Part-1: Japan to Canada

その先の海

西久保 隆

プロローグ

 「海」・・・僕にとってこの言葉に由って来たすイメージは、函館の「あなま」、あの超絶して破滅的な情景だ。

 「あなま」は『穴澗』と書くそうで、いまは廃村になっている寒川村の入口に位置する。

 僕がやっと物心がついた頃、親族の法事があり、家族揃って函館へ出掛けた。その折、寒川村に住んでいた遠縁の老人を訪ねたのだと思う。

 岩だらけの浜沿いの道は、絶壁の入り江で絶えていた。数十メートルしか離れていない対岸へは簡素な釣り橋が頼りなげに掛かり、その入り江は、おどろおどろした深い洞窟へと続いていた。そこが「あなま」だった。

 吊り橋の下は、魔物がひそむかという濃い青緑の深淵で、収斂した巨大な波が押し寄せていた。波は狭い入り江の中でさらにせめぎ合い、白く泡立ち、ひたすらに破壊的な勢いで盛り上がる。岩を噛み、波同士が飲み込み合うカオスに僕は恐怖を覚えた。

 しかし、恐怖を通り越し、全身から血が引いていくような抗する術もない戦慄が僕を包み込んだのは、斜めになって打ち戻る引き波だった。

 幼かった僕の感性にさえ、そののっぺりと平らな奔流の只中に、鋭角的にぶつかり合いながら何かの機を伺う超自然的な力が潜んでいるのが見てとれた。

 僕は、ついに自力で吊り橋を渡ることが出来なかった。記憶は定かでないが、恐らく叔父の誰かが、激しく泣いて抵抗する僕を宥めすかし、抱いて渡ったのだと推測する。

 以来、恐怖感が昂じると、一瞬、僕の脳裏をあの情景が過ぎる。また、恐ろしい夢を見ると、脈絡なく「あなま」の情景が夢の中に滑り込んでくる。つまり、僕にとって、恐怖とは、潜在意識に刷り込まれた「あなま」の怒涛であり、そして、本質的に「海」そのものだった。

**

そんな僕が、何故、ヨットによる世界周航などということを思いついたのか。正直にいって、僕自身にも正鵠を得た答えはない。

 ただ、海というものが僕の恐怖の根源だったからこそ、その海に向かって自分を駆り立て、または、駆り立てられたという逆説的ともいえる心理が僕の内面にあったのではないだろうか。

 それは、別に自らを鍛え、自らを乗り越えてより高邁な自己完成を目指すなどという大それたものではない。簡単にいってしまえば、気になってしょうがないものだからこそ、そこへのめり込んで行ったのだともいえる。

***

しかし、僕は、理屈を超えて茫洋と広がる海が好きだ。勿論、それは、通常人々が海が好きという範疇を遥かに超えていたことはいうまでもない。

 生まれ育ったのが海と坂の街・小樽だったから、子供時代、視野の片隅には常に海があった。海は、正に僕の生活の一部だった。

 丘の上に立ち、くっきりと潮目が紋をなす遥かな海原を眺めていると、心は永遠ともいえるものに向かってどこまでもどこまでも拡がって行った。それはまた、点在する遠い島々や水平線の彼方への微熱的な憧憬だったのかも知れない。

 また、ヨットを操り、独り相模湾の入口に位置する大島などを目指す時、鬱陶しい社会との隔絶した幸福感に酔うこともあった。そして、このまま、世界に繋がるこの海を、どこまでも走り続けたらどんなに幸せだろうと空想をたくましくしたものだ。さらに、そう思う時、スーッと冷たく心を過ぎる頼りなさと孤独感も僕が好きな感覚の一つだった。

 時に、イルカに出会ったり、ヨットのスターン(船尾)に海鳥が止まって羽根を休めたりすると、僕は本気になって彼等と話をした。そんな時、何もかも鋳型にはめ込まずにはおかない管理社会に、このまま自分を置いてはいけないと切実に思った。人間も自然の一部ではないか。文明からどれだけ遠ざかれるかは分らないが、自然の側に自分の肩を寄せて生きられないものだろうか・・・。歳月とともに、そうした思いが膨らみ、醸成されていったのは、ヨット乗りであり、そして、社会的規範をはみ出して生きてきた僕として、或いは自然な成り行きだったのかも知れない。

 しかし、振り返ってみると、僕のセーリングは終始ストイックなものだったと思う。自らに未だ達成されない高度な技術に夢中になって挑んでみたり、オーバーナイトで遠い孤島を目指したり・・・。そして、その多くはシングルハンド(単独航)だった。

 別に人間嫌いなのではない。ただ、僕の我侭な素地そのままに、船上で他人と上手くやっていくことは難かしい。そのくせ、そもそもが気弱なせいで、誰かが僕のヨットに同乗すると僕がその誰かの気分に合わせようと一生懸命になってしまう。性分とはいえ、それは非常に疲れる気配りだった。それに、事故が起きても一人なら誰の迷惑にもならないだろう。シングルハンドの方が、デッキでワイワイ騒ぎながらのセーリングよりもどんなに気楽か知れない。そんな思いもあって、僕は、次第に一人だけで船を出すという傾向になっていった。

 蛇足ながら一言すれば、一人でヨットを操るというのは、少しも難かしいことではない。慌てることは何もないのだから、いくつかの連携する作業を、一つずつ丁寧に片付けてゆけばそれでよい。そういうのんびりスタンスでヨットを操れば、シングルハンドのセーリングほど自分自身と語らい、思うままに自然を享受し、変幻自在な海や空や波や雲や夕日や、或いは、海の生き物たちと心を通わせるに最上の方法は他にない。

****

現役時代の僕は、広告関係のクリエィターだった。コピーライターとしてこの道に入ったのに、手先が器用だったせいで、やがて、デザイナーをはじめ、イラストレーターやフォトグラファーとしてメジャーな仕事をさせてもらうようになった。充実した時代だった。

 四十歳半ばになると、クリエィティヴの現場を離れ、クリエィティヴ・ディレクターやマーケティング・プランナーに転じ、多くのプレゼンテーションにも参加した。僕が行うプレゼンテーションは、一時期、数社の一流広告代理店が競う中、七割の成功率を収めていた。僕は、得意の絶頂にあった。

