*
九時四十分、ハカハウを出航。ヌクヒバのタイオハエ港(Baie de Taiohae)までは、真北へ二十五・七浬。約五時間の航程だ。
外洋は時化ていた。ぎりぎりのクローズド・ホールドだったので、今日もまた機帆走だ。プロペラの後流でウインドベーンが使えない。オートパイロットをセットしたら、とんでもない方向へ走り出した。故障?最近になって、細かな故障が続発している。そして今度はオートパイロットだ。タイオハエに着いたら、じっくりと艇のメンテナンスをしなくてはなるまい。
仕方がないので僕らは交替で舵を引いた。すごくヘルムが重い。時化に加え、エンジンを使っているせいだ。とても辛い航海だったが、ハカハウの癖のある風に翻弄されるよりはましだと思った。
十二時頃から、時化の海にヌクヒバの島影が見えてきた。もう少しだ。午後一時、タイオハエの入口を確認。あの入江の左右にセンチネレ(Sentinelle de l'Est/Sentinelle de l'Quest)の二つの孤立岩がある。無事にその間を通った船は、その後の航海の安全が保障されるというジンクスがある。南太平洋を旅する船乗りが、特別な畏敬の念をこめて口にする関門なのだ。
ヌクヒバ島は、マルケーサス諸島の主島で、タイオハエはこの地域の行政の中心地だ。平たくいえば首都ということだろう。その位置は、南緯八度五十五分、西経一四〇度〇六分。あまり赤道に近いので、年間を通じサイクロンもほとんどやって来ない楽園だ。
島影はどんどん近づいてきた。僕らは何の苦労もなく東と西のセンチネレ岩の間を通過した。ジンクスがあるほどだから、余程の難所かと思っていた僕にとって、何とも呆気ない航過だった。
広々としたタイオハエ港には、旧知のヨットを含め、四十艘ほどのクルーザーがいた。あちこちから懐かしい声が呼び掛けてくる。僕らは、ホームポートにでも帰ったような安堵感で彼らとジョークを飛ばし合った。
[ビヨンド]のジョンとイングリットがテンダーでやって来た。今夜、ケイハハヌイ・イン(Keihaha Nui Inn)で、ヨッティーたちのパーティーがあるそうだ。そんなことを舷越しに話していると、いきなり土砂降りのスコールがやってきた。彼らに大急ぎでキャビンへ入ってもらって、積もる話を喋りまくった。たった三、四日前に別れたばかりなのに、懐かしさが絡むと、話題が尽きることはなかった。スコールは、とうの昔に止んでいた。
結局、僕らは、今夜のディナーには行かないことにした。何日も十分な睡眠をとっていなかったから、今夜は早く休みたかった。
夕方、馴染みの連中が、とっておきのドレスに着飾って、ディンギーで[禅]の際を通って行った。「いっしょに行こうよ!(Come on. Let join us !)」みんながそういってくれたけど、僕は、手を振って彼らを見送った。
夜の闇が深まる頃、タイオハエの水面をリズミカルなタヒチアン・ダンスの打楽器の響きが流れてきた。マルケーサスに来て、初めて生で聴くタヒチアン・ミュージック。いいものだなァ。
音楽とは、聴くべき場所というものがある。何種類かの打楽器が織り成すこのリズムこそは、タイオハエの水面にヨットを浮かべ、こんな夜に聞く音楽だと思った。僕の周りで、南国の夜が静かに更けていった。
**
毎日が快晴だった。この季節、曇りっぱなしの日というのはほとんどない。時々、スコールが駆け抜けて、またすぐ快晴になる。好天が保証されているのはいいものだ。
四月三十日。タイオハエの二日目。
今日は、オートヘルムの修理、エンジンのオイル交換、それにスターンチューブ(船底からプロペラシャフトを通す穴)の調整を行った。
いい天気だというのに、オートヘルムの修理以外は、穴倉のような船底に潜っての汚れ仕事だ。特に、オイルは、サン・ディェゴ以来換えていなかったから、ひどく汚れていた。
