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ケープ・フラットリーは西経124度40分辺りに位置する。その100浬沖が西経127度といえば、一見、計算が合わないと思われるかも知れない。
一度は60分で、60浬。即ち、一分が一浬ということだ。因みに、一浬は1.83kmで、陸マイルより約0.3km長い。127度から124度40分を引けば2度20分、つまり、140分=140海里ではないか。誰だってそう思う。
地球が平面ならそれが正解だ。でも、ガリレオじゃないが、地球は丸い!そして、極が南北両端にあるから、北緯四十八度辺りまで北上すると、一度の幅がぐんと狭くなる。南緯でも同じことだ。これを計算するには三角関数というものが必要になる。
こんなことを書いても、僕に数学の才能があるなんて思わないで欲しい。学生時代、僕がいちばん嫌いだった科目が数学だったのだから。
ところが、である。航海に興味を持ち、航海術を独学してゆくと、この三角関数に出っ食わした。あんなに大嫌いだったのに、自分を仮に大海原を往くヨットのコックピットに置いて考えると、数学がいとも簡単に理解できたから不思議だ。僅かなヒントがあれば、習いもしないものまで理解出来たし、場合によっては公式まで編み出したのだから、人間の能力って奴は、どこに潜んでいるか分らないものだ。但し、コックピットを離れて考えると、三角関数はふたたび僕にとっていちばん難解なものになってしまう。やっぱり、僕には純粋数学のセンスはないようだ。
前置きはほどほどにしよう。
140浬×sin48度=104.040276、約100浬なのである。
何故、こんな七面倒臭いことを書いたかといえば、これからお話することが関係してくるからなのだ。つまり、こうだ・・・。
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僕が、ニー・ベイへの立ち寄りを諦め、ケープ・フラットリーのウェィポイントを切り捨て、サンフランシスコへ直行すべく、100浬沖の北緯48度・西経127度へ針路を合わせたのが、十一時だった。
気紛れな女の微笑みのようにフッと風が吹くと、僕はそれに合わせようと夢中になってセールをトリムした。風は弱く、しかも方向が一定しないので、推進力はほとんどエンジンに頼っていた。うねりが大き過ぎて、[禅]はまるでシーソーのように上下しながら喘ぐように走った。それでも、18時には、53浬走っていたから、平均で六ノットということになる。潮流が影響しているのだろうが、これは、ヨットとしては悪くない走りだ。
やがて夕暮れが訪れ、同時に濃い霧が立ち込めた。夕日が霧をピンクに染めて、ちょっとしたエンターテイメントを披露して見せた。当たり前なことをいえば、その次に夜が来た。とても不思議でおかしな夜が・・・。
巨大なうねりは、アメリカ西海岸の大陸棚が作り出すもので、この辺りの名物だ。霧もそうだ。クルージング・ガイドには、「Fog is common in summer.(恒常的に、夏は霧が出る)」と書かれている。それらを逃れるために100浬も遠回りして沖出しをする訳だ。
それにしても、うねりの巨大さは半端じゃない。まるで山が押し寄せて来るような迫力だ。そして、霧は、体に纏わりつくほどに濃密だった。コックピットにいて、舳先のバウパルピット(船首の頑丈な手摺)がぼんやりと霞んで見える。おまけに、僕自身もキャビンの中までも、じっとりと露を帯びていた。
僕は、まさかとは思ったが、用心の為にフォグフォーンを鳴らしたり、闇の中に50万カンデラの探照灯を点滅させたりして、近くを往来するかも知れない船を警戒していた。
探照灯が照らす真っ白い霧の壁を突き抜けるように、突然、大きな漁船が[禅]の前を横切った。それは、白く霞みながら、[禅]に覆い被さるように現われ、そして、幻のように霧の中へ消えて行った。勿論、息が止まるほど驚いたけど、それよりも、僕は、幽霊でも見たように、ただ呆然としていた。
その時、21時40分の船位は、北緯48度10分、西経126度04分だった。航海日誌には、そういう出来事は必ず記録するものだから、この記述に間違いはない。
僕は、深い霧に閉ざされ、間断なく上下するキャビンにいて、全ることが僕を幻惑しているような不思議な気分に囚われていた。
一時間後、ふとGPSを覗いて見た。西へ走っているはずなのに、西経一二五度五四分を示していた。一時間で七・五浬近くも東へ戻ったことになる。コンパスを見ると、確かに西方二三〇度を指して走っているのに、船位はじわじわと東へ移動していた。
