[悠久の洋(うみ)・4]

西久保 隆


〈航海つれづれ〉



 平坦な航海というものはない。

 時化があり、凪があり、言葉でいい表すことを放棄してしまうほど荘厳な夕映えがあり、歓びや悲しみや充実感や徒労感が常にある。

 それなのに、それを受け止める側の僕の感性がマンネリ化してしまったのだろうか。カナダへ後二週間ほどの辺りで、僕のログ・ブックには、さっぱり盛り上がりがない。

 推し測ってみれば、目的地が読める距離になって、航海そのものに自分を打ち込むスタンスよりも、カナダへの距離や日程を主体に考えるようになっていたためかも知れない。その証拠に、日本のハム仲間を経て、カナダでの[禅]の受け入れ態勢の情報や、カナダ側で僕をサポートしてくれている窪田照夫氏(通称テリー)とのどうしても繋がらない無線連絡を嘆く記述が多い。

 カナダのバンクーヴァーには妹の裕子が住んでいる。英国人のイアンと結婚し、三人の子供を含む家庭を営んで、既に二十五年以上になっていただろうか。

 僕が、日本を出て第一の目的地をバンクーヴァーにしたのも、イアンや裕子、それに子供たちの熱心な誘いに心が動かされた面が大きい。

 後で知ったことだが、裕子は、僕の航海の経過について、バンクーヴァー市当局やカナダのマスコミにニュース・リリースを送っていた。そして、イアンは、観光の仕事をしていた関係で、バンクーヴァー市をはじめ、各方面での[禅]の受け入れに関する根回しをしてくれていた。

 そうした情報が、窪田氏と無線が繋がらないために、日本のサポーターを通じて僕のもとに届けられた。

 カナダ沿岸の航行に関する情報や資料なんて、日本ではほとんど皆無といっていい。だから、託されたメッセージではなく、直に窪田氏からいろんな情報が得たくて、僕は毎日、夢中になってコンタクトを試みた。しかし、遂に彼との交信は成功しなかった。

 話は違うが、日本との交信は僕の重要なルーチンとして、毎日欠かさず続いていた。

 一つには、気象ファックスが不備なため、日本で受信した北太平洋全域の気象情報を頂く必要があった。僕は、その情報によって高気圧や低気圧、そこにわだかまる前線を避けるように航路を定めていた。

 また、横浜の伊東さんという方は、どうやら海図を手元において交信されているようで、僕が現在位置を告げると、次に進むべき針路を示唆して下さる。それは、僕にとってとても有用な情報だった。

 しかし、翌日、僕は、伊東さんの教えてくれたのとは別の針路を進んでいた。恐らく、彼は、都度落胆されていたのではないかと想像する。しかし、これには訳がある。

 僕は、概ね伊東さんの告げる針路を辿っていたのだ。しかし、ハワイから東、北アメリカ沿岸にかけて、コンパスのマグネット偏差(コンパスの示度は、地域によって固有のズレがある)が、何と二十五度もある。海図上で見れば、針路は真の方位か、修正しても海図上に表れている三度から五度の偏差を加えたものになる。しかし、現場ではそうはいかない。GPSは現地偏差を取り込んでコンパスコースを表示するから、伊東さんがコンパスコース四十度で進めといえば、それは十五度ということになってしまう。その頃は、さして気にもしていなかったが、今、あらためて思い返してみれば、申し訳ないことをしたと感じる共に、世界の海には様々なことがあるものだと思わずにはいられない。


**


実は、航海を始めて二十日目辺りだったと思うが、清水タンクがおかしな音を鳴らし出した。それは、大型のステンレスタンクの中を、わずかな水が、ローリングやピッチングに合わせて行き来する音のようだった。

 タンク容量はおよそ一九〇リットル。一日に三リットル使ったとしても、五十日以上の使用を賄うはずだった。それなのに、たった二十日間でタンクの底に数センチほどしか残っていないような音がする。

 人間の心理とはおかしなもので、そうした問題が深刻であればあるほど、その真相を見極めることを回避しようとする。

 実際に水がなくなったら航海を中止、または中断し、どこか水を貰えるところへ向かうことになる。しかし、いちばん近いハワイでさえ、航程として二週間を要する。そんな切迫した状態なのに、僕は、水の残量を確かめることを、一日伸ばしに後送りにしていた。