 しかし、一九九三年あたりから、広告業界にも翳りが見え出した。所謂バブル景気の崩壊である。わりと好調を持続してきたわが社ではあったが、じきに深刻な業績の低下が現われはじめ、遂に、一九九四年、高齢者の希望退職奨励策が施行された。当時の流行語のリストラである。

 わが社は、五十七歳以下の早期退職者を募集していた。十月十日が募集の締め切り日だったので、締め切り間近になると、九月十七日が誕生日の僕は五十八歳になっていた。

 その頃は、不景気もあって仕事が減り、若手の斬新なセンスを優先する方針もあって、僕は閑職にいた。何一つ起伏もなく、毎日がレージーに過ぎて行った。

 或る朝、いつものように出勤し、女子社員が淹れてくれたお茶を飲みながら机の上に足を投げ出して新聞を読んでいた。どこにも明るいニュースはなかった。一部上場の大企業でもリストラが始まっていた。

 何かいいようのない虚しさが心を充たし、僕は「ヤメヨッカナー」(辞めようかな)と口走っていた。仕事場に来合わせていた人事課の男が、

「西久保さん、おいくつになられました?」と尋ねた。 「先月で五十八」僕は答えた。

「あァ、年齢オーバーですよ。五十七歳までですから。でも、部長に聞いてみましょう」といって、彼は部屋を出て行った。その場の気分で口走ったような言動だったから、僕自身、その話をそれ以上気にも留めていなかった。

 十二時を少し回った頃、人事課から電話があった。退職する場合の条件を説明するのでロビーまで来て欲しいという。

 僕は、いつも携行していた小さな鞄を小脇に抱え、ロビーへ赴いた。人事課の男は既に来ていて、すぐに割増退職金の率や手続きについて説明した。そして、年齢オーバーは規定に反するので、社長の特別な決裁を頂いた旨を告げた。希望退職者が、予定通り集まらないという事情があったとはいえ、僕もまた、辞めて欲しい一人だったということだ。

 僕は、彼の説明に準じ書類を埋めていった。抱え鞄には、万年筆も印鑑も入っていた。

 何と、「ヤメヨッカナー」を口走ってからたった三時間後に僕は会社を辞めていた。勤続した二十五年間という実績も、辞めるのにたった三時間しか要しないという諧謔に、僕は思わず苦笑をもらした。

 書類をまとめて立ち上がった彼は、 「社長の特段のお計らいですので、一言ご挨拶しておいていただけませんか」といった。

 僕はその足で社長室へ向かった。階段を昇って行く途中で、遅い昼食へ出掛ける社長に会った。

「社長、特段のお計らいを頂いたそうで、一言お礼を申し上げようと伺いました」

「あァ、西久保くんか。しかし、これがきみにとっても会社にとっても、いい計らいかどうか私にも分らない。ただ、きみの意思を尊重して許可はしたもののね。しかし、辞めてどうするつもりかね」社長は、精一杯の慰撫と或る種の危惧を口にした。

 クリエィティヴの仕事をしていると、個人的なクライアント(顧客)が出来てくるものだ。若し、そのクリエィターが会社を辞めて独立すると、クライアントはそのクリエィターについて行ってしまうケースがよくある。社長は、それを心配していたのだ。僕が独立してスタジオを構え、会社のお得意様を持って行ってしまうのではないかと。僕は、社長の杞憂を拭うつもりでいった。

「ヨットで世界一周に出掛けます」

 その一言が、僕の将来を大きく変える決め手になった。

 「ヤメヨッカナー」に続き「ヨットで世界一周」の二連発だ。成り行きとか、モノの弾みなんて言葉が頭の中をグルグル回っていた。これは軽挙というべきか、それとも快挙というべきなのだろうか・・・。

 僕は本社ビルを出て、近くの喫茶店に入った。コーヒーを飲みながら、ゆっくりとこれまでの来し方を俯瞰し、そして未来に思いを馳せてみた。

 しかし、考えてみれば、それも悪くないではないか。先頃、離婚をし、差し迫って僕を拘束するものは何もない。世界周航は積年の夢だ。朽ち掛けていると思っていた僕の可能性が、世界へ向かって無限に広がる。こんな機会は正に生涯に一度のものだ。こいつは悪くないぞ!僕の目の前は、急にパッと明るくなった。

憧れを秘めて

 僕の現役時代は、一九九四年十二月末日で終わった。もっとも、有給休暇が残っていたから、実際の勤務は十日間ほど短縮された。

 僕は、その十日間で、前から目をつけていたヨットを手に入れた。それは、日本からハワイへ、そして、コスタリカを経て南アメリカ大陸西海岸を南下し、ケープホーンを回って東海岸を北上、さらに、カリブ海を経てパナマ運河を通り、日本へ帰って来たばかりの[白南風(しらはえ)]という三十四フィートのスループ(一本マストのヨット)だった。[白南風]は、その実績ゆえに誇り高いヨットなのだ。僕は、その名誉を傷つけてはならないと思った。

 一九九五年が明け、ヨットは僕のものになった。航海の準備作業は、一月一日から始まった。

 [白南風]には外洋航行のための諸設備が全て揃っていた。だから、出航準備としては、徹底的な船体並びに艤装の点検と船体ペイント、僕が必要と考える備品や食料の積み込みくらいしかないとタカを括っていた。

 しかし、古くなった無線機やGPS(衛星地球位置システム)、各種航海計器などの交換、マストやステイ(マストを支えるワイヤー)の補強、セールのリカット、ラダー(舵)とラダーシャフトの接合部の補修、エンジンのオーバーホールなどなど・・・作業はいつ終わるとも知れないほどいくらでも出てきた。本来、ヨットというやつは、一つの故障部分を修理していると、新たな故障が二つ見つかるものだ。そんなジレンマに苛立ちながら、僕は、如何にもこれがヨットというものだと苦笑せずにはいられなかった。