当然、僕はGPSの故障を考えた。こういうことを想定して、僕は予備のGPSを持っていたから、それをONにしてみた。
結果は同じだった。僕は、何がなんだか分らなくなってしまった。外は、粘つくほど濃密な霧が立ち込め、おまけに、うねりの底では水の壁しか見えない。
現代の航海者の脆弱なところだが、GPSが機能しないと、もうそれだけで洋上の迷子になってしまう。初めからGPSがなければ、それはそれで考え方もある。しかし、ウェィポイントだ、航路設定だと航海術の肝心な部分は全てGPSに任せてしまっている。天測したくても、この霧とうねりの中では全く不可能だ。勿論、これほど陸岸から離れれば、位置観測の陸標だって見えない。
超現実的な霧とうねりと暗黒の夜というシチュエーションが、神経の平衡感覚を失わせたのかも知れない。どうせウォッチしても何も見えない。こういう時は、眠って気分転換を図るしか方法がない。
僕は、キャビンのソファに、転げ落ちないようにキャンバスのサイドガードを張って横になった。そして、二時間ほど眠った。
***
誰かに呼ばれたような気がして、僕は飛び起き、そして霧に閉ざされて何も見えない外を見た。その次にGPSを覗いた。北緯四十八度一〇分・西経一二六度〇二分だった。[禅]は、正しく西へ五ノットで走っていた。
さっき、漁船と遭遇したのが、一二六度〇四分だ。何故か僕は、後二浬ほど走ったら、同じ場所でまたあの漁船に出会うという確信に似た予感があった。ナビ・ステーションのGPSと霧に塗り込められた前方の闇をかわるがわる見つめて僕は待った。
GPSが、一二六度〇四分を表示した瞬間、僕は、サーチライトを振りかざし霧の中を照らした。そして、僕は、さっきの漁船が、[禅]に覆い被さるように揺れながら前方を通り過ぎるのを見た。僕は、首筋から背中にかけて冷水を浴びせられたような寒気を感じていた。
それは、直径でも五〇メートルにも満たない濃密な霧に閉ざされた世界の出来事だった。その世界の中心に僕がいた。または、その霧の中に僕がいなければ、その世界もまた存在しなかったという種類の世界だ。
僕の目の前を過ぎった漁船にも、当然、漁船を中心とした世界がある。それら三次元的空間が、この一二六度〇四分で瞬時重なり合うのというのは、一体どういう必然があってのことだろう。出来事の本当の意味なんてものは、応々にして人間には分らないものなのだ。不可思議という言葉は、人間が考えるべからざることを意味する。僕は、そう思って考えることを止めてしまった。
今でも、あの一連の出来事が何だったのか僕には全く分らない。ただ、いえることは、洋上では、ああいう不思議が、まるで普通のことのように起こるということだ。
*
僕もまた、夜中にススキを見れば幽霊を見たと騒ぎ立てる口なんだろうか。それにしても、たいへんな夜だった。
十六日の朝九時、[禅]は、沿岸一〇〇浬沖の北緯四十七度五三分、西経一二七度に到達した。そして、セオリーどおり大波と霧は消え、おまけに、夜半来、風までが絶えてしまった。薄曇りの海は、昨夜のミステリアスな海とは全く別物になった。
エンジンは、もう三十時間も回しっ放しだった。少し休ませなくては・・・。そして、凪のうちに給油をしておこう。そう思って、僕はエンジンを止めた。
何と静かなんだろう。ワンポイント・リーフのメィンセール(一段縮帆した主帆)が、ローリングに合わせてバサッ、バサッと右に左に裏風を孕む以外に音がない。それに、エンジンの震動がないのがいちばんありがたかった。エンジンを回していると小刻みな震動を身体に感じ、それが知らずしらず澱のようにストレスとして神経に鬱積する。
エンジンは暫く休憩だ。そして風がないから[禅]は走らない。為す術もなく、僕は午後二時まで揺り篭のようなキャビンで眠った。
イルカの声で目が醒めた。
コックピットへ出てみると、十頭にも満たないイルカの小グループが、[禅]には無関心に南へ向かって通り過ぎて行く。そして、南からあるかなしかの風が吹き始めていた。僕は急いでセールを展開し、[禅]を南西へ向けた。しかし、風向は気紛れだった。僕は、都度タック(風を受ける舷)を返し、根気よく南下を続けた。ポート・レンフリューを出航して以来、[禅]は、やっとヨットらしい姿で走り出した。
安定しない微風とはいえ、十七日の午前二時までは、[禅]は何とか帆走していた。そして、二時以降、再びカームになってしまった。そのカームは、翌十八日の夕方まで、四十時間も続いて僕を苦しめた。
思い出せば、九月十七日は僕の誕生日だった。タバコもコーヒーも品切れだ。そして、この苛立たしいカームときた。おまけに、前線が接近しているらしく、持病の頭痛がひどい。恐らくは、五十九年の我が人生で最悪の誕生日だった。