 当然、毎日の使用量は制限していたけど、それから五日目辺りで、ギャレーのフットポンプは、エアしか送り出してこなくなった。さて、どうしよう。

 もっとも、出航間際、或る方が何かの役に立つこともあろうと二十リットル入りのミネラルウォーターを二つ、餞別代わりに差し入れしてくれていた。それがあるから、いざとなれば、例え毎日の水使用量を極端に減らしても何とかなるだろうとタカを括っていたという事情もある。

 しかし、いざタンクに水がなくなってみれば、必ずしも楽観がそのまま罷り通るというものでもない。これから先、カナダまで何日を要するか、たった四十リットルでその日数がカバー出来るのかなんてことは、海況次第で誰にも分らない。

 僕は、キャビンの真ん中にミネラルウォーターのボトルを据え、一日一リットルの目安で生活を始めた。念の入ったことに、使った分を、ボトルにマーカーで印まで書き入れて。

 だから、航海のほとんどは、水で豊かな思いは出来なかった。つまり、大好きなお茶やコーヒーの楽しみは、タンクのおかしな音を聞いて以来、手の届かぬ贅沢として、特別な時以外は慎まざるを得なかった。

 ヨット[ホロホロ]の溝田さんが丁度マルケーサスにいらっしゃって、雨水を集めることを薦めて下さった。僕は、ソフトキャンバスを持ち出し、航行の邪魔にならないスターンに張った。その中心に穴を開け、穴の縁に錘をぶら下げ、その下にきれいなバケツを置いた。

 或る日、やっと念願の雨が降った。雨などいつでも降っているようだけど、いざとなると雨水を集めるような雨は、なかなか降らないものだ。霧雨だったり、強風で雨水集めどころではなかったり・・・。

 程なくバケツに半分くらいの水が溜まった。僕は、それを飲んでみて失敗に気づいた。キャンバスの強烈な糊の匂いが雨水に移って、とても飲めるものではなかった。仕方がないから、航海に出てはじめて真水で頭を洗った。とてもすっきりしたけれど、何だか徒労感が入り混じったすっきり感だった。

 キャンバスは、走っているヨットからロープに繋いで海水に何日も晒してみたが、遂に飲める水が得られる状態にはならなかった。都度、洗濯やら洗髪やらに費やされたことは口惜しい記憶として残っている。

 今思うのは、雨水集めの準備は、出航前にやっておかなければいけないことの一つだということだ。

 カナダに着いた日のこと、水は薬缶に一杯だけ残っていた。その日は入国手続きが出来ない入江に錨泊していたので水の補給は不可能だったが、明日はビクトリア港だと思うと、久し振りに薬缶一杯分のコーヒーを淹れた。気持は豊かだったけど、その日までのストイックな思いが災いするのか、コーヒーはやたらとほろ苦かった。

 さて、ウォータータンクに何故飲料水がなくなってしまったかということだが、何事もそうであるように、原因は他愛のないものだった。はじめから十分水が入っていなかったのだ。

 給水すると、タンクの中のエアが行き場を失う。そのままでは水が入らないから、[禅]のタンクにも、当然エア抜きの細いチューブがついている。しかし、それが細過ぎると、エアが血管の閉塞を起こすと同じ理屈でチューブを詰まらせてしまう。或いは、エアが抜けにくいゴミが詰まっていたか。給水してオーバーフローすれば満水したと思うから、僕は、実際にはタンクに水が半分も入っていないのに、そこで給水を終えてしまった。種を明かせば、実に馬鹿々々しい話だけど、そんな迂闊が、時には人命にかかわるのかと思うと実に恐ろしい話だ。


***


北緯四十度をさらに北上している頃だった。或る朝、海面がびっしり何かに埋め尽くされていた。何だろう。僕は舷から体を乗り出して観察した。

 どうもカツオノエボシらしい。しかし、まだ二センチにも満たない赤ちゃんだ。それが、見渡す限り、目路の果てまで隙間なく海面を覆っていた。

 一体、どれほどの数がいるのだろう。恐らくは天文学的な数ではないだろうか。この海域が孵化場で、これから世界の海へ散って行くのかも知れない。少なくても太平洋のカツオノエボシは、この辺りが発生源なんだと察しがつく。

