■Part 2・The West Coast of USA

《その先の海》

[インディアン・ラブコール]


 『東京には空がない』の名句に倣っていえば、ロサンジェルスの夜空には星がない。

 少し南下して、日中、ラグナ・ビーチやダナ・ポイント辺りの海上から眺めると、一見天蓋かと見える薄茶色のスモッグが、LAの上空に棚引いている。だから、月明かりだって、ぼんやりとくすんでいるのが普通だ。

 そんなLAのマリーナ・デル・レイにあって、その夜の月光は物の影をくっきりと際立たせていた。風は全くなく、上空には一片の雲もない。夜空は、書割りの舞台装置のように均一なインディゴブルー。その中に、満月に近い月が眩しいほどに輝いている。本当に珍しいことだ。

 僕は、デッキに出て、夕食の後のコーヒーを味わっていた。Xレイのように体を透過して、デッキに僕の骨格が投影しているんじゃないかと怪しむほど、月光は冷たく透明で、そして細かなガラスの破片のように鋭利だった。美しいというよりは、何かの予兆みたいに超現実的で、ちょっと不気味に幻想的だ。

 近所のヨットからは、人々が顔を出し、

「It's so gorgeous moonlight night!(何と見事な月夜だろう!)」とかいって、暫し月明かりの景色に見とれ、やがて当惑したようにキャビンへ引っ込んでしまう。それほどこの巨大都市に不似合いな、そして背筋をひんやりと冷たくするような月夜だった。

 チェース・パークの岸辺を、フラッシュライトを肩からぶら下げてクララが歩いていた。こんな時間に見回りするなんて、今まで見たこともない。僕が声を掛けると、クララがドックへ続くランプウェイを、大きな体を揺すりながら降りて来た。

「どうしたの、こんな夜更けに?」と僕が尋ねた。

「何とパーフェクトな月夜なんでしょう!」クララは、僕の問いにも答えずそういった。

「こんな月光を浴びていると、身も心も水晶みたいに透明になってしまいそうね。でも、不思議な冷たさがあって、人間を孤独な夢遊病者のようにさまよい歩かせる魔力があるのよ、この月明かりには・・・」そういって、クララは胸の前で十字を切った。

 クララは、コックピットに腰を降ろし、僕が差し出したコーヒーマグを冷え切った両手で包んだ。そして、コーヒーよりも、その温かさを貪るように飲みながら話し出した。

「こういう月夜が、一年に一度あるんだよ。そして、その夜には、猟奇的(bizarre)な犯罪が起きることがあるのさ。五年前の夜もそうだった。あれは、ほんとに奇怪な事件だったよ。このマリーナの近くで、若い娘が、まるで野獣の牙にかかったように体中を鋭利なもので刺されて殺されていたんだ。事件の一切が謎だった。動機も犯人も何一つ分らずじまいさ。

 まるで楽しむように、犯人は致命傷に至らない三十以上の刺し傷を負わせた。それなのに、誰も娘の助けを呼ぶ声や物音を聞かなかったそうだよ。夜が明けて発見されるまでに、娘は失血死していた。

 それから二年前には、三頭の犬が殺され、切り刻まれていたことがあった。頭とか手足とかが、それぞれ区分けして並べられていたそうだよ。これも誰がやったか分らなかった。ただ、何人かの証言によると、それらの夜、オカリナが奏でる『インディアン・ラブコール』が聞こえていたそうだ。LAでは、この犯人を『狼男』と呼んで怖れているのさ。

 二年前と五年前の事件は別人の犯行かも知れないし、月夜とかオカリナの『インディアン・ラブコール』なんかも単なる偶然かも知れない。でもネ、こんな作り物みたいにパーフェクトな月夜は、何かが起こりそうな怪しい予感がするじゃないの。それで、犯罪予防として、念のために私たちが見回りするのさ。何かあったら、大声で呼ぶから、zen、大急ぎで助けに来てよネ」そういって、クララはまた見回りに出掛けて行った。

