[トーマスという隣人]

[トーマスという隣人]イラスト

サンフランシスコ・ベイのスクンメーカー・マリーナで、[禅]を係留したドックはF1だった。その隣、つまりF2には、[ダンディライオン]というヨットがいた。ダンディライオン(Dandelion)とは、『タンポポ』という意味だ。

しかし、[ダンディライオン]のオーナーは、およそタンポポ的に可憐でも可愛らしくもなかった。どちらかというと、タンポポ・イメージの対極といった恐ろしく無骨な初老のアイルランド人だった。

彼は、トーマスといった。トーマスは、通常トムと略称するものだが、彼は、トムではなくトーマスであると自己紹介した。

僕がスクンメーカーに着いた日の夕方、彼は、ドックから叫んだ。
「おーい、zen。おまえはジャパニーズだから、寿司が好きだろ。シスコの名物はカリフォルニア・ロールだ。いっしょに食おうぜ」これが、彼の初対面の辞だった。

その英語が物凄い。僕など、人の英語をとやかくいえる柄じゃないが、それでも、やっぱり凄い。何訛りといえばいいのだろう。ラテン系とか、ドイツ系とか、またはフランス系とかの訛りは聞き慣れていたが、こんなのは初めてだった。アイルランド人というのだから、アイルランド訛りなんだろうか・・・。でも、アイルランドって、いろいろ事情があるようだけど、れっきとした英語国ではないのか?北アイルランドはイギリスの一部でもあるし。
「僕も英語は下手だけど、トーマスも英語は上手じゃないね」といったら、「そうか」といって、トーマスはちょっと落胆した様子だった。その辺りからしておかしな人だ。(後に分ったことだが、これは彼のベトナムでの戦傷が原因だった。悪いことをしたと思っている。)

彼は秘密好きな人物だった。

例えば、彼に用があって[ダンディライオン]を訪ねたとする。しかし、彼は、決して誰も彼のヨットに立ち入らせようとはしない。或る時、僕は、どうしてヨットに誰も入れないのかと尋ねた。そうしたら、トーマスは、オレの船には、キミが知らないほうがいい秘密がどっさりあるからだといった。僕が、どんな秘密?と聞くと、しばらく沈黙し、そしていった。
「オレは以前、IRA(アイルランド共和軍=反英武力組織)の戦士だった。今オレは、アイルランドからもイギリスからも追われている身だ」といった。嘘に決まっているが、でも、嘘だと断言できる根拠なんかどこにもない。

そうかと思うと、彼は今もなお、主にアメリカ国内のシンパから献金を募り、資金面でIRAの武力活動をサポートしているともいった。

家族はなく、天涯孤独だといったかと思うと、僕に一枚の写真を見せ、
「美人だろう。オレの娘だ」といったりする。だから僕は、
「トーマス、キミのいうことは矛盾だらけだ。一体、本当のキミはどこにいるんだい?」と尋ねた。そうしたら、彼は悠然といったものだ。
「zen、この世に矛盾のない人間なんていると思うかね?そして、矛盾のない人生も?」
答えにはなっていなかったけど、僕は一応納得することにした。いわれてみれば、僕なんか、彼よりもっと辻褄の合わない人生を生きているかも知れないのだから。

**

或る日、マリーナ・オフィスを訪ねた僕に、ビルが新聞を見せてくれた。

新聞には、ベトナム戦傷者の集会で、自由討論会のパネラーの一人として、壇上に鎮座するトーマスの写真が載っていた。そして、数行の彼の略歴も。

それによると、彼は、アイルランド出身のアメリカ人で、ベトナム戦争で九死に一生の負傷をし、ために今なお重い障害に苦しんでいるとあった。僕の興味を引いたのは、その次の行だった。

トーマスは、彼を庇ってベトナムで命を落とした戦友の遺族を扶養している。多くの証言がその事実を証明しているのに、トーマス本人は、決してそれを認めようとはしないと書かれていた。