サン・ディェゴで会った[唯我独尊]の片嶋くんは、「エンジンは、いつもオイルをきれいにしていれば、そう故障するものではない」といっていた。彼は、オイル交換の折、最低でも二度に一度はオイルフィルターを交換していた。少々手入れを怠ったと反省しつつ、僕もオイルとフィルターをいっしょに交換した。
スターンチューブはすぐ緩んでしまい、いつも船底に海水が溜まっていた。カナダのファンデフカ・ストレイトで流木に衝突した時、若しかしたら、シャフトかその支えのブラケットを当てたのかも知れない。それでゆがみが出て、シャフトがひずんで回転し、ためにチューブが緩むではないだろうか。
僕はハンマーと大型のドライバーを船底に持ち込み、青銅の締め金物をたたいてきつく締めこんだ。
昼過ぎ、ディンギーで岸へ渡った。昨夜ヨッティーたちがパーティーをやったケイハハヌイ・インへ、僕らは昼食を摂りに出掛けた。
このレストラン兼宿屋のことは、たくさんの著名な航海記に現れる。ヨッティーたちにとって、かなり昔からの名所だ。
料理を注文し、何冊もあるログブックを拝見すると、随分昔の航海者たちの書き残した記録がある。かつて胸を躍らせて読んだ航海記の著者たち、伝説的なヨットの名キャプテン、それにいくつかの日本のヨット・・・。僕は、その同じステージにいることに興奮と多少の違和感を覚えつつページをめくっていた。
先頃ご主人が他界されたという老女主人が現れ、いろんな想い出話を聞かせて下さった。そして、僕にも何か書くようにといってくれた。ここに筆をとどめる偉大なセーラーたちと同列に、不遜にもページを汚すことは出来ない僕はといった。そうしたら彼女は、
「いいえ、あなたもまた、ここに書くべきですよ。何故なら、ここに書いている方々は、みな素晴らしい夢の実現のためにここまで来ました。あなたもそうでしょ。そして、その一ページ、一ページが、壮大な夢を遂げた人生の記念なんですよ。あなたはイラストレーターですって?きっと素敵なページを書いて下さるでしょうね」といった。僕は、よろこんで描かせていただくことを老婦人に約束した。
ふと見ると、一昨日の日付で、[Further]という艇名と英文の記事、そして、一行だけ日本語で『もっと、遠くへ!』と書かれているページを発見した。名前は『Ken』となっていた。
尋ねると、Kenは昨日出航したそうだ。僕らの入港と入れ違いだったらしい。サン・ディェゴ出航以来、日本人に会っていなかったので、僕はとても残念だった。
[禅]に戻ると、僕は、製図ペン、水彩絵の具、色鉛筆を駆使してケイハハヌイ・インのアルバムの一ページを描くことに専念した。自分でいうのもおかしいが、出来は悪くなかった。その証拠に、後に会ったヨットがよくケイハハヌイのログブックに[禅]の素晴らしいページを見たといってくれた。
翌五月一日はメーデー。一切の機能が停止した。公共機関は勿論、商店も果物を売る農園も。当然ケイハハヌイも例外ではない。
五月二日、僕らは再びケイハハヌイ・インを訪ね、ログブックの一ページを届けた。残念なことに、きっと喜んでくれると思った老婦人は留守だった。
帰りに買い物をした。他の島と違い、ヌクヒバの商店の品物は豊富だった。ただ、港に面した何軒かのお店で、同じ物の値段が全く違うことには驚いた。恐らく、客によっても、また、店員によっても値段が違うのかも知れない。 しかし、僕の大好きなフランスパンは安く、朝食に丸ごと一本食べてしまうほど美味しかった。ただ、残念なことに、スミコが待ち焦がれるシャーベットは、ついに見つからなかった。
商店の営業時間は厳格だ。十二時前から二時過ぎまではお昼休み。土曜、日曜、祭日は完全休業。
しかし、一軒だけ、中国人が経営するお店は例外だった。休日でも、お昼休みでも、お店に人さえいれば商売をする。お昼にかかって買い物をする時などは、僕らは迷わずその店を訪ねた。
