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ミッションベイ・マリーナからスーパーマーケットへ行くには、伐採を免れた僅かばかりの木が申し訳程度の林を形作っている場所を通る。木々の根方には、いつも焚き火の跡とスーパーマーケットのカートが二十台ほども置いてある。
アメリカでは、客が平気で買い物をカートに積んで家まで押して帰る。だから、街のあちこちに、空のカートが放置されていて、スーパー側では、トラックでカートの回収に回ることになる。
ところが、カートを収拾する者が別にもいる。それは、ホームレスと呼ばれる人々だ。彼等は、現金を稼ぐために、アルミ缶を集めて歩く。スーパーのプラスチック・バック(ビニール袋)にアルミ缶を詰め、それをカートに積む。カートがいっぱいになると、その周りにさらにアルミ缶入りのプラスチック・バックを結びつける。カートの周囲は、まるで房飾りのように、アルミ缶入りのプラスチック・バックがぶら下がっている。カートは、ホームレスの欠かせぬ商売道具なのだ。
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或る日、僕が林の脇を通ると、三人のホームレスが、集めたアルミ缶を踏み潰す作業をしていた。僕がそれを見ていると、中の一人が、「タバコをくれ」といった。
僕は、たった今、マーケットでラッキーストライクを一カートン(十個入り)買ってきたばかりだったから、彼らに一函ずつ上げた。そして、僕も新しい箱を開け、一本くわえて火をつけ、彼らにも火を回してやった。
「あんた、気前がいいんだな」と、口から煙を吐きながら一人がいった。そうしたら別の黒人の男が、
「そうじゃない。この人は親切なんだ」といった。さらに、もう一人は、黙って頷いた。
「何処に住んでる?」と、親切といった男が尋ねた。僕は、そこのマリーナのヨットだと答えた。気前がいいといった男が、
「それじゃあ、金持ちなんだよ」といった。もう一人が、
「うん、親切な金持ちだ」といい、別の一人が笑顔を見せて頷いた。
「チャイニーズか?」と一人がいった。僕が日本人と答えると、気前かいいといった男が、
「ほら、いったとおりだろう。ジャパニーズは金持ちで親切なんだ。オレは、お前さんがそこを通った時、あれは、親切なジャパニーズだって、すぐ分ったんだ」といった。三人目の男が、何度も頷いて賛同を示した。
別れ際、親切といった黒人の男が、
「オレ、ポールっていうんだ」といって手を差し出した。僕は彼の巨大な手を握り、
「zenと呼んでくれ」といった。
***
数日間、林に彼らの姿は見えなかった。そして、さらに数日後、焚き火の脇で、ポールが一人でアルミ缶を踏んでいた。彼の傍には、カートいっぱいのプラスチック・バックがあったから、作業はまだ相当時間が掛かるだろうと見当をつけ、僕はスーパーマーケットヘ向かった。
必要な食品のほかに、僕はカリフォルニア・ロールを二パックとビールを買い加えた。そろそろ夕暮れが真近な時間だった。
案の定、ポールはまだ林にいた。
「ポール、今日は残業かい?」僕がそういうと、彼はびっくりしたように顔を上げた。
「あァ、zenか。明日の朝、リサイクル・ショップへ持って行こうと思ってサ」
「一休みしろよ。そして、ディナーにしてはどうだろう?」僕がそういうと、彼は、
「何か、ご馳走でもあるっていうのかい?」と尋ねた。僕は、カリフォルニア・ロールとビールを差し出した。ポールは、うれしそうに笑顔で頷くと、僕にも焚き火の傍へ寄るように身振りした。
背中は冷えびえしたが、焚き火で顔を火照らせながら、僕らは寿司を頬張った。
「zenは、日本のどこの出身なんだ?」
「生まれは、北の島だけど、育ったのは東京だよ」
「北の島って、北海道か?」とポールがいった。僕はびっくりした。ホームレスだからって侮っていた訳ではないが、ほとんどの西洋人は、東京が日本のどの位置にあるのかさえ知らない。まして、北海道という地域があることを知る者は珍しい。