 見ていると、カツオノエボシの赤ちゃんは、[禅]の巻き起こす波の中でひっくり返ってしまう。どうしてかなァ、と思ってバケツで掬ってみた。よく見ると、まだ足がほとんど生えていない。二センチ弱の体に一センチにも満たない足らしい突起があるだけなのだ。あァ、これじゃァ簡単にひっくり返るし、ひっくり返ったら簡単には起き上がれない。

 そのくせ、普通に水面に浮かんでいる時は、ちゃんと青紫のセールを立てて、行きたい方向へきちんとトリムする。[禅]がフォロー(追い風)で走っていた時だから、逆行するカツオノエボシの赤ちゃんは、生意気にもクローズド・リーチ(風上航)で走っていたことになる。

 [禅]が走っている以上、僅かとはいえ波が立つ。ためにカツオノエボシの赤ちゃんは、あちこちでひっくり返った。僕は、「ごめんナ」といいながら、カツオノエボシで埋め尽くされた海を走って行った。

 何と、孵化したばかりの赤ちゃんは、それから三日間も海面を埋め尽くしていた。もう、その想像を超えた個体数を、僕は幻覚ではないのかと疑いはじめた。しかし、北緯四十三度に差し掛った瞬間、辺りには一匹のカツオノエボシも見えなくなった。何という不思議だろう。久し振りに水面を露わにした海を見渡しながら、僕は大自然の姿の一端を垣間見たと思った。

 また、或る時は、食器を洗おうとバケツに海水を汲んでみると、そこに不思議な生物がいるのを発見した。

 それは、一センチほどの透明なダリアの花を想像してもらえばいい。ところが、それぞれの花びらの先端からは数ミリのゴカイのようなものが体を伸ばして蠢いている。触れると、それは透明な花びらの中へすっと消えてしまう。

 また、光線の加減では見落としてしまうほど海水と区別がつかないムカデのような生物がいた。掬い出してよく見ると、小さな節ごとに透明な薄水色の点がある。節で簡単に千切れ、それぞれがまた、ちゃんと活動する。不思議な生き物だ。

 さらに、こんな深海にも拘らず、まだ色もない芥子粒ほどの蟹の赤ちゃんが懸命に大海を泳いでいるのだ。何という驚異の世界だろう。そう思って見ると、個体それぞれは不気味な姿をしているけど、何ともいえず可愛らしくて、僕は、それらを海へ返しながら、

「がんばれよ」と声を掛けていた。


****


カナダまでは、もう遠くはなかった。遥か水平線の向うを、本船の吐き出すジーゼルの煙だけが通り過ぎて行ったり、時には、ちらりと船影を見ることも多くなった。

 七月十四日、現地時間一三〇〇時、北緯四十四度、西経一五四度四十二分、はじめて間近に本船とすれ違った。船は台湾のEVERGREENのコンテナ船だった。

 やっと晴天・順風になって、気分も晴れやかにキャビンの掃除をしたり、湿ったものを日向へ持ち出したりしていた時、遠くに船影を見た。それは、コンパニオンウエィ(キャビンへの入口)に立って、左舷船尾のU型ライフブイの位置をこちらへ向かっているようだった。さらに十五分ほどして再び見ると、位置は変わらず、船体だけがずっと大きくなっていた。僕は、ベアリングコンパス(船位測定などで使う手持ちコンパス)を取り出して、その船位を測った。三〇五度。さらに十分後の測定でも、その五分後の測定でも、本船の方位は変わらない。

 船腹のEVERGREENが読める距離になって、僕はVHF無線で呼びかけた。

「こちらは、日本船籍のヨット[禅]。エバーグリーンのコンテナシップ、応答願います」 「こちらは、エバーグリーン[〇×△]。何か用か?」

「我々は衝突コースにある。貴船は、如何なる回避行動を考えているか?」

 それに対し、返ってきた言葉には驚かされた。 「おまえは、どう思う?」

 本来、国際法で、全ての動力船は、行動の機敏でない帆船を回避しなくてはならないとされている。さらに、回避行動中は、帆船はみだりに動かず、但し、衝突の危険がある時は、その回避に積極的に協力するとある。

 本船と衝突すれば、たかだか三十四フィートのヨットなんかひとたまりもない。時には、沈没しても、こんな大海のど真ん中では痕跡さえ残らないかも知れない。

 コンテナ船にしてみれば、遥か遠くから[禅]が見えていたはずではないか。それが、大型船の転舵が難しい距離に接近するまで、何の回避行動もとろうとしなかった。僕は、こいつは、道理を話して分る相手じゃないと判断した。