 僕は、体がすっかり冷え切ってしまったのでキャビンに入った。そして、間もなく寝てしまった。

 夜中に、遠くでオカリナが奏でる『インディアン・ラブコール』が聞こえて目が醒めた。急いでコックピットへ出てみたが、それが本当に聞こえているのか、それとも、僕の思い込みで聞こえて来るのか分らなかった。序でにいえば、クララが僕に助けを求める叫びもまた、聞こえては来なかった。

 僕は、もう一度ヨットの周りの景色を眺めた。全てのものが昼間よりもくっきりとした輪郭を描いているようだった。そして、その青味を帯びた景色は、まるで、僕が水中の世界にいるような錯覚を覚えさせた。

 オカリナが奏でる『インディアン・ラブコール』は、僕の耳には、それから後もずぅーっと聞こえていた。それなのに、翌朝、獣の牙にかかった娘も、切り刻まれた犬も発見されなかったとクララがいった。



[カブリロ&ダナ]


「またお出でよ。私たち友達なんだからさ」

クララはそういって舫いを解いてくれた。

 十月十二日、十時十分、僕はクララに投げキッスを贈り、マリーナ・デル・レイを後にした。

 天気は快晴。風はなく、海面はスムースだ。機走にはなるが、航程は、LA本港のカブリロ・ビーチ・ヨット・クラブまで十一・三浬。ほんのお遊びクルーズだ。

 水路を進み、正面のブレーク・ウォーター沿いに、規定どおり北側のエントランスを出る。目の前に、急に広々とした真っ青な海がひろがり、水平線には、夏みたいに真っ白い雲が輝いている。やっぱり、外洋はいいなあ。でも、これで連れがあったら、さらに楽しいだろうに!僕の頭の中では、まだ理沙の優柔不断への憤りが燻っていた。

 沖には少し風が吹いているらしい。真っ白い大きなヨットが、華やかなスピンネーカーとジェネカーを展帆し、ゆっくり走って行く。多分、カタリナ・アイランドへ行くのだろう。

 ポイント・ヴィセンテ沖で、針路を東へ変える。サンペドロ辺りまで続く崖の上の家並みが美しい。南西に広がる太平洋に向けて建ち並ぶ家々は、ここからは判然としないが相当の豪邸ばかりなのだろう。

 そんなことを思い巡らしていると、もう、左手には延々と続くロサンジェルス港の外防波堤、サンペドロ・ブレークウォーターが見えてきた。

 そして、二時少し過ぎ、港口にエントリーしようとした頃から、ローカルな風が吹き出した。いわゆる日中の海風で、西から強烈に吹いてくる。防波堤の切れ目を通過してからは、カブリロへかなりの距離を西進する。港内というのに風波にがぶられて恐ろしく走りにくい。三時少し前、やっとカブリロ・ビーチ・ヨット・クラブに着いた。

 ボリス・ドブローチンがクルージング・ガイドのマリーナ港内図に書き込んでくれた彼のドックへ向かう。ボリスのドックはいちばん奥の岸壁から四つ目だ。奥へ進むにつれ、水路が狭くなり、係留されているヨットも小さくなる。

 その時、ふと思った。ボリスのヨットは二十七フィートだった。[禅]は三十四フィート。はたして、彼のドックに[禅]が入るのだろうか?

 ここと覚しき辺りで、水路の向う側のドックにいた黒人のオーナーに尋ねてみた。

「ボリスに招待されて来たんだけど、彼のドックは何処だい?」

「あァ、お前さんの目の前だ。ちょっと待て。オレがそっちへ行って手伝ってやろう」

 僕は、彼がこちら側へ駆けて来る間に、両舷にあらん限りのフェンダーを括り付けた。それにしても、この幅で[禅]が入るだろうか?彼がボリスのドックに着いたので、僕は慎重に[禅]を進めた。そして、彼の手を借りて、[禅]は無事にドックに納まった。

 スターン(船尾)がドックから二メートルほども飛び出している。そして、両舷は、フェンダーを詰め物にしたパッケージ入りの商品か、或いは、オーダーメードの靴みたいに隙間もなく、丁度ぴったりだった。


