■Part―3・The South Pacific Ocean 《その先の海》


[ライアテア(RAIATEA)]

六月二十五日、午前九時半、僕らは、二十日間も滞在した南太平洋のパラダイス、モーレア島のクックス・ベイを後にした。行き先はライアティア島(Ile Raiatea)。モーレア島の西北西一〇二浬にあって、タハア島(Ile Tahaa)と同じバリア・リーフに囲まれた島だ。

ライアティアには、シャルバーグ・八千代さんという日本人がいて、僕らの物資や郵便物の中継点になってもらっていた。それに、日本から、僕たちの長期滞在に合わせていろんな友人たちもやって来る。

また、八千代さんのご主人のオリヴィエは、かつてムァリング社でチャーター・ヨットのスキッパーをしていた関係で、僕らのためにアポイティ・マリーナにバースをとってくれている。ライアティアには、モーレアとは一味違った楽しみが僕らを待っていた。

出航時は霧雨が降っていた。いろんなヨットからの「またどこかで会おうぜ。ハブアナイスセーリング!」という声に送られて、僕らはクックス・ベイを出航した。船尾には、 [シーレーブン]のジェリーとヴィビアンが昨夜届けてくれた『Bon Voyage』と書いた風船がなびいている。彼らは、今朝早くタヒチへエンジン部品の調達に出かけるので、昨夜、お別れをいいに来てくれたのだ。

雨は午前中に上がった。そして、午後三時頃には青空も見えてきた。海はその青さを取り戻し、後方には、今まで見えなかったタヒチとモーレアの島影が、雲が峰をなす水平線にくっきりと浮かび上がった。

久し振りのオーバーナイト。長期にわたって楽をし過ぎた罰で、少々船酔いが辛い。

**

明け方、フアヒネ島(Ile Huahine)を右舷に見て通り過ぎた。前方には、朝靄の中にライアティアとタハアの島影も見えてきた。テアヴァピティ・パス(Passe Teavapiti)までは、あと二十三浬ばかり。

昨日とは打って変わって、素晴らしい天気だ。マストの上を飛び交う真っ白いトロピカル・バードもコバルトブルーの海も濃い緑の島々も、まるでそれ自体が光を放散するように輝いて見える。

十時半、中央に小島があるテアヴァピティ・パスを通過した。正面には、ウツロアの街が迫り、その背景にタピオイ山の緑が美しい。

ラグーンに入って以降は、ピーコック・グリーンの水面を、整備されたブイに沿って注意深く辿ればいい。パスを通過してすぐ右へ折れ、ウツロア・ヴィレッジの中央部と市民マリーナを左に見てライアティア島の北端へ進み、さらに、左舷に空港を過ぎるとライアティア島の西岸へ回り込む。その曲がりっ鼻が僕らの寄港地アポイティ・マリーナだ。

アポイティ・マリーナは、タヒチからボラボラ島までのソサエティー諸島のチャーター・ヨット基地だ。四十〜五十フィート級のべネトウやジャヌーが三十艘ほどもマストをそびやかし居並ぶ様は、なかなか壮観だ。

ジェティーに[禅]を着けてマネジャーのジョンミッシェルに会った。ほとんど英語が通じない。それでも、オリヴィエが話を通してくれていたから、何とか係留場所に[禅]をスタンツー(舳先を沖側のブイにとり、船尾を岸に繋ぐタヒチアンスタイル)で係留した。

岸には水道と電気が設備され、広々とした芝生の向うには、ライアティアで最高級のバーとレストランがある。ヨッティーとしては、ちょっと贅沢過ぎる雰囲気だ。

***

ライアティアには、正味二ヶ月余りも滞在し、そのほとんどは来客との交流に費やされた。

まず、六月二十八日に、サン・ディェゴで知り合った末兼氏がやって来た。彼は、八千代さんのお世話で、ヴァカンスで本国へ帰っているフランス人の住まいを一ヶ月間賃借しライアティアに腰を据えた。

七月一日には、モーレアからKenがやって来た。アポイティ・マリーナのジェティーに係留したが、係留料があまりに高い(短期係留だと、当時、一日一三〇〇フラン程=約一五〇〇円)と、翌日には東岸にある市民マリーナへ移って行った。

二日には、八千代さんのところへ取材に見えた永山さんというカメラマンが訪ねてくれた。彼は茶道に造詣が深く、私もまた半ちくなお茶を嗜むので、南太平洋の孤島で永山さんと茶会を開いたことは想い出深い。[禅]には、茶釜こそ積んではいないが、それ以外の茶道具はすべて揃っていた。

七日には、スミコの友達の敏子さんがみえた。彼女は、看護婦さんで、さる大病院の婦長を務める才女だ。また、サン・ディェゴの長期滞在型の日本人グループにも属し、悠々自適の暮らしを楽しんでいた。当時、俳句に没頭していた彼女の話題といえば俳諧だから、日本人仲間からは煙たがられていたが、私とは妙に話が合う人だった。

八月十八日。海洋生物学者の真美ちゃんとロケット打ち上げに携わる小暮和美ドクター(博士)が到着した。彼女らもスミコの友人だが、実に人間のスケールが大きく、興味深い個性の持ち主たちだった。彼女らは、対岸のサンセット・ビーチ・ホテルのバンガローに宿をとった。

そして、何といってもライアティアの圧巻は、日本のヨット四艘が、アポイティ・マリーナに舷を並べたことだ。その折のリポートは、一九九七年十二月号の舵誌、「長期航海者たち」に掲載されたし、口絵写真を見開きで飾らせてもらったのでご記憶の読者もいらっしゃるのではないだろうか。