「そのとおりだ。でも、北海道なんて、どうして知っているんだ?・」
「ベトナム戦争が終わって、オレは、本国へ帰らずに日本へ行ったのさ。そして、札幌で、暫く英語教師をしていたんだ。もう、随分昔のことだから、日本語はほとんど忘れてしまったけどネ」
「そうだったのか!教師をしていたのなら、大学だって出ているんだろう?」
「マサチュセッツ工科大学でマスター・コースを終了した。だから、軍では、電子系諜報の技術将校だった。
初めオレは、日本で専門技術を生かす仕事がしたかったけど、どうしても就労ヴィザが取れなかった。オレの諜報関係の知識が外国へ漏れることを懸念して、軍部が圧力をかけていたんだろう。終いには食い詰めて、安直な英語教師になった訳さ。
しかし、それも永くは続かなかった。所謂ベトナム症候群というやつだ。確かに、ベトナムでは、ひどいこともしてきたし、されてもきた。とても、おぞましくて口には出来ないようなことをネ。ああいうことは、人間の精神を蝕むものだ。精神のキャパシティーなんて、実に底の浅いものでネ。何てこともなくやってきたことや、目の前で戦友が生きたまま切り刻まれたことなどが、英語を教えている教室で、突然、はっきり見えて来るんだ。そんな時のオレが、生徒たちには異様に見えたことだろうよ。何度もクビになって職場を移ったよ。そのうちに、オレは日本の警察に保護され、精神病院へ入れられた。そして、やがて本国へ送り返されたって訳だ。
身内としてただ一人、ミネソタに叔父がいるけど、彼は、オレの身元引き受けを拒否した。いや、恨んじゃいないよ。でも、それではオレは自由になれない。仕方がないから、精神病院を脱走した。職に就けば身元がばれるし、こんな暮らしをしていると、もう普通の生活に戻ろうという気もなくなってしまった。そんな訳で、オレはカートを押して歩いている(『ホームレス』という隠喩)のさ。気楽なものだぜ」
マサチュセッツ工科大学といたら、理系では世界でもトップの名門だ。しかも、マスター(修士)コースまで出て、アメリカ軍の電子系の最先端技術を指揮していた人が、何でアルミ缶を踏み潰していなくてはならないのだろう。僕は、ポールの不運を思うと、とても悲しい気分になった。
僕らは、暫く札幌の話などをした。すっかり夜も更けて、随分寒くなってきた頃、ポールは、恐縮した様子でいった。
「zen、すまない。もうじき客が来るんだ」
「OK,また会おうぜ。客は素敵なレディーかい?」
「いや、違う。戦友たちだ。毎晩、大勢でやって来るんだ。そして、夜明け近くまで、ベトナムの悲運を語り合ったり、唄ったりするんだ。もう、何人かが木立の向こうに来て、オレたちを眺めているようだ」
ポールは、そういいながらも、喉の奥でうめくように唄っていた。それは、アフリカ原始宗教のブードゥーのように単調で、ネグロ・スピリチュアルのような宿命めいた悲哀を漂わせていた。彼はもう、少し前までのポールではなかった。焚き火の反映が、彼の表情を幽鬼のように見せていた。僕は、最後に、
「ベトナムから、戦友はたくさん帰って来たのかい?」と尋ねた。
「イーヤ、みーんな死んだ・・・」
あァ、何てことだ。もう二十年以上も経て、ここにもまたベトナムの悲惨があった。ポールが夜毎繰りひろげる幻の儀式は、奇怪というよりは、僕にとっては、むしろ堪らなく悲しいものに思えた。
「みんなによろしく伝えてくれ」そういって、僕は、焚き火が燃え盛る林を後にした。
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鴨井くんが、一人の日本人女性を紹介してくれた。彼女の名はスミコといい、サン・ディェゴ郊外に素晴らしい家を構え、さる日本系の銀行に勤務していた。
到着した日、僕はクイビラ・ベイスンに点在する素敵なレストランを見て、いっしょに食事をしてくれる人を紹介して欲しいと鴨井くんにお願いしていた。彼女は、食事のお相手には勿体ないほどの経歴の持ち主で、国際的に見ても一流のエリートだった。
