■Part 2・The West Coast of USA

《その先の海》

[アメリカ・アメリカ]


 空は雲に覆われていた。風はない。カナダ領海を出てすぐメープル旗を星条旗に換えたが、それがスプレッダーの下にだらりと垂れ下がって翻る様子もない。

 天候もそうだが、数日前からの風邪による体調の不全が災いして、僕の気分も全然冴えない。こんなに意気の上がらない出航も珍しかった。

 元はといえば、僕は、アメリカなんかに興味はなかった。200年ぽっちの歴史しかない国に、学ぶべき文化や伝統があろうとも思えないし、超大国の強大なパワーなんていうやつは、僕がいちばん嫌悪するもののひとつだ。だから、これから先の航程の序でに、アメリカ西海岸のいくつかの都市を覗いてみようと思ったに過ぎなかった。

 そういう無期待感で遠望するアメリカが気怠い曇天の中に閉ざされていると、何だか謂れのない苛立たしささえ感じられた。

 ビクトリアの港口の赤灯台を左に見て、僕は、針路をコンパスコース100度にとった。約30浬先に、シアトルへ続くアドミラリティー・インレットの入口、ポイント・ウイルソン(シアトルへの水路入口の岬)がある。その岬を陸沿いに西へ回り込めば、今日のレグの目的地であり、入国手続きが出来る港(Port of Entry)であるポート・タウンゼントだ。

 ファン・デ・フカ・ストレィトの中ほどにわだかまっていた雨雲が、やがて[禅]の上を通り過ぎ雨を降らせた。雨が止むと霧が立ちこめ、僕の視界を朧にした。その中を、シアトルとビクトリアを結ぶ客船[ウイング・オブ・ビクトリア]の美しい姿が、[禅]の左舷100メートルばかりを掠めるように通り過ぎて行った。スマートな紺色の船体に、後方へ傾斜して描かれたユニオンジャック・・・[禅]のハルデザインとよく似ている。僕はいつも、ビクトリア港に停泊しているその姿を、親しみを込めて眺めたものだ。

 その後、霧が晴れ、青空も少し見え出した。いつまでもカナダへの愛惜の情を引き摺っていてもはじまらない。僕は気を取り直してポイント・ウイルソンへの針路を見据えた。

 ポイント・ウイルソンに接近すると、予想もしなかった潮汐に悩まされた。近くには岩礁帯が横たわり、海面を不気味な斑模様に染めている。その辺りを方向の読めない潮が走っていた。[禅]は、十ノットで前進したかと思うと、ヤンマー3GMエンジンを2500回転にしても後退するということが度々起こった。喫水の深いヨットにとって、岩礁帯で舵が利かないことほどセーラーを慌てさせるものはない。

 岩礁帯をなんとか交わしポイント・ハドソンを過ぎると、潮はやっと穏やかになった。僕は、岸辺の景色を眺める余裕が出来た。

 国境の街とはいえ、そのたたずまいは殺伐として潤いというものがなかった。全てのものが太陽と潮風に曝されて風化したような色合いだ。丸太を海中に突き立てて並べた護岸と、風情が乏しい家並みしか見えない。その街の中央あたりに、古い時計塔が不調和に聳えていた。

 タウンゼント・チャネルを一浬ほど西へ進むと、雑然としたマリーナが見えてきた。家並みもマリーナも、そこに碇泊しているヨットまでもが雑然としていた。底質がマッド(泥)なので、岸辺の何もかもが乾いた泥色をしている。さらに建物が、風情も何もない只の四角形で、それをトタンか反り返った横張り板が覆っていた。

 [禅]を係留してオフィスへ行った。アメリカ英語は、英国系の国々のそれとはまるで違う。カナダで聞き慣れた明瞭さがどこにもない。入国の手続きについてマリーナの職員に尋ねたが、さっぱり分らない。僕は、ビクトリアで、シアトルの[ウイング]というヨットに教わったとおり、イミグレーション(1-800-562-5943)へ電話をかけてみた。すぐに、パスポートと船籍証を持って、街の中心にある郵便局の二階、二十三号室へ来るようにという。そこがカスタムス&イミグレーション(税関・出入国管理)のオフィスだ。

 オフィサーはいかつい男性だった。所謂ストリクトな感じで、ほとんど感情を表わさない。こちらもアメリカへの期待感がないから、互いのやりとりは、自ずとそっけないものになってしまう。