 ヨットは美しくなければいけないというのが僕のヨット哲学だったので、船体のデザインには特に神経を集中した。船名は既に[禅]と決まっていたので、アルファベットでZENをロゴデザインし、紺色に美しくペイントした船体に白で配した。仕上がりは満足のいくものだった。

**

僕が世界周航を云い出した頃、ほとんどの人が猛反対した。その理由は様々だったけど、大意として、僕などに世界を一回りしてくる技量があろうとは誰も信じていなかったのだと思う。

 それらの猛反対は、僕のへそ曲がりな性分を過剰に刺激した。僕にしてみれば、航海途上、最悪の場合でも死ぬだけでしかないという覚悟があったから、反対の言葉は僕の決心をますます強固なものにするばかりだった。

 そんな中、陽子だけは僕の決意を信じ、ひたむきに航海中の僕の身の回りを整えてくれた。事情が許すものなら、彼女こそは同じ夢を紡ぎながら、共に世界を巡りたい人だった。

 三月頃だったと思う。航海図誌や多くの文献を調べ、データー的に気象、潮流、風向きなどが最良の六月初旬を出航と決めた。

 どこから耳にするのか、新聞、FMラジオ、雑誌など、マスコミの取材が訪れるようになり、僕の航海計画は誰もが知るところとなった。

 そうなると面白いもので、今まで航海を思い留まるよう僕を説得し続けていた人々が積極的に応援してくれるようになった。ガンバレとか、成功を祈るとか、生きて帰って来いよとか、楽しんで来いとか・・・。或いは、わざわざボートヤードへ出掛けて来て作業を手伝ってくれる人もいた。

 僕は、その時々の思いつきで、彼等に航海の夢を語って聞かせた。まだ見ぬ外国の海でのことだから、夢とはいえ、それは壮大なホラでしかなかった。しかし、これから出航しようという者への礼儀からか、彼等は驚きの混じった共感でそれを聞いてくれた。

 とはいえ、僕としては、もう誰も航海への危惧を露わにしてくれないことが、却って心細くて仕方がなかった。本心、「あァ、誰か止めろといってくれないかしら」と思ったりもした。多分、出航が間近に迫って、僕の愚鈍な感性にもいくばくかの懼れが芽生えてきたのかも知れない。

***

離婚後、僕は鎌倉の家を出て葉山で暮らしていた。

 葉山は起伏に富んだ美しい街だった。高台の僕の家からは、目路の果てまで相模湾が見渡せた。右側は程よく山の稜線が海に落ち込み、左は長者ヶ崎の岬の向うが大島の位置にあたる。日中に島影は見えないけど、空気が澄んだ秋の夜などには伊豆大島・風早埼の灯台の灯が明滅し、遥かな海への憧れを鼓舞してくれた。

 さらに、葉山は四季折々の花が美しい。桜の季節は街全体に花が溢れ、ソメイヨシノやサトザクラ、ヒガンザクラ、それに妖艶な八重の枝垂れ桜などが妍を競う。遠い山肌を斑に白く染めて咲く山桜にも素朴な風情があった。

 五月には、僕の家の裏山にあたる町役場の小高い斜面に一面躑躅が咲き誇る。その絢爛たる様は息をのむばかりに美しい。たくさんの花見客が訪れ、葉山がいちばん華やぐ季節かも知れない。

 躑躅が過ぎると、湘南海岸は一足早い夏になる。街中に緑が溢れ、それを包むように差し迫った山々には、まるで津波のような緑が沸き返る。爽やかな初夏の太陽が全てのものの上に照り映え、何もかもが緑色に染まるかと思える季節だ。そして、僕の出航も間近に迫り、葉山の家を引き払いヨットへ移り住む日が足早に近づいてきた。

緑色の泪

僕は紺色が好きだ。だから、僕のヨットもその艤装も、世界周航に持って行く衣服も大方が紺と白になってしまう。

 しかし、考えてみれば、大洋のど真ん中には藍色しかないのだ。空も海も。よく晴れた日には、恐らく風までが青く澄みわたっているに違いない。

 そんなことに気づいてから、僕は、目に染みるような五月の緑を心に焼き付けておこうとしていた。よく見ると、ひとくちに緑といっても、何と豊かな表情があることだろう。出航を目前に控え、僕は、そんな当たり前のことに目を見張っていた。

**

五月二十二日はヨットに転居する日。葉山の家を引き払い、お昼を少し過ぎた頃、僕は陽子と車に乗った。

 真夏のような太陽が真上から照りつけ、山々の緑が生きいきと輝いていた。出航は二週間先とはいえ、陸の生活にピリオドを打つ僕にしてみれば、今日からが旅立ちといっていい。

 起伏に富んだ美しい葉山の緑を胸いっぱいに吸い込むように、エンジンキーを差し込んだまま、僕はハンドルにもたれて大きく息を吸った。彼女がそんな僕を見て、それから、膝の上に置いた手に視線を落とした。

 僕のヨットによる世界周航で、いちばん辛い思いをしているのは陽子だろう。僕は、世界の国々のいろんな出来事の期待に胸を弾ませているけれど、彼女は、心の支えもなく何年間も待ち続けるのだから。

 何度か彼女の泪を見た。僕がそれをとても気にするものだから、それからは僕の前で泣くことを耐えているようだ。

「本当に緑がきれいだ。こんなにいろんな緑があったなんて、僕は今まで知らなかった」

「桜が終り、躑躅が咲き、あっという間に初夏の緑の洪水ね。本当に目に染みるよう」

 そういって陽子は眩しそうに目を眇め、ハンカチで目頭を押さえた。

「三年間ほどのつもりだけど、三年間って、永いか短いか」

「過ぎた三年間は短かった。いろんなことがぎっしり詰まっていて、素敵な三年間。でも、その想い出をひもといて過ごす三年は想像もつかないほど永いわ」

「思い出をひもといて過ごす三年はとても永いさ。きみは、その三年間を、きみ自身の将来を決める時間にしなくてはいけないよ。そうして三年が過ぎてみると、やっぱり過ぎ去った三年間のように短いと思う」