その写真には、南太平洋色に日焼けした八人の航海者たちが、正に人生の最良の時を身にまとって笑みを湛えている。当時六歳の碧(あおい)ちゃんを含め誰の顔にも自信が漲っていて、それぞれが内に秘めた煩いを突き抜けたような澄み切った表情をしているのが懐かしい。

敏子さんがライアティアに到着するのを待って、[禅]と[ファーザー]は、七月九日、ボラボラ島(Ile Bora Bora)へ向かった。航程は北西へ二十・五浬。[ファーザー]には、Kenと末兼氏、[禅]には、僕らのほかに敏子さんが乗った。

海況は、数日続いたマラエというこの地方の季節風の名残で波立ち、ボラボラの南端を示す灯台を巡る辺りは、壮絶といえる白波がリーフを包んでいた。さらにリーフに沿って北上し、テアヴァヌイ・パス(Passe Teavanui)を通り、本島から一浬弱離れたトプア島(Ile Topua)の島かげにアンカーを降ろした。

悪天候続きだったが、なんとかシュノーケリングも楽しめた。ただ、後で聞くと、あの辺りは、レオパード・レイ(斑模様のエイ)の棲息地だそうだ。それを知らない僕らは、月並みな海底散歩で終わってしまったのは残念なことだった。

それにしても天候は荒れっぱなしだった。重々しい曇天に、強風、スコール、突風が次々にやって来る。馴染みの艇が何艘も入ってきたが、みんな所在ない様子だった。

十一日、僕を除く四人がボラボラ本島巡りに出掛けた。久し振りの一人。何故みんな、何かをしていないと満足しないのだろう。追いかけられるように、次は何をしようかと考え、急き立てられるように行動する。何もしない贅沢だってあるだろうに・・・。僕は、その日一日、のんびりと本を読んだり、うたた寝したり、無為で満ち足りた日を過ごさせてもらった。

本島巡りから帰ったスミコが、ボラボラ・ヨットクラブへ移りたいといい出した。ヨットクラブといっても、レストランの前にブイがあるだけで、別にクラブの態様を整えている訳でもない。係留料は、一泊二十五ドル。冗談じゃないという高料金だが、レストランで食事をすればタダになるという不思議なヨットクラブだ。

いい出したら聞かないスミコに促されて、翌日、[禅]と[ファーザー]はトプア島のアンカレッジを離れ、ヨットクラブのブイへ移った。係留料の代わりに、レストランで食事をとったことはいうまでもない。

確かに、方向の定まらない突風の中、アンカーではなくブイに舫いをとることは安心できる。二日間、あちこち観光して歩く彼らを送り出して、僕はまた、のんびりと寛いだ。

十三日、朝七時、エンジンの不調を直してから十八日までに帰るというKenを残して、僕らはボラボラを後にした。十八日には、日本艇の[唯我独尊]と[エープリル・フォースII]がアポイティ・マリーナに到着する予定だ。

ボラ滞在中は、あんなに不安定だったのに、いざ帰路となると、皮肉にも天気は快晴になった。僕らは、穏やかな海をのんびり航行し、午後二時にはライアティア島西岸のラウトアヌイ・パス(Passe Rautoanui)を通過し、アポイティに帰還した。

十七日、末兼氏が、チャーター・ヨットで八千代さん一家も含め、タハア島一周クルーズをしようといい出した。オリヴィエが、チャーターの折衝とスキッパーはオレに任せろと請合った。話はとんとん拍子に進み、僕もただ乗せてもらうだけということで同乗することになった。

艇はべネトウのファスト405。大きくて、何もかもゆったりしているが、外洋航行のヨットしか見ていない僕にとっては、何とも頼りない軽さに見えた。まあ、どうせラグーンの中のハイキング。気にすることもない。

タハア島東岸中程のトアホツ・パスの北にあるマハエア・モツ(Motu Mahaea/モツは珊瑚砂で出来た小島)の浅瀬にヨットを停めて上陸し、真っ白な砂のビーチでお弁当を広げた。いろんなグループが来ている。安全だし、ちょっとしたボートがあれば簡単に来られるので、ローカルにも人気のあるハイキング・ポイントだそうだ。こういう所は、地元の人に教わらなくては見つからない。

タハア西岸を回って、僕らは、夕方、アポイティ・マリーナへ帰還の途についた。

マリーナに近づくと、入口のブイに、何と、[唯我独尊]と[エープリル・フォースII](以後[4・4・II])が舫いをとっているではないか。十八日の予定だったのに、一日早く到着したようだ。

僕は、早速マネジャーのジョンミッシェルに会い、舵社が発行してくれたプレス証明書を示した。そして、「このリポートと写真が日本のボート雑誌のKAZIに掲載されるので、マリーナに日本艇四艘が係留出来るように計らって欲しい」と申し出た。さらに、それぞれの係留料を安くしてくれるなら、記事の印象も良好なものになるに違いないといい添えることを忘れなかった。プレスの肩書きは、世界中どこでも相当の威力を発揮するもので、ジョンミッシェルもいつもの渋い顔を見せず、バースを整えてくれた。

さあ、大変だ!普通の日本人旅行者に会ってもうれしいのに、日本のヨット二艘がやって来たのだ。そして、明日には、Kenもボラから帰って来る。これはもうお祭りだ!