お店には、毛筆で書いた漢字のビラが下がっていた。誰が書くの?と尋ねると、中国系の女の子が、「おじいちゃん」といってほの暗い奥の方を指差した。行ってみると、いま正に揮毫中だった。暫く見ていると、老人が目を上げて僕を見た。東洋人だったのでビックリしたようだった。「上手ですね」というと、急に照れたように、「見よう見真似ですよ」といった。僕らは、なかなか通じない言葉で、東洋の伝統や芸術について話をした。老人は、とても懐かしそうに顔をほころばせて相手をしてくれた。
***
「コンニチハー」という声がした。僕はデッキに飛び出した。黄色い遊具のゴムボートに乗った長身の日本人青年がいた。僕は、直感的にKenであることを知った。
「ケイハハヌイのおばあちゃんに聞いて来ました」とKenがいった。僕は、彼を引き摺るようにして[禅]に上がってもらった。
僕とスミコは矢継ぎ早に質問した。それによると、彼はサンフランシスコで大学を終え、ヨットで日本へ帰る途中ということだった。サゥサリートに長年住んで苦労して大学を卒業したが、いま一つ達成感がなかった。このまま空路、あっさり日本へ帰る気がしない。
アルバイトで貯めたお金で二十八フィートのヨットを買った。船齢が三十年以上の老朽船だったが徹底的に修理をした。その辺りの波乱万丈の物語は、先頃、舵誌に連載された彼の著作『もっと遠くへ』に詳しい。
エンジンは必要な時に限って動かなくなるそうだ。今回も何かが故障してタイオハエへ戻って来たという。しかし、彼の不屈のスピリットには頭が下がった。
その後、互いのヨットを何度も行き来した。そして、五月七日、Kenは再会を約し、動かないエンジンに替えて一馬力の船外機を手で操りながらツアモツ環礁へ向け出航して行った。
[ワミンダ]も[Jazz]も[ディプロマティック・リトリート]も出航して行った。残っている旧知の艇は、[ビヨンド]と[エスカペィド]だけになった。僕らもそろそろ出航のタイミングだった。
五月八日、僕らは、この後の永い航海に要する水を積み込むために、ヌクヒバ島南西端のダニエルス・ベイへ向かった。
タイオハエから東へ五浬、タイオア・ベイ(Baie Tai Oa)は、アメリカ発行のチャートには『ダニエルス・ベイ(Daniels Bay)』と記載されている。
ダニエルとは、一九二七年生まれのダニエル・チキトへというポリネシア人のことだ。
この深い谷間タイオアの水は、昔から良質の水として西欧にまで聞こえ、この海域を航行する船は、タイオアへ水を積み込みに立ち寄った。ところが、山間の滝から海岸へ下るうち、近年、増え過ぎたマウンテン・ゴート(山羊)の排泄物で水が汚染され飲用に適さなくなってしまった。
そこでダニエル氏は、滝の上方から海岸の自宅付近まで、恐ろしく長く険しい道程に私設の水道を引いた。その水が今、マルケーサス随一の水として船乗りに珍重されている。アメリカ海軍は氏の功績を称え、この入江を『ダニエルス・ベイ』と海図に記載し、彼の功績を称えた。
五浬の航程になんの苦労もなかった。しかし、ダニエルス・ベイの入口が分からない。襞を打つように入り組んだ断崖が前面に立ちはだかり、その切れ目がどれなのか判然としないのだ。
僕は、かつて訪ねた伊豆半島の先端、石廊埼港(通称・長津呂)を思い出した。初めてあの崖の割れ目を入った時、そして、さらにその先に入江が見えてきた時、僕は、思わず「海賊の巣窟のようだ」と叫んでいた。あれと同じだった。
崖に砕ける白波が途切れる僅かな隙間の水面に、僕は[禅]を進めた。狭い水路を抜け右へ曲がると、いきなり広々としたベイが眼前に広がった。所々に樹木の濃い緑をあしらった周囲の崖が暗褐色の岩肌をむき出し、垂直に水辺に落ち込んでいる。その崖が、この入江を外洋から完全に遮蔽し、まるで分厚いシェルターの中のようだ。真っ平らな水面は、崖の焦げ茶色と木々の緑を斑に映し、不思議な重厚さを湛えていた。