十八日、夕方六時からそよそよと北風が吹き出した。微風を拾って、[禅]は再び二、三ノットで帆走し出した。
一見、穏やかな天気だったが、大気の中に明らかな不穏を感じる。ひどい頭痛もその兆しに違いない。そう確信して、辛うじて判読出来る気象ファックスをとってみた。[禅]の西方海上を九七九ヘクトパスカルという途轍もない低気圧が北上中らしい。低気圧としては、欣明海山近海の嵐の時よりも大きい。どんな時化になることかと僕は身構えた。
しかし、出来ることは何もない。吹き募れば、せいぜいセールをリーフする程度のものだ。そして、時化が過ぎるのをじっと耐えて待つ。嵐に立ち向かうなんていう人がいるが、まるで嘘っぱちだ。大自然の前で、人間は余りにも無力なのだ。
真夜中に、風は二十五ノットになった。幸い北風だったから、真追っ手をジグザグに交わしながら、南下のレグを稼いで行った。
追い波に乗せられて十八ノットのプレーニング(波乗り)が連続すると、誰だって不安になる。明け方近く、僕はプレーニングを抑えるために五十メートルのロープを流した。効果はてき面だった。サーフィングが始まりかけると、ググッとブレーキがかかって、波が[禅]を追い抜いて行く。暫くはこれで凌げる。そして、もうじき時化も収まってくれるだろう。
夜が明けても風は変わらなかった。そして、だんだん波が悪くなってきた。
十九日の夜中には、風はついに三十五ノットになった。収まるどころか、時化は益々険悪になってしまった。
ロープを引き摺ったまま、[禅]はプレーニングを始めた。これはやばい!これでは、船体を破損しかねない。僕は、もう一本五十メートルのロープを流し、その先端に古タイヤを結んだ。プレーニングは収まったが、[禅]は、唐突に走ったと思えば急に止まるというぎこちない動作を繰り返した。十秒毎に急ブレーキを踏み込むような動きに、僕の神経はだんだん苦痛を感じはじめ、終いには苛立ちが募っていった。
時化は、さらに翌二十一日も続いた。神経は、もうずたずただった。セールはスリーポイントリーフのメィンに、在るかなしかのジブ(前帆)。半分は投げ遣りな気分から、僕は無抵抗を決め込んでいた。
時化は、十九日、〇時頃から正味三日間続いた。そして、二十二日〇時、まるで舞台が暗転するようにそれは終わった。二十五ノットの強風が、いきなり十ノットのそよ風に変わる唐突もまた、大自然の一つの姿だった。
三日間の悪天候が嘘のように快晴になった。インディゴ・ブルーの夜空が息をのむほど美しかった。満天の星が、一つひとつくっきりと輝き、ミルキー・ウェイが悠然と南へ流れていた。僕は腹の底から安堵の溜息をもらし、大いなるものへ感謝を呟いた。
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それにしても、風向きは不安定だった。北北東十ノットの風にセールをトリムすると、十五分後には西北西六ノットという具合に。そして、風は次第に衰えていった。
やれやれ、時化でなければ凪だ。僕と風の相性は、極度にシニカルなものか、それとも僕は、風に呪われているのかも知れない。
二十二日、〇時の位置からサンフランシスコ・アウターベイの入口までは、もう僅か一〇五浬だ。僕は、大回りの航路を、岸寄りの近道に変え、凪の海を機走で進んだ。
明け方、海面は皺一つない油凪になった。エンジンの疲労を考え、六時からはヒーブツー(漂流)に入った。そして、七時。ふとハッチを開けて外を見ると、一〇〇メートル離れたところにヨットが浮かんでいた。僕は、何か不思議なものを見るような思いでそのヨットを眺めていた。微速で機走していたのか、一時間後には、もうそのヨットの姿はなかった。
二十二日、夕方、十八時、北緯三八度二〇分、西経一二三度四十五分。ボデガ・ヘッドの西三十浬。二十一時、遥かにポイント・レイェイス灯台の灯が見えた。ひしひしと陸の懐かしさを感じさせる灯の瞬きだった。
時々、漁船や本船の航海灯を見るようになった。いよいよサンフランシスコが近い。
午前二時。ついにサンフランシスコ・アウターベイの入口、ポイント・レイェイス沖の北緯三八度、西経一二三度〇五分に到着した。
これからは、手が届きそうなほど岸寄りのコースだ。航路設定でチャート上に引いた航路が、鉛筆の線一本ずれていても座礁してしまう。ドレイク・ベイを掠め、僕は闇夜に目を見開いて舵を引いた。二日間まともな睡眠をとっていなかったから、岸寄りを走る危険のさ中にも拘らず、恐ろしく眠い。濃いコーヒーでもあれば、どんなに救われるか知れない。しかし、コーヒーもタバコもない。
さあ、もう一息だ。後は、アウターベイを二〇・四浬進むと、朝にはゴールデンゲート・ブリッジだ。頑張れ!
