■Part 2・The West Coast of USA

《その先の海》

[危機・そしてサンタバーバラ]


 十八時三十分、左正横に二十二浬離れたピエドラス・ブランカス灯台が瞬いている。十秒間隔のフラッシュ。陸影も見えない闇の中に、灯台の灯だけが、『ここに、おまえの心を癒す陸があるよ』と囁いているみたいだった。

 午前四時、頭痛と風邪に対処して飲んだ風邪薬のせいで猛烈に眠い。意識が、だんだん混濁してくる。もう、二晩も全く眠っていないから、この辺で休んでおかなくては先が続かない。そう思って、三十分でも眠っておこうと考えた。

 眠る前の点検に前方を眺めた。遥かな闇の中、何箇所にもビルディングのような無数の灯火が見える。いや、あんな位置に島や陸地があろうはずがない。方角としてはサンタクルーズ島の方向だが、それは八十浬も先、水平線の彼方だ。客船だろうか?しかし、船にしては、航海灯も碇泊灯も見えない。一体、あれは何だろう。いずれにせよ、これでは仮眠どころの話じゃない。

 眠気と頭痛と鉛のような疲労が心を蝕んだ。

エンジンの響きが、或る音程が織りなす二種類の和音となって、ローリングのタイミングで交互に入れ替わり、絶えることなく僕の聴覚を充たす。その和音を背景に、遠くで唄っている終りのない男性コーラスの同じメロデーが、僕の頭の中で鳴り響いていた。それは、長時間かけてじわじわと効果を現す拷問のようだった。苛立ちが募り、次に惨めな敗北感に似た気分がやってくる。それを何度も、何度も繰り返して夜が明けた。

 体の不調と睡魔で朦朧とした僕が前方海上に見たものは、海底油田のプラットホーム(やぐら)だった。あらためてチャートを確認すると、難所として名高いコンセプション岬近辺には、オイル・プラットホームがたくさんあることが分った。中には、『ヒルダ』とか、『ハイジ』とか、『イレーヌ』などという女性名前が付いていたりする。

 明らかに、僕のチェック・ミスだ。相手が動かない海底油田のやぐらと分っていれば、いくらでも対処の方法があったものを!

 全く風がない。十月三日、十三時には、コンセプション岬沖三浬を航過した。マリーナ・デル・レイまで、後百十浬少々だ。

 でも、こんな状態で、もう一晩、僕は洋上で過ごせるだろうか?体の不調が、かなり明瞭な形で精神に影響を及ぼしていた。

 海の真っ只中にいて、海を見るのが厭で堪らなかった。ウォッチの折、キャビンを出ることもせず、ポートライト(船窓)のレースを片寄せて、僕は片目で外を覗いていた。そんな自分を顧みて、『これはおかしいぞ!』と思った。

 この時僕は、ある種のノイローゼに陥りかけていたのだと思う。

 ダメだ!こんな状態で航海することは不自然過ぎる。何かが間違っている。こんなの、航海じゃない!

 僕はチャートを広げ、最寄の港を探した。四十浬先に、サンタバーバラがある。とにかく緊急避難だ。港に入って、まず眠って、風邪を治し、精神の平衡を取り戻さなくてはいけない。

 それにしても潮が悪い。さらに、癖のある波が行く手を阻む。思うに任せぬ船足が、僕をどんどん窮地へ追い込んでいった。

 どう考えても、日中には、サンタバーバラへは着けそうもなかった。VHFでサンタバーバラのハーバー・マスターを呼んでみるが遠すぎて繋がらない。入港しても、夜分、どこに[禅]を着けていいか分らなくては処置無しだ。

 コーストガードが、中継して上げようといってくれた。僕は、無線機から声が聞こえただけでも、心底ホッとした。船名と到着予定時間が夜八時以降になることを告げ、バースを用意して欲しいとお願いした。

 しかし、僕は、サンタバーバラ港のプラン・チャート(港内の詳細図)なんか持っていない。コンセプション岬からロサンゼルスまでの沿岸を示すチャートには、サンタバーバラの所在が小さく記されているだけだ。クルージング・ガイドの手書きの略図だけが頼りだが、それによると、狭い水路以外は、水深一メートルにも満たない。知らない港に夜間入港することに加え、ヨットとして条件が悪過ぎる。でも、他に選択肢があるだろうか。