食事を共にする傍ら、スミコは観光案内も引き受けてくれた。彼女は、名の知れた名所へ僕を連れて行くというだけでなく、たくさんの建売住宅を見せてくれた。それは、アメリカを知る上で、恐らく最良の方法だったと思う。
建売住宅の現場へ出掛けるためには、いろんな所をドライブする。これは、近郊の景色を眺め、サン・ディェゴの地理を理解するのに役立つ。さらに、建売住宅は、アメリカの家屋とその生活様式の詳細、さらに、価格という物差しに現われた価値基準を教えてくれる。価格は、概ねその頃(一九九五年)で、三千万円以下だった。間取りは、広々とした4LDKほどで、マスター・ベッドルームには、専用のウォークィン・クロゼットとバスルーム(ドレッシングルーム、バス、シャワー、トイレを含む)がついている。他にベッドルームが二つ、作業室、二十五畳ほどの暖炉がついたリビング・ルーム、そして独立した広いダイニング・ルーム。バスルームがもう一つと独立したトイレがさらに一つ。キッチンとその設備は、住宅雑誌から抜け出てきたように素晴らしい。勿論、十分に広い庭や車が二台入るガレージが付き、バックヤードにはBBQ(バーベキュー)設備までが完備している。
また、建売見学で知る住宅の取引方法は、アメリカの経済や金融(ローン)システムをつぶさに教えてくれるから、アメリカ社会の仕組みの一部は、これで十分理解出来ることになる。そして、この風変わりな観光は、アメリカが車という生活用具を度外視して全く成り立たない社会ということも教えてくれた。
当時、日本の一流商社などでは、中堅サラリーマンが、会社の補助を受けて一億円近い住宅を購入するという世相だった。そうした価格帯の建売住宅を見たいというと、スミコは、僕を郊外へ案内してくれた。それは、アメリカのビジネス社会で、そこそこの成功を収めて引退した人を対象にした小高い丘の上に建つ趣味の牧場がついた豪邸だった。
家の前には車返しのロータリーがあって、車が四、五台入るガレージやホースライディング(乗馬)のための厩舎、そして、ちょっとした牧場がついていた。間取りは、大きなパーティーも催すことが出来るほど広々としたリビングやダイニング、四つほどのベッドルームのほか、メイドルームや必要なら事務所にもなる部屋があって、二階には、美術品コレクションのためのギャラリーまでついていた。
これは、正に異文化というものだ。僕は、凄いインパクトでカルチャー・ショックを感じていた。そして、消費者物価という面でも、さらに大きなショックがあった。
僕が葉山に住んでいた頃、スーパーマーケットで一度に買う食品や日用品には、大体一万円を支払っていた。しかし、サン・ディェゴでは、4000円を超えることはなかった。ややもすると、物価は日本の三分の一だった。この差は一体何なんだ!日本人の所得が世界一という実体(収入対支出比較)のないウソも、だから裕福なんだという幻想の化けの皮もいっぺんに剥がれてしまった。(但し、一九九七年には、一回の支払いが5000円見当になった。)
アメリカ社会に腰を据えてその日常生活を体験してみると、観光旅行では体感できないものがいくらでもあった。それは、社会制度や経済システム、生活意識や人々のものの感じ方、考え方、さらに価値観といったものを総括した文化の違いだった。今まで見過ごしてきたものが、スミコのお陰であからさまに見え出した。僕は、アメリカ社会に溶け込みながら、驚きと尽きることがない好奇心を以って毎日を楽しむようになった。
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僕は、航海資金について考えてみた。
唯一の望みは、来年九月から支給される厚生年金だけだ。しかし、その受給はまだ一年近くも先の話だ。(当時、僕は五十九歳だった。受給は六十歳から)
それまでは、サン・ディェゴに足止めを喰らうことになるが、そうすると、今度はヴィザが問題になった。