やはり、ヨット乗り同士というのは懐かしいものだ。特に、[独尊]とは、サン・ディェゴのミッションベイ・マリーナで別れて以来の久闊だ。当時五歳だった碧(アオイ)ちゃんも六歳になり、すっかり航海に慣れて、随分逞しく成長していた。彼女と僕は、サン・ディェゴ以来、大の仲良しだった。

[4・4・II]の松原ご夫妻とは初対面だが、互いに噂は聞いている。彼らは、数年前、オーストラリアを出て、インド洋、紅海、地中海、大西洋、カリブ海を回り、パナマ運河を経て南太平洋へやって来た。もうすぐ世界一周達成の大ベテラン・セーラーだ。僕らは、たちまち旧友みたいに親しくなった。

僕は、みんなを誘ってマリーナの美しい芝生の向こうにデンと構えたバーへ繰り込み、歓迎の乾杯をした。豊かに湧き立つ泉のように、新鮮な話題がいくらでも飛び出してくる。多くを語らなくても分かり合える者同士というのは、際限なく語り合っても疲れることがない。夕食の後もまた互いの艇を訪問して語り合い、夜更けて、僕らは満ち足りた気分で寝床についた。

十二時を回った頃、誰かが船体をノックした。出てみるとKenがいた。

エンジンはついに直らなかったそうだ。夕方、帆走でボラを出航し、微風の中、明朝にはライアティアに着くと予測したのに、潮がよすぎてこんなに早く着いてしまったといった。それにしても、エンジンもないヨットで、岩礁やコーラル・ヘッドだらけの真っ暗闇のラグーンの中を、よくぞ無事に航行して来たものだ!僕は、感動に近い驚きで彼を歓待した。今夜、[ファーザー]はジェティーに係留している。朝になったら、日本艇四艘を舷を接して並べよう。

****

マリーナでは、舷々相磨す四艘のヨットに四旒の日の丸が棚引いている。その様は、誇らしく感動的だった。チャーター・ヨットの客やクラブ・メッドの豪華客船で島を訪れた白人の観光客たちが、日本が、こんなに外洋航海が盛んな国とは知らなかったと驚いていた。それはそうだろう。僕らだって、日本から遠く離れた南太平洋の小島に、日本のクルージング艇が四艘も並んだ話は聞いたこともない。

僕は、炎天下、岸壁の石のベンチをカウンター代りにして、[禅]のカクテル用具と洋酒を持ち出してカクテル・パーティーを開いた。芝生のすぐ向うには、ライアティアでも由緒正しいバーがあるというのに。

最高に気分が高揚した彼らによって、マテニーやマンハッタン、それにダイキリやブルーハワイ、青い珊瑚礁などのカクテルが乾いた砂に水を注ぐように飲み干されていった。氷が必要になるとバーで分けてもらう訳だが、それは碧ちゃんの役目。大人が行ったら営業妨害だといわれるだろうが、子供では文句のつけようもないという読みだ。

観光客が、呆然と僕らの盛り上がりを遠巻きに眺めている。日本のお盆休みのクルーズなどで、どこかの漁港の岸壁で繰りひろげるハチャメチャな宴会風景が、フレンチ・ポリネシアのリゾートに再現したと想像してもらえばいい。普通なら、陽気な場に躊躇いもなく飛び込んで来る西洋人たちも、僕らの底抜けの陽気さには、さすがに接近しようとはしなかった。

女性たちは、ふんだんに使える真水に狂喜して、塩気を含んだものは何でも洗濯している。いつ果てるとも知れぬ井戸端会議は盛況を究めた。だから、ヨットは洗濯物の満艦飾だ。ドレスや帽子や下着や靴下や靴、そしてシーツや寝具。挙句の果てに、縫いぐるみまでがステイやライフラインにぶら下がっている。

碧ちゃんは、ディンギーを陸に揚げ、そこに真水を張ってプールを作ってしまった。それでも飽き足らず、酔って木陰で昼寝しているクニさん([4・4・II]のご主人。奥さんは、ノビさん)に、ホースから迸る水をかける。クニさんは碧ちゃんを追いかけ回し、終いには水かけ合戦だ。碧ちゃんは、ホースをくわえ、口に含んだ水を「逆噴射ァ!」といってクニさんに噴きかけている。

[独尊]の馨くんと倫子さんは、スキューバのライセンス取得に忙しい。碧ちゃんのベビーシッターは、ノビさんと僕の役目だ。僕は、絵を描いたり、キーボードを弾いたり、時には追いかけっこをしたり。しかし、その遊び方は、とても日本では思い出すも気恥ずかしいほど童心になり切ったものだった。碧ちゃんは、始終、大きな口を開けてアハハ、アハハと笑い転げていた。

夜は、末兼氏の家でポットラック・パーティーだ。互いに何かを持ち寄り、敏子さんを含む女性軍が料理に精を出す。

南国の夜風が爽やかに吹き抜けるベランダに、夜毎ビールを酌み交わし、料理を楽しみながら尽きぬ話題に夜は更けてゆく。話に飽きれば、トランプ遊びが始まる。

そんな団欒の中を、ふと潮の香が流れ、虫の声がさんざめき、椰子の木立が心地よい葉擦れの音を奏でる。

ここはどこだろう。一瞬、既視感のような意識の空白と、懐かしさに似た安らぎが柔らかく僕の心を包む。

これほど何一つ煩いもない充足が現実にあるだろうか。こんなに完璧な至福の時、いま僕らはどこにいるのだろう。特定の場所を思えば、そこには必ず何かのしがらみがある。人間関係やそこから派生する利害や義理や仕来りや・・・。それらがなんにもない場所に、いま僕らはいる。