「OK。この距離では、貴船の回避行動は難かしいようだ。[禅]が回避行動をとろう」 「ラジャ」それで交信を終えた。

 僕は、ウインドベーンを解除し、大きくサークリングして本船の針路を離れた。コンテナ船の船橋からは、遂に人影一つ現れず、僕の目の前を通り過ぎて行った。

 華の国際航路とはいえ、外洋で、決してヨットの優先権などということを信じてはいけない。時には、こんなギャングみたいな国際往来船だって、世界の海にはいるのだから。

 しかし、こんなうれしいケースもあった。

 永い航海をしていると、キャビンにいる時、ふと或る予感とか不安を感じることがある。急いで外を見ると、不思議にも急を告げる何かがそこにある。そういうことが、[禅]にも度々起こったものだ。

 その時僕はのんびりと夕食を摂っていた。月夜の晩で、海況は穏やかだった。いつになく寛いだ気分の中に、微かな違和感が滑り込んできた。

 箸を措き、僕はハッチから外を見た。何と、二〇〇メートルほど後方に、巨大な貨物船が停まっていた。

 はじめ僕は、何故そこに貨物船が停まっているのだろうと訝った。そして、ふたたび食卓に戻りかけて、はたと気がついた。

 あの巨大な貨物船は、[禅]との衝突を避けるために停まってくれたんだ、と。

 まずいことに、日が暮れて間もなかったから、僕はまだ航海灯も点けていなかった。薄暮の中、貨物船から[禅]は見えにくかっただろうし、若しかすると、かなり接近するまでレーダーにも映らなかったかも知れない。気がついて針路を変える傍ら、あの貨物船は、安全を考えて停止してくれたんだ。シーマンの絶対的任務であるウォッチを怠っていたこと、航海灯を点灯していなかったことを思って、僕は慙愧に堪えなかった。

 急いでVHFで呼び掛けた。 「こちらは、ヨット[禅]といいます。貴船に気がつかず、申し訳ないことをしました。そちらの船名を教えて下さい」

「こちらは、USの×××。ナヴィゲーションライト(航海灯)を点け、安全に航海を続けて下さい」

「ありがとう。それから、申し訳ありませんがもう一度船名を教えて下さい」

しかし、向うの英語にも凄い訛りがあったし、こちらの英語力もお粗末だったから、遂に船名を聞き取ることは出来なかった。

 僕は、しばらく食事中だったことも忘れ、月光の中をシルエットになって遠ざかる黒い船影を見送っていた。


*****


七月十九日、北緯四十六度五十八分、西経一四三度五十七分。非常に寒くなってきた。デッキに出る時は、日中でもフリースとヤッケが離せない。

 前夜は厳しい時化だった。僕がコックピットで作業をしていると、激しく揺れるデッキにドサッと何かが落ちてきた。見ると、ブームを吊っているブームリフター(トッピングリフトともいう。ブームの端末を吊り上げているロープ)がマストトップで切れて落下したらしい。切り口を見ると、まるで剃刀で切ったように滑らかだった。

 後日、バンクーヴァーで岸郁雄くんがマストに登って見てくれたことだが、出航前、新しくマストトップに取り付けた金物が、ハリヤードが出入りする部分でさえアルミの切りっ放しで、まるで刃物のようになっていたそうだ。リフターのロープが切れたのは自然の猛威なんかじゃない。いい加減な人間の手抜き仕事が為せる恐ろしさだった。

 ブームリフターは、碇泊時以外、沿岸でセーリングを楽しんだり、レースをしている時には無用の長物だ。しかし、外洋航海となると、日に何度も縮帆(リーフ)や展帆を繰り返す。その折、ブームリフターがなければ、その作業は全く不可能になってしまう。特に、リーフは時化の折に行うものだから、代替の方法では埒が明かない。またしても大問題の発生だった。

 もう一つの心配は、ブームリフターのロープは狭いマストの中を、十本近いハリヤードといっしょに通っている訳で、マストトップで切れれば、マスト内のロープは、当然、狭いマストの下部に落下する。その時若し、他の重要なハリヤードと絡みでもしたら、セールの揚げ下げが出来なくなってしまう。僕は、祈るような気持で、マストの下部にとぐろを巻いて溜まっているロープを、そろりそろりと引き出していった。幸いにも絡みはなかったから胸を撫で下ろしたけれど、若し絡んでいたら遭難だって起こりかねない。ちょっとした手抜き仕事では済まされない話だ。