**

 彼の名は、ヘンリーといった。

 僕は、ボリスがコンタクトするようにといったレオナルドの所在を尋ねた。彼はいま留守だそうで、ヘンリーが僕をマリーナ・オフィスへ連れていってくれた。

 レセプションの女性が、彼の説明を聞き終わると僕にいった。

「全てOKよ。ボリスのお客様は、クラブのお客様。ゲスト・カードを作って上げるから、心ゆくまでクラブライフを楽しんでネ」

 そうかァ、メンバーの客は、クラブとメンバー全員の客なんだ。そして、メンバー同様にクラブライフが楽しめるというのは、素敵な考え方だ。こういう柔軟性は実にアメリカらしいし、日本でも取り入れるべき考え方だ。こいつは、カブリロへ来た甲斐があったというものだ。

 [禅]に戻ってデッキを片付けていると、ヘンリーがレオナルドを連れてやって来た。見るからに年季の入った逞しいセーラーだ。

「いやー、留守にしてすまなかった。ボリスから話は聞いているよ。カブリロへようこそ!メンバーに紹介するから、クラブハウスへ行こう」彼はそういって僕をクラブへ案内した。

 アルコールが飲めないということは、こういう時にとても辛い。みんなビールやワインのグラスを挙げて、僕の航海に乾杯をしてくれた。それなのに、僕はコカコーラ。でも、みんなそれを寛容に許してくれた。ボリスから情報が入っていたらしく、いろんな質問が飛び出し、いつの間にか僕は、まるでここのメンバーみたいに寛いで話していた。

 ひとしきり僕の航海が語られ、それぞれがいつものペースに戻った頃、隣のスツールに腰掛けていた女性が僕に話し掛けた。

「zen、LAからハワイの航路も素敵よ。折があったら是非一度トライしてみることを薦めるわ。私は、今年のトランスパック(ロサンジェルス―ホノルル間の夢のヨットレースといわれる)にクルーとして参加したの。本当に素晴らしかったわ。今でもまだ、あの航海の興奮から抜けられないの」彼女の英語は明らかにドイツ訛りだった。そこで僕は、わずかに記憶しているドイツ語の単語を駆使して、「Sind Sie Deutcherin?(あなたはドイツ女性ですか?)」と尋ねた。そんな悪戯心が、僕等の親しみを倍加させた。

 彼女は、僕の理解出来ないドイツ語をふんだんに取り混ぜて、トランスパックの夢のような航海を語った。まるで、今なおトランスパックのレースを走っているかのように・・・。

 手が染まってしまいそうな蒼い海、深い青空とコットンを千切ったような貿易風雲、心地よい太陽、ヨットを滑らかに、しかも矢のように走らせる貿易風、世界の終りのような夕焼け、星がこぼれ落ちて来そうな夜空、浴びるように飲んだバドワイザー、素敵な人間関係、そして心地よい汗・・・。

 彼女は、「I'll never forget!(決して忘れないわ!)」と結んだ。

 十月十四日、ボリスがやっと現われた。彼は、奥さんのジュディーを僕に紹介してくれた。そして、レオナルドとヘンリーも混じってディナーを楽しんだ。

 ボリスは、ここからサン・ディェゴまでの詳細な航路情報やメキシコのクルーズに関する資料をどっさり用意してくれた。そして、何よりもうれしかったことは、いかにもアメリカらしいクラブライフを体験させてくれたことだった。たった三日間の滞在だったけど、カブリロは、僕を完全なアメリカ好きにしてしまったようだ。


***

 十月十五日。早朝のカブリロは濃霧に包まれていた。ヘンリーは、この季節、この辺りは夜半から霧が立ち込めるが、午前中、日が高くなると晴れるといった。ローカルな気象は地元の人に尋ねるのがいちばん確かだ。

 彼のいうとおり、九時頃から霧が薄れ、視界が回復してきた。サンペドロ・ブレークウォーターの辺りからは、まだ霧笛が聞こえていたが、僕は、ヘンリーとレオナルドの手を借りて、パッケージされたように船幅いっぱいのドックから[禅]を引きずり出した。

「どこか異国の港で再会出来たらいいね」

「いや、本当にそうだね。キミと知り合えたことで、そんな夢がただの夢ではなくなったよ。カリブロを訪ねてくれてありがとう。アメリカへ戻って来たら、是非また立ち寄ってくれ。いい航海を!」