「でも、あなたの許へ行けるという保証はないわ。今のままでいいとは思わないけど」

「それはそれで仕方がないよ。それがきみの選択ならね。いずれにせよ、きみがきみ自身の選ぶべき道を考え、決めて欲しい。僅かな可能性でも残っているなら、きみが僕の許へ来ることに賭けてみるさ」

 陽子は、視線を膝の上に組んだ手に落とした。僕は、スターターを回しエンジンをかけると、静かに車を出した。

 僕らは、トンネルのように覆いかかる木立の下、全てのものが緑色に染まって見える道を下って行った。陽子は、前方の景色に視線を投げかけ、眩しそうに目を細めると、ハンカチでそっと瞼を押さえた。

 

旅立ち

 差し迫った出航の準備に加え、送別会やマスコミの取材などで、僕は多忙な日々を送っていた。ヨットに転居してからの二週間は瞬く間に過ぎていった。

 出航は六月四日、正午の予定だった。しかし、その日は猛烈な南風が吹き、マリーナのヨットは出航停止になり、予定されていたクラブレースはキャンセルという状況だった。僕の出航を見送ろうと大勢の人々がマリーナを埋めていたが、僕は敢えて一日延期を決断した。

 無線の417ネットやシーガルネットの方々が、「気負ってこんな日に出航しないように」と、しきりに声を掛けて下さった。

 何も急ぐことはない。それに、僕自身の航海なんだから、見送りの人々を失望させまいとして、こんな海況に出ることはないのだ。どうせこの先、嫌でもこれ以上の大時化に遭うことだろうが、せめてホームポートを船出する日くらいは穏やかな気象であって欲しかった。

 夕方になるとマリーナに人影は疎らになった。最後までいてくれた荒木くんも、明朝、舫いを解きに来ますといって日没過ぎに帰って行った。やっと僕は一人になった。

 簡単な夕食を摂ってから、陽子に電話を掛けた。彼女は、417ネットの惣田さんから電話があったそうで、出航の延期を知っていた。

 僕は、何か言い残したことがあるような気がして、「出ておいでよ」と誘ってみた。彼女は、三十分もせずに息子の剛くんを伴ってやって来た。実際に会ってみれば、あらためていうべきことなど何もなかった。とりとめのない雑談で時は過ぎていった。それでも僕は、僅かな時間を共に過ごすことで、彼女への暫しの別れをしっかりと心に刻みつけることが出来たと思う。もう、明朝の出航に微塵も迷いはなかった。

**

朝六時。前日は強風とはいえあんなに晴れていたのに、予想に反し、その朝の空模様は猛々しく、海はひどく荒れていた。上空を厚い雲が足早に北へ吹き流され、人っ子一人いないマリーナは寒々と感じられた。

 やがて荒木くんがやって来た。 「天気、好くないですねェ。どうします、出ますかァ?」と岸から彼が尋ねた。僕は、躊躇なく「出る」と答えた。

 一応の儀式として揚げた行き先国のカナダ国旗とブルーピーターといわれる出航信号のP旗を降ろし、僕は、バックステー(後方からマストを支えるワイヤー)に日の丸を結んだ。エンジンを始動すると、荒木くんは手馴れた動作で風下側の舫いを解いた。続いて風上側を解き、そのロープを僕に手渡しながら、あたかもデイセーリングへ出掛ける時のようにさりげなく「気をつけて・・・」といった。

 湾口を出てセールを揚げながら振り返ると、彼は堤防の先端に立ち夢中になって手を振ってくれていた。荒木くん一人に見送られ、その朝、僕は世界周航の途についた。

***

三崎を過ぎ、城ヶ島を過ぎると、時化は容赦なく[禅]を翻弄した。風が真向かいなので、ワンポイント・リーフ(縮帆)のメインセール(主帆)と八十%ほどにファーリング(巻き込み)したジェノア(前帆)に加え、エンジンの助けを借り、タック(風を受ける舷)を返しながら房総半島の沖へ急いだ。房総を交わせば針路は東に変わる。風はアビーム(横風)になり、今よりは凌ぎやすくなるはずだった。

 向い風と波にがぶられ、船足は伸びなかった。日没の頃、野島埼を大きく迂回し房総沖へ出た。出航後十二時間が過ぎた午後七時、高く黒々とした波浪の合間にちらちらと遥かな白浜の灯が見えていた。何だか、心細くとても侘しい眺めだった。そして、アビームになれば楽になるという期待は完全に裏切られた。

 強風下の黒潮流域は波が高く、僕をいたぶるように海況は険悪だった。ヨットが激しくローリングし、都度、コックピットには恐ろしい勢いで海水が打ち込んでくる。防水処置が施されたベンチレターや暖房用ストーブの煙突からは、海水がキャビンの中に激しくしぶいた。あんなに勇んで出て来たのに、軽い船酔いも手伝って、僕の気分は救いようもなく惨めだった。

 真っ暗闇の中、手探りでウインドベーン(風力自動操舵装置)をセットした。恐らく、激しく往来しているであろう漁船や本船のウォッチ(見張り)など、もうどうでもよかった。時化に翻弄されて思うに任せぬ航行と初めての世界周航という極度の緊張が徹底的に僕を打ちのめしていた。疲労と怯え、そして、何でこんなことを始めてしまったのだろうという激しい悔恨・・・。

 僕はキャビンへ降りてずぶ濡れの衣類を替えた。そして、ベンチレターを密閉し、溜まった海水を汲み出し、キャビンに飛び散ったラジカセやヤカンやジャガイモや缶詰や衣類や本や、飛び出してしまった曳き出しなどの片付けをした。

 気がつくと、とうに十二時を回っていた。倒れるようにバース(船の寝床)へ潜り込み、僕は、夢も見ずに眠りに落ちていった。

 

悠久の洋(うみ)・1

〈日本近海〉

 三時間も眠ったろうか。気分は随分好くなっていた。

 先刻はひどい疲労から、本船や漁船を見張るという航海の最も基本的なウォッチさえどうでもよかったが、多少元気が回復すると俄かに他船の往来が不安になった。急いでバースを抜け、僕はコックピットへ飛び出した。