僕のパスポートに記載された滞在期限は十二月五日までだ。マリーナ住まいのビルにそのことを話すと、延長を申請すればいいと簡単にいった。僕は、ヴィザ無しで入国した場合、滞在期間の延長は出来ない規則なのだといっても、ビルは納得しなかった。西洋人というのは、思い込みで結構突っ張る人種なのだ。オレが電話して確かめてやると、サン・ディェゴのイミグレーション・デパートメント(移民局)へ電話を掛けた。係りのオフィサーが、こちらへ来て、必要書類を提出するようにといった。
ビルは、勝ち誇ったように僕を彼の車に乗せ、ダウンタウンにあるイミグレーションへ連れていった。そして、滞在期間の延長申請を提出し、手数料を払って、僕たちは意気揚々と帰ってきたのだ。
翌々日、僕宛に、手数料を領収した旨と、審査には約一ヶ月間を要するという通知が届いた。僕は、半信半疑だったけど、申請が受け付けられたことで、一応、安堵することにした。延長申請が承認されるか、または却下されるか分らないが、その決定通知が届くまでの期間は、曲がりなりにも僕の滞在は合法ということになった。
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さらに僕は、航海ということについて考えてみた。
僕は、どうやら一人で冒険航海を続けるというストイックなタイプではないということが分ってきた。
世の中には、物凄くタフな人がいるものだ。誰もが怯えてしまう状況を、何食わぬ顔で凌いだり、平気で危険に接近し、なお動じないという勇猛心の塊みたいな人。また、どんな苦境にあっても、精神的な苦痛を感じない人・・・。そういう人たちのことだ。
しかし、僕は違う。航海で起こる全ることに対して覚悟が出来ているとはいえ、本質的に僕は臆病だ。そして、行動は常に慎重だし、危険な局面では心底怖いと思う。僕だって、避け難い危険には敢然と立ち向かってきたけれど、避けられる危険なら可能な限り避ける。
そして、感性という面でいえば、僕は誰よりも鋭敏だと思う。だから、人が見逃してしまうような些細なことにも、その真の意義や感動を感じ取ることが出来る。航海を、冒険として行動するには、僕は、精神的に繊細すぎると思う。
加えて、西欧の価値観、即ち、人生を豊かに生きるという考え方、そして、そこから派生してくるクルージングの形・・・そこに僕は絶大な共感を覚えていた。
かつて僕は、単独航ということに並々ならぬ誇りを抱いていた。しかし、永い航海を通じ、また、たくさんの心豊かなヨッティーたちに出会って、僕はもう、そういうストイックな考え方に、何の価値も感じなくなっていた。
いずれにせよ、僕の航海の形は変わる。僕は、多分、誰かを航海に伴うことになるだろう。僕はそう確信した。
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誰かを航海に伴うとして、まず第一に思い浮かび、是非同行して欲しいのは陽子だった。しかし、彼女は僕の要請に全く応じようとはしなかったし、事実、彼女の現状からすれば、それは確かに無理な話だった。
無理な事情は理解出来るし、仕方がないとも思う。しかし、その時僕は、絶対的に同行者を必要としていた。彼女がそれに応えられないのなら、僕はそれに代わる何かを考えざるを得ない。つまり、彼女に代わる誰かを・・・そういうことになるのだろうか?
僕はホモではないから、男は選ばない。それに誰もがいうとおり、極度に抑圧された航海中には、必ず諍いが起こる。そして、相手が男なら、やがて腕ずくの争いになる。その時、僕が海へ放り込まれる側には、絶対になりたくないし、勿論、誰かを放り込むことだって絶対にイヤだ。港々にヒッチハイク・セーラーはいくらでもいるが、彼らの素性を知る術は全くない。長期航海での完全犯罪なんか、朝、歯を磨くほど簡単なことなのだ。
それでも、相手が女性なら、どんな諍いにだって、まさか女に手を上げるなんてことはありえない。従って、平和で心豊かな航海を望むなら、必然的に対象は女性になる。異性としての関係なんか全く問題の外とはいえ、そういうロジックが陽子に理解出来るだろうか?そして、それは彼女を深く傷つけることになるのだろうか・・・?