彼等と固い握手を交わし、僕はカブリロ・ビーチ・ヨット・クラブを後にした。

 九時二十分、防波堤の切れ目を出た。今日は、ダナ・ポイントまで三十一浬。のんびりとした六時間の航程だ。

 やがて、左手にロングビーチが見えてきた。

世界的に名の知れたリゾート。一人旅では、華やかな所は避けるに限る。あんな所へ飛び込んだら、どうしようもない寂しさに陥るだけだ。

 薄い霧を通して油田のやぐらや漁船、小型のモーターボート、機帆走中のトリマランが見える。ほとんど風も波もなく、高曇りの海は長閑だった。

 十一時半。左舷に、ニューポート・ビーチが見えてきた。ヨットの基地としても、住宅地や保養地としてもトップクラスのクォリティーを誇る街だ。そして、ここからサン・ディェゴのラ・ホヤ辺りまでは、引退した大統領なども住むという南カリフォルニアの高級別荘地として名高い。

 岸辺から、僅かな風を捉えて美しい大型のカッターが滑って来た。三枚の巨大なセールは巧みに風を孕み、布製のセールが金属のような光沢に輝いている。機帆走でのんびり走る[禅]の船尾をかすめ、見事にタックを返す。船名は[シレナ]と読めた。

 手を振ると、大勢のクルーが手を振り返す。スターンの日の丸を見て、

「日本から来たのか?」と誰かが問う。僕が頷く。[シレナ]は船足を停め、

「日本から何日掛った?航海は快適だったか?」と例の質問が飛び出す。僕はそれに答え、彼等は、「いい船旅を!」といって走り去った。

 洋上での束の間の友情。人種も貧富も関係ない。どこまで走ったか、どれほどの修羅場を潜り抜けて来たかだけが互いを認め合う基準の世界。誰もが、素直に僕の成果に賞賛を惜しまず、シーマンとしての友情を投げ掛けてくれる。僕は、たちまち遠ざかる[シレナ]を見送って、そういう世界に身を置く自分の幸せを噛み締めていた。

 お昼を過ぎると、天気は快晴になった。そして、岸近くには、無数のヨットがセーリングを楽しむ姿が見えた。

 一時半、岸へ近づくと、例の海風が卓越してきた。ダナ・ポイントのマリーナは、もう目の前だ。通常なら、僕は着岸には大いに自信がある。しかし、見知らぬマリーナにエントリーするのに、この二十五ノットの風はちょっと厄介だ。かといって、沖に留まることも出来ない。

 僕は思い切って港口を通過した。すぐ急角度で右へ転舵すると、正面は、日曜日の午後を楽しむ人々でいっぱいのレストランだ。その手前をまた左へ急旋回する。左手には、マリーナ・オフィスとトランジェント・ドックがある。

 しかし、ドックには強い横風が吹いていた。一度エントリーしてみると、相当リーウェイ(横流れ)があってヨットがドックから離されることが分った。この着岸を見物するギャラリーは大勢いるのに、近くには舫いを取ってくれそうな人は生憎誰もいない。意を決し急角度でドックへ突っ込み、エンジンを微速にしながら[禅]をドックに沿わせるように回転する。多少オーバーラン気味だったが、辛うじて間に合った。僕は、舫い綱を持ってドックに飛び降り、やっとのことで舫いを取った。

 マリーナ・オフィスで手続きを終え、二日間で二十七ドル三十セントの碇泊料を払って指定されたドックへ[禅]を回航した。今度は舫いを取ってくれる人が何人もいた。

 僕のドックの前は、緑あふれる広々とした公園だった。その先、ライムストーンの崖の上には、まるで宮殿のような豪邸がいくつも見える。サンフランシスコ対岸のティブロンとは全く違った種類の奢侈が感じられた。