入江には、見知らぬトローラーの他に、前日タイオハエを出航したばかりの[ディプロマティック・リトリート]と[Jazz]が錨泊していた。彼らは、水を補給したらツアモツ環礁へ向かうといった。
****
僕らがささやかな手土産を携えて上陸すると、ダニエル老が出迎えてくれた。水はさておき、僕らは彼の家を訪ね、マルケーサス諸島やこのダニエルス・ベイの話に耳を傾けた。
家には分厚い何冊ものログブックがあった。ケイハハヌイ・インのそれにも感動したが、ダニエル老のログブックは、さらに時代を遡る。
僕は、その中でロスとマーガレットのハル夫妻(有名な航海記『ふたりの太平洋』の著者)のページも見たし、もう本の中でしか目にすることのない著名な多くのヨットとキャプテンにも出会った。
ダニエル氏も昔は船乗りだった。だから、航海者にとって水が如何に貴重なものかを熟知していた。船を降り、このタイオアに住んで木彫師をする傍ら、彼はこの谷の良質の水を復活させ、しかもそれを容易に手に入れる一大プランを思い立った。いつ終わるとも知れぬ水道の架設工事が始まった。ポリネシア人らしい楽天的なマインドで、彼は、私財を投じてこつこつと何年も作業を続け、そして遂に完成したのだ。若かりし日を懐かしむように語るダニエル老の話は感動的だった。
今はもう、木彫も辞め、水を求めて訪れる船乗りたちと想い出を語ることが彼の幸せな隠棲の日々なのだそうだ。彼は最後に、
「アメリカ海軍の海図に、小さく『ダニエルス・ベイ』と名をとどめたことが、ワシの生涯の勲章じゃよ」と結んだ。
話が一段落すると、僕は水を分けて頂きたいのだが、と切り出した。彼は、
「午後三時頃に来なさい。それまでに水が溜まっているから」といった。
航路誌には、ダニエルス・ベイのノーノーは警戒を要するとあった。しかし、二時間近く語り合っても、僕らはそれほどノーノーに脅かされることはなかった。
三時過ぎ、僕らはポリタンを携えて再び岸を訪れた。ダニエル老は、[禅]の清水タンクを満タンにするまで、二〇〇リットルもの良質の水を分けてくれた。
翌朝、僕らは、岸辺で手を振るダニエル老と奥さんのアントワネットに送られてダニエルス・ベイを後にした。心に残るベイだった。
僕らは、もう一度タイオハエへ戻り、燃料や生鮮野菜などを補給した。
傍受した無線によると、[ディプロマティック・リトリート]と[Jazz]は、ツアモツへの航路で、凪に捉まって立ち往生しているそうだ。
余談になるが、ダニエルス・ベイのノーノーは、やはり只者ではなかった。翌日から猛烈な痒みを発し、ツアモツへの航海の間中、それは衰えることはなかった。
*
世界にツアモツ環礁ほど船乗りを震撼させる海は他にない。環礁という言葉は、通常英訳すればアトール、またはバリアリーフだが、ツアモツの場合、『アーキペラーゴ』、即ち、浅い珊瑚礁の危険な海域という。
かつてGPSが普及する以前、天測による航法でこの海域を夜間に走ることは、ほとんど狂気の沙汰といわれた。しかも、現在でさえ海図が完璧とはいえない。さらに、パス(ラグーンへの入口。潮流が物凄く早い)以外の潮流は気まぐれで予測が難しい。だから、環礁の所々には、打ち上げられ無惨に残骸をさらすレック(破船)を散見する。時には、灯台や航路ブイなどなきに等しいこの辺りで、破船が航行のランドマークだったりする。
ツアモツ環礁は、ほとんどが標高〇メートルに近い。時には一浬まで近づいても、まだ判然としないしレーダーにも映らない。電子航海計器が普及する以前、ツアモツ環礁海域に乗り入れるには決死の覚悟が必要だったといっても、あながち過言ではないのだ。
しかし、だからこそツアモツは美しい。訪れる人は極端に少なく、南ツアモツ(フランス軍が基地化し、原爆実験場にした)以外は、まるでタイムスリップしたみたいに手つかずのポリネシアが残っている。ツアモツ・アーキペラーゴは、今も昔も、魅惑的な魔女のように、向こう見ずなヨッティーたちを誘惑して止まない。