 差し当たっては、マスト前側のジブハリヤード(前帆を揚げるワイヤー)一本を後方へ回し、ブームリフターの代用として急場を凌いだ。しかし、長期間の疲労が限界にまで達していた時だから、このトラブルは精神的にもひどく堪え、僕を打ちのめした。

 そして十九日の未明、風は急速に衰え、朝までにはほとんど凪になってしまった。しかし、激しい波はいつかな収まらなかった。走らないヨットで、波に揉まれていることの辛さといったら、体だけでなく、本当に神経まで参ってしまう。

 417の定時交信の時間だった。僕は、昨夜まで続いた時化、ブームリフターの脱落、そして今も続いている時化凪(全く風がなく、波が高い海況)の苦痛を、愚痴っていた。

 そうしたら、滝田さんからブレィクが掛った。 「西久保さん、念彼観音力(ねんぴかんのんりき)で行きましょう」

 滝田さんは、横浜、港北区にあるお寺のご住職でいらっしゃる。そして、彼は、僕が永く禅の修業をしてきたことをご存知だった。

 禅の主たる経典は「般若心経」だけど、よく法華経の第二十五の「普門品(ふもんぼん)」を諷誦する。その最後に「世尊偈(せそんげ)」というのがある。

 実に調子のよいお経で、随所に『念彼観音力』という言葉が出て来る。例えば、『若し、大海を漂流することがあっても、観音の力を念ずれば、海の魔物が災難を及ぼすこともなく、波浪が船を没することもない』といった具合だ。

 或いは、『若し、悪い役人に捕らえられ、今まさに処刑されようという時、念彼観音力を唱えれば、首切り役人の刀はバラバラに折れてしまう』という。これなどは、日蓮上人が江ノ島で処刑されようという正にその時、雷が落ちて刀が粉微塵になったという説話の原典とも思われる。

 話が随分逸れてしまったけれど、禅僧である滝田和尚は、行き詰まった僕の精神に、当意即妙の喝を入れて下さった訳だ。

 お陰で、カナダへの残航を乗り切れたばかりでなく、袱紗に包んで持って来た父母の位牌を思い出させてくれた。罰当たりなことに、僕は、それを抽斗の奥深くに仕舞い込んだまま忘れていた。

 急いで取り出してみると、十九日は、丁度父の命日だった。早速、両親の位牌をナビ・ステーションの壁に貼り、般若心経と観音経を読経し父母への供養とした。

 その夜、僕は、両親が死去してからはじめて、父と母の夢を見た。

 父は何もいわなかったけど、母は、しきりに僕の航海を気遣って、生前同様、いわずもがなの忠告を繰り返していた。不思議なことに、母は、ヨットの用語を知っていて、

「必ずハーネスを着けてデッキに出るように」といった。その他は、「もっと栄養のバランスを考えなくてはいけません」とか、「タバコは体によくありませんよ」とか・・・。

 父は、時に僕の禅の師匠である義道老師と重なった。そして、母の向うで、激励の眼差しを僕に送って下さった。僕は、

「大丈夫ですよ。無事にカナダへ到着してみせます」といった。そして、その自分の声で目が醒めた。

 両親の死去にさえ、僕は格別に悲しみを露わにしなかった。しかし、この時ばかりは押さえ難い寂寥感と、そして、父母や義道老師の恩愛をしみじみと噛み締めずにはいられなかった。


[カナダへ]



 七月二十一日、一八〇〇時、遂に一三〇度海域へ入った。

 北緯四十七度四十二分、西経一三九度五十二分。間もなくファン・デ・フカ・ストレィトまでの残航は六〇〇浬になろうとしていた。

 騙しだまし気象ファクスを駆動し、カナダ近海の気象図を取ってみた。[禅]は一〇三四ヘクトパスカルという途方もなく大きな高気圧のほぼ中心に掴まっていた。

 普通、高気圧圏内といえば穏やかな好天気を連想するものだが、快晴とはいえ二十五ノットの北風が吹いていた。そればかりか、大陸棚に差し掛かり、加えて北西から南東へ流れる海流があるらしく、小山のような三角波が立っていた。