 GPSを上手に使えば、夜間でも何とか入港出来るものだが、ベースとなるチャートがないのではそれも無理だ。さらに、西海岸で度々経験したことだが、航路目標として選んだ航路ブイが、チャートとは全然違う位置にあることが珍しくなかった。気が滅入ってくると、そんなことまでが僕の進路を阻む足枷になった。

 サンタバーバラ港に接近したのは、既に夜の七時半を過ぎていた。

 目の前には、街や、行き交う車や、ピアに張り出したフィッシャーマンズワーフのレストランなどの電光が目を欺くばかりにギラギラと煌いていた。それらが災いして、岸辺も海面も全く見えなかった。浅瀬を示す灯火が付いたブイさえも、目の前に来るまで発見出来ない。これでは、とても入港は無理だ。

 港外の深場へ戻り、海上を行きつ戻りつしている[禅]を、大勢のレストランの客が面白そうに見物していた。どうしよう?サンタバーバラを諦めて、七十二浬先のマリーナ・デル・レイまで行くべきだろうか?

 そんな逡巡をしている時、沖から漁船が驀進して来た。これぞ天の助けだ!僕は、漁船が、正しい水路を通ってくれることを願いながら、その後を追った。十月三日、夜八時半、緊張の糸が切れる寸前、僕は倒れ込むようにサンタバーバラへ入港した。

 港内は静まり返っていた。手近なドックに[禅]を停め、オフィスへ行ってみた。勿論、こんな時間では誰もいない。このまま朝を待とうと思って[禅]へ戻ってみると、ガードマンがドックで僕を待っていた。コーストガードから連絡があって、待機していてくれたそうだ。知らない港で待ってくれている人がいたということが嬉しかった。僕は、彼の指示に従って、所定のバースへ[禅]を移した。

 あァ、これで安心して眠ることが出来る!体が崩れ落ちてゆくような安堵感だった。しかし、一方では、精神の不均衡が激しい苛立ちとなって、僕の中でなおも燃え盛っていた。


**

 その夜、僕はなかなか寝つけなかった。体は綿のように疲れているのに、僕の神経は痙攣しそうなほど張り詰めていて、頭の中で、終わることのない男性コーラスが響いていた。浅い眠りに入ったかと思うと、まるで誰かに叩き起こされたように目が醒める。そんな状態が明け方まで続いた。

 漁船が早朝の出漁で動き出した頃、却ってそのざわめきが僕を深い眠りに誘った。それでも、ウォッチの習慣で一時間半毎に覚醒する。都度、僕は、『ここはサンタバーバラだ。安心して眠れ』と自分にいい聞かせた。

 九時過ぎに目覚めた時、マリーナ・オフィスへ行って碇泊の手続きをし、船に戻ってまた眠った。

 お昼頃、疲労感は抜けていた。同時に空腹を感じ、街へ出てみた。

 サンタバーバラは本当に美しい街だった。特に、ウォーター・フロントは公園になっていて、まるで箱庭のようだ。名も知らぬ街路樹の花に、極彩色のハミングバード(ハチドリ)が、僕の目の前でホバリングして蜜を吸っていた。そして、人々の顔は大らかな微笑に輝いていた。

 マリーナ・オフィスの近くに日本食堂があった。アメリカの日本食堂は、その大半がベトナム人やタイ人の経営だ。しかし、ここの親爺はれっきとした日本人だった。何を食べたかは忘れたが、サンタバーバラへ移住して店を開くまでの彼の苦労話と九州訛りの日本語が、破綻しかけた僕の神経にとって絶妙な安定剤になった。

 夕方、街に灯が点り出した頃には、マリーナサイドのいろんなお店を覗いて歩くまでに僕の神経は回復していた。或る店では何枚も絵葉書を買い、船に戻って友に便りをしたためた。内容は、相変わらず虚勢を張って、『元気に航海を楽しんでいます』というものだった。

 翌日、日本人留学生のアキという青年が訪ねて来た。彼の家は鎌倉で、僕は彼の父親を知っていた。僕が、次の碇泊地はマリーナ・デル・レイだというと、彼は、来週初めにサンタモニカへ行くので、訪ねて行きますと約束して帰って行った。

 僕は、お洒落で美しいサンタバーバラがとても気に入ったので、日暮れまで近郊の散歩を楽しんだ。もう、心の均衡は取り戻せたと思った。



[憧れのマリーナ・デル・レイ]


 夜、港は濃霧に包まれ、夜通し霧笛が物悲しく鳴っていた。僕は、早朝に出航してマリーナ・デル・レイへ向かうつもりだった。朝までに霧が晴れてくれるだろうか・・・?