五月十一日、午前十時。僕らは、十二日間も滞在したタイオハエを後にし、ツアモツ・アーキぺラーゴのマニヒ環礁(ATOL MANIHI)へ向かった。航程は約四六〇浬。
抜錨後、スミコが舵を引き、湾口両岸のセンチネレ穿岩の間を通り、航海の無事を祈りつつ外洋へ出た。安定した東十二ノットの風に全帆を揚げ、[禅]は南西へ向けて快調に走り出した。
ローカル・タイム十二時、シーガルネットで[独尊]とコンタクトした。ヒバオアへ五十浬の位置を航行中とのこと。ゆっくり走って、明朝には入港することになるのだろう。久し振りの緑の洪水と土の感触はうれしいものだ。さらに、清水のシャワーや焼き立てのフランスパン、そして、温かいポリネシアの人々の笑顔が彼らを迎えてくれるに違いない。
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風が次第に吹き募っていった。夕方二十ノットだった東南東の風が、夜中には、南東三十ノットになった。クローズドリーチのトリムで走る[禅]は、折からの大きなうねりの中でローリングし、都度、風下舷が海中に没した。
激しい頭痛と軽い船酔い。少しでも眠れたらどれほど楽になるか知れないのに、とても安眠できる状態ではなかった。
翌日の午前中も時化は続いた。
十二時のシーガルネットで、[エープリル・フォース・ツー(四月四日・二世号)]にコンタクトした。
[エープリル・フォース]とは、日本人の松原さんご夫妻、通称・クニとノビの三十五フィート艇で、数年前、オーストラリアをスタートして、もうじき世界一周を達成するヨットだった。ヨッティーの間では、『フォーフォーツー』の略称で通っている。
いろんなヨットが、日の丸を掲げた僕らに[フォーフォーツー]の消息を尋ねた。まだ会ったことはなかったが、多くのヨッティーたちに慕われている様子から察し、彼らの素晴らしい人柄がしのばれた。
彼らは、ヒバオアへ残航四八〇浬を航行中といった。あと四、五日の航程だ。僕は、 「みんなが、[フォーフォーツー]を待っていますよ」とクニに告げた。
[独尊]とはコンタクト出来なかった。多分、今朝入港し、今頃は上陸していることだろう。三十日余りを費やした航海の後、陸はどんなに楽しいことだろう。
午後には風が二十ノットに衰え、風向きも東寄りになって随分楽になった。しかし、夕方からは、また昨日と同じ展開だった。
夜半、風は三十五ノットに吹き上がり、風向きも南東に変わった。昨夜よりも海況は悪かった。それに、頭痛はさらに激しさを増し、目眩さえ起こさせた。
頭痛は、僕の頚骨が三十五年前の交通事故によって極度にずれていることに起因し、気象の不安定、つまり前線の接近・通過など気圧の急激な変動で起こる。ひどくなると、眠りの中でさえ痛みを感じているし、そうなるとどんな鎮痛剤も効を奏さない。後は、ひたすら天気の回復を待つばかりだ。
闇夜の中で[禅]は大きくローリングし、波に突き当たり、船底が割れそうなパンチングを喰らう。コックピットに出ると、痛いほどの飛沫が顔を打ち、目を開けていることも出来ない。
ウインドジェネレーターが、例によって飛行機が離陸する時のような金切り声を上げ、僕の神経にヤスリをかけるようだ。気分はもうズタズタだった。
気象のパターンは、マニヒに着くまでの四日間変わらなかった。風で走るヨットで旅しているのに、僕は、だんだん風が嫌いになっていきそうだった。
五月十四日も時化は収まらなかった。体調が最悪だし、火を使う料理が出来ないから食欲も湧かない。何もかもが悪循環を深めていった。一刻も早く静かな泊地にアンカーを打ち、心に煩いもなく眠りたいと思った。
今日のシーガルネットで、藤村氏の[ホープ・ツー(希望号)]が、一昨日帰国、糸満に入港したといっていた。何度も沈没の危機に瀕し、それでも世界一周を成し遂げた彼の精神力に、心からの敬意を表する。