 葛飾北斎に大波と遠景の富士山の浮世絵があるが、カナディアン・インディアンに、あれとよく似た荒海の絵が数多くある。インディアンが操る小さなカヌーが、快晴の空の下、恐ろしく高い波間に翻弄されている絵だ。

 後日談になるが、アメリカ西海岸の南端、サン・ディェゴで出会い、後に、南太平洋の島々からニュージーランド、オーストラリアまで、ほぼ同じ時期、同じ航路を旅し、家族のように親しんだ[GOOLKA(ゴーカ)]のジョンが話してくれた。

「快晴のカナダ西海岸には、時として、そうした強風と高波が立ち、それをカナディアン・インディアンはGOOLKAと呼ぶんだ。僕のヨットの名前と同じだよ」と。

 僕は、正にそのGOOLKAに行き足を押さえられていた。しかし、鈍足のヨットに、巨大な高気圧から逃れる手立てなんかない。安定して居座ったそれが衰えるのを待つか、それとも[禅]が六〇〇浬先の港に逃げ込むか・・・。

 六〇〇浬といえば、小笠原の父島から母港の三浦半島よりもほんの少し遠いだけだ。海況が悪かろうがいやな風が吹こうが、僅かな残航を思えば、気持は前へ前へと激しく急いた。しかし、ポートからのアビームの風に対し正しくセールをトリムし、これ以上ない緻密さでウインドベーンを調整しても、[禅]は風上へ切り上がり、針路が維持できなかった。そればかりか、大波にぶつかり行き足を止められ、さらに船体がよじれるような不規則な揺れは、僕をひどい船酔いに叩き込んだ。それほど[禅]の乗り心地は最悪だった。

 オーバーキャンバス(帆面積の過剰)だろうか?何度かセールを縮めたり、また拡げたりしたが、さっぱり改善されない。この波では、これしかしょうがないのかも知れないと諦めかけ、ふとブームバングを緩めてみた。

 何と、風上へ切れ上がるウエザーヘルム(風上へ向かう力)が弱まるのは当然としても、ギクシャクした艇の揺れまでが滑らかになった。

 アビームから後方の風の場合、突如として起こるワイルドジャイブ(猛烈は勢いで主帆が反対舷へ返るアクシデント)ほど恐ろしいものはない。乗員に怪我を負わせたり、艇外へ跳ね飛ばして落水死させたり、時にはマストを折ってしまうことさえある。バングは、ワイルドジャイブの原因となるセールへの裏風を防ぐとされているから、僕は今まで、過剰ではないまでもバングを締め込んで走っていた。しかし、それは、とりもなおさず船体への過酷なストレスだったのだ。

 戒めを解かれた[禅]は、山のような三角波を滑らかに越え、カナダへ向けて快調に走り出した。

 荒天時のヒーブツーでもそうだったが、この時も、沿岸では通用しても究極の外洋航行には何の役にも立たない知識が、僕の頭の中に、まだまだいっぱい詰まっていることを思い知らされた。


**


翌日は、風が二十ノットを切った。しかし、ツーポイント・リーフのメィンに八〇%ほどのジェノアで、[禅]は八から九ノットで走る。波は相変わらずよくないのにこの艇速だ。恐らく、潮流が影響してのことだろうけど、ちょっと不気味なスピードだった。しかし、ジェノアを半分までファーリングしても艇速は変わらなかった。

 夕方、風は十二ノットに落ちた。艇速は五ノットに下がった。さっきはスピードを押さえようとしたくせに、今度は物足りなさを感じている。人間とは、何と気紛れで、そして欲深いものなんだろう。そう思いながら、僕は、全てをフルセールにしてみた。やっぱりさっきのスピードは潮流が影響していたのだろう。艇速は〇・五ノット上がっただけだった。

 七月二十三日、北緯四十八度十分、西経一三五度二十七分。風が前側へ振れ出した。針路が六十度だから、北北東の風では登り航になる。ちょっと辛い航行を覚悟していたら、風がどんどん落ち、遂にカームになってしまった。残航はたった四二八浬というのに、[禅]は、高い波の中をよろよろと走っている。気持ばかりが焦っていた。

 夜になって吹き出した風は、今度は南西だった。[禅]の針路に対し、完全に真後ろから風が来る。ファン・デ・フカの入口が接近してから苦しいコースを残したくなかったので、何とかコンパスコース六十度を維持したい。