ここは、どこでもない夢のような場所。これがパラダイスというものなのか。そんな思いが僕の中を静かに過ぎって行く。僕は、みんなの顔を見渡した。誰の表情にも、ここまで来なければ得られなかった夢見るような幸福感が漲っていた。

*****

夢はいつまでも続かない。

七月二十二日夕方、Kenが、次の寄港地サモアへ向けて出航して行った。

いつか別れは来る。港みなとで、親しい仲間と数え切れないほど別れを繰り返してきたというのに、この感情に慣れることはなかった。いつも、やがて来る別れという想念を親指でひねり潰し、心の片隅へ追いやってきた。

しかし、Kenとの別れは、かつてないほどの寂寥感をもって僕に迫った。それはまた、一人欠けることによって、この至福の時もやがて終焉するという先触れでもあった。

彼は無線も積んでいない。だから、これから先、どこをどう航海しているか確かめる術もない。板子一枚下は地獄の航海に、ただ彼の腕と幸運を信じる以外に彼を案ずる思いの行き場がない。何の裏付けもない信というものは辛いものだ。

僕らは、それぞれの心の内を覆い隠すかのように、そっけない握手でKenと[ファーザー]を送り出した。

末兼氏、敏子さん、そしてスミコが、小型機でマウピティ島(Ile Maupiti)を訪ねている折、オリヴィエとアポイティ水族館館長の誘いでハイキングをした。行き先は、ライアティア島の最高峰の山頂にあるプラトウ(山頂の平坦な部分)。道路などない急斜面を一一〇〇メートルの標高まで登るという、ハイキングとしてはかなりハードなものだった。

館長のファミリーは、急斜面を息も乱さずに登って行く。途中、岩盤を滑るように下る滝や平坦な木陰で小休止したとはいえ、歩く機会が乏しいヨッティーの僕らには、相当に応えた。それに、碧ちゃんがギブアップしたら大変だ。僕は、彼女の気を引き立てるように追いかけっこをしたり、先回りして木陰に潜んで後続の大人たちを驚かせたりしながら登攀した。時々、心臓が持つだろうかと怪しむ局面もあったが、僕らは遂に山頂を究めた。

その眺望は、何といおう。未だかつて、あんなに透明で、しかも色彩に溢れた景色を観たことがない。ライアティア島のほぼ全周が目の下にあった。しかも、その色合いの驚くばかりに明るく鮮やかなこと!

目路の果てまで広がるコバルト・ブルーの大洋に、朧気に霞む遥かなフアヒネ島が浮かんでいる。ライアティア島のバリアリーフに砕ける波は、まるで真っ白なレースの縁飾りのようだ。その内側のラグーンは、輝くようなピーコック・グリーンやセルリアン・ブルーの斑模様。さらに、足元から岸辺へ降るジャングルの生気溢れる深く鮮やかな緑・・・。僕らは、滴る汗を拭うことも忘れ、暫し呆然とその眺望に心を奪われていた。

七月二十六日、[4・4・II]が出航し、翌日、[独尊]がボラボラ島へ旅立った。また、末兼氏と敏子さんも二十六日に帰国の途につき、ライアティアには、[禅]だけが取り残された。

過ぎ去った日々が余りにも満ち足りていたせいか、ぽっかりと穴が開いたようだった。どこからともなく、『祭りのあと』という空虚な思いが湧いて来て、僕の心の中を漂っていた。

******

遂に八月になった。

いつまでも祭りのあとを噛み締めていても仕方がない。僕らはタハア島クルーズに出かけた。クルーズといっても、タハアはライアティアと同じバリアリーフの中にある島だから、隣りの港へ行くほどの手軽さだ。

タハアは、岸辺が非常に深く、アンカーが届かない所が多い。僕らは、ハアメネ・ベイにあるハイビスカス・インのブイに舫いをとった。このブイは無料だが、宿かレストランを利用しないと使えない。僕らは、タヒチアン・ダンスのディナー・ショーを申し込むことにした。ディナーは、大きなマヒマヒの丸ごとのムニエルやローストビーフ。それをオーナーのロイが取り分けてサーヴィスしてくれる。ショーは、ダンサーの若い女性や子供も伴奏のバンドも全てタハアの村人だから、素朴でとても味わい深い。素敵な心和むディナーだった。

村人は、その大半が黒真珠の養殖を生業とする。僕らは、その一つを訪ねた。養殖業者は、日本の会社と特約しているので、真珠を売ることは出来ないといった。そういいながらも玄関払いする気配はない。そこで、もう一押しすると喜んで真珠を見せてくれた。

トレーの中から上品で深い色合いの見事な黒真珠を手にとって値段を尋ねた。二万フランといった。僕は、高いといって諦める素振りを見せた。慌てて一万五〇〇〇フランと値を崩してきた。僕はなおも首を振った。

いくらなら買う?と尋ねられた。八〇〇〇。僕は、八本の指を立てる。相手は、大げさに両手を広げ原価にもならないと嘆いてみせ、一万ならどうかといった。OK。僕はお金を払い、とうに過ぎていたスミコの誕生日プレゼントにした。

僕らがその家を出て表通りに差し掛かった時だった。突然、家の中から「ブラボー!」という歓喜の叫びが聞こえてきた。僕らにとって、それなりに価値ある買い物で満足してはいたが、スミコと顔を見合わせ、「もっと値切れたってことだネ」といって苦笑した。