五月十五日、午前二時。マニヒ環礁とタカロア環礁の中間点を通過した。マニヒまでは、残航三十三・四浬となった。朝八時頃タイラパ・パスに到着することになる。
しかし、パス(環礁の入口)はマニヒ環礁の南西端にある。八時では太陽を正面に見てパスを入ることになるから、海底が見えず、パスやラグーンの中の航行が出来ない。少し時間調整が必要だ。僕は全てのセールを降ろした。それでも[禅]は、折からの潮流と強風を受け、三ノットで走った。
午前八時、海面にまばらな毛が生えたように、数本の椰子の木立が見えた。あれがマニヒ環礁だろう、多分。やがてリーフに砕ける白波の線も見えてきた。九時半、環礁の東端に差し掛かった。調整の甲斐あって、タイラパ・パスの正面に着いたのが正午過ぎ。パス通過には、全く理想的な時間だった。ヌクヒバからマニヒまでの航海は、四日と三時間あまりの苦行を以って終わった。
***
パスの幅は、いちばん広い所で七十五メートル、狭い所では四十メートルしかない。しかも、あちこちにボミー(爆弾。転じて航行に危険な暗岩を意味する)が潜んでいる。
スミコが、マスト右舷のシュラウド(マストを左右から支えるワイヤー)に編んだ梯子を登って海底の浅深を読み、舵を引く僕に伝える。その合図に従って、僕は、パスの中へ[禅]を進めた。
通常、パスの潮流は川のように速い。干満の最盛時には、水面は湯が沸騰するように沸き立つ。引き潮の時など、馬力の弱いエンジンでは進入が難しいこともある。
幸いにも、僕らがアプローチした時、パスの中は停潮時だった。それでも、錯綜する流れに抗し、エンジンの出力を最大にして舵効きを確保しなくてはならなかった。
右舷にヴィレッジがあった。パスに面して広場があり、それを囲むように何軒かの素朴な家が見える。コンクリートのワーフに大勢のローカルが集まって、入港する[禅]を見物している。手を振って挨拶すると、みんなが口々に「ボンジュール」といって無邪気に手を振り返してくれた。[タアロア]のウォーカー由理子さんが彼女の著作『タアロア号、南太平洋をゆく』(舵海洋文庫)でいっていたような、シャイでちょっと陰湿な島民という様子は全く見受けられなかった。
長さ十六浬、幅六・五浬のラグーンの海面は、二十五ノットの強風に白くささくれ立っていた。
パスを抜けると、直角に右へ曲がる。ラグーンの中を東へ一・五浬ほど進み、ヴィレッジがある島の次のモツ(リーフ上に出来た小島)の際にアンカーを入れた。水深は、ほぼ二十メートル。六十メートルものチェーンを全部出しても十分とはいえない深さだ。この強風の中、大丈夫だろうか。走錨すれば、無数にあるボミーや浅瀬に激突してしまう。
先着艇の[ディストニー]のディルがディンギーでやって来て、アンカーラインがコーラル・パッチに絡むので用心するようにと告げた。揚錨の折、若しアンカーが揚がらない場合は、パール・プランテーション(黒真珠の養殖場)のダイバーに頼んで解いてもらう。料金は三〇〇〇フランだといった。
航路誌などには、コーラル・パッチのことは記載されていなかったから、誰も警戒をしていない。しかし、後で分かったことだが、ほとんどのヨットがチェーンをコーラル・パッチに絡めるというアクシデントを体験していた。これは、後続艇への申し送り事項だ。
そう思っていると、やがて[ディプロマティック・リトリート]が入って来た。そして、申し送りを告げる暇もなくアンカーを入れた。
ちょっと[禅]に近すぎると思った。ヴァーニーもそう感じたらしく、すぐアンカーの打ち直しにかかった。ところが、その時はもう、彼のチェーンはパッチに巻きついて揚がらなかった。
ヴァーニーは、スキューバの装具をつけ、チェーンの状態をチェックするために潜った。
[ディプロ]のチェーンも、[禅]のチェーンも、海底に屹立する巨大な珊瑚の岩に巻きついていた。ヴァーニーは、