 しかし、風は吹いたと思えば止まり、止まったと思えば吹く。神経は、もうくたくただった。それでも、陸地が近いという期待感で、僕は一生懸命舵を引いた。大体、こんな眞追っ手の風で、とてもウインドベーンに舵を任せる訳にはいかない。風を拾いひろい、針路から大きく逸れないように[禅]を走らせていると、時々、水平線を明るく染めて本船が通って行った。

 頭上は、それまでに見た最高の星空だった。

僕の口をついて、滝田和尚の『念彼観音力』がこぼれ出た。そう、僕は、大いなるものの力に与かってここまで来た。前にも書いたけど、僕が泳いできた訳ではない。[禅]が逞しい力を発揮して、カナダがもうすぐというここまで僕を乗せてきてくれた。そして、[禅]は、この大自然の営みによって走り続けた。

 大いなるものとは、若しそれが神を意味する言葉であるとすれば、神とは、この営々たる大自然の運行そのもののことではないのか。原始宗教は、海とか山とか川とか湖とか、或いは勇壮に聳える岩や樹木を彼等の神として崇めた。時に、それが動物だったり、空想の怪獣だったりしても、それらは大自然の一部であり、そして、密接に彼等の生活と繋がっていた。

 近年になって、宗教哲学が生まれ、より洗練された思想として神という存在が考えなおされた時、絶対なるものは一つであるべきという考えから一神論が他を圧した。山そのものが神であったり、森羅万象に神が宿るという考え方は原始的とされ排斥されていったが、そうした考え方に人智の驕りが潜んではいなかっただろうか。原始の人間が、おおらかに理屈抜きで頭を垂れた素朴な畏敬とは、正に今、僕がこの大自然の営みに打たれている感情と同じものではなかったのか。

 こうした考え方は、何も取り立てて新しいものではない。仏教の曼荼羅は全宇宙を象徴した図であるし、大日如来とは宇宙そのものを意味する。

 僕は、全てを優しく包む星空を仰ぎ、あァ、世界とはこういう仕組みだったのかと感歎していた。


***


七月二十五日、曇、時々晴。風は西南西十ノット。午後七時の船位は、北緯四十八度三十一分、西経一二九度三十九分。コンパスコース七〇度。手に終えない眞追っ手だ。仕方がないのでメィンを降ろし、ジェノアをいっぱいに展帆して走っている。

 遂に一二〇度海域に入り、残航も二〇〇浬を切った。もう、カナダは目の前だ。

 相変わらず波は悪い。鈍足とはいえ滑らかに走っているが、しかし、その揺れ方は半端じゃない。キャビンで腰掛けていても、何かにしっかり掴まっていなければ反対舷へ飛ばされそうだ。ログブックには、「北太平洋ロデオ大会。座っていることも出来ない」と書いてある。

 入港時間の調整のためだろうか、遠くに本船が停泊灯を点して停まっていた。

 七月二十六日、ローカルタイム一一〇〇時。北緯四十八度三十四分、西経一二八度〇一分。風が落ちてきた。残航は、わずか一三〇浬。ここまで来て凪に掴まるのだろうか。まあ、凪はいいとしても、水がもう薬缶いっぱいしか残っていない。しかし、燃料の軽油は二〇〇リットル以上もある。軽油は水の代わりにはならないけれど、水のあるところへ走る動力にはなる。出航の折、みんなに、そんなに燃料を積んでどうするのだと冷やかされたものだが、こんな時に使わなければ、嘲笑されるほど軽油を積んだ意味がない。

 しばらくは、あるかなしかの風を拾い、あちこち変わる風位に合わせ、セーリングをして遊んでいた。そうしたら、海面に、ひょっこりと犬のような顔が出て、こちらを見ているではないか。

「おまえはナァニ?犬ではないよね。オットセイ、それともアザラシ?」

 そいつはぴょこんと頭を沈めると、[禅]の船底を潜って反対舷へ出る。そしてまた、訝しげに僕を見ている。まだ子供とみえ、小さく、それに好奇心がものすごく旺盛だ。フィッシュソーセージの切れっ端を放ってやると、ちょっと匂いを嗅いでそっぽを向いた。