でも、いいじゃないか。彼らが喜べる利潤を差し上げられたのだから。どうせ、儲けを祝う酒盛りに、それが一晩で、跡形もなく費やされてしまうにしても・・・。

翌日、ハアメネ・ベイに近いトアホツ・パス(Passe Toahotu)へ、ディンギーでシュノーケリングに出掛けた。昨夜のディナーの席上、フランス艇のご婦人に教わったポイントだった。 パスの岸辺にアンカーを入れた。流石にパスの潮流は猛烈に速い。僕は、スミコにロープを結び付け、まるで長良川の鵜匠のようにディンギー上で見張り役だ。

しかし、命綱のロープは、却って手足に纏わりついて危険と分かって解いた。鵜匠役が不要になったから、僕もシュノーケリングに加わった。

トアホツ・パスの海底は、今までに見たどの珊瑚礁よりも素晴らしい景色だった。。珊瑚や海藻が豊富だから魚の数も種類も多く、それら全てが自ら発光するかと思える鮮やかな色彩に輝いていた。しかも、海底は崖になってパスの中央の光も届かない深みへ急角度に雪崩落ちている。世界は明るいコバルト・ブルーの珊瑚礁の花園からプルシャン・ブルー、さらに濃い藍色のモーヴの深淵へとグラデュアルに変化していた。

その遥か上の水面に浮かんでいると、僕の内に異次元の宇宙が描き出された。僕は光と水の粒子に分散し、この情景のどこにでもいて分かち難く一つだった。僕を離脱した純粋に耽美的な感性が、それを遥かな高みから見下ろしている。海底の花園に恍然と同化しつつさらにその上空を浮遊し、僕は目くるめく珊瑚礁のファンタジアに酔い痴れた。

八月十日、フアヒネ島へクルーズに出かけた。午後二時半には、アヴァモア・パス(Passe Avamoa)を通り、僕らはファレ(Fare)というヴィレッジのはずれにアンカーを入れた。目の前にはホテル・バリハイがあって、ビーチは観光客で華やかに賑わっている。さらに、この狭いアンカレッジには、十二艘ものヨットがひしめき合い、今にもぶつかりそうな混雑振りだった。

[禅]のすぐ前には、ヒバオア島のアツオナ港でデスマストしていたペルーの黄色いカタマラン[サギタウロ]がいた。それは、潮と風の加減で時には二メートルほどまで近づいて来る。すっかり顔なじみだったから、互いにクレームこそいわないが、彼らも不安なのが顔に出ている。僕は、
「やあ、元気だったかい?マストが手に入ったんだね」と声を掛けた。[サギタウロ]には、完璧なマストが立っていた。
「うん、マニヒ環礁で上陸したら、ヴィレッジでフランス人のヨッティーに会ってねェ。『どの船だい?』と尋ねたら、奴は黒っぽいヨットを指差したよ。オレは、『あァ、あのカタマランか?』といった。そうしたら、彼は、かつてはトリマランだったというじゃないか。オレが首を傾げていると、
『タイオハエからマニヒへ来る途中、サンダーストームに巻き込まれ、ノックダウンを喰らってポート側のハル(船体)がもぎ取られてしまった』というじゃないか。これからどうするのかと尋ねると、
『どうもこうもないよ。あのヨットで、もう航行は出来ない。俺たちの航海はここで終わりさ』と寂しそうにいった。オレは、
『そいつは災難だったなァ。ところで、不幸につけ込むつもりはないが、お前さんが構わなければマストを譲ってくれないか?』と尋ねてみた。彼も喜んでくれたねェ。しかも、マストは[サギタウロ]にぴったりだったんだよ。そんな訳で、またセールで走れるようになったという訳さ」といった。
いやはや、どこに幸運が(いや、不運もだけど)潜んでいるか分からないものだ。

ファレの泊地では、悪天候と強風の毎日だった。

到着した日と数日後の夜中に、混雑する泊地の只中で走錨騒ぎがあった。走錨した船が他のヨットに当たると、それもまた走錨を始める。運悪く岸辺やコーラル・リーフへ流されれば、集団事故が発生する。走錨は、泊地の誰もが巻き添えを喰らう可能性があるので恐ろしい。

走錨したヨットは寝静まっていた。大声で呼び掛けても、誰も起きて来ない。みんなでフォグ・フォーンを鳴らしたり、サーチライトでキャビンの窓を照射したりしたが効果はなかった。

そうしたら、例のアルバイト少年のロスがパドルを持って荒れる海に飛び込み、走錨するヨットまで泳いで行って船体を激しく叩いた。さすがに熟睡する連中も目が醒めた。あわや大事故かという寸前のロスの機転だった。ファレのヨッティーたちは、ロスへの賞賛の拍手を惜しまなかった。

[禅]と[サギタウロ]の間隔も、今や舷が触れそうになっていた。僕は、[禅]の移動を決意した。真っ暗闇の荒れた海面を、僕らはあちこちスペースを探して走り回った。しかし、どこにも安全な水面が見つからなかった。

遂に僕らは、泊地の外側、ファレ港の商業船航路際まで来てしまった。航路標識ブイの赤い灯火が明滅するすぐ脇に、僕はアンカーを落とした。

ほとんど外海のような場所だから、気象や海況に対しては全く無防備だった。しかし、走錨の道連れにされたり、錨泊する他の艇に接触する危険からは逃れられる。唯一の心配は、夜中に入港してくる定期貨物船が、錨泊する[禅]を避けてくれるかどうかだ。

結局、美しいフアヒネ島は、強風と泊地の狭さとの戦いで終始した。何度かシュノーケリングもしたし、ファレのヴィレッジも探訪した。また、ホテル客のフランス人女性は、老若を問わず多くががトップレスで泳ぎ、中には、ビーチでトップもボトムもレスで肌を焼くといううれしい風景も十分に観賞させてもらった。

