眠を貪りながらアンカー・ウォッチについた。

***

風は相変わらず癖があるものの、明け方になっていくらか穏やかになった。僕は、夜が白む頃から夢も見ずに九時まで眠った。

昼前、防波堤に衝突したヨットを横目に見ながら、僕らは洗濯のため何度も水場へ往復した。熱帯の陽光が降り注ぐ港は、何事もなかったように静まり返っていたが、堤防に激突したヨットの船腹に刻まれた傷と折れ曲がったガンネルが痛々しかった。みんなが、あの突風を以って、この程度の犠牲で済んだことはラッキーだったといった。しかし、『この程度の犠牲』に供されたヨットはたまったものではない。誰かが、みんなの思いを代弁して「明日はわが身だね」いった。

午後は、ヴィレッジの散策に充てた。
港に面した一等地に並ぶのは、フランス政府関係の建物、そして学校だった。芝生の中に並ぶいくつもの白い建物は、学年と教科に分かれた教室だ。

授業中らしく、凛とした女の先生の声が聞こえてくる。教室の中は仄暗く、僕らに向かって手を振る子供たちの掌の白さだけがヒラヒラと窓の中で揺れていた。

フランスパンを買いに行ったのに売切れだった。朝のうちに売れてしまうそうだ。飲み物やマヨネーズなどを買って外に出ると、目の前に、黄金色の見事なパンプルムースがたわわに実った木があった。あァ、こんな風に実をつけるのか・・・。そう思って見上げていると、女主人が出て来て、二つ採って僕らにくれた。もいだだけで良い匂いが漂う大きな果実を手に、僕らは、彼らの素朴な厚意に心から「マルルー・ロア(Thank you)」とお礼をいった。

この島の家々は美しい。適度に文明を享受する整然とした調和とゆとりが感じられる。

それに、家の形が、日本の古い家屋によく似ている。屋根の形、軒から壁にかけてのシンプルさと空間のとり方、そして、のどかな佇まい。見ていて、何だか懐かしさを覚えてしまう姿だった。

この島の癖のある風には苦労させられる。恐らく、奇怪な山容や地形に関係があるのだろう。時々デッキへ出て周囲の位置関係を確かめ、昨夜のような事態に備えた。しかし、その夜は強い風が吹かず、久し振りにゆっくり眠った。

ところが、朝になって突風が襲った。今までは沖から岸、または、岸から沖への風だったのに、今度は、港を横にわたる強風だった。

[禅]は、チェーンの長さが災いして隣のヨットに接近し過ぎた。アンカーを打ち直す必要が生じた。

広いスペースを探して何度も港内を旋回したが、適当な余地が見つからない。ハカハウはいい所だけれど、港が狭く、浅く、そしてめちゃくちゃ癖のある風が吹く。深いところでも三メートルほどの水深しかなく、港の半分は一メートルの深さもない。ドラフト(船自身の水面下の深さ)の深いヨットがアンカーを打てる場所が限られるから、狭い港はたちまちいっぱいになってしまう。今夜もまた、一昨夜のような事態が起きないとも限らない。それならいっそ、癖のある風に翻弄されるよりは、ひと思いにヌクヒバ(Nuku Hiva)島へ向かおう。





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