思い余って、僕はリックに相談してみた。彼は、斜め向かいのドックに舫うヨットの知的で快活な紳士だった。僕が全ての経緯を話し終わると、彼は、「What's problem?(一体、何が問題だというんだい?)」といった。ビルも同様だった。「航海を続ける気なら、zenの考え方に間違いはない」と・・・。
僕は、全る資産も社会的立場も、さらに身内までも、およそ日本社会に帰属する一切を捨てて日本を出てきた。そして、航海が完了した時のことなんか全く考えていなかった。
喩えていえば、僕は航海という一輪車に乗っているようなものだった。停まったら転んでしまう。僕が僕自身であり続けるためには、この一輪車で走り続けなくてはならなかった。つまり、僕は、航海をどうしても辞める訳にはいかないのだ。こんな形で航海を辞めるとしたら、それは、僕の死を意味するといっても過言ではなかった。
資金計画も、そのために派生するアメリカの滞在期間も、そして僕の航海のあるべき姿も、全てが曖昧模糊としていた。確かな方向も見えぬまま、僕はその辺りをグルグルと虚しく回転するばかりだった。
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何一つ解決せぬまま、僕はクリスマス・シーズンを迎えようとしていた。
ハロウィンでは、マリーナ・オフィスのアンが、終日、完璧な魔女の姿で仕事をしていたし、スミコが病院へ行ったら、採血の係りの医師がドラキュラの扮装をしていたというから傑作だ。アメリカ人は、事ある毎に卓抜したユーモアのセンスを発揮し、子供心に返って、それを心底楽しむ術を知っている。
やがて、サンクス・ギビング(感謝祭)が過ぎると、街はクリスマス一色になった。
十二月になると、街角には、中世風の衣装を着飾ったディケンズのクリスマス・キャロル合唱隊がクリスマスソングを唄い、ショッピング・センターには、サンタの家が建った。子供たちはサンタの膝に抱かれ、自分の夢や、クリスマス・プレゼントに欲しい品とかをサンタの耳元に囁いていた。
ホテルでは、豪華なクリスマス・ツリーを飾り、その点灯式には華やかなチャリティー・パーティーを催した。人々は、恵まれない子供への贈り物を持ち寄り、ホテルで用意した木の酒樽に放り込み、アトラクションには、マリーン(The Marines、海兵隊)のきらびやかな楽団がジャズを奏で、『くるみ割り人形』のバレリーナたちがダンスの花を添える。
ホテル・デル・コロナド(『世紀の恋』として知られるウインザー公とシンプソン夫人の恋の舞台となった)の三階まで吹き抜けのロビーに設えた巨大なクリスマス・ツリーは、その豪華さに於いて群を抜いていた。クリスマス気分に浮き立つ人々が、ひきも切らず、サン・ディェゴ・ベイを緩やかにカーブして架かる長大なベイブリッジを渡ってやって来る。
また、サン・ディェゴの南側の街、チュラ・ヴィスタの或る一街区は、町ぐるみ、家もその前庭も、所によってはガレージの中までも夢いっぱいのクリスマス・デコレーションで飾る。その街区には正しい名前があるのだろうけど、誰もが、『シュガーケーン(砂糖きび。転じて、紅白のステッキの形をしたクリスマス菓子)通り』と呼ぶ。明滅するイルミネーションとクリスマスの飾りに夢と化した街には、夜毎、目を輝かせた子供たちを連れた大勢の人々に埋め尽くされるばかりか、観光バスまでやって来た。
そして、家々の暖炉際、クリスマス・ツリーの根方には、クリスマスの朝を待つプレゼントとクリスマス・カードが溢れていた。
人々が子供のように無邪気に、そして幸せな気分でクリスマスを迎える様を、僕は、スミコに案内されてつぶさに眺め歩き、また体験することが出来た。それは、正に、夢いっぱいの豊かな人生を楽しむアメリカの姿そのものだった。
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クリスマスもニューイヤーも、僕は、スミコを含む風変わりな日本人のグループと過ごした。彼等は、アメリカに長期滞在し、アメリカの生活に溶け込んでいる人々だった。