***
ゴールデンゲート・ブリッジのすぐ外側にポテトパッチ・ショールという浅瀬がある。その浅瀬の岸側をボニータ・チャネルが走っている。僕は、切り立った崖を左に見てチャネルを通り、目の前に立ちはだかるポイント・ボニータへと[禅]を進めた。
ボニータを交わすと、目の前に、写真で見慣れたゴールデンゲート・ブリッジが、半分霧に覆われた姿を現した。しかし、何という色だろう。錆止めペイントの朱赤・・・他に何色が適切か私見は控えるが、それにしても錆止めの朱赤はあまりにも風情がない。初めて見たゴールデンゲート・ブリッジの印象は、色彩デザインの違和感だけが印象に残った。
サンフランシスコというと、誰もが霧を思い浮かべるが、ゴールデンゲート・ブリッジの下を流れる潮汐は、恐らく、主要港への航路としては、世界有数の激しさだと思う。何しろ、ゴールデンゲート・ブリッジの内側、広いサンフランシスコ・ベイの六分の一の海水が、潮の干満で、日に二度往復して入れ替わるというから物凄い。しかも、ベイ全体からすると、ブリッジ下の海峡の幅はたった一・五H、針の穴ほど狭い。
クルージング・ガイドにも、ゴールデンゲートの潮汐について特記されている。タイドテーブル(潮汐表)で停潮時を選んでブリッジを通過するように、と。
九月二十三日の午前中のハイタイド(高潮時)は〇三五四時、ロータイド(低潮時)は一〇三八時。僕が、ゴールデンゲート前に差し掛かったのが〇八〇〇時だから、停潮時には間があり過ぎた。
しかし、ブリッジは目の前だった。そして、見たこともない巨大な三角波が、既に[禅]を取り囲んでいた。通常、波というものにはリズムがあり、方向性がある。しかし、三角波にはそれがない。いきなり、船を真下から高々と突き上げるかと思うと、次の瞬間、周囲は沸騰した波の壁に包まれる。
左側の崖には、外洋からのうねりが壮絶な飛沫となって空高く打ち上がっている。一メートルでも遠ざかりたい破壊的な情景だ。そして、岸から離れれば、三メートルほどもそそり立つ三角波だ。
僕は舵にしがみつくようにして[禅]を操っていた。前方に、湾内から出て来たばかりの五十フィートほどの優雅な大型モータークルーザーがいた。如何にも余裕たっぷりに荒波を押し分けて進んでいる。それが、直下から湧き立った波で、見上げるばかりに高く持ち上げられた。そして、どうした加減か、その頂点でクルリと一八〇度回転してしまった。今までの余裕が瞬時に失せ、モータークルーザーは、慌てふためいてベイの中へ逃げ帰って行った。
その後も、僕はあれほどの潮波を見たことがない。南太平洋のクック諸島の無人島・スバロフ環礁のパスで体験した潮波も凄かったけど、ゴールデンゲート・ブリッジのそれは、三角波のスケールとして別格だった。
ゴールデンゲート・ブリッジ直下に差し掛かると潮波は消えた。激しい潮流は依然として僕を悩ませたが、もう、舵が利かないという状況ではなかった。
僕は、頭上高く聳えるブリッジを見上げながら、ポート・エンジェルス以降の辛かった九日間を思った。それが苦難の航路だっただけに、僕は、ついにサンフランシスコへ到達したという達成感に酔っていた。
そして、僕は思った。シアトルと同じように、ここにも素晴らしい出来事が待っているに違いない、と。なんといったって、ここは日本人には馴染み深いサンフランシスコなんだから・・・。
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九月二十三日、午前八時四十五分、僕はゴールデンゲート・ブリッジを通過した。そして、晴れがましい気分でサンフランシスコ・ベイを進んで行った。
右手斜面には、朝の陽射しを浴びたサンフランシスコの街並みが広がり、丘を回りこんだ辺りには、高層ビル群が見える。正面は、アル・カポネもここで生涯を終えたという脱獄不能の監獄島アルカトラス・アイランドだ。さらにその向うにはエンジェル・アイランドがあり、左の入江にはサゥサリートやティブロンなど、お洒落な街が続く。
岸辺の賑わいも華やかで、美しい公園や由緒ありそうな建物が並び、如何にも大都会らしい。ここは、アメリカ西海岸文化の発信地・サンフランシスコ・・・こんな所で、僕はどんな出会いや出来事を経験するのだろう。きっと、思いもかけない何かが僕を待っているに違いない。そう思うと、僕の胸は期待でいっぱいになった。