 手続きが大方済んだ頃、オフィサーは、滞在許可を一年間上げようといった。そして、ヴィザは?と問い掛けた。エッ、日米通商条約でヴィザは不要なんじゃないの?そういうと、オフィサーは急に不機嫌になった。僕は全く訳が分らなくなってしまった。オフィサーは、

「メキシコへ行くか?」と尋ねた。僕は、

「Maybe・・・」と答えた。

「その時は必ずヴィザを取って行くように!」

強い調子で、オフィサーがそういった。どうやら、アメリカのみならず、ヨットで他国を訪ねる場合、ヴィザを持参するのが訪問者の礼儀と弁えるべきだということらしい。

 言い訳になるが、僕だって、日本を出る前、アメリカ大使館へ電話をしてその辺の事情を確かめた。しかし、誰もが経験するとおり、アメリカ大使館の日本人オフィサーの対応には、めちゃくちゃ頭に来る。聞いていると、露骨に、「アメリカは、あなたなどに来て欲しくはないのだ」といわんばかりだ。「あんた、日本人だろう?」と尋ねてやりたくもなる。質問にだって、徹頭徹尾、要領を得た答えはしない。だから、僕は、ヴィザなんか要らないや、と手ぶらで来た訳だ。

 結果、パスポートには三ヵ月の滞在を許可するというスタンプが押された。その時の僕としては、三ヶ月間もアメリカなんぞにいるものかと思っていた。


**


 一旦マリーナへ戻り、それから街へ出てみた。ポート・タウンゼントは、造船と漁業だけの街ということがすぐに知れた。人口も疎らで、活気というものが全く見受けられない。そして、日中というのに、至るところに酔っ払いがいた。

 ボートヤードの向うが、SAFEWAYというチェーンのスーパーマーケットだった。僕は、そこへ足を踏み入れて驚いた。

 まず、駐車場が呆れるほど広い。ポート・タウンゼントの車が全部ここに集まってもスペースに不足はないかも知れない。そして、店内に入ってまた驚いた。

 商品の豊富さは、もう驚異的としかいいようがない。カナダではあまり見なかったボックス入りのティッシュペーパーが天井まで山済みされている。当然、他の食品や日用品も店内に溢れ、天井を埋め尽くす蛍光灯が目を欺くほど明るい。

 日本は非常にアメリカ的だから日本人は驚かないかも知れないが、全てに慎ましいカナダから来てみると、それは奇異としか感じられない。誰がこんなにモノを求めているの?一人の人間が必要とするモノの量が、カナダとアメリカでどう違うの?と尋ねたくなってしまう。

 僕は、ついに日本には定着しなかったけど、一時流行語になりかけた「消費は美徳」というおかしな言葉を思い出した。正に、それだ!

 後日、いろんな国を訪ねたが、アメリカの息がかかった国には無節操な消費という悪弊が見られた。これは、スケールメリットによる合理性という背景があってこそ成り立つ消費文化なのに、その背景もなく、ただ消費動向だけを真似た委託統治国には、目をそむけたくなる醜悪さだけが目立っていた。

 感銘も何もなく、翌日、僕はシアトルへ向かった。シアトルには何かあるかも知れない。来たからには、何か感銘するものを見たいし、感動的な出来事にだって出会いたい。そんな期待を込めて、朝十時半、ポート・タウンゼントを出発した。

 天気は快晴。僕の気分までが軽やかに弾む。マーローストーン島を交わし、アドミラリティー・インレットを南南東へ進む。水路は広々としてとても走りやすいし、[禅]の走りも快調だ。サンフランシスコやポートランドなどが船籍港のプレジャーボートとすれ違う。ヨットよりも、オールドファッションのトローラーに老夫婦というのが多い。船長帽をあみだに被った赦顔の亭主が、操舵室の横合いの窓から僕に手を振る。僕も応えて手を振り、親指を立てて楽しさの共感を示す。奥方はアフトデッキ(後部甲板)で椅子に座って、のどかに読者か居眠りだ。

 ポイント・オブ・ノーポイントというふざけた名前の岬辺りから、アドミラリティー・インレットはピュージェット・サウンドと名称が変わる。後十浬でシアトルのシルショール・ベイ・マリーナだ。Shilshole Bay Marinaと書くのに、地元の人はショーショーベイ・マリーナと発音する。

 前日は、スーパーマーケットの規模に驚いたが、今日は、ショーショーベイ・マリーナの大きさに驚かされた。何しろ、六十艇余り係留出来るドックが二十本もあり、それが全部大型艇で埋まっている。壮観としかいいようがない。そんな規模のものが、この辺りだけでも五、六箇所以上もあるらしい。アメリカとは、その常軌を逸脱した巨大さに特徴があるようだ。僕は、揶揄して「大きいことが良いこと文化」と名付け、友人への絵葉書にそれを書いた。