その夜、僕は、トーマスを[禅]に招きマティニーをご馳走した。

僕が、レシピ通りのマティニーを作って彼に飲ませると、もっとドライにしてくれという。フレンチ・ベルモットを半分に減らし、その分ジンを増やしたが、それでももっとドライにという。終いには、ジンを三オンス、ベルモットは、まるでビターズのように数滴落とすという具合になった。そのレシピが決まるまで、彼は五杯のマティニーを飲んでいたから、それからの数杯で、トーマスは完全に酔っ払ってしまった。

僕は、人が秘密にしたいと思うものを無理矢理聞き出そうなんて趣味はない。ただ、日中に読んだ新聞の記事が、自然に僕らの話題になった。そして僕は、戦友の家族を扶養しているというのは本当かい?と尋ねた。
「あれは、オレの最高機密だが、zenだけに話す。絶対に誰にも云っちゃいかん。

あれは事実だ。一九七三年から今日まで、オレは、メアリーと彼女の家族を扶養してきた。

ジェミーはオレの幼馴染で親友で、そして戦友だった。一九七〇年の或る日、ベトナムのジャングルで五メートル先に砲弾が炸裂した。ジェミーは、押し倒すようにオレの上に覆い被さった。爆発の後、オレの耳には自分の声も聞こえなかった。オレは『ジェミー!ジェミー!』と叫んだ。しかし、彼は動かなかず、のしかかるジェミーの重さだけしか感じなかった。オレはジェミーの下から這い出した。

ジェミーの脇腹が裂け、右腕が肩口から千切れてそこから血が噴き出していた。仰向けにしてジェミーの顔を見ると、微かな意識の中で、彼はオレの顔を見て笑った。そして、口の形で『無事だったか?』といった。
『このドジ野郎!オレを助けて、自分が負傷しやがって、この大馬鹿野郎!』オレは、感謝いっぱいの叫びで奴を罵倒した。そして、オレも脊髄にひどい怪我をしていた。

彼の顔色は、失血のため、みるみる蒼ざめていった。誰の目からも、あと数分の命と知れた。ジェミーの笑みが消え、深刻な憂いが見えた。それが残して行く家族に向けられたものであることは、親友のオレには分った。そして、オレはいった。
『ジェミー、家族のことは心配するな。オレが彼らを養い、子供達には立派な教育を受けさせる』

ジェミーの顔から憂いの表情が消え、安らかな微笑みを浮かべ、彼は死んだ。

親友がオレの命を救ってくれた。そしてオレは、彼に家族を養うと約束した。だから、これはオレとジェミーの全く個人的な約束事だ。新聞に書き立てたり、人の噂がどうこういう問題じゃない。それに、この事実が明らかになった場合、世間に対し、子供達が負い目を感じないとはいえない。だからオレは、これを秘密にしてきた」

誰にでも出来ることじゃない。凄いことじゃないか。僕は、二十二年間も続けてきた彼の偉業と、そのことによって規定されていった彼の人生を思った。
「でも、二十二年も経ったら、子供達はもう立派に成人しているだろう?」
「三人の子供がいるが、末っ子が今年でマスターコースを卒業する」
「子供達は、トーマスの援助を全く知らないのだろうか?」
「いや、知っていると思う。オレがクリスマスに訪ねて行くと、みんなとても喜んでオレを歓迎してくれるよ」
「それじゃあ、世間にいいふらさないまでも、そんなに頑迷に秘密にする必要ないじゃないか」

そうすると、トーマスはしばらく沈黙した。カクテルグラスの細い足を、指先でくるくる回しながら、何だか、一大決心をしようとするように、その指を見つめていた。
「zenのいうとおりだ。しかし、オレにはもう一つの秘密がある。いや、これが本当の秘密かも知れんな。

ジェミーとオレは、若い頃、故郷のウイックロー(アイルランドの中都市)で、同時に、しかも同じ女性に恋をした。その相手がメアリーだった。そして、この熾烈な恋の戦いはジェミーに軍配が上がった。それでもオレたちは親友同士で、友情に少しの変化もなかった。結婚もせず、定職も持たずふらふらしていたオレを、アメリカへの移住に誘ってくれたのもメアリーとジェミーだった。