ゴールデンゲート・ブリッジを過ぎて東へ約二浬進むと、右側にマリーナ・ヨット・ハーバーがある。堀江さん以来、多くの日本のヨットがお世話になったので、日本のセーラーによく知られているマリーナだ。しかし、そのたたずまいは驚くほど質素だった。或いは、うらぶれているとさえ見える。
ほとんどのドックは空っぽで、壊れたポンツーンが手入れもされず放置されていた。古いマリーナだから水路は非常に狭く、本当にこれがサンフランシスコの入口に位置するマリーナだろうかと、ちょっと不思議な気がした。
空いたドックに[禅]を繋ぎ、僕はハーバーマスターのオフィスへ出向いた。
「日本から来たヨット[禅]といいます。一週間の碇泊をお願いします」と僕がいった。ハーバーマスターは、僕をちらりと見て、
「空きはないよ」と素っ気なくいった。こんなに、何処もかしこも空っぽじゃないか。そう思って、
「一週間が無理なら、三日間でもいい」というと、もう返事もしない。何だか、とても変な感じで、無視されているよう気がした。二人ほど客がいたので、忙しいのかと思って、少し待ってみた。でも、僕には全然関心を示さない。二人の客が帰ってしまっても、僕を飛ばして新しい客の応対をしている。
「OK、分った。他へ行くことにするよ。どこのマリーナなら泊めてくれるか教えてくれよ」
「さあ、知らないねェ」
僕は、彼の態度に明らかな不快感があるのを見てとった。このイヤーな感じは何だろう?今まで経験したこともない不思議な疎外感だった。
とにかく、僕だって不快だったから、ドックへ戻ると、すぐ[禅]の舫いを解いた。でも、ここ以外のマリーナをチェックしていなかったので、どこへ行けばいいのか見当がつかない。
カナダにいた時、誰かが、サゥサリートが素晴らしいといっていた。そうだ、サゥサリートかティブロンへ行ってみよう。ここからベイを横断して四浬ほど。サンフランシスコからは、ゴールデンゲート・ブリッジを渡った対岸だ。サンフランシスコがウエストコースト文化のショーケースとすれば、サゥサリートは、そのさらなる可能性を摸索し、より豊かな個性を生み出すスタジオだ。そうだ、サゥサリートへ行ってみよう!
横からの強い潮に翻弄されながら、ベイの中央を横断した。目の前を、チャート上ではヨットが走れないはずの浅瀬を、何艘ものヨットが、すごくアクティヴなセーリングをやっている。僕は、その横の、チャートに記されている水路を用心深く北へ進んだ。
たくさんのヨットが沖がかりのアンカーリングをしている。中には、ハウスボートも見受けられる。水路の岸寄りは、どこが境界線か分らないほど夥しい数のヨットが碇泊していた。
しばらくベイを奥へ進み、入りやすそうなマリーナへ[禅]を進めた。外側のポンツーンに舫いをとろうとすると、近くのヨットから何人かの男が現われ、舫い綱を受け取ってくれた。
どこから来た?日本から?そいつはグレイトだ。そしてカナダとシアトル?クルージングはハッピーだったかい?結構、結構。ドックの空きだって?オフィスのビルが何とかしてくれるよ。心配するなって・・・。
サゥサリートで僕が飛び込んだマリーナは、スクンメーカー・ベイ・マリーナ(Schoonmaker Bay Marina)といった。そして、そこのヨッティーたちは、とても都会のマリーナとは思えない気安さと親しみやすさで僕を迎えてくれた。そればかりか、サゥサリートで会う奴は、本当にいい奴ばかりだった。
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割り当てられたドックに収まって、最初にしたことは、近くのコンビニへ走りタバコを買うことだった。しばらく地面を踏んでいなかったので足は覚束なかったが、とにかくタバコへ向かってまっしぐらだ。コンビニへ飛び込み、レジの後ろの棚に並ぶシガレットを指差して、
「ワンカートン オヴ キャメルス」といった。キャメルスと複数でいったのに、若い黒人女性が、キャメルを一個取り出した。でも、ワンカートンとは一箱のことだから、彼女はそれほど間違っていた訳でもない。
「ノー。ア カートン オヴ テン ボックセス!(十個入りの一函だ)」と僕は叫んでいた。吸うのは一本ずつだから、何も十個でなければタバコが吸えない訳でもないのに・・・。しかし、その時の僕は、何日間もの禁断感情を癒すために、たくさんのタバコを手にする必要があったのだ。女の子は、僕の剣幕にビックリしていた。