「考え方によっては、アンカーが珊瑚砂を噛んでいるよりもこの方が安全かも知れないぞ。でっかい岩の柱に係留しているようなものだからね。ただ、[禅]のアンカーは、ちょっと絶望的だ。プロのダイバーに頼まなくては揚がらないかも知れない」といった。チェーンがコーラル・パッチに巻きついているだけでなく、アンカーが海底の二つの岩の間に挟まりかけているのだそうだ。
[ディプロ]と[禅]は、絶えざる強風と強い潮の中、互いに至近距離にいたのにもかかわらず接触することもなく、安全にマニヒでの時を過ごした。ただし、チェーンが岩を擦る不快な音がキャビンの中に反響し、随分スミコの不安を掻き立てていたようだ。
強風は時に四十ノットにもなった。錨泊しているヨットの舳先が、まるで全速で帆走しているように海面を切り分けている。そんな状況だから、世界一美しいコーラル・リーフを目の前にしてシュノーケリングのチャンスもなかった。スミコが、「まるで、犬の鼻先に肉片をぶら下げているみたいにストイックだわ」といった。
遂に、ヴァーニーとメリールーが意を決し、モツの陰のわりと風が穏やかな辺りでシュノーケリングを始めた。僕らもそれに習った。
風と潮に流されて十分には楽しめなかったが、それでも海底は、正にツアモツならではの花園だった。色とりどりの珊瑚の間を、美しい熱帯の魚が群れをなして泳ぎ、リーフの縁は断ち割るように神秘の深淵へと落ち込んでいた。それは、時間の流れを忘れさせるほど、圧倒的な魅惑に満ちた景色だった。
しかし、岸辺のいくらかの場所で、広範囲にわたって珊瑚が死滅している部分があった。人為によるもかどうかは分からないが、それは、本然的に文明の毒をわが身に帯びている僕らを、束の間、後ろめたい気持ちにさせた。
五月十七日、[ワミンダ]がやって来た。ゲーリーがアンカーを打ち終えた頃、今度は、英国旗を掲げた[シーレーブン]が到着した。[シーレーブン]は、カナダのバンクーバー島に住む英国人ジェリーとビヴィアンの艇で、その後の航海で、もっとも親しくなった友人たちだ。
彼らは、[禅]よりも岸寄りにアンカーを打った。アンカーラインは、チェーンではなくロープだった。そして、その三十分後、[シーレーブン]が岸辺を漂流していた。いち早くジェリーが気づき、ラインを手繰り寄せると、それは、まるで剃刀で切ったように滑らかに切断されていた。珊瑚礁の鋭利さにぞっとさせられる出来事だった。彼らはすぐ、チェーンに替えてアンカーを打ちなおした。
アルミのテンダーが[禅]に横付けして、[フォーフォーツー]の消息を尋ねた。彼は、フィリップというオランダ人で、つい先頃マニヒに到着したのだが、外洋側のリーフに乗り上げてヨットを失ったそうだ。
「マニヒに接近したのが夜中だった。我々三人は、ワインを飲みながら交代でウォッチして、外洋で夜明けを待っていたんだ。強い風が吹いていたけど、沖側への風で、そんなに危機感はなかった。ウォッチがちょっと居眠りした時、急に風が変わった。物凄い衝撃でデッキへ飛び出してみると、[MINIPHIOL]は既にリーフの上に横倒しになっていた。僕らは、テンダーを降ろし近くのモツへ避難した。翌朝、艇に戻って調べてみたが、船腹には大きな穴が開いていて、艇を助ける方法はなかった。貴重品や使える船具を持ち出した。さらに暫くすると、[MINIPHIOL]は波にさらわれ、呆気なく外洋の深海に沈んでしまった。クニとノビに会いたい。そして、彼らと今後のことを相談したいんだ」フィリップは、涙に潤む声でそういった。
「OK、時々無線連絡がとれるから、その時伝えよう。出来るだけ早くマニヒに来るようにいっておくよ」そういって僕らは別れた。彼はいま、マニヒの西側にある滑走路近くのホテルで仕事をしているといって帰って行った。