 午前三時、霧笛はもう聞こえなかった。僕はバースを抜け出し、デッキへ出た。霧は晴れて星空が美しかった。風も穏やかで、出航に何の支障もないように見えた。

 午前四時三分、僕は舫いを解き、サンタバーバラをスタートした。

 港口を出て、僕は港の中と外の違いに驚いた。サンフランシスコの出航もそうだったが、外洋は時化ていた。真向かいからの二十五ノットの強風と高波。エンジンパワーを最大にしても、がぶられて、[禅]はほとんど前へ進まない。それどころか、大波で浅瀬へ戻されたりする。その横を、強力なエンジンにものをいわせて漁船が出港して行く。闇の中で、時折、波にぶつかった漁船が真っ白い飛沫に包まれていた。

 やっと沖出しして、針路を一二五度にとる。ぎりぎりのクローズドホールド(風上航)にエンジンのパワーを補っても、波と潮の加減で艇速は二ノットほどしか出ない。こんな調子では、七十二・五浬先のデル・レイに日中に着くのは難かしい。七時、ベンチュラ沖。三時間でまだ、たった七浬しか走っていない。そんな状態が十一時頃まで続いた。

 オクスナードをやや後方に見る辺りで針路を九十五度に転舵した。二十ノットほどに衰えた風がアビーム(横風)になり、さらに、逆潮も止まった。[禅]の走りが見違えるように楽になった。コンスタントに七ノットがキープ出来る。よし、機帆走で突っ走れ!

 しかし、午後二時には、風は十ノットを割り、三時には無風になった。日没まで三時間弱、薄暮がさらに三十分。その時間内に、何としてもマリーナ・デル・レイへ入港したいものだ。僕は、エンジンをフルパワーにし、可能な限りショートカットして突っ走った。

 四時過ぎからは連れ潮になり、艇速が八ノット以上になった。あァ、これで何とか間に合うかも知れない。

 ご存知かも知れないが、マリーナ・デル・レイとは、世界一大きなマリーナだ。大まかにいって、大型のマリーナが八つほど集まったものと考えればいい。不案内な者にとっては、あまり大き過ぎて、どこに何があるやら見当もつかない。マリーナ内には、二十四時間営業のスーパーマーケットが二軒、一流レストランが五軒、普通のレストランなら無数にある。その他、マリン関連のサービスで欠けるものはほとんどない。そういうマリーナだから、夜、目標が見えなくなってからでは、初めて入港する[禅]としては、どうしようもないということだ。

 四時近くなり、オフィスが閉まる前にと思ってVHFでデル・レイのハーバーマスターをコールしてみた。まだ十三浬隔たっているせいか無線が届かない。何度も試みていたら、またコーストガードが応答してくれた。そして、マリーナ・デル・レイに連絡しておいて上げるといってくれた。サンタバーバラに続いて、コーストガードは今日も僕を手助けしてくれた。ありがたいことだ。

 さらに、トランジェント・ドックは、水夫のステチュー(銅像)があるチェース・パークの南側で、空いているドックに着岸し、明朝、オフィスに申告するようにと教えてくれた。これでもう安心だ。僕は、ふっと安堵の溜息を漏らした。

 針路後方に、太陽が西へ大きく傾いていた。やや赤味を帯びてきた大空を、ロサンジェルス発の旅客機が次々と飛び立って行く。その中には、JALの鶴のマークも見えた。あァ、あれに乗れば、十時間後には日本の地を踏むことが出来るのだ・・・そんな望郷の思いが心を掠める。

 目を転じると、前方にはサンタモニカの街並みと、その少し南側に、マリーナ・デル・レイのブレーク・ウォーター(防波堤)が見えていた。もう一息だ。何とか、明るいうちに着けそうだ!