大方が日本で現職を引退し、しかも相当に裕福な人たちだったから、サン・ディェゴに素晴らしい家を持ち、優雅にアメリカ暮らしを満喫していた。中には、高級住宅地として名高いラ・ホヤやデル・コロナドに豪邸を構える人もいた。
スミコと僕は、理想的な友人同士として、彼らのグループにカップルとして迎えられていた。或る日、スミコは、かつて彼女が南太平洋を一ヶ月ほどクルーズした素晴らしい思い出を話した。南太平洋の話は、聞くからに素晴らしく、夢のように幻想的だった。誰もがその話に酔った。そして、誰いうとなく、zenは、スミコと共に南太平洋へ向かうべきだということになっていった。
僕は、チャート(海図)を持ち出して、スミコにさらに詳しい様子を尋ねた。それを[禅]に置き換えてみて、航海の確かなイメージを描くことが出来た。まだ、カリブ海へ向かうか、それとも南太平洋かを決めていなかったけど、風向きや気象などを含めて、南太平洋のクルーズが遥かに無理がなく、そして、ハッピーなものに思えてきた。
やがて僕は、次の航海を南太平洋と決めた。そして、スミコに、南太平洋への航海に同行して欲しいといった。彼女にも、当然、諸々の事情があったから即答は得られなかったが、数日後には、同行したいという返事が返ってきた。
賽は投げられた。僕は、陽子に代わる誰かを選んだ。このことで陽子がどう感じるにしても、僕にはもう、どうすることも出来なかった。
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そうこうする間にも、イミグレーションへ出した滞在延長の申請が、返答がないまま二ヶ月以上を経過していた。ビルにその旨をいうと、彼は、電話で決定の催促をした。
数日後、ノーヴィザの延長は認可できない。即刻(三日後)、出国をするようにという手紙が届いた。手紙を受け取ったのが金曜日だったので、ビルと僕は、翌週の月曜日、イミグレへ出掛けた。ビルは、
「今まで放っておいて、急に三日後に出国せよとは、ひどいじゃないか。手紙は金曜日に受け取ったんだ。土日を挟んで、どうやって月曜日のエア・チケットを取得出来る?」と窓口でまくし立てた。
年配のオフィサーが出てきて、僕らは別室へ招じられた。そして、「延長申請を受け付けたことは、こちらの誤りだ。何日間猶予すれば無理なく出国出来るか?」と尋ねた。ビルは、「三ヵ月といえ」と日本語でいったけど、相手の弱味につけ込むようでイヤだったから、僕は十日間といった。
二月二十一日、僕は、当初の滞在期間を二ヵ月半も合法的に超過して、日本へ一時帰国した。
日本で、僕は、旅行代理店の社長をしている友人のお世話で、六ヶ月間のロングスティ・ヴィザを取得した。正当な事由があれば、そのヴィザは、さらに六ヶ月間の滞在延長が可能だった。そして、一九九六年三月十日、僕はサン・ディェゴへ戻って来た。
日本で、僕は陽子に会うことはなかった。心は痛んだけど、こうなった経緯を彼女に説明し、理解してもらえる言葉を僕は持ち合わせていなかった。
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サン・ディェゴの新聞やヨット雑誌に僕の航海の記事が載ると、いろんな人が僕を訪ねてくれた。ただ、ゲートがセキュリティーの関係で鍵が掛っているため、バンクーヴァーの時のように逃げ出す必要もなかったが。
中には、オフィスに電話があって、僕の健康診断をして上げようというカイロプラクティスの方や、車を貸して上げるという方などがいた。車の方は辞退したが、健康診断は喜んで好意に甘えた。
結果、何処にも異常は認められないという診断だった。しかし、それから数日後、スミコの友人でジュンさんという日本人のカイロプラクターが同様の診察をしてくれた。