 ショーショーベイ・マリーナでは、Jドックがトランジェント・ドック(外来艇が臨時係留するドック)と決まっている。予め、僕はクルージング・ガイドでそれを調べていたので、J3(AからTまでの桟橋があり、番号がついている)のドックに[禅]を停めた。そして、オフィスへ行って、三日間の碇泊をお願いした。

 例によって、オフィスの男の英語が聞き取れない。どうも、M3のドックへ移れといっているように聞こえる。僕は、舫いを解き、M3へ[禅]を移動させた。そうしたら、そこには大きなヨットが碇泊しているではないか。またJ3へ戻って、オフィスへ行き、その旨をいった。そうしたら、M3は、おまえが使うトイレとシャワールームの番号だという。それならそうと、初めからいってくれればいいものを、一言もそんな注釈はいわない。不親切な奴だ!そんな憤懣を抱えて、僕は[禅]へ戻った。

 翌朝のマリーナは、ここの名物の霧に閉ざされていた。丸太を海底に突き立てたブレィクウォーター(防波堤)には、ペリカンの群れが羽根を休めている。全体を白のパステルでぼかしたような景色だ。遅い朝食を摂り、コーヒーを飲みながら、午前中の時間をのんびりとそんな景色を眺めて過ごした。

 それにしても、ここでは誰一人、僕に声を掛ける人がいなかった。でっかく華やかなマリーナにいて、僕だけが孤立しているようなエトランジェを感じる。

 午後、ダウンタウンへ行ってみようと思った。そして、オフィスへ行ってシアトルの案内図やバスの路線図などがないか尋ねた。そういうものは何もなかった。僕は、バス停はどこかと尋ねた。顎をしゃくって、そこだ、という。道路へ出て、メィンストリート沿いにバス停らしいものを探したが見当たらなかった。仕方がないから、道沿いに遥か彼方まで歩いてみた。途中、人に尋ねると、バス停はこの丘の上だという。いわれたとおり、僕は汗をかきながら崖道を登った。プュージェット・サウンドを見晴るかす景色は素晴らしかったが、すっかり汗まみれになった。やがて、バス停は見つかった。後で分ったことだが、それは別の路線のバス停だった。

 ダウンタウンはどこも同じだ。特に、アメリカの北の果ての都会は、ただ雑駁な混雑しかなかった。

 帰りのバス乗り場は簡単に見つかった。スーパーマーケットで食品を買おうと、ショーショーベイに程近いチテンデン・ロック(水門)の停留所でバスを降りた。

 ビクトリアで、或る人が、シアトルには物騒な人が多いから気をつけろといっていた。見ると、浮浪者がすごく多い。それに、ここでも昼間から酔っ払いが目につく。買い物をぶら下げて歩いていたら、前から大柄のホームレスがやって来た。やばいなァと思いつつ近づいてみると、彼は相当の年配であることが分った。

 本当にみすぼらしく、しかも弱々しく見えた。その脇に、彼の連れ合いらしい可愛らしい老女がいた。彼は、その老女の手をとって労わるように不自由な歩みを助けていた。時々、男は、老女に話し掛ける。とても優しい表情で。老女は、微かな笑みを浮かべてそれに答える。そしてまた、二人は黙って歩く。老いた二人だけの、他が入り込む余地など全くない和やかな世界が窺い知れた。貧しく落魄れていても、彼らの中には自由で純真な心が生きていて、若しかすると、彼らは誰よりも幸せなのかも知れないと思った。それは、僕などに決して得られない二人だけの和やかな心の調和だった。僕は、その美しさに打たれて、微かに目頭が熱くなってしまった。

 いいものを見せてもらった。街や、馬鹿でかいスーパーやマリーナがどうであれ、人間の心の美しさばかりは、世界中どこへ行っても変わらないものだ。それが確かめられただけでも、僕は、シアトルまで来た甲斐があったと思った。


***


 翌日はエンジンの整備をした。油水分離器(燃料に混入した水を分離する装置)に水が溜まっていた。ビスを弛めて水を排出したら、分離器にエアが溜まった。考えてみれば、燃料タンクが分離器より下方にあるのだから、そのままでは燃料が入ってくる道理がない。いろいろいじっているうちに、エンジンにエアが回ってしまった(ジーゼルエンジンは、燃料系に空気が入るとエンジンが動かない)。