 見渡す限り船の灯火も陸影もなかった。そして、東の空に微かな黎明が兆し、波の斜面がわずかに白んで見えた。

 GPSが示す位置からすると、厄介な黒潮の流域を既に脱出したようだ。それに風も二十五ノット(秒速14m/1ノットは毎時1.8km)ほどに安定したせいで、険悪な波浪は消えていた。昨夜のあの揺り戻す不快なローリングも、そのために起こったコックピットへの海水の打ち込みも、もうなかった。時化は終わったのだ。

 僕は、一時間半おきにアラームが鳴るように時計をセットし、キャビンのソファに腰掛けたまま再び眠りについた。

 次に目覚めた時、僕は、昨夜の修羅場も忘れ、遮るものもない大海原へ向かって、 「おーい、太平洋―ッ!」と歓喜の叫びを上げていた。

 海は手が染まりそうな紺碧に輝き、見たこともない雄大なうねりが、戯れるように次々と押し寄せて来る。安定した二十ノットの風が南から吹き寄せ、澄みわたる青空には純白の千切れ雲が浮かんでいた。

 [禅]は、小躍りするように一つひとつうねりを越えて突き進んで行った。時折、船腹に波が砕け、デッキはスプレーと虹に美しく包まれた。僕は、しぶきに濡れながら笑っていた。陸では絶対に得られない幸福感。そう、これを求めて僕は来たんだ。これから先、何が待ち構えているか分らないけれど、ヨットで世界を巡るという選択に誤りはなかったと僕は確信した。

**

航行中、最も心強く僕を支えてくれたのが417やシーガル、そして、オケラなどのアマチュア無線ネットだった。

 毎朝、日本時間の七時から交信が始まる。僕は、コーディネーターへ[禅]の現在位置と気象や海況、そして、僅かな感想を伝える。そうすると、その後、ウォッチしているたくさんの方々からコールが飛び込んでくる。中には、わざわざ気象ファックスをとって気象のアドバイスをしてくれる方もいる。本船で国際航路を経験されている方からは、ハード面に加え、心理的な部分にまで及んだサポートをしてくれた。

 417ネットのコーディネーター・惣田さんは、僕とほとんど同い年なのに、何だかお母さんのような感じの心配りをしてくれるのが嬉しかった。彼女の家(北海道斜里郡)の近くに、偶然にも娘の杏奈が住んでおり、時には、わざわざ娘のメッセージを送ってくれたこともあった。それらは、どんなに僕を励ましてくれたか計り知れない。

 房総半島を遥かに過ぎてからは、針路を北東にとっていたから、シーガルネットのキーである岩見沢や、417ネットの知床がどんどん近くなった。二十一メガヘルツという電波を使っているので、中途半端な距離に近づくと却って送受信の感度が落ちる。それでも、ハムの方々は一生懸命にコンタクトしてくれた。本当にありがたかった。

 出航して一週間後の六月十二日、北緯四十一度十九分・東経一五一度三十二分。そろそろ里心がつき出した頃だった。或る方が、

「陽子さんがウォッチしています。コールしてみて下さい」といった。  僕は、何だか、学芸会で舞台に上がった小学生みたいに緊張した。

「7N1RPH、こちら7N3NXO、ヨット[禅]、感度ありますか?」 「はい、こちら7N1RPH、聞こえます。お元気ですか?」

「元気、元気。いやー、ネットで陽子の声が聞けるなんて・・・!元気でやっているから、心配しないように」

「分りました。本当に気をつけて。それから、ここに剛もいますから、ちょっと替わります」

 息子の剛くんとも二言、三言、言葉を交わし交信は終わった。しかし、何という奇跡だろう。遠くへ無線が届くことは自明の理ではあるけれど、選りによって、片時も脳裏を離れることもない人と言葉を交わせるなんて!

 一通り交信が終わると、僕はデッキへ出て、六〇〇浬も離れた日本の方角に向かい大声で陽子の名を叫んでいた。

***

その夜だった。僕のために特別に組んでくれた417夜八時の交信の折、海は、これ以上ない美しさで僕の目の前に広がっていた。

 昼間のように明るい月光の海は穏やかにたゆたい、天の白鳥が海面に対称形の星座を結んでいた。そんな情景の中を、フォローの風が滑らかに[禅]を北東へ運んで行く。僕はそれらをつぶさに描写し、臆面もなく、こんな幸せを独り占めして申し訳ないとほざいた。

 そういいながら、五感に引っ掛かるものがあった。ハッチから首だけ出して外を見た。ヨットの後方は相変わらず幸せを象徴するかのように月光に照り映えていた。そして、目を転じ前方を見た時、僕は全身の血が凍るかと思った。

 そこには、まるで高い絶壁でも聳えているかのように真っ黒な壁があった。正面が空高くせり上がり、両端へ降っている。暫くは、それが何なのか判断がつかなかった。その中心へ向かって[禅]は突き進んでいた。

 後方ののどかさとは正反対に、前方には、機関車が驀進してくるような勢いで攻め寄せる前線が、物の輪郭も定かでない闇となって近づいて来ていた。僕は、ウインドベーンを解除し、針路をひときわ黒々としたその中心から逸らせようとした。しかし、どう舵を切ってみても、[禅]はその中心へ吸い込まれるように接近して行く。

 ダメだ。とても逃げ切れない。いずれにしても時化は早晩やって来る。荒天対策を急がなければ!