しかし、どう考えてみても、フアヒネ島クルーズは欲求不満のまま終わってしまったようだ。気象と泊地の狭さに起因することだから僕に八つ当たりしても仕方がないのに、スミコの膨れっ面は、暫く笑みを取り戻すことはなかった。

八月十八日、真美ちゃんと小暮さんがライアティアに到着した。前にも書いたけど、二人は実にユニークな人たちだ。

小暮和美さんは宇宙工学の博士で、詳しいことは分からないが、ロケット打ち上げの重要な部分を担当している。また、斎藤真美ちゃんは、海洋生物学者。いずれにせよ、彼女らはスケールが桁違いにでかい女性たちだ。瑣末なことには目もくれない。フレンチ・ポリネシアに来たからには徹底的に楽しもうぜェ!という逞しいスタンスは、十分に僕を圧倒した。

彼女たちは、アポイティ・マリーナの入江の向う側にあるサンセット・ビーチ・ホテルのバンガローに腰を据えた。

或る日、バーベキューをするからという誘いを受けた。行ってみると、真美ちゃんが、バンガローとビーチの間の広い芝生に竈を設えていた。食材は何かと尋ねると、

「マグロのかぶと焼き。マルシェ(市場)を歩いていたら、マグロの頭を捨ててるんだよネ。勿体ないなァというと、こんなもの使い道があるのかというから、日本じゃ、かぶと焼きといって、高級料理になるんだョと教えて上げたら、ただみたいな値段で分けてくれたんだ。どォ、凄いでしょ!」

なるほど凄かった。断ち落としの直径が二十五センチほどもあるマグロの頭が芝生に転がっていた。

やがて竈に火が燃え出し、マグロの頭が据えられた。しかし、火が十分に強くなく、しかも、オーブンのように上からの熱がないから、外側が真っ黒になっても、中までは熱が通らない。ひっくり返し、ひっくり返ししていると、いい匂いが辺りに漂いはじめた。黄昏のビーチを散策している白人の観光客たちが、バンガローへ帰る道筋に立ち寄り、声をかけてゆく。「いい匂いだ。BBQが始まるんだネ」

そういって、次に竈の上のマグロの頭が目に留まる。彼らは、例外なくギョッとする。まるでカナバリズム(食人儀式)でも目撃したかのように。
「あはは、愉快だね。みんなビックリしているよォ」小暮博士が笑っている。
「奴らにゃ、魚の美味しい食べ方なんて分からないからなァ」海洋生物学者が不敵にいい放った。

やがて、僕らは南太平洋の小島で、マグロのかぶと焼きを賞味した。美味しかったけど、やっぱり中までは火が通っていなかった。しかし、真美ちゃんは、我々日本人は、魚を生で食べる民族なんだぞと、小暮さん共々、カテーサークをあおりながら平らげてしまった。野性味を誇るヨッティーの僕らは呆然とそれを眺めていた。いやー、ほんとに逞しい。現代の大和撫子たちに乾杯だ!

話は前後するが、十七日、シーガル・ネットで、ハワイ近海で窮地に陥った[シーマ]の無線交信を傍受した。

サイクロンに巻き込まれ、三回ほどノックダウンを喰らい、航行に不可欠なギアをいくつか破損したという。ウインドベーンが壊れて修理不能、ブームが折れかけていてメインセールが使用不能、その他にも、相当な被害があったようだ。そして、目的地のロサンジェルスまでの航行には、到底耐えることは出来ないといった。

僕は、[シーマ]の現在位置を尋ねた。北緯三四度三五分、西経一五四度四五分。北東の強風の中を南東へ航行中。僕は、ハワイへの緊急入港を勧めた。松浦氏は、ハワイのチャートの持ち合わせがないといった。

シーガル・ネットの久津見先生からも、日本では良好な交信が難しいので、ヨット禅に一任したいといってきた。OK。僕は、松浦氏にナビゲーターを務める旨を申し出た。

ハワイのチャートをロッカーから引っ張り出し、僕は航海計画を作成した。そして、松浦氏に告げた。
「現在位置からモロカイ・チャネル入口を目指してください。チャンネルを通過してオアフ島南岸へ回り、ワイキキのアラワイ・ボート・ハーバーへ向かいます。距離は八三一浬(約1500km)。コンパスコース一七五度で航行せよ」

数時間後、再び位置を尋ねた。相変わらず南東へコースをとっていた。壊れた船で、大時化の海を往くのだから命にかかわる局面だ。僕は、失礼ながら彼を怒鳴りつけた。
「太平洋の迷子になるつもりですか!」

彼は、波の方向が厳しくて一七五度の針路はとれないといった。
「いいから、進みなさい!セールの微調整や舵の当て方で、絶対に波を凌げるはずだから」
しかも、西経一二〇度に新しいトロピカル・サイクロン『イグナシオ』が発生し、ハワイ方向を伺っているのだ。それが動き出す前にラムライン一七五度を突き進めと僕は叫び続けた。

十九日になって、[シーマ]はやっとラムラインに乗った。残航六一三浬。あと四、五日凌げばモロカイ・チャネルの入口だ。

二十四日。チャネル入口まで七五浬、ホノルルまでは九〇浬の位置に[シーマ]がいた。 「チャネルに近づいて、右舷に見えてくるのがオアフ島です。島沿いに進み、ダイヤモンド・ヘッドを交わし、南岸沿いに西へ進んでください。ダイヤモンド・ヘッドから二つ目の大きな入江の右にホノルル、左にパール・ハーバーがあります。ホテル群が圧倒的に多いから、すぐ分かりますよ。明日は、ホノルルで昼飯を食べられますね。よく頑張りました。もう一息です。ご安航を祈ります」

正直いって、僕はハワイを知らない。航海どころか、観光にだって行ったことがなかった。しかし、この場合、確信的な助言が絶対に必要だったから、今まで見たホノルルやダイヤモンド・ヘッドなどの写真やポスターの風景を必死に思い浮かべ、僕は見てきたような道案内をさせてもらった。松浦さん、ごめんなさい!