[ディプロ]も[ワミンダ]も[シーレーブン]も、そして[禅]の僕らも、吹き続く強風にすっかり気分を滅入らせていた。ヴァーニーが、「航路誌には、十五ノットのハッピーな貿易風が吹き続くと書いてある。なにが十五ノットなものか!」と憤懣をもらした。
誰もが、次にランギロア環礁、或いは、さらに別の環礁を探訪する計画でいたが、もうこの強風には嫌気がさしたといった。ツアモツ・アーキペラーゴはもういい。タヒチへ行こう。いつの間にか、そんな話がみんなの間でまとまっていった。
そういう状況だったから、ヴィレッジへの上陸も対岸のリゾートへの訪問も、さらにローカルとの交流も、何故か精彩のない想い出になってしまった。僕らは、ひたすらマニヒ脱出のタイミングを待った。
タヒチへ向かうにしても、わざわざ大時化に出る必要はない。全員が、僕の気象予報に従うといった。僕は、毎朝、ハワイの気象ファックスをとり、解析し、さらに全員が集まって協議した。二十一日の朝、ヴァーニーが聞いたところによると、ランギロア環礁にゲール注意報が出て、四十五ノットの南東風が吹くといっていたという。それは、僕の予測とも一致していた。
二十二日、気団の隙間が現れた。僕は、それを出航のタイミングと読んだ。
全艇が出航の準備に取り掛かった。停潮時の午前十一時半に合わせ[ワミンダ]が抜錨し、[シーレーブン]がそれに続いた。予め観察しておいたアンカーとチェーンの状態に即した揚錨で、それほど苦労もなくアンカーが揚がったようだ。
次は[ディプロマティック・リトリート]。彼らのアンカーが揚がらないと、それに交差した[禅]のアンカーも揚がらない。揚錨作業中にスコールが来て、一時、突風が吹き荒れた。それが通過すると、[ディプロ]もなんとかアンカーを揚げて出航して行った。三艇が、間隔をおいてパスへ向かっている様子が、未だアンカーが揚がらない[禅]から遠望できた。
しかし、[禅]のアンカーがいちばん難しいとヴァーニーはいっていた。僕は、彼が描いてくれた海底とチェーンの関係図を頭の中に描いて揚錨作業を開始した。
僕が舳先に立って、そろそろと手でチェーンを引き揚げる。さらに、チェーンがどちらに傾斜しているかを見澄まし、舵をとるスミコに手で合図する。スミコは、合図に従って超微速で艇を進める。チェーンが垂直になると、僕は再びそれを巻き上げる。大きなヨットを十センチ刻みで動かすという精密作業だった。前進が早すぎたり、乱暴だったりすると、僕は何度もスミコを怒鳴りつけたし、スミコも負けずに怒鳴り返した。緊張の小一時間だった。試行錯誤を繰り返しながらも、どうにかアンカーが揚がった。コーラル・ヘッドを擦り続けたチェーンは、錆も亜鉛メッキも剥がれ、鋭利な刃物のようにピカピカに光っていた。僕らはパスへ急いだ。
パスの潮流はどうなっているだろう。しかも、干潮が始まると、浅いパスのボミーが実際の脅威になる。三艇のヨットたちは、もうパスを出て遥か外洋を走っていた。
パスに差し掛かった。もう、十二時十五分だった。入口のいちばん浅いところでキールが岩に当たった。大急ぎで後進して、何とか座礁は逃れた。しかし、パスの中は、既に『ボイルド・ウォーター』だった。つまり、潮が湧き返っていたのだ。スミコは引き返そうといった。しかし、コーラル・パッチにチェーンを絡め、もう一度揚錨に苦労するくらいなら、この潮波に挑む方がましな気がした。僕は、エンジンの出力を最高まで上げて突き進んだ。ワーフでは、ローカルたちが並んで見物していた。僕は、彼らに手を振る余裕もなかった。大揺れに揺れながら、[禅]は、約九〇〇メートルのパスを一気に駆け抜けた。
あんなに美しいラグーンなのに、マニヒでは強風に泣かされ続けだった。遠ざかる環礁を振り返りながら、僕は残念でならなかった。
外洋は、昨日までの強風とは打って変わって、帆走には物足りないほどの軽風が吹いていた。
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