 さて、エア抜きが分らない。分ってはいるけど、タンクより高いところにある分離器に燃料を満たしながら、エンジンのエアを抜くという方法が見当もつかない。

 マリーナで、誰彼かまわず掴まえて、エア抜きの方法を教えてくれと頼んだけど、誰もが、「Sorry, I don't know.」と答える。思案に暮れてオフィスへ行き、エンジニアを紹介して欲しいと頼んだ。そうしたら、そこにいたヨットのブローカーが、Mark Hiraiwaを教えてくれた。彼は日系人で、『チビのマーク』で通っているそうだ。電話をすると、夕方までには行くといった。

 その後、ブローカーの事務所へ招かれて雑談になった。僕が単独で日本から来たことに、彼らは興味を持った様子だった。航海の話が一段落すると、彼らは、日本のヨット事情について非常に細やかな質問をした。ヤマハの規模やシェア、外来艇の勢力、ヨットの価格、マリーナ事情等々。日本へのマリーン事業の進出を考えているようだった。僕は、日本を出航するまでマリーン関係誌の記事を書いていて、そうしたことに常に接していたから、彼らの質問にはかなり正確な答えが出来たと思う。

 夕方、チビのマークが来た。シアトルで、ジーゼルエンジンをいじらせたら、彼の右に出る者はいないとブローカーがいっていた。その彼でさえ、分離器がタンクより上にあるという設計上の欠陥には手を焼いていた。

 両親が日本人で、彼はシアトルで生まれ育ったそうだが、日本語は全く話せなかった。しかし、仕事の姿勢は父親から受け継いだものらしく完全に日本的だ。普通、アメリカ人のエンジニアは、頼まれたこと以外の仕事は一切しない。僕がこれから西海岸を南下して、南太平洋かカリブ海へ進むというと、彼はエキゾースト(エンジンの排気・排水管)の水漏れや、燃料噴射管のワッシャーが裏返しに嵌め込まれていることまで見つけ、直してくれた。代金は30ドルだった。そこで僕は、チップとして五ドルプラスして支払った。そうしたら、仕事分の代金は頂いたのだから、これはあなたが他のことに使ってくれと五ドルを返して寄越した。これは、きみの素晴らしい仕事へのお礼なんだといっても、マークは遂にそれを受け取ろうとはしなかった。

 翌日から、客が絶えなくなった。ブローカーやマークが、僕の単独航海を話したらしく、いろんな人が[禅]を訪れ、航海の話を聞きたがった。急に人の往来が激しくなって、僕はちょっと面食らった。中には、買い物に車で連れて行ってくれるという人もいた。

 四方山話の中で、僕は、アメリカ人は親切にものごとを教えてくれないといった。そうしたら、

「zen、あなたは、分らないことについて質問をしましたか?」と尋ねられた。僕は、

「質問はしなかった」と答えた。

「試しに、今度、分らないことがあったら質問をしてごらんなさい。それでも教えてくれなかったら、その人は、本当に不親切な人といえるでしょう」僕は、なるほどと思った。


****


 翌日、中年の婦人が、車で買い物に連れて行ってくれた。一昨日は、手に持てる限度を考えての買い物だったけど、その時は、重い缶詰とかコーラなんかもどっさり仕入れることが出来た。

 マリーナに戻って、僕は、彼女にお礼と思ってバーでカクテルをご馳走した。午後の日差しが傾いて、西へ広がったプュージェット・サウンドの景色の向うに、3000メートル級の遠い山波のシルエットが美しかった。

 彼女は、いろんな話をしてくれた。娘がLAのロースクールで法律の勉強をしていることや夫が遠洋航海に出ていること、家には大きなシープドックとゴールデンリトリバーの二頭の犬がいること、夫が国にいる時は、彼らのヨットでカナダやアラスカまでクルーズすること・・・。でも、それらの話はどこか現実味が薄く、何となく夢見がちなところがあった。

 いま彼女が話していることは、彼女の境遇を裏返した夢物語なのかも知れない。でも、そんなことはちっとも構わない。そう思って僕は耳を傾けていた。夢を語ることが彼女の慰めなら、もっと話をさせて上げたっていい。

「僕のヨットには、カクテルの道具が揃っているんだ。ヨットで飲み直し、もっとゆっくり話をするというのはどうだろう」そういうと彼女は、「いいわね」といって腰を上げた。

 僕は、何杯かのマンハッタンやダイキリや素敵なオードブルなんかを作った。彼女はとても喜んでくれて、さらにいろんな夢を語ってくれた。考えてみれば、僕は夕食を食べていなかった。多少、空腹を感じていたので、