日本語が通じるので、既往症を細かに説明したことも影響したのだろうが、ジュンの診断は、『とても航海が継続出来る体じゃない』というものだった。どの道、どういう診断結果が出ようと、航海を辞める気はなかったから同じようなものだったけど、診断は、その後の治療に通う目安にはなった。
また、ジュンは、誰も乗らず置き場に困っていた車を僕に貸してくれた。廃車にするつもりだったというので、僕にしても気兼ねはなかった。車は、マーキュリーの馬鹿でかいアメ車というヤツだ。
この車のお陰で、僕は、カリフォルニアとアリゾナの境にあるアンザ・ボレゴ砂漠へ二度行ったし、かなりの距離をものともせず、何処へでも行くことが出来た。
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鴨井くんに案内されて、僕は、彼が所属するヨット・クラブへ行った。メンバーと話すうちに、ヨット・クラブ間の友好関係を結ぶべく、フォーマルにクラブのペナントの交換をしようということになった。
たくさんのメンバーが集まる中、パーティーの冒頭、コモドア(ヨット・クラブの会長)と僕は壇上に立ち、それぞれのクラブ旗を交換し、晴れがましい拍手をいただいた。
そんなことで、ホーム・ポートのクラブが僕の意識に強く刻まれていた時、日本の懐かしいメンバーたちが僕を訪ねてくれた。
増田くんと山崎くんもそうだった。彼等は、それぞれ別の船に所属していたけど、ホームポートのマリーナではよく顔を合わせ、言葉を交わす親しい友人だった。
その頃、増田くんは、さる一流電子メーカーのカリフォルニア支店の代表で、サンノゼ近くに住んでいた。
山崎くんは、当時、コロラド大学のマスターコースの学生で、コロラド・スプリングスに居住していた。彼等は、互いの予定を繰り合わせて、遠路、はるばる僕を訪ねてくれた。
懐かしさで話が尽きることはなかった。そんな中、増田くんは、最新型の大型手帳ほどのコンピュータを[禅]に引き込まれていた電話に繋ぎ、その驚異的な機能を披露してくれた。居ながらにして、日本の新聞が読めるし、画面に書き込んだメールが数秒で日本へ送られた。
当時、僕はまだ、コンピュータに触れたこともなかったので、それらは、まるでマジックを見るように僕を驚かせた。
続いて、僕が、航海中に書いた短編などが話題になった。何篇かを読むうちに、増田くんも山崎くんも、これは発表すべきだといいだした。
しかし、発表したくても、僕には、そんな話に乗ってくれる人脈はなかった。そういうと、二人は、インターネットに[禅]のホームページを作って、それに載せようといい出した。そうすれば、短編小説だけでなく、無線で連絡さえとれれば、デーリーの航海情報も発表出来るじゃないか、と。
それは素晴らしいアイディアではあったが、僕は、それらがどういうプロセスで編纂されるものか、どう説明を受けても理解出来なかった。結果、山崎くんが編纂を引き受け、増田くんが資材を提供してくれることになった。僕は、ただ情報を送るだけだ。
そういう経緯で、[禅]のホームページが誕生し、また、このホームページを支えるためのサポート・グループも編成された。因みに、ホームページは、彼らのお陰で今なお活躍しているので、アドレスを併記しておこう。
[www.zen-nishikubo.net]
お陰で、南太平洋を航行中、僕の航海の様子は、誰でも簡単に知ることが出来た。僕も、一生懸命、データを補う写真や感想を『禅からの手紙』として山崎くんへ送り続けた。
今だって、片時も忘れない。無線のハム仲間や、サポートのみんなの協力と励ましがあってこそ、僕は航海を続けることが出来たのだということを。本当にありがとう。まだまだ先は続くけど、書き忘れないうちに、ここでお礼を述べておく。
■Part 2/West coast of USA [完] by Zen T.Nisikubo / Nov.8, 2001
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