 ここには、燦々と降り注ぐ太陽と群青に輝く海、そして、どこまでも透明に展がる風景があった。人々の屈託のない笑顔が輝き、吃驚するような原色でペイントされたお店や家や、突飛な服装やその配色や、そこで巻き起こる馬鹿騒ぎまでもが、いとも自然に調和してしまう開放的で明るい風土が感じ取れた。さらに素晴らしいことは、そういう贅沢が誰の上にも平等に降り注いでいるということだ。

 早速、カブリロで手に入れた自転車を引っ張り出し、ダナ・ポイントの街の探訪に出掛けた。未だに判然と区別がつかないほど、ダナのウォーターフロントとサンタバーバラのそれはよく似ていた。つまり、こじんまりとした美しい公園の街。そして、ダナは南カリフォルニアでも、太陽がいちばん明るく照り輝くリゾート・タウンだった。

 次の碇泊地はアメリカ西海岸の南の端、サン・ディェゴだ。その十マイル少々先は、もうメキシコとのボーダー(国境)になる。

 サン・ディェゴには、僕のホーム・ポートと同系の企業が経営するミッション・ベイ・マリーナがあり、日本人のマネジャーの鴨井くんが常駐している。ひと時、あり余る気苦労や緊張という荷を降ろして寛げるかも知れない。そうしたら、僕も[禅]も、暫くのんびりとここで休養することにしよう。



[サン・ディェゴへ]


 十月十七日、午前七時。ダナ・ポイントを出航し、アメリカ西岸最南端の都市、サン・ディェゴへ向かった。航程は四十七浬。午後半ばには、ミッション・ベイに着けるだろう。

 天気は快晴、そして無風。僅かに朝霧が海面を漂っている。規則正しく押し寄せるうねりにさえ漣ひとつ立たない海を、[禅]は機走でのんびりと走る。

 海鳥が群れ、イルカが跳ねる。遠くの海上を漁船が往く。今朝は、その単調な機関の音がすぐ近くに聞こえてくる。南カリフォルニアの海は朝寝を貪るかのように、まだ当分は目覚める気配もない。

 北の海の厳寒を逃れ、鯨が出産のため群をなしてメキシコ沿岸へ向かう季節だ。バハ・カリフォルニア(メキシコ北西部に長く伸びた半島・バハは半島の意味)南端の有名なリゾート地、カボ・サンルーカス近くの海上とその東へ回り込んだコルテッツ海は鯨で賑わうそうだ。岸から三浬ほど沖を走る[禅]の遥か右舷にも、南へ向かう二つの鯨のファミリーが見える。

 左舷には、白っぽい橙色の低い崖がどこまでも続き、その上を僅かな緑が覆っている。

 お昼近くになって、爽やかな西風が吹いてきた。スペイン語で、『海』は男性名詞(El Mar)だけど、海に漁るメキシコの人々は、その素顔と様々な変容に触れ、愛情を込めて『ラ・マル(La Mar)』と女性格で呼ぶ。彼女はやっとお目覚めのようだ。十分に寝足りて、今日は上機嫌とみえる。寝起きが悪い日ときたら、ヨットは理不尽な辛苦を強いられるのが常だ。その日の海は、正に愛らしく淑やかな女のように僕の心を和ませてくれた。

 午後になって、前方にラ・ホヤの入り組んだ海岸線と岬が見えてきた。岩礁の岸辺にせり出して、ランドマークの高層マンションが見える。その背景を濃い緑が取り巻き、美しい家並みが点在する。沖から見ても素敵な所のようだ。

 景色に見とれていると、海面にケルプ(海藻)が群生していることに気がつかなかった。カナダ近海でもお目にかかったあの巨大な海藻が、その妖しげな先端を海面に漂わせている。[禅]は、キールやラダ―に纏わりつくケルプに、やんわりと行き足を引き止められた。

 僕は、慌ててUターンして、その誘惑の海域を逃れた。ケルプの群生する縁を迂回して沖へ戻ると、それは驚くほど遠くまで続いていた。ラ・ホヤが遥かに見え出した頃から、ミッション・ベイがもう間近と思って、急に[禅]を岸へ寄ったからだった。

 低くなだらかな斜面に家並みが続き、やがてハイアット・ホテルとシーワールドの塔が見えてきた。もう大丈夫だ。僕は、東へ舳先を向けた。やがて、平坦なビーチが一点だけ切れた所にミッション・ベイへの水路の入口が見えてきた。