「ごめん。航海中、何日もタバコを吸えなかったものだから・・・」僕は、詫びといっしょに言い訳をした。彼女は、呆れたというように首をすくめて笑っていた。
[禅]へ戻り、久し振りの喫煙でちょっと頭がクラクラしていた時、「コンニチハー」という声を聞いた。もう、随分日本語を聞いていなかったので、僕は弾けるようにキャビンを飛び出した。そこには、三十歳を僅かに超えたほどの日本人の男性が立っていた。
「いま着いたんですってね。オフィスのビルが教えてくれたんです。日本のヨットが着いたから、おまえが面倒みるようにって。あ、僕、高橋っていいます」
マリーナ・オフィスで、なかなか通じない英語に苦労していたから、きっとビルは、僕に、誰か世話をしてくれる人が必要と考えたのだろう。高橋くんは、このスクンメーカー・ベイ・マリーナにある企業用のオフィス・スペィスに事務所と作業所を構えていた。そして、彼もまた、このマリーナにパワー・ボートを係留しているメンバーの一人だった。ビルは、わざわざ高橋くんのオフィスへ出向いて、僕の到着を知らせてくれたそうだ。
僕は、高橋くんをキャビンに招き、彼の多忙も考えずに長々と話し込んでしまった。でも、僕が相手で話しやすかったのか、彼も随分いろんなことを話した。
特に、まだ若い彼が、彼自身の事業のために無我夢中で働き、ために、異国に引っ越して来て心細さいっぱいの奥さんを放ったらかしにしたことを、懺悔するみたいに僕に打ち明けた。奥さんは、まだ二十三、四歳でチャコといった。
「ボクにしてみれば、一生懸命仕事をして、それで、チャコに不平をいわれることが理解出来なかった。仕事が全てに優先すると考えていたし、ボクにすれば、ボク等の家庭のためになることを一生懸命しているんだと信じていたから。でも、そのために傷ついていく人がいたんです。
或る日、チャコが手紙を残して日本へ帰ってしまった。何日も、何日もボクはそのことを考えました。そして、仕事ばかりが人生じゃないって、チャコのお蔭で、やっと気がついたんです。ボクは、つい先日、日本へ飛んで帰り、彼女に謝りました。もう、寂しい思いはさせないからって・・・」彼は、そんな話を僕に聞かせた。僕は、
「その通りだ。いい勉強をしたね。高橋くん、きみの選択は正しかったと思うよ。
日本人の価値観の基準は『生産性』なんだ。だから、何かを産み出すことは良いことで、非生産的なことは悪いことになる。つまり、働くことは好いこと。遊ぶことは悪いこと。単純にいえば、そういう構造だよね。そういう価値観でいえば、より良く生きようとすると、以前のきみのように脇目もふらず働くことになってしまう。でも、それって、精神的にぎりぎりって感じじゃない?生きている余裕というものが全然ないよ。
西洋人の価値観の基準は、『豊かな人生』じゃないかな。だから、家庭や子供をとても大事にするし、貯えるためにじゃなく、使うため、または使って豊かになるために働くよね。
日本人がどんなに金持ちだといっても、西洋人に比べて豊かさが全く感じられないのはそういうところに原因があるように思う。本来、金持ちっていうのは、お金があって、そして、それを使う時間がある人のことじゃないかな。お金を銀行にどれほど貯めたって、そんなのは金持ちなんかじゃない。高橋くんの事業がもっと発展して、銀行預金がもっともっと増えるよりも、チャコは、素朴でもいいから、互いの心の触れ合いの方が、ずっと豊かだと考えていたんだと思うよ。そして、僕もチャコの考え方に賛成する・・・」おおむね、そんな話だった。そして、高橋くんは、是非チャコにも会って欲しいといった。
翌日、僕は、彼のオフイスへ行ってチャコに会った。彼女は、想像していた以上の飛びっきりの美人で、しかもとてもチャーミングな女性だった。僕たちは、すぐに打ち解けることが出来た。そして僕は、シープドックの太郎とまで大の仲良しになった。スクンメーカーに碇泊中、太郎は何度も[禅]に遊びに来て、僕の無聊を慰めてくれた。
***
或る日、チャコが僕を車でサンフランシスコへ連れて行ってくれた。
ゴールデンゲート・ブリッジを車で渡ることは僕の夢だったから、とてもうれしい一日だった。ブリッジの上から見る太平洋は、どこにも苦難の跡などなく穏やかに凪いで見えた。そして、日本食品が欠乏した[禅]にとって、チャイナタウンや日本食品のマーケットはまるで宝の山のようだった。僕は、興奮し、そして、抱えきれないほどの買い物をしたことはいうまでもない。