「ディナーを食べていってくれると嬉しいんだけど・・・」と僕がいった。彼女は、

「zenがそう望むなら・・・」と答えた。

 それから、僕らはちょっと沈黙した。不思議な重圧感のある沈黙だった。夕方から三時間もいろんなことを話し、酒が酌み交わされ、夜更けて食事を共にする。僕は、当然の成行きとして、さらにその先の展開に危惧を覚えていた。恐らく彼女も同じだったと思う。

 暫くして、彼女がいった。

「やっぱり、帰るわ」

その言葉で、呪縛のような沈黙が解けた。そういった彼女自身も、何だかほっとしているようだった。

 僕は、彼女を駐車場まで送って行った。六メートルも潮が引いて、ドックの長いランプウェイはひどい急坂になっていた。彼女は、それを登るのに随分苦労をした。手を引いたりお尻を押し上げたり、笑いが絶えない陽気な道行だった。


*****


 翌日、僕は、オフィスの無愛想だった男にバス停の場所を尋ねてみた。彼はまた、「そこだ」と顎をしゃくった。

「そこというのは、何処なの?」

そうすると、男は、カウンターを回って出て来て、僕について来るように身振りした。

 それは、正に、『そこ』だった。マリーナ・オフィスの玄関前のロータリーにポールが立っていて、小さなプレートにBUS STOPと記されていた。彼は、尋ねれば、ちゃんと教えてくれた。何だか希望みたいなものが湧いてきた。

 その後、僕はマリンショップへ行ってみた。そこには、珍しいマリンギアがたくさん並んでいた。油水分離器で苦労したばっかりだったから、僕は、ポンプ機構がついた分離器を見つけ、年配の店員に使い方を尋ねた。男は、それを手にとって、カウンターの上でばらばらに分解し、構造の説明をした。そして、全く[禅]と同じようなケースを図解して、こういう場合には、エンジン側のコックを閉め、てっぺんにあるエア抜きのビスを緩めポンピングする。そうするとエアだけが抜けて、分離器の中に燃料がいっぱいになる。或いは、エンジンにエアが入ってしまった場合、燃料フィルターのビスを弛め、ポンプで燃料を送り込めば、弛めたビスからエアが抜ける・・・と、陽気な身振り手振りで説明してくれた。僕は、うれしくなって、その分離器を買ってしまった。

 彼らは、不親切なんじゃなく、シャイなんだ。だから、尋ねられもしないのに余計なことはいわない。でも、尋ねられたり頼まれたりすると、まるで、それを待ち望んでいたかのように喜々として教えてくれる。そうした習性の延長が、人に干渉しないという、一見、個人主義的な彼らの生活感となって表れるのかも知れない。

 分らなかったら臆せずに尋ねる。尋ねられたら、自分が持っている全てを丁寧に教える・・・要は、これなんだ!誰も僕に接触しようとしないなんてうじうじしていないで、こっちから接触すれば簡単に道は開ける。分ってみれば簡単な話じゃないか。

 本当は、今日あたりシアトルを出発しようと考えていた。でも、あのままシアトルを後にしていたら、僕には何も残らなかっただろう。今日、シアトルに居残って、本当によかったと僕は思った。

 それからの僕は、英語の拙さをものともせず、誰にでも話し掛け、手が足りない時は、誰にでも手伝いを求めた。彼等は、実に気軽に応えてくれた。アメリカが少しずつ見えてきた。そして、僕は、アメリカというこの得体の知れないスケールの国が、だんだん好きになっていった。


[再びファン・デ・フカへ]



 九月十日から、僕はサンフランシスコまでの航路設定の作業を始めた。何枚ものチャートから、適切な航路を結ぶ点を決め、その正確な緯度・経度を計算し、名称をつけてGPSにインプットする。それがウェィポイントだ。最後に、それらを繋いで航路設定をする。そうすると、航行中、GPSは任意の位置で次のウェィポイントへの正確な針路と距離を教えてくれる。

 大まかな航路は、シアトルを出て、ファン・デ・フカ・ストレィト(アメリカ大陸西海岸のアメリカ・カナダ間の国境の海峡)のポート・エンジェルスヘ向かう。約60浬の航程だ。翌日、ファン・デ・フカのアメリカ側の出口、ケープ・フラットリーのニー・ベイという小さな港へ向かう。航程は約50浬。その後、西海岸沖100浬まで沖出しして南下を始める。