 後方からの風が、突如、前方に変わり、まるで撞木で大鐘を打つような物凄い衝撃で[禅]を打ち据えた。夜に入ってワンポイント・リーフにしてあったメインセールはブーム(帆の下桁)ごと暴れまわり、艇はブローチング(過剰動力による横倒し)の状態を経て風に向かって停まった。

 やっとの思いでメインシート(主帆を調整するロープ)に辿り着き、セールをぎりぎりまで中央へ引き込み、ウインドベーンを風向に対しゼロ度にした。それでも艇は恐ろしくヒール(傾斜)しながら走り回る。まともに受けると痛いほどの雨が、全ての視界を奪って降り出した。その何も見えない中を、[禅]は着実に、地獄の入口のようにぽっかりと口を開けた低気圧の中心へ向かって進んで行った。

 全身が衣服のままシャワーを浴びたように濡れそぼり、僕は、寒さと突然の恐怖でがたがた震えていた。それでも、大至急、セールをリーフしなくてはならない。

 スプレッダー・ライト(マスト中央にあってデッキを照らす照明)を点し、ハーネス(命綱)で体を維持しながら、僕はマストへ這うようににじり寄った。マストに手を掛け、立ち上がって周囲を見た。真っ白な雨の帳の中、目の前に沸き返る海面があった。一瞬、「あなま」の情景が脳裏を掠め、あの吊り橋を渡っている自分が見えた。バウ(船首)が海面に没するとマストの根方にまで海水が押し寄せ、僕はあの斜めになって打ち戻す引き波にさらわれまいと足を踏ん張っていた。

 しかし、そんな海況にもかかわらず、[禅]の動きは悠然としていた。そう感じた途端、僕の恐怖感は消えていった。

 そうだ、僕がこの荒海を渡っている訳ではないのだ。ヨットの[禅]がどんな海況にもめげず航行しているんじゃないか。僕はただ、自然が求めるものを[禅]に与え、乗艇させてもらっているだけなんだ。

 言葉では知っていたつもりでも、真に艇を信じることを今まで僕は知らなかった。艇を信じ、海や自然に調和し、オレがという気持を捨て、謙虚になること・・・。これは、ある意味で航海者の辿り着くべき悟りのようなものではないのか。

 リーフ作業を終え、僕はキャビンへ降りて衣服を替えた。そして、今までとは違った心のゆとりをもって、吹きとおした風速四十五ノットの時化に一晩付き合った。

故障

 一時間半寝て、一時間半ウォッチするローテーションで朝を迎えた。過激な時化は収まったものの、アビームの風と前からの大きなうねりで、航行は思うに任せない。それに、北緯四十度を越えてから急に寒くなった。夜間のウォッチは、オイルスキン(合羽)の上にダウンのヤッケを重ね着しても寒いくらいだった。

 昨夜の経験で一回り自分が大きくなったという自覚はあった。それでも、寒く、全てが平板に見える曇り空の下、うねりに都度行き足を押さえられる航行には嫌気がさす。

 そんな日にかぎって何かが起こるものだ。大きなうねりにがぶられ、ひどいパンチング(船底が激しく海面を打つこと)がきた。その後、ブームがズルズルと舷外へ出て行き、メインセールが激しく暴れ出した。

何が起こったのか見当もつかなかった。メインシートを目で辿っていくと、ブームから二つに分けてシートをとっている一方のワイヤーが切れていた。

 ワイヤーが、紙縒りでも引き千切るように切れるなんて考えたこともなかった。確かに、マリーナに係留しているヨットと違い、四六時中休むことなく、しかも度々の大時化の中を走っている。その荷重はヨットにとって相当のものだ。それにしてもワイヤーが千切れるなんて!「何が起こるか分りませんよ」と、白石鉱次郎くん(単独無寄港世界一周セーラー)がいっていた。こういうことだったのか!計り知れない自然の猛威を思い、僕は背筋に冷たいものを感じた。

 切れたワイヤーを外し、メインシート側のブロック(滑車)にシャクル(金具類を繋ぐ金物)で頑丈なカラビナを接合し、それをブームに繋ぎ応急処置とした。それは、カナダのビクトリアへ着くまでそのままだった。余談になるが、ビクトリアでワイヤーを付け替えた時、そのカラビナはすっかり伸び切り口を開いていた。

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 次に起こったのは、セールの故障だった。

 セールを揚げて十分なテンションを掛けてもきれいなカーヴが出なかった。ブームバング(セールのカーヴを調整する装置)を調整したり、メイントラック(デッキ上のメインシートの基点を移動する装置)を移動してみたり、シートを加減してもさっぱり好くならない。

 僕は、マストのところへ行って、ハリヤード(帆を揚げるワイヤー)を少し弛めてみようと思った。マストトップを見上げて、僕は、アッと叫んでいた。

 セールのトップパネル(主帆最上部のプラスチック板)がブラブラ揺れている。急いでキャビンへ戻り、双眼鏡を取り出した。いろんな角度から観察すると、スライダー(主帆に取り付け、マストの溝を上下する金具)をパネルに取り付けている頑丈なテープが二個とも切れてしまったようだ。

 僕は、セールをすぐには降ろさず慎重を期した。それは、スライダーがマストのグルーブ(溝)に噛んで、途中で降りてこなくなってしまった場合、大揺れに揺れて走っているヨットのマストを登らなければならないことを意味するからだ。そして、それは恐ろしい高率で事故に繋がる。噛んだスライダーをグルーブから外し回収して来ない限りセールが揚げられなくなる。状況次第では、生死にかかわる決断が求められる局面だった。

 双眼鏡での観察の結果、僕は、そろそろとセールを降ろしてみることにした。幸いにもセールといっしょにスライダーは降りてきた。僕は胸を撫で下ろした。しかし、パネルに再度スライダーを繋ぐ方法がない。そんな故障が起こるなんて思わないから、予備のケプラーテープなんか持って来なかった。

 とにかくジブ一枚でヨットを走らせながら僕は思案に暮れた。そのための材料がないのなら、どこからか代用品を見つけてきて作るしかない。それを摸索し、検討するのに丸一日を要した。

 先ず、ドジャー(日除け・飛沫除け)をデッキに固定しているベルトの余分を切り取った。そして、セールカバーの結び紐を調べてみた。何枚かに重ねれば、差し当たっての強度にはなりそうだった。仮に強度が足りないとしても、それしかないのだからそれで試すしかないのだ。

 翌日、僕はマストの根方に座り込み、丈夫なセール用の糸でスライダーを縫いつけた。

 気象ファクスの破損は深刻だった。これは、日本を出航して四日目に起こった。先ずはじめにGPSが機能しなくなった。そして次が気象ファックスだった。原因は湿気だった。出航した夜の大時化以来、室内湿度は九十%を超えていた。