サンフランシスコの急な坂道を、チャコは大胆な運転をした。一つの坂を下り交差点に差し掛かると道は平坦になる。そうすると、次の下り坂は全く見えず、目の前はサンフランシスコ・ベイの海だけになる。それでもチャコは、怖れる風もなく車を走らせた。
その道筋に、サンフランシスコの庶民の、気さくで気のおけない生活があった。道路脇に駐車する車が、坂をひとりでに走り出さないように、お尻を家並みに向けて坂上向きに斜めに停まっているユーモラスな景色もまた彼らの生活風景の一部だった。それにしても、こんな急坂に、どうしてこれほどの街を築くことが出来たんだろうと、僕は、不思議な思いでその景色を眺めた。
サンフランシスコは、僕の印象としては、親しみやすく、住みやすそうな街に感じられた。チャコにそれをいうと、
「zenさんにそういわれると、自分の街が褒められたみたいにうれしい」といって顔をほころばせた。
翌日、高橋くんは、僕に自転車を貸してくれた。そして、サゥサリートの南側の港から、フェリーで自転車ごとサンフランシスコへ行けることを教えてくれた。
僕は、自転車を駆ってサンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフとか、ピア39や海洋博物館などを訪ね歩いた。フィッシャーマンズ・ワーフでは、美味しそうな匂いをさせて茹で立ての蟹を売っていた。しかし、僕にはまだ、ポート・エンジェルスの蟹のイメージが強く残っていた。こんな所まで来て、僕は、蟹ではなく、変哲もないホットドックを食べた。
ピア39では、ピア(埠頭)の両側がマリーナになっているが、西側のそれは、巨大なシーライオン(トド)の群れに占領されていた。大きいのになると牛以上の図体のものもいて、ポンツーンが傾いて沈みかけている。トドたちは、すぐ横をフェリーが通っても、気怠るそうに、ただ視線を向けるだけだ。完全に安住の地と決め込んで、梃子でも動く気配はない。身動きひとつせず、レージーという言葉の見本みたいに寝そべって、僕にはちょっと寒く感じる日光を満足げに浴びていた。
さらに、僕は、海洋博物館へ向かった。
途中、中年のモーターバイク・ライダーの一群に出会った。ハーレーダビットソンや古典的なバイクの他に、新型のBMWやヤマハやホンダなどがあった。ヤマハ500に乗ったことがあったので、ピカピカな新型のそれに近づき、「調子はどうだい?」と尋ねた。彼は、得意げにバイクを撫で回していった。
「上々さ。あんた、ジャパニーズかい?いやー、日本人は、実に良いバイクを作るねェ」
「僕も、それが自慢さ」と僕がいった。
「いや、全くだ。お陰で、とても楽しんでるよ」
「それは結構。もっと楽しんで!」
そういって、僕は、まるで遠足の少年達のように天真爛漫な彼らと別れた。あの中年男たちは、ツーリングと、そして彼らの人生を本当に楽しんでいる。そして、その楽しい気分を嫌味なく周囲に撒き散らし、幸せな気分の輪を広げている。なんて素晴らしいことだろう。そう思うと、僕までがとても楽しい気分になれた。ここには、人生についてのいろんな共感が、ただ笑顔を交わし、ちょっとした親しみの言葉を掛け合うだけでいくらでも発見出来る・・・そんな気安さと充実感がこの海岸通りに溢れていた。
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海洋博物館は、アクアティック・パークという円形の小さな湾に面した古めかしい小さなビルディングで、建物の横にささやかなカフェがあった。
ひとまず、自転車を置き場に繋ぎ、カフェでコーヒーを飲みながら水辺を見た。なんと、この肌寒い中を、初老の夫婦が泳いでいる。彼らは、水の冷たさということに関しては、本当にタフだ。皮下脂肪が厚いのか、それとも毎朝、冷たい水シャワーで眠気を吹っ飛ばす習慣のためか、とにかく、水が冷たくても平気で泳ぐ。見ている方が鳥肌が立ってくる。
館内に入ってみると、展示は、まずアメリカ移民時代の展示物と資料から始まる。そして、古い船の備品や古い帆船の模型などがお決まりのように並んでいた。特に見るべき物はないと思って海側の回廊へ出てみた。屋内には展示できない大型のものや、展示のコンセプトから外れた単体の展示物があった。その中に、小さなベニヤ張りの手造りヨットが見えた。