 何故、100浬(180km)も沖へ出るかというと、アメリカ大陸西岸の大陸棚が巻き起こす大波を避けるためだ。これは、西海岸航行のセオリーとなっている。

 ケープ・フラットリーを出て、サンフランシスコまでは777浬。一日111浬走ったとして七日間の航程ということになる。

 九月十三日、午前八時、僕は六日間滞在したシアトルのショーショーベイ・マリーナを後にした。連日寒かったのに、その朝は空気がからりと澄みわたり、しかも温かで、中空には、白々とした半月が懸かっていた。

 [禅]の後を追うように、数艘のヨットが続く。互いに手を振り交わし、行き先を尋ね合う。ビクトリアへ行く艇、エベレットへ行く艇、まっすぐポートランドやサンフランシスコまで行く艇・・・それぞれが思いおもいの針路を辿る。どのヨットも例外なくカップルだ。

 そういえば、行く港、行く港で、「何故、あなたはシングルハンドの航海をするのか?」と尋ねられたものだ。中には、「シングルハンドでなければならない事情でもあるのか?」とさえいわれた。それはそうだ。彼らには、クルージングとは、楽しむためにするものという認識がある。寂しさを噛み締め、辛い思いをするクルーズなんか、彼らにはあり得ないことなのだ。

 彼らは、人生を楽しいものにしたい、或いは、人生は楽しくなくてはいけないと考える。それが彼らの人生観の基本だ。勿論、日々食べてゆかなくてはならないし、それに、楽しむためにはお金が必要だから、必要に応じて働く。しかし、必要以上の蓄えなんか、あまり考えない。

 そして、クルーズに出掛ける時は、本当に心を開ける人と行く。心を開ける人とは、愛する人ということだ。男二人というカップルも中にはある。でもそれは、アメリカに於いていえば、例外なくホモということになる。そして、カップルとは、必ずしも夫婦とは限らないし、事実、半数は夫婦ではない。

 そうした世界に、眦を決したみたいなシングルハンド・セーラーが入り込んで行くと違和感があるのは当然のことだ。カップル単位の世界だから、僕はパーティーなどに呼んでもらえない。一人だから寂しいというだけでなく、シングルハンダーは、そういう意味でも、ヨットの世界に限らず、ほとんどのコミュニティーに入って行きにくいことになる。

 引き潮に乗って、[禅]は快調に走った。美しいアップルツリー・コーブが左手に見える。地名だって、気をそそる名前じゃないか。チャートを見ると、マリーナはないが、水深三ファゾム(5.4メートル)の入江がある。底質は、S、Mとある。サドとマゾではなく、砂と泥という記号。アンカーリングにはもってこいだ。今度来る機会があれば、是非立ち寄ってみたい入江だ。

 そんなことを考えていると、アップルツリー・コーブからフェリーが出てきた。そして、その十分後に、辺りは濃い霧に閉ざされてしまった。この霧の中にフェリーがいて、しかも、こちらへ向かっている。そう思うと、今にもそれが目の前に現われそうで気が気でない。神経をピリピリに張り詰めている時、耳元で汽笛が鳴った。あまり緊張していると、瞬間的な音の方向が却って判断がつかない。

 さらに十五分間が過ぎ、ウソのように霧が晴れた。フェリーは、前方三十メートル辺りを通過中だった。周囲のヨットも、僕と同じ気持だったらしく、互いに顔を見合わせて安堵の笑みを交わした。

 十時。ポイント・オブ・ノーポイントに差し掛った。ポイント・ウイルソンまでの半分の13.5浬を走ったことになる。悪くない。

 十二時、ポイント・ウイルソン。これを過ぎればファン・デ・フカ・ストレィトだ。懸念していた潮流も、二度目ということで案外苦労なくに乗り切れた。急に広々と視界が広がる。やっぱり海は広々していなくてはいけない。無風をいいことに、初めてファン・デ・フカにエントリーした時の苦労も忘れ、僕は、そんな感想を口にする。それに、視界が広がればオートパイロットが使える。一息入れて、コーヒーでも淹れよう。

 ポイント・ウイルソンからファン・デ・フカを西へさらに13浬進むと、ダンジェネス・ベイがある。ポート・エンジェルスもそうだが、港を囲むように、カメレオンの舌のような砂洲が伸びた不思議な恰好をした港だ。