その後、電波の状況が悪く、彼と交信することはなかったが、シーガル・ネットによると、八月二十五日、満身創痍の[シーマ]は、アラワイ・ボート・ハーバーに無事到着したそうだ。よかった、よかった。

*******

八月二十一日、小暮さんと真美ちゃんを乗せ、僕らは再びボラボラ島へ向かった。

快晴・順風。前日まで続いたマラム(この海域の冬の季節風)のせいで波は高かったが、海はコバルト・ブルーに輝き、北西の水平線にボラの奇怪な山容がくっきりと浮かんでいた。

小暮さんはあまり船に強くないらしく、出航してじきにキャビンで寝てしまったが、真美ちゃんは、ほとんどの航路を一人で舵を引いていた。

真美ちゃんは、海洋資源調査などで、漁船に同乗して何日もタフな航海をしている人だから、穏やかな南太平洋をボラボラへ向かうなどというのは、まさにプレジャーなのだ。僕は、何もせずにすむことに大いに満足し、のんびりと彼女を観察した。その印象は、熟練した漁師の親爺が助っ人にきてくれたという感じだ。それほど頼もしく、しかも彼女自身が楽しんでいる様子が愉快だった。

午後二時四十分、[禅]はテアヴァヌイ・パスを通り、ラグーンの中、その正面一・五浬にあるボラボラ・ヨットクラブのブイに舫いをとった。早速上陸してレストランに陣取ると、まるでポリネシアの観光ポスターのようなシテュエーションの只中で、ヒナノビールやドリンクを楽しんだ。そのまま夕方までい続け、ボラのラグーンが滑らかに暮れなずむ様を眺めながらゴージャスなディナーを摂った。

翌日は、ボラの東側のビーチへ[禅]を回航しようということになった。

しかし、いうは易いが、その航路たるや、まるで遊園地の迷路のようにクネクネと曲がりくねって恐ろしく複雑だ。気安く準備もなく行くべきで所ではない。

因みに、ヨットで行かれる方がいらっしゃるなら一言忠告しておくが、ライアティアのアポイティ・マリーナにあるチャーター・ヨットのムァリング社が、チャーター客のために発行しているチャート(海図)を入手することをお勧めする(要すれば英文のクルージングガイドもある)。このチャートは、フアヒネ島からライアティア、タハア、ボラボラの全島図と個別の島の詳細な海図三枚(裏表に記載)からなっていて、ヨットのための情報が満載されている。

例えば、通常のチャートには載っていないヨットが通れるパスとか地元の人しか知らないアンカレッジ、ブイの種類や灯火の色なども詳しいし、簡単に見つけられる物標など、現地でなくては取材できない情報も多い。

東岸へ至る難所(北東端のリーフ)は、このチャートを事前にチェックしておくと大いに役に立つ。何しろ、幅十メートルそこそこの水路が、二十メートルも進むと右へ直角に曲がっていて、さらに十メートルで左へ直角に曲がるといった具合だ。しかも、その水路を横切って川のような潮が流れ、水路のすぐ脇には水深一メートルにも満たないの禍々しいコーラル・パッチがある。

僕らは目を皿のように見開き、水路を外れないように懸命に舵を引いた。また、バウに立つスミコは、次の針路に備えて先のブイをいち早く見つけ、僕に知らせる。僅か一・五浬ほどの難所を通過した後は、座り込んでしまいたいほどの疲労を感じたものだ。

それから先の広々としたラグーンは、ブイ伝いに進めば何の問題もない。そして、行く手には、見たこともないほど鮮やかなブルーグリーンのアンカレッジが現れる。

この水の色をどう説明していいか、僕は言葉に詰まってしまう。見渡す限りの広大なラグーン全体が、鮮やかな青緑色に発光している。そう、ラグーンそのものが透明な色彩を放散しているのだ。

[禅]は船体が濃紺だから変化はないが、錨泊する数艘のヨットも小暮さんや真美ちゃんの白いブラウスも鮮やかなブルーグリーンに染まっていた。

海底は、どこまでも真っ白で細かい珊瑚砂だ。それが、まるで水がないかのようにすぐ目の前に見える。二十メートルも先のアンカーも、それを[禅]に繋ぐチェーンも鮮明だ。暫く海底を凝視していると、[禅]の影が海底の砂地にくっきりと映り、船体が空中に浮いているような錯覚にとらわれて目眩を感じてしまう。

誰もが、その美しさに息を呑んだ。そして、我に返ると先を競ってシュノーケリングを始めた。ところが、珊瑚砂しかない真っ平らな海底には、ほとんど生き物の姿はなかった。 それはそうだ。熱帯魚が身を潜める岩も海藻も、そこに寄生する餌の微小生物も、この真っ平らな砂底には何一つないのだから。