案の定、[マーメード]だった。堀江謙一氏が約三十五年前、彼が二十五歳の時に、日本人として初めて太平洋を単独横断したあの[マーメード]がそこにあった。僕は、[マーメード]があることなんて全然予期していなかったけど、何だか懐かしいものに巡り会ったような気がした。
僕は、つぶさに[マーメード]を見て回った。今では考えられないような簡素な構造で、キャビンだって、とても寛ぎの場とは見えなかった。そして、何よりも驚いたことは、そのサイズだ。確かな記憶はないが、多分、十八フィートほどではなかっただろうか。長さからいえば、[禅]の約半分ということだが、船の航洋性というものは体積で考えるものだ。だから、船の幅や高さなどが全体の大きさに関係してくる。おおまかに計算してみると、[マーメード]は[禅]の五分の一から七分の一の大きさに相当する。
航海は、船が大きければ大きいほど快適になる。だから、十万トンの豪華客船の航海などは、シーワージネスという点だけで見れば、小さなヨットに比べるべくもなく容易だ。勿論、大型船には、港での取り回しなどにそれ相応の難しさはある。しかし、大型船業務のほとんどは、陸で通常行われている仕事と同じであり、それぞれの業務には専門家がついている。航海術そのものはヨットのそれと何も変わるところがない。
僕は、大型船の航海術が簡単だというつもりは毛頭ない。そうではなく、十八フィートにも満たないヨットが、航海においてどれほど難しく、潤いも慰めもなく辛いものかということを知ってもらいたいのだ。
そして、三十四フィートの[禅]においてもなお辛かったあの航海に思いを致すと、堀江さんが、どんなに苦しかったことだろうと思った。しかも、当時の日本では、大小に関係なくヨットで海外へ行くなんてことが信じてもらえる時代ではなかった。当然、パスポートもヴィザも手には入らない。だから、彼は、パスポートも持たず、夜陰に紛れて日本を出航された。無事太平洋を越えても、待っているのは不法出入国による逮捕、そして強制送還かも知れない。そういう不安のおまけまでついていた。さらにいえば、ヨットの航海記録も足跡ひとつもない。少なくとも日本の側からみれば、正真正銘の人跡未踏の世界だった。
説明のパネルにも、彼がゴールデンゲート・ブリッジに近づき、検閲に来たコーストガードにいった最初の言葉が『I have no passport.』だったと記されていた。その後、当時のサンフランシスコ市長の計らいで、彼は、犯罪者ではなく英雄として迎えられた。その辺の詳細は、堀江さんの著書、『太平洋ひとりぼっち』をご覧いただきたい。
彼をサンフランシスコ名誉市民として迎えてくれたお礼に、堀江さんは[マーメード]を市へ寄贈した。そうした歴史を経て、今、[マーメード]は、僕の目の前にあった。
耐水ベニヤの船体を撫でていると、僕自身の航海の辛かった情景が脳裏を去来した。
いつの間にか、僕は泪を流していた。傍らにいたカナダ人のカップルが、大丈夫か?と僕の腕をとった。僕は我に返って、慌てて笑顔を作り、
「ありがとう。大丈夫です。この[マーメード]のケン・ホリエは僕の友人です。彼の航海の辛さを考えていたら、つい涙が湧いてきたのです」と答えた。
「そうか、あなたは、この英雄kenと友達なのか。今、彼は何をしているのかね?そして、日本で彼はどういう評価を受けているのだろうか?」と尋ねた。
僕は、堀江さんが、その後も偉大な冒険をいくつも達成され、今なお、新たな冒険に立ち向かおうとしているということを話した。
ふと気がつくと、僕の周りには、いつの間にか十人ほどの人がいて、僕の話を聞いていた。そして、その中の一人が尋ねた。
「そして、きみは誰なんだね?」
「僕もまた、二ヶ月前、日本からカナダへ単独航海をしてサンフランシスコへ辿り着いたセーラーです。だから、彼の航海が如何に偉大であるかが分るのです」
「それじゃあ、きみもヒーローじゃないか!」
「いいえ、それは違います。僕は、多くの先輩たちの足跡を辿っただけです。偉大なのはコロンブスです」と答えていた。周りの人々が、僕に向かって拍手してくれた。そして僕は、彼らの一人ひとりと握手を交わした。
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