 十四時半、その港口を覗き込みながら通り過ぎようとした時、目の前を何かが右から左へ過ぎった。僕は、咄嗟にオートパイロットを解除して[禅]を右へ旋回させた。

 [禅]の舳先の陰で、警告とも悲鳴ともつかぬ叫びが起こった。一瞬の後、十五フィートほどの小さなモーターボートが左舷に現われ、老夫婦が呆然としていた。

 [禅]はセールも揚げず機走だったし、如何に無警戒に飛び込んできたとはいえモーターボートは右から入って来た訳だから、僕が避航(右方優先のルールがある)しなくてはいけなかったのだ。それなのに、僕は反対側の港をぼんやり眺めていた。

 恐らく、ボートと[禅]とは、一メートルほどの間隔しかなかっただろう。僕は、老夫婦の折角の楽しいクルーズを、恐怖のそれに変えてしまった。事故が起きなかったとはいえ、僕は何という迂闊な誤りを犯してしまったのだろう。

 また、万が一、ボートが[禅]に接触していたら、彼らの老齢からして何らかの人身事故が起きていたかも知れない。僕は、どんな責めでも負うだろうが、後知恵の責めなんか、彼らに対し何の慰めにもなりはしない。

 僕は、[禅]を停めて、彼らに心から詫びた。老人は、不愉快そうに、「もういい、行け!」と身振りで示した。僕は、再度深々と頭を垂れてその場を離れた。


**


 永い航海に慣れて、僕は注意散漫になっていたのかも知れない。気を引き締めて、僕はポート・エンジェルスへ向かった。

 十七時十五分、僕は、ポート・タウンゼントよりはいくらか潤いが感じられる港へ入って行った。丸太を突き立てて並べたブレィクウォーターを回り込み、マリーナへ[禅]を進めると、今にも崩れそうなマリーナ・オフィスがあった。その前に[禅]を停めて声を掛けると、ピンクのネルの長袖下着に、幅広のサスペンダーでだぶだぶのズボンを吊った大男が現われた。どう見てもアウトローとしか見えない。拙い所へ来てしまったと思ったが、もう後の祭りだ。

 一晩だけの係留を頼むと、バースを指定された。水路はボートがいっぱいで、[禅]が通り抜ける幅もない。フェンダー(防舷材)をぶら下げたボートを推進力でかき分けながら進むと、斜めに傾いだポンツーン(浮き桟橋)があって、そこが今夜のねぐらだ。やれやれ・・・。

 ポンツーンには、年配の男がいて自艇を洗っていた。僕が隣に横付けしても、振り向こうともしない。僕は、後ろ向きの彼に、「隣に一晩泊めさせてもらいますよ」と挨拶した。男は、あァ、といっただけだった。

 係留作業を終えると、買い物へ行きたいと思った。隣の男にスーパーマーケットの場所を尋ねると、表の道路を真っ直ぐ行けといって、急がないと閉店してしまうと付け足した。僕は急いで出掛けた。

 途中、僕は道に迷ってしまい、自転車を押して歩いている男に尋ねた。その男は、相当に酔っ払っていた。この辺りはカナダのTVが受信出来るらしく、おまえは日本から来たセーラーだろう、オレはTVを観ておまえを知っているという。酔っているから話がくどい。僕が急いでいることなんか全然お構いなしだ。かなり絡まれてやっと解放されたが、ついにお店への道は聞けなかった。

 スーパーを見つけ、買い物を済ませてマリーナへ戻って来た。隣の男の作業は終わりかけていた。唐突に、彼がいった。

「日本から来たのか?」僕はそうだと答えた。

「オレは、昔、立川に三年間いたことがある。若い頃だったから、日本には愉快な思い出がどっさりあるよ」といって、ハ、ハ、ハと笑い、その思い出とやらを話しはじめた。彼は、急に饒舌になって僕を驚かせた。どういう仕事をしているかと尋ねられ、僕はリタイア(引退)だと答えた。そうしたら、

「オレも二年前、二十五年間勤めたエアフォース(空軍)を退役した。今は、このボートに住んで悠々自適の生活さ」といった。そして、彼は、

「蟹を食うか?」と尋ねた。僕は、蟹は大好きだと答えると、スーパーのビニール袋に、物凄く活きのいいのを二匹入れてくれた。そして、ここで、いくらでも獲れるといった。

 僕は、生きた蟹を料理したことがない。多分、湯を沸かし、最初に茹でるのだろうと見当をつけ、準備にかかった。

 しかし、生きた蟹を熱湯へ放り込むことを考えると、いやーな気がしてきた。でも、今さらどうしようもない。こっそりと逃がしてやろうかとも考えたが、意を決めて袋を逆さまにし、蟹を鍋に落とした。熱湯に入った瞬間、蟹が、自分の鋏や手足を振り千切って鍋の外へ飛び出してきた。その凄惨な様子を見たら、もうとても食べる気にはならなかった。