恐らく、ジェミーが息を引き取った時、オレが彼の家族の面倒をみるというよりは、メアリーと結婚して彼の家庭を引き継いでくれればいいと考えたかも知れない。多分、そうだろう。でも、オレにはそれが出来なかった。何故なら、メアリーをオレのものにするという役得つきで家族の面倒をみることは、ジェミーが仮にそれを望んだとしても、オレの気持でいえば、親友に対する約束に利害が絡む。分るか?純粋な約束が濁るんだ。

メアリーだって、オレの気持を知っていたから、オレが結婚を申し込めば、きっと快諾してくれただろうよ。でもなァ、zen、オレにはそれが出来なかった・・・」トーマスは、そういってグラスに残ったほとんどジンばかりのマテニーを飲み干した。バルクヘッド(船の仕切り壁)の舶用時計に目をやり、彼は腰を上げた。

「今夜は、随分いろんなことを話してしまった。こんなに洗いざらい自分のことを話したのは、ベトナムの塹壕の中以来はじめてだ。

そんな訳で、オレが親友との約束を果たすことが、下心あってのことと思われたくなくて、このことを秘密にしてきた。そして、困ったことに、オレには下心がある。オレは、今なおメアリーを愛しているからだ。これで、オレの人生は八方塞がりということになってしまった。矛盾なく人生を歩めたらどんなにいいだろうと思うが、セ・ラ・ヴィ(それが人生というものさ)。おやすみ、zen」

僕は、とんでもない話を聞いてしまった。トーマスが帰った後、僕はしばらく、キャビンのソファに座ってぼーっとしていた。

***

翌日会ったトーマスは、また、いつものチャランポランの彼に戻っていた。しかし、昨夜のことに触れようともしないのに、トーマスは僕の視線を避けている様子だった。

さらにその翌日、朝起きてみると、隣のF2ドックが空っぽで、[ダンディライオン]の姿がなかった。数日のクルーズにでも出掛けたのかと思っていたら、マリーナ・オフィスのビルが、トーマスはアラスカへ行ったと教えてくれた。こんな秋口からアラスカへ行くなんて常識的に考えられないことだったが、トーマスのことだから、何を仕出かすか分らない。そう思っていたら、その日の午後、サンフランシスコ市警の刑事が二人、ビルといっしょに僕を訪ねて来た。彼らは、トーマスを探しているといった。そして、僕に、彼が行きそうな所の心当たりはないかと尋ねた。

僕は、当然、知らないと答えた。そうしたら、彼らはとても困った様子を見せ、早く彼を見つけないと、トーマスにとって辛いことになるといった。どういう風に彼が辛い立場になるのかと尋ねると、彼は保護されるべき状況にあるのだと刑事が答えた。僕には、何のことか見当もつかなかった。でも、トーマスが不幸になることは、僕にとっても辛いことだ。そこで僕は、
「事情は分らないけど、彼が口にした名前で『メアリー』というのがあった」といった。そうしたら、
「あァ、メアリーのことなら知っているよ。いろいろ彼のことを調べてゆくと、メアリーという名前が出てくるんだ。でも、それが実在の女性という確証は、今のところ何もない。どちらかというと、私たちは、メアリーは彼の想像上の人物という見解で一致している。ベトナムが彼の人生を変えたんだ。ベトナムの狂気が、彼を、想像の世界でしか生きられない人間にしてしまったのさ」といった。
「エッ、想像の女性?想像の世界・・・?」僕は、びっくりした。あれほどトーマスが思い詰めて話していたことなのに・・・?

ベトナム戦争の傷跡を、僕はアメリカの至る所で見た。それは、際限なくアメリカとアメリカ人の心を蝕んでいた。泥沼のような虚無感、自らを打ち砕き、どこまでも突き陥して止まない破滅感、そして人格破壊。しかし、こんなに身近なトーマスまでが・・・。

僕は、ますます彼が分らなくなってしまった。そして、今後とも、例え僕が彼の傍にいたとしても、トーマスのことは理解出来ないかも知れないと思った。

彼は、彼だけの想像の世界で生きている。その中に、夢や人生の矛盾や閉塞感なんかをどっさり持ち込んで・・・。でも、出来ることなら、トーマスがもう少し幸せになれる矛盾も、彼の人生に持ち込んでくれたらいいのに、と僕は思った。

[完]
Sept. 26, 2001


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