 僕は、サゥサリートからも、マリーナ・デル・レイからも、何度もミッション・ベイ・マリーナへ電話をしていた。しかし、僕の電話の掛け方が正しくないのか、ついぞ繋がらなかった。マネジャーの鴨井くんに、マリーナの位置や諸々の注意点を聞いておきたかったが、それが果たせていない。

 水路を真っ直ぐ進むと、やがて緩やかに左へ曲がっている。曲がりきった正面には橋があった。橋を潜るとは聞いていなかったから、僕はすぐ右手にあるベイへ[禅]を進めた。さっき沖から見たハイアットが、このベイの左岸に聳えていた。どうやら、このベイに間違いはないようだ。

 ベイの真ん中にベイト・バージ(釣り餌を売る艀)が浮かんでいて、ペリカンや鳶や鴎や鷺が群れていた。バージを迂回すると、前年行われたアメリカス・カップのオーストラリア・チームのロゴが書き込まれた巨大な格納庫みたいなテントハウスがあった。取りあえず、その近くのドックに[禅]を停めた。

 例によって、セキュリティーのため鍵が掛ったゲートで、出入りする人を待っていっしょに外へ出た。公衆電話を見つけ、マリーナ・オフィスへ電話をかけた。流暢な英語の応答があった。僕は、

「ミスタ カモイ プリーズ」という。

「カモイ スピーキング(鴨井ですが)」という返答。あァ、やっと彼が捉まった!

 それからは、矢のように日本語がほとばしり出た。[禅]を停めた場所をいうと、鴨井くんがすぐに僕を迎えに来てくれた。

 [禅]を所定のドックへ移動し、長期係留の手続きを終え、僕は、マリーナのファシリティーを案内してもらった。

 鴨井くんはマリーナに碇泊している大きな古典的なヨットのビルとヨシコさんを紹介してくれた。彼等は、もう永年このマリーナでヨットに住んでいるそうだ。

 ビルは、かつて進駐軍の軍人として日本に駐留していた。その時、ヨシコさんと知り合い、結婚して、いっしょに本国へ帰って来たという。ヨシコさんは、もう六十歳くらいだったと思う。日本語がすっかり退化してしまって、外国人が話すようだった。それでも、彼女は日本人の僕が到着したことを心から喜んでくれた。


**

 ドックに[禅]を繋いだのは、一九九五年十月十七日、午後三時だった。あァ、これでアメリカ西海岸一四〇〇浬の航海は終わった。北のシアトルから、南の果てのサン・ディェゴまで。随分永い間走ったような気がする。そして、随分いろんなことがあった。航海の本当の苦しさを知ったのもこのレグだった。

 これからは、疲れを休める傍ら、航海というものを、じっくり見つめ直してみよう。

 僕は、マリーナに届いていた手紙や小包をどっさり受け取った。数え切れないほど手紙を書いたけど、受け取るのは今回が初めてだった。僕は、手紙を貪るように読み、懐かしさで胸が熱くなるようだった。

 僕の航海記を連載してくれることになっていた日本の雑誌社へ電話をしてみた。というのは、受け取った郵便物の中に、連載第一回の掲載誌はあったが、その後のものがなかったからだ。原稿は、連載五回分以上は既に送ってあった。当然、雑誌はもう一回の発行があり、記事が連載されているはずだった。そして、発行されていれば掲載誌が送られて然るべきなのだ。それがなかった。

 何故とはなく嫌な予感があった。そして、その予感が的中してしまった。雑誌は、世の中の不景気のあおりを受けて無期休刊になっていた。

 あァ、何てことだ!僕の航海資金の一部は、その原稿料によって賄われることになっていたのだ。出航の折、艇の整備に出費が嵩み、預金残高は惨めなほどに減っていた。それを補う収入としての原稿料が頼みの綱だったのに・・・。これでは、先の航海計画を再検討せざるを得ないだろう。休養を兼ね、心の余裕を取り戻そうというサン・ディェゴ滞在は、急転直下、航海続行の危機に瀕することになってしまった。




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