 それでも、死なせて捨てるのでは却って蟹に申し訳ない。死にかけた奴を鍋へ戻して茹で上げた。姿のままではとても食べる気にならなかったので、肉を掻き出し、野菜といっしょにトマトソースで煮込んだ。ブイヨンを加えて仕上げた蟹と野菜煮込みトマトスープは、先刻の凄惨な情景が目の前にちらついて、風味も何も感じられなかった。

 夜中から、ひどい下痢が始まった。

 考えてみれば、彼は、自艇の下の海底に蟹網を仕掛けて蟹を獲っていた。狭いマリーナには、アウトローみたいな奴等が大勢ボート住まいしているが、誰一人、陸のトイレへなんか行かない。全てここで垂れ流しだから、港内は限りなく汚れているはずだ。しまった!と思った時はもう遅かった。


***


 昨夜来、僕はほとんど眠れなかった。そして今朝は、熱っぽさと脱力感が行動意欲を著しく削いでいた。もう一日ここに留まって養生しようか・・・。しかし、横になっているだけなら、正露丸を服みながら走ったって大差はない。それに、食中毒を起こさせたここの不潔さが神経的にやり切れない。

 いい天気だった。八ノットほどの東風が吹き、正に機帆走日和だというのに、気持がなかなか前へ向いてこない。

 八時出航を予定していたのを、さんざん逡巡した挙句、二十分だけ遅れて舫いを解き、ポート・エンジェルスを後にした。

 空軍リタイアの隣の男に挨拶したら、マリーナ・オフィスまでついて来てくれた。オフィスの大男も隣の男同様、実は全くの好人物らしく、いかつい顔を子供のようにほころばせ、言葉少なに気をつけて航海するようにといった。そして、まるで西部開拓時代のアウトローみたいな男達が何人もポンツーンに行儀よく並んで、手を振って僕を見送ってくれた。見てくれはひと癖もふた癖もありそうな連中だけど、根は本当に素朴で、好い奴ばかりだった。

 さあ、ニー・ベイまでの五十浬だ。風は弱いが、機帆走なら夕方五時には着けるだろう。ニー・ベイでは、サンフランシスコまで七日間の補給をしよう。タバコと野菜とローソクを買わなくては・・・。

 名艇の誉れ高いチョイリーが、[禅]と相前後して走っていた。昼を回った頃、チョイリーが近くへ来て、何処ヘ行くのかと尋ねた。僕はニー・ベイと答えた。彼は、あそこは、ヨットを泊めるにはあまり好い港ではないといった。そして、彼らは、今夜、ポート・レンフリューに錨泊し、好い風の吹き出しを待って、ホーム・ポートのポートランドへ帰るといった。

 何故気がつかなかったのだろう。そうだ、レンフリューがあったではないか!あの懐かしのレンフリューが・・・。

 勿論、アメリカを出国していないから、法的にいってレンフリュー入港は違法だけど、上陸せず、アンカーリングだけなら大目に見てくれるだろう。それに、誰が調べに来る訳でもないし・・・。僕は、急いでチャートを調べ、行き先をレンフリューに変更した。

 レンフリューには四時に着き、投錨した。下痢は治まっていなかったし、それに、もう十日間以上も風邪が抜けていない。体調は今朝よりも、はるかに悪化していると感じた。

 はたして病院があるかどうか分らないけれど、明日はやっぱりニー・ベイへ行って医者を探して診てもらおう。それに、懐かしさで後先考えずにレンフリューへ来てしまったけど、買い物もしなくてはならないし・・・。

 その夜は、朝からほとんど何も食べず、床につき眠ってしまった。

 翌朝も素晴らしい天気だった。昨日同様、風はほとんどなかったけど、僅かに体調が改善されたせいか、とにかくニー・ベイまで一っ走りと張り切ってアンカー(錨)を揚げた。

 ファン・デ・フカ・ストレィトへ出てすぐ、前方をシャチのファミリーが通った。五、六頭のグループだ。スローモーションのような優雅な動きに見とれていると、急に外洋への憧れが僕の体内を突き抜けた。

 何を躊躇することがある?用意は万端整っているじゃないか。さあ、このまま、サンフランシスコへ直行だ!

 僕は、買い物のことも忘れてニー・ベイとケープ・フラットリーのウェイポイントを割愛した。そして、アメリカ西海岸100浬沖のウェィポイントへと針路を変えた。




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