 六時、[禅]はセールを丁寧に畳んでブレーク・ウォーターの北側のエントランスを入り、水路を進んで行った。水路といっても、幅が二〇〇メートル以上もあるから、ディンギーやクルーザーが、水路の中でセーリングを楽しんでいる。

 水路が左へゆるく曲がる辺り、右側の岸はフィッシャーマンズ・ヴィレッジだ。たくさんのレストランが、それぞれの店の個性に合わせた音楽を奏で、セーラーやマリーナの黄昏を楽しむ人々で賑わっていた。デル・レイに[禅]を停めたら、いつかここを訪れ、のんびりと食事をしよう。そうすれば僕だって彼らの仲間だ。

 チェース・パークのトランジェント・ドックはすぐに分った。僕は、トイレやシャワー・ルームに近いドックを選んで[禅]を舫った。十月五日、午後六時半。西の空には、まだ、僅かながら夕映えの明るさが残っていた。


 翌朝、マリーナ・オフィスで一週間の碇泊手続きをした。僕のパスポートを見ていた事務のおばさんが、急にうれしそうに笑い出した。どうしたの?と僕が尋ねると、おばさんは、生年月日が私と同じなんだよといった。「それじゃあ、あなたもまだまだ若いということだ」とぼくがいうと、大笑いしながら、「違いない。私たちは友達になれそうだね。私はクララ」といって手を差し出した。僕は、その手を握りながら「僕はzen。よろしく」と初対面の挨拶をした。

 クララおばさんは、とても僕に好くしてくれた。マリーナ内にあるとはいえ、歩けば相当距離のあるスーパーへ車で連れて行ってくれたり、デポジットもとらずにシャワールームの鍵を貸してくれたり、いろんな航路の詳細な説明をしてくれたり・・・。

 お昼過ぎ、僕はかねてから、マリーナ・デル・レイに着いたら電話をすると約束していた岡田さんをコールした。一通りの挨拶やちょっとした航海のエピソードなんか話し終わると彼は、「理沙へ電話してやれ!」と命令口調でいった。僕の方には別に用はないよというと、いいから、電話してやれという。

「理沙は、数日前、離婚した。それも理不尽で一方的な離婚だった。和尚(かつての僕の仇名)も、かつては(僕の離婚の折)、理沙に声を掛けてもらったろうが・・・?」

 僕は寝耳に水だった。あんなに毅然としたトレンドを保って優雅な生活をしていた彼等が離婚するなんて・・・。

 僕は、岡田さんとの話が終わると、すぐ理沙へ電話をした。電話に出た理沙の力ない声が胸に堪えた。

 僕ということが分ると、彼女はもう、嗚咽で何もいえないようだった。

「たったいま、岡田さんと話していたんだ。それで理沙のことを知った。こんなことになるなんて、オレ、信じられないよ。一体、どうしたっていうんだい?」

 問題の発端は、理沙の家の事業の破綻だった。全てが崩壊してみると、意外にも夫婦を繋ぎとめる絆は残っていなかった。夫の洋介は、かねてから噂のあった愛人と共に行方をくらました。短い書置きと捺印された離婚届だけが残されていたそうだ。

 如何にも身勝手な措置と見えたが、洋介にしてみれば、なまじ表面に立って却って混乱を招く債権者問題に処する部分があっての行動に違いなかった。しかし、いまそんなことを理沙にいってもはじまらない。

「毎日々々、債権者に責められても、私では何一つ埒があかない。ただ、罵声を浴びるだけよね。ロスにいる妹が、どうせ何も出来ないのだから、気晴らしにしばらくロスへ来てはどうかといってくれているの・・・」

「それはいい考えだ。すぐ東京を発ってロスへおいでよ。マリーナ・デル・レイは、ロスの郊外だ。落ち着いたら、妹さんに[禅]へ連れて来てもらえばいい。オレは、ここで一週間キミを待っているよ」

「考えてみるわ。ねェ、私がそこへ行ったら、クルージングへ連れてってくれる?」

 この質問に僕は当惑した。理沙は、陽子と同じくらい昔からの知り合いで、かれこれ二十五年ほども家同士の付き合いをしていた。僕等は互いの長所も欠点も知り尽くしている。さらに、互いを好意的に受け止めている部分さえあった。

 その理沙が離婚し、失意の思いを抱いて他国へ来て、そしてクルーズに同行することになったらどうなるか・・・。人は、往々にして人生の転換点を感じ取る瞬間がある。この時が正にそうだった。

 しかし、こんな局面で彼女につれないことをいう訳にもいかない。それに、数日前のあの追い詰められた精神状態を顧みると、若し理沙がいたら、クルーズにああいう危機はもう訪れないだろうという期待感さえあった。