 GPSもファックスも、翌日には電源が入るようになり一安心したが、ファックスを分解して水滴を取り去っている時、詰まった記録紙を取り除こうとして、通電して銀色の記録紙に図を描く非常に繊細なペンを取り付けるソケットを破損してしまった。これは、ややもすると気象に対し完全に無防備になることを意味した。僕は午前三時から夜八時まで、ファックスのあるスターン(船尾)の狭いバースに蹲り、必死になってその補修に取り組んだ。本来は数ミリしかないソケットは、添え木やら何やらで醜く太いものになってしまった。

 試してみると、非常に粗悪とはいえ辛うじて受信は出来そうだった。しかし、何時まで持つやら、その出来栄えを眺めて僕は全く自信がなかった。本当に切羽詰った時以外、もう気象ファックスを使うことは出来なくなった。

 さらに、ウインドベーンが不調だった。素直な風とうねりの中なら問題はないが、癖のあるうねりにスターンを叩かれると、途端に針路を変えてしまう。

 それは、ウインドベーンについて僕が不慣れなためだと思い、一生懸命解説書を読んだ。しかし、どこにも大きな誤謬はない。僕は頭を抱えてしまった。このトラブルは、カナダまでの航海の大半にわたり僕を悩ませ続けた。

 ウインドベーンの不調とは、僕が寝られないことを意味する。それでなくても日に五時間以上眠ることがなかったのに、さらに睡眠時間を短縮する訳にはいかない。

***

睡眠不足や諸々の悪条件から来る体調の低下も深刻だった。

 そもそも、出航以来、まるで眠り病のように常時眠気があった。後で分ったことだが、これは一種の船酔いだった。

 胃の不調で苦しむのが嫌だったから、意思の力でそれをねじ伏せてきた。為に、捌け口として別な症状が現われ、船酔いによる血圧の低下で異常な眠気を感じていた訳だ。

 そこへもってきて睡眠時間が極度に短かった。短いばかりか、細切れに一時間半づつしか眠れない。いや、一時間半まとめて眠られることなんてほとんどなかった。さらに大時化などで神経をすり減らすと、必然的に胃に異常を来たす。

 はじめは胃炎程度だったが、遂には胃薬が効かなくなった。出航前、医師から頂いたアドバイスを反芻すると、諸々の症状から胃潰瘍が考えられた。これもまた、ビクトリアへ着くまで僕を悩ませ続けた。

 両手の親指の腱鞘炎もひどく悪化していた。セールの揚げ下げに親指が使えないほど不便なことはない。親指以外の四本の指と掌でプラスチックの板みたいに厚いセールを手繰ることは非常に苦痛だった。

 これには親指を使わないということしか対応策がない。しかし、例え親指を使わないようにしても、どうしても力は入る。手首を通り越し、時には二の腕までが、常時ずきずきと痛んだ。

 そんな訳で、艇のみならず、僕の体までが満身創痍のまま航海は続き、神経的にも相当のストレスが貯えられて行った。

或る夜イルカが・・・

 いい歳をして、僕は犬が怖い。恐ろしそうな犬の脇を通る時など、犬がこちらの気を呑んで威嚇していることが敏感に感じられる。

 勿論、僕だって、子供の頃は犬が大好きだった。何度か子犬を拾って帰って母に叱られたことがある。ただ無性に可愛くて、しゃがみ込んで頭を撫でているうち、もうそのままにして帰ることが出来なくなり抱いて帰ったのだ。子犬は、小さな僕の腕の中で甘え、そのうちに眠ってしまった。多分、幼かった僕にとってさえ、何の疑いもなく全てを委ねてくる存在が庇護すべきものに思われたのかも知れない。

 家に飼い犬がいたことだってある。犬は家族の誰よりも僕に馴れた。学校から帰り遊びに出掛ける時など、犬はかならず僕について来た。野球をしにグラウンドへ行く時も、友達の家へ行く時も。

 だから僕は、犬の可愛さは知っているつもりだ。犬のそばを通る時、僕は、その見知らぬ犬と親しくなりたいと思う。でも、犬の方は、内心僕が恐れていることを知っていて、僕がそばへ寄ると威嚇する。それは、こちらの恐怖心が犬に伝わり、追い込まれた者が恐怖に駆られて唐突に攻撃をしかけたりすることを先読みされているみたいだ。

 僕が犬を恐れるようになったのには、きっかけがある。それは、とても悲しい記憶だ。

 或る日、僕の家で飼った三頭目の犬、シェパードのマイクが、公園を散歩していた家族の小さな女の子を噛んで怪我を負わせてしまった。最初、上の男の子が放った小石がマイクの腰に当たった。犬は小さく悲鳴を上げ、すぐに反撃の態勢に入った。僕は、必死に引き綱を握りしめマイクをなだめた。その時、下の女の子が、兄の真似をして小石を放った。小学生の僕に、成犬のシェパードを引き止める力はなかった。マイクは、まっしぐらに女の子を襲った。

 傷は大したこともなかったが、精神的に受けた影響が大きいと裁判になり、当然こちらがいろんな責めを負うことになった。

 先ず、傷の治療費を負担する。これは当然だ。そして、何がしかの慰謝料。さらに、今後も人に危害を加える可能性があり得るとして、マイクの薬殺が申し渡された。

 マイクは、既に野犬収容所に捕らわれていたから、僕は、ついにマイクに逢うことは出来なかった。僕を信じてマイクは待っていただろうと思う。その気持に応えられない僕は、泣くことさえ出来なかった。

 そんなことがあってから、僕は急に犬が怖くなった。それは、犬が人に危害を加えるからではなく、僕が実に無力にマイクを死なせたということに起因する。

 話が随分横道に逸れてしまったけど、要するに、犬や知能の高い哺乳類と人間は、或る種の意志の疎通が出来るということをいいたかった。

**

航海は、既に十二日目を数えていた。

 もう、いろんなことにも慣れ、僕は、航海を楽しむ余裕さえ出てきた。

 その日は、この航海を始めていちばん美しい海と空が広がっていた。僕は、コックピットに本やクッキー、果物、コーヒーの入ったマグカップなどを持ち出し、カセットテープのジョージ・ウインストンのピアノ曲を聴いていた。