僕らはディンギーを降ろし、外洋とラグーンを分けるバリアリーフへ出掛けた。すぐ目の前には、外洋の怒涛が真っ白い飛沫となってリーフに砕け、見上げるばかりの高さに打ち上がる。海底の地形が極度に複雑で、恐らく、シュノーケリングには理想的な場所なのだろうが、その潮流は、まるで谷を駆け下る渓流のように早い。さらに、大型のシャークが、時々様子を伺いに来る。しかも、海面に顔を出す珊瑚岩は刃物のように鋭く、うっかり潮で引き込まれたりすると大怪我をしかねないし、ゴムのディンギーだってたまったものではない。

為す術もなく、僕らは[禅]へ戻った。言葉に尽くせぬほど美しいラグーンにヨットを浮かべながら、することが何もなかった。デッキに寝転んで本を読んだり、キャビンで昼寝をしたり・・・それはそれで贅沢な時間ではあるが、はるばる日本からやって来たお二人には、何だか申し訳がない気がした。そして、誰からともなく、明日は、ヨットクラブへ戻ろうということになった。

難所とはいえ、一度通ったコースは気が楽だ。勿論、極度に神経を張り詰めて航行したことは当然だが、昨日と違って、疲労困憊するということはなかった。

ヨットクラブに[禅]を繋ぐと、女性群はレンタカーを借りて島巡りに出掛けた。久し振りに僕は一人っきりの無為の時間を堪能した。

夕方帰還した彼女らは、明日、ピローグ(小舟)のラグーン巡り、兼シュノーケリング・ツアーを予約してきたといった。

翌朝早く、女性三人は、大勢の観光客を乗せたピローグで出掛けて行った。遠ざかるピローグからは、エンジンの騒々しい音に混じって、ギターと歌声の陽気なポリネシア音楽が流れてきた。

僕は、まる一日、気楽な時間を楽しんだ。エンジンオイルを交換したり、昼寝をしたり、久し振りに無線でネットにコンタクトしたり・・・。

[4・4・II]は、スヴァロフを三日前に出航し、今日現在、アメリカン・サモアへ残航二七〇浬といっていた。[独尊]は、昨日、モペリアを出航し、スヴァロフへ向かったそうだ。

それぞれが航路を西へ向けて急いでいた。シーズン中に、何としてもニュージーランドに辿り着かなければと思うと、僕の気持ちは苛立たしいほどに焦りを覚えた。

夜は、超豪華なお別れディナーだった。明日、ボラの空港からタヒチ経由で、小暮さんと真美ちゃんが帰国の途につく。

女性たちは、今日一日のピローグ・ツアーの興奮も醒めやらず、口々にエキサイティングな情景を語った。その中で、昨日通った難所の辺りが、世界的に有名なマンタ(巨大な糸巻きエイ)のポイントであったことを告げた。知っていれば、水路を逸れてアンカーを打ち、運がよければマンタ見物のシュノーケリングが出来たかも知れないのに。残念!

でも、彼女らは、今日、悠々と飛翔する大鳥のようなマンタをそれぞれの目で見てきた。その満足げな様子に、僕は救われるような気がした。

夕暮れが兆す頃、僕らは、ブイヤベースとパエリアと何種類ものサラダやオードブルをオーダーした。そうしたら、シェフが出てきて、「そんなに食べられないよ」といった。

「とりあえずブイヤベースを食べる。さらに食べられそうならパエリアを出す。他のオーダーはその後で考える。それでどうかな?」みんな、シェフの言葉に異存はなかった。

まず籠いっぱいの焼き立てのフランスパンが山盛りのバターといっしょに出て来た。それをむしゃむしゃ平らげながら、渇いた喉にビールを精力的に流し込む。料理に付属するサラダの量に目を丸くしていると、やがてブイヤベースが来た。なるほど、シェフのいう通り物凄いボリュームだ。魚介類を食べ終わると、今度は、大皿にその濃厚なスープが盛り分けられた。そして、パエリアが来た。

僕らは、初めにパンを貪り喰らったことを後悔した。しかし、料理は素晴らしく美味しく、結局、ブイヤベースもパエリアもきれいに平らげてしまった。

それぞれが飲み物を手に、海上に張り出したテラスデッキに席を移した。篝火が燃え、火影が僕らの頬に揺れていた。涼風が爽やかに吹き抜け、風に乗って、どこからかポリネシアン・ダンスの曲が聞こえてくる。陶然と僕らは闇に沈む海を眺めた。対岸のモツのリゾートで明かりがチラチラと明滅し、中天を過ぎた辺りにかかる満月が、なだらかなラグーンの水面に銀色の帯を描いている。

完璧だ。小暮さんと真美ちゃんを送る最後の夜として、何一つ欠けるもののないシチュエーション。南国の時間はゆっくりと流れ、豊穣な夜が静かに更けていった。

先刻から僕らは無口だった。別れの感傷か。いや、そうじゃない。誰もが満腹で口を利くのも億劫なのだ。それにしても、ボラの最後の夜の、何と素敵だったことだろう。

翌日、朝早く迎えのモーターボートがやって来た。小暮さんと真美ちゃんは、ボートに乗って手を振るとすぐに見えなくなった。互いの無事を願う言葉を交わす暇もなく、呆気ない別れだった。

僕らもまた、午前九時に舫いを解き、ライアティアへ向けて出航した。これで、フレンチ・ポリネシアに於ける全ての計画は終わった。

八月は数日で終わり、もうすぐ九月がやって来る。航海シーズンの残りはそんなに長くない。アポイティ・マリーナへ戻ったら、食料と水を積んで、僕らもまた、西へ向けて出発しなくてはならない。




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