 陽子は、僕がどういう状況になろうとも、僕のクルーズに合流することは不可能な理由があった。陽子がダメだから、理沙を・・・なんてつもりは毛頭ないと誓っていう。しかし、現実問題として理沙がクルーズに加わったら、一体、どういう展開になるのだろう?これは、僕自身にさえどうすることも出来ない人生の流れ、或いは、出会い頭の出来事なのかも知れない。それを運命と名付けるか、宿命と呼ぶか僕は知らない。そういう流れの中で、僕は理沙に、

「きっと楽しい航海が出来ると思うよ」と答えていた。


**

 翌日、沿岸クルーズ中のボリス・ドブローチンという男が、隣のドックにヨットを着けた。話好きな男とみえ、挨拶のつもりが、二時間ばかりの雑談になった。

 僕が、彼の質問に答えて太平洋横断のあらましを語ると、彼は、さらに質問を重ねた。そして、僕がさらに南下するというと、序でにロス本港のカブリロ・ビーチ・ヨット・クラブへ立ち寄って、仲間のメンバーたちにも話を聞かせてやって欲しいといった。

 [禅]の碇泊には、ボリスのバースを何日でも使って構わない。そして、zenが到着した時、オレがまだカブリロへ戻っていなかったら、レオナルドにzenの世話をするように伝えておくから・・・と、至れり尽くせりの配慮だった。

 さらに、詳細の打ち合わせのため、火曜日にもう一度会おうといって、翌日、出航して行った。

 サンタバーバラで会った日本人青年のアキとの約束もあった。多分、時間が空いた時にふらりと来るのだろうが、留守にしていては彼が可哀想だ。

 チェース・パークのトランジェント・ドックとは反対側のマリーナにヨットを泊めているという男が訪ねて来た。彼は、デービット・カーンといって、ヨッティーとしては珍しいエジプト人だった。

 しばらく話に興じるうちに、僕は、彼の類い稀な純真さに並々ならぬ好意を持った。僕等は、凄くウマが合いそうだった。

 デービットは、彼の家のディナーに僕を招待した。アメリカという地に住むエジプティアン、その家庭の輻輳した異文化性に興味があったし、彼と話すことが楽しかったので、僕はすぐに招待を受けた。しかも、彼の弟が新婚旅行でアメリカへ来て、今、彼の家に滞在しているそうだ。賑やかなディナーになりそうだった。

 彼は、明日の夕方、五時に迎えに来るといて帰って行った。

 加えて、理沙が何時来るかも知れない。

 僕は、たくさんの約束にがんじがらめにされ、ひたすら待ち人を待ち侘びた。迂闊にも外出している折、僕を訪ねる人があってはならない。そう思うと、僕の外出はせいぜい三十分が限界だった。スーパーへ買い物に行っても、脇目もふらずに[禅]へ戻って来たし、[禅]のライフラインのゲートには、必ず、『すぐ戻ります!』と張り紙をして出掛けた。

 朝の散歩の折、マリーナ・オフィスの裏手の広場で、『シングル・ミーティング』と銘打って、活気あるブレックファスト・パーティーをやっていた。僕は、シングルハンダーの仲間が集まっているものと思って、臆面もなくパーティーへ紛れ込んだ。

 一人の女性に、『あなたは、どういうシングルのクルーズをしているのか』と尋ねた。彼女の答えは、さっぱり要領を得なかった。僕はまた、別の男性にも同じ質問をした。彼の答えも同様だった。僕の英語が上手く伝わらないのだろうと思って、僕は、自分のシングルハンド航海を説明した。

 そうしたら、その男性がいった。

「キミ、この場合のシングルとは、シングルハンダーの航海という意味じゃない。シングルとは、『独身』ということで、このパーティーは、独身者の集まりなんだよ」

 拙いことに『cruise(航海)』という言葉は、『異性をハントして歩く』という隠喩があることが後で分った。恐らく、僕の質問はひどく無礼なものか、さもなければ非常にトンチンカンなものだったことになる。彼等が要領を得ない答えをしたのも、むベなるかなというものだ。そればかりか、張り飛ばされなかったことは、彼らの寛容さとして感謝しなくてはなるまい。

 僕もまた独身者には違いなかった。しかし、あまりに突飛な勘違いに赤面し、僕は慌てて[禅]へ駆け戻った。せめてもの救いは、散歩は三十分を超えなかったし、僕が[禅]を留守にした間に訪れた人がなかったことだ。