 気分は上々だった。時にまどろみ、目覚めては音楽に耳を傾けながら飽くことなく海を眺めた。

 その時、ふと理由のない不安が心を過ぎった。何だろう?僕は、その原因を考えてみたが分らなかった。

 そうしているうちに、海面にイルカの大群が現われ、ヨットの周りを思いおもいに泳ぎ回った。背中のフィンのつけ根に白い傷のような模様があるイルカが、艇に衝突するかのような勢いで突進してきて、寸前で体をかわしていった。そんなことを何度も繰り返し、イルカたちはどこかへ姿を消した。

 僕は、人間がいう『イルカの遊戯本能』というやつを楽しみ、そのまま、僕のうちを過ぎった不安を忘れてしまった。

 その夜は、日中にも益して美しく、穏やかな月夜だった。風は十二ノットの追い風。ヨットを走らせるには物足りない風だが、焦ったってしょうがない。少し寒かったので、僕はオイルスキンにフリースのインナーを重ね着してデッキへ出た。艇にどこも異常がないことを確かめると、僕はまた、コーヒーのマグを持ってコックピットに腰を降ろした。

 月が海面を昼間のように照らし、水平線にわだかまる雲の上辺を白く光らせていた。艇がかき分ける水音が、心地よいバックグラウンドミュージックのように心を和ませた。気象ファックスが告げる通り、今夜中に天候の悪化がないことは明らかだった。

 熱いコーヒーを口に含んだその時、僕は昼間と同じ不安が胸の内を領するのを覚えた。それは、どこからとも知れず、極度の警戒心か特別な意図を以って誰かにじっと見つめられている・・・そんな種類の不安だった。何だろう?僕は日中よりはいくらか余裕をもって思いを巡らした。

 こういう感覚に覚えはないか僕は考えてみた。例えば、大きな屋敷を囲む塀の内側で、巨大な番犬が吠えもせず僕の動向を窺っている・・・そんな感じに近い。或いは、ただの想像だが、姿の見えないスパイか探偵に後をつけられていたらこんな感じだろうか。何にせよ、敵意とはいわぬまでも、かなりナーバスな警戒心を剥き出しにした感覚がビシビシと伝わってくる。

 冗談じゃない。ここは北緯三十六度、東経一五四度、太平洋のど真ん中だ。こんな所に犬やスパイがひそんでいる訳がない。僕は、その不安を、初めて長期航海に出た緊張のせいとして無視することにした。

 緩やかに波うつ海面に月光の帯があった。ヨットがかき分ける漣でそれが千々に砕け、その上を海ツバメ(ストーミー・ペトロ)が鳴きながら飛び交っていた。

 その時、ふいに海面が裂けイルカが姿を現した。それは、昼間にも益して物凄い大群だった。海はイルカの跳躍に沸き立ち、滑らかなイルカの背に月の光が白く反射した。

 何か超現実的で、ファンタスティックで、そして、とても不安な感じだった。僕は、恐るおそる口笛を吹いてみた。ピッ、ピーピッ、ピッ、ピーピッ。

 すると、一頭のイルカが艇に向かって突進してきた。衝突寸前で反転する時、フィンのつけ根に白い傷のような模様が見えた。昼間の奴だ!と僕は思った。

 僕の耳元で、誰かが(アナタ、ドコヘユクノ?)と囁いた。えっ?僕は急いで周りを見回した。勿論、誰もいない。暫くすると、また同じ声がした。いや、声というのとは違う。ただ、そう感じるのだ。テレパシー?

 そこで僕は、(キミはダレ?)と考えてみた。 (あなたの、すぐ目の前にいるじゃない。あなたはどこへ行くの?)

(えっ、キミはイルカなの?本当にそうなの?) (イルカってなに?とにかく、私はわたし。それよりも、私といっしょに行こうよ)

(冗談じゃないよ。僕は、きみたちのように水の中で生きていけないもの)

(どうして水の中では生きられないの?それに、もうすぐひどい嵐が来るわ。だから、みんな南へ行くところなの)

(嵐が来るのは知っているけど、そんなにひどい奴かい?)

(そう。私たちの中でも何頭かは死ぬわ。それは仕方がないことなの。多分、そう決められていることだから。仕方がないことだけど、私たちは、死なないようにいろいろやってみなくてはいけないの。あなたみたいにのんびりしていたら、間違いなく死んじゃうわ。さあ、私といっしょに行こうよ)

(待ってくれよ。それは僕には出来ない相談だ。その嵐に、僕とこの船がどこまで耐えられるかやってみる以外、僕には方法がないんだ。多分、そう決められていることだからね)

 テレパシーというものが、こんな形で異生物と意思の交換が出来ることに、僕は、ただ驚いていた。そして、それが素晴らしく、しかも稀有な体験であることに気づき、僕は興奮していた。

 突然、理解できないノイズが僕を襲った。海面を見ると、白い模様のイルカが、大きく黒々とした別のイルカに追われていた。月明かりの海に、その姿はすぐに見えなくなったが、遠くから助けを求めるような悲しい思いが伝わってきた。それは、何かとても切なく僕の胸を締めつけた。

 恐らく、あの白い傷のような模様のイルカを執拗に追い求める雄が、離脱しかけている彼女を群れに連れ戻そうとしているのに違いない。そして、若しかすると、嫉妬のような感情に突き動かされているのかも・・・と、僕は思った。

 そんなことを考えていると月が雲間に入り、ふっと辺りは暗くなった。再び月光が海面を照らした時、海は、完璧な静謐の中にゆったりと揺蕩っていた。

 あの夥しい数のイルカの群れは、もうどこにも見えなかった。それは、あまりにも唐突で、僕にはとても信じられない暗転のようだった。

 僕は、久々に恋する切なさのようなものを胸に刻んで、メインハッチをくぐりキャビンへ降りた。イルカとの恋?そんなこと、誰が信じるだろう。僕はどうかしてしまったのかも知れない。このことは、誰にも内証にしておこう。

僕は、ふっと笑うと、新しくコーヒーをカップに注いだ。(つづく)


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