***

 ボリスは、火曜日の約束の時間に来なかった。さらに、書き留めてあった電話番号をコールしても彼は捉まらなかった。

 日本人のアキは、ついに現れなかった。どうも、旅人同士が示す挨拶程度の軽い約束でしかなかったようだ。

 さらに、デービットは五時に迎えに来る約束だったのに、彼が来たのは六時半だった。それでも来ただけ他の人よりは誠意があった。アメリカ(とは限らないが)での約束とは、せいぜいこんなものだった。

 デービット・カーンは、オースチン・ミニで僕を彼の家へいざなった。あまり広くない、どちらかといえば、やや貧しい部類の家庭だった。

 生活様式は完全にアメリカのそれだが、インテリアの至るところに、驚くほど異質なアラビック感覚が窺えた。

 彼の弟もセーラーだった。そして、エジプトに七〇フィートの鋼鉄製のヨットを持っているといっていた。弟の新婦は、顔をベールで覆ってこそいなかったが、英語が話せないのか、それともそういう習俗なのか、我々の会話には全く混じらなかった。

 僕は、食事には結構好き嫌いが激しい方だ。正直いって、デービットの家の様子を見てから、僕はかなり怖気づいていた。

 案の定、メイン・ディッシュは、牛の背骨を煮込んだ異国情緒豊かなものだった。一節々々の骨を皿に取り、その中心にあるゼラチン状の髄を、細い串のようなもので掻き出しながら啜る。味としては悪くないのだが、僕の好き嫌いは、ほとんどが感覚的なものだから、こういうのが一番苦手だ。しかし、そういったのでは折角招待をしてくれたデービットに申し訳ない。さらに、見たこともない香草入りのポテトサラダにもギョッとした。

 彼等は、話すことも惜しんで、夢中になって骨を啜っていたが、僕は、二個ほど賞味してデザートへ移った。

 ところが、このデザートがまた、不思議な果物だった。洋梨の一種らしいが、クリーム状の甘い果肉の中に、硬い棘のような種子が無数に混じっている。僕がそれを口に含んで目を白黒していると、デービットは、

「これ、初めてかい?」と尋ねる。僕が頷くと、

「種もいっしょに食べてしまうんだよ」という。冗談じゃない。こんな棘みたいな硬い種を飲み込んだら、内臓に突き刺さってしまう。

 でも、彼等は平気な顔をして、旨そうに食べていた。仕方がないから、僕も目をつぶってのみ込んだ。種子が、食道をガリガリと引っ掻きながら胃へ落ちて行くのが感じられるようだった。

 夜も更けて、そろそろお暇しましょうというと、デービットは、僕をまたオースチン・ミニで送ってくれた。

 途中、夜霧に包まれたサンタモニカやヴェニスの街をドライブし、とあるカフェでカプチーノを楽しんだ。霧に滲んだ街灯がちょっと退廃的にメランコリックで、お店の様子がメキシコ的にエキゾチックで、そんなシチュエーションにたむろする人々が如何にもアメリカ的で、とても興味深い雰囲気だった。待ち人に翻弄されていなければ、こういう所をもっと探訪し、アメリカらしい素敵な夜が満喫出来たものを・・・何とも残念な話だ。

 ボリスは、僕がマリーナ・デル・レイを出航する前日、十一日夕方に訪ねて来た。彼は、何事もなかったかのように、カブリロで会おうといって帰って行った。

 そして、理沙はついに来なかった。人生の出会い頭の予期せぬ出来事が回避された安堵と、その意外性が消滅した無念が入り混じったヘンな感覚だった。僕は、ホッとして、同時にガッカリしていた。

 電話をしてみると、相も変わらず、理沙は生気のない声で嗚咽していた。何故、日本を飛び出さなかったの?と問うと、理沙は、腰を上げることもままならない倦怠感を訴えた。「そうじゃないよ、理沙。キミは、昔から優柔不断で、いつもチャンスを逃がしてきたじゃないか。今回だって同じだ。オレがもう一週間待っても、恐らくキミは決断しないだろうね。これが、キミの後悔に繋がらなければいいのだけど・・・」たっぷりと嫌味をいって、僕は受話器を置いた。

 これで良かったのだ。それなのに、僕は、選ばれなかった方の人生といっしょに大きなものを失ってしまったような痛惜を感じていた。

 憧れのマリーナ・デル・レイは、ひたすら人待ちにその貴重な時を費やしてしまった。心ときめく想い出もなく、僕は明日、充たされない思いを引き摺ってマリーナ・デル・レイを後にする。あァ、何てことだ!




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