 あちこちに移動しながら、そいつは一時間以上も[禅]と僕を観察し、遊んでいった。

 一六三〇時、やっぱり風が吹き出す兆しは見えない。意を決し、僕はエンジンを始動した。

 エンジン走航は、一時間一・五リットルの軽油を消費する。残航はおよそ一二〇浬。五ノットで走ったとして、二十四時間の航程だ。燃料はたった三十六リットルで足りる。

 セーラーは、一般的に機走を嫌う。セールと違い、ヨットの走りが滑らかでなく、しかも震動が足元から響き、喧しいからだ。しかし、残りの水の量を考えると、いつまでも好みの問題にかまけてもいられなかった。

 エンジンを使うと発電し、電気が使えるというメリットがある。オートパイロットの使用が可能になるし、出航以来、ほとんど聞いたこともなかったステレオも聞ける。二十四時間後にはカナダだと思うと、僕は、ベートーヴェンの第九番『合唱つき』を大音響で奏でて[禅]を走らせた。

 機走とはいえ、セールも揚げての機帆走だから、風が僅かでも吹いてくると、艇速は六、七ノットにまで上がった。この分だと、二十時間もかかるまい。何だか、かすかに陸の匂いを嗅いだような気がした。

 真夜中になって、辺りに航海灯がたくさん見え出した。これはヤバイぞと、僕はウォッチに専念していた。こんな真夜中に出て来るのだから漁船のようだけど、何艘もの船がめちゃくちゃに蛇行している。

 一艘の船などは、ほとんど[禅]と衝突寸前まで突っ込んで来た。僕は、慌てて避航したけれど、それはまた、こちらへ向かって戻ってくる。こいつら、[禅]が見えないのか、それとも、からかっているのか。若しかしたら海賊ではないか?・・・。

 僕は、VHF無線で叫んだ。 「オイ、そこの船。ヨットが見えないのか!もう少しで衝突するところだったじゃないか!」

「ちゃんと見えてるよ。心配するなって」 「ところで、その船は、どういう種類の船なんだ?」 「漁船だ。サーモンを獲っているのさ」

「そうか、漁船か。海賊ではないかと心配したよ」 「ハハハッ。オレが海賊だって。いや、こいつは愉快だ。ところでどこから来た?」 「日本からさ」

「何日かかった?」 「今日で五十一日目だ」 漁師はピューと口笛を吹き、

「トラフィックにエントリーした方がいいよ。ファン・デ・フカへ入るのなら、コースはバッチリこのままでいい。ご安航を祈るよ」

そういって海賊風漁船は、鮭を追っかけて後方へ遠ざかって行った。

 航路誌には、沿岸に接近したらトフィノ・トラフィック(カナダ西岸の航行を統轄する機関)へ通知するとあったが、僕は本船のような大型船のルールと思っていたから、その時点では何もしていなかった。そこで、夜中ではあったが、僕は十六チャネルでコールしてみた。

「トフィノ・トラフィック、トフィノ・トラフィック。こちらは日本船籍のヨット[禅]。応答願います」

「イエス。こちらはトフィノ・トラフィック。ヨット[禅]、感度はクリアだ」

「ありがとう、トラフィック。ヨット[禅]は、ただ今より、トフィノ・トラフィックの指揮下にエントリーする。申告は受理されたか」

「ラジャ。受理した。[禅]、そちらのデテェィルを尋ねたい。今、船務に支障はないか」 「大丈夫、支障はない」

「船籍、船名、現在位置、ヨットの大きさ、重量、乗組員、航行予定について述べてくれ」

僕は、それらに答えた。いっておくが、鉤カッコで括って書いているように話がスムースに進んだ訳ではない。僕の英語力では、本当はしどろもどろのやりとりだった。しかし、意訳していくと、書いている本人が惚れぼれするほど歯切れがいい。実際にこうだったら、どんなにか恰好が好かったことだろう。

「ごくろうさん。大冒険だったね。でも、もう安心だ。あなたは我々の安全監視のもとにあるのだから。何か、分らないことや心配事があったら、どうか遠慮なくいつでもコールしてくれ。我々は、如何なる時でもあなたの呼び掛けに応えるから」

「本当にありがとう。僕もすっかり安心した。何だかもう、到着したみたいな気分だよ」

「ははは、そいつはちょっと気が早いよ。後わずかだけど、気をつけて無事ビクトリアへ入港して下さい」そういって無線が切れた。

 何という包容力だろう。これからでさえ何が起こるか分らない海上にあって、航海者をこれほどの安心感で包んでしまうとは。いっちゃなんだが、日本の海上保安庁にエントリーして、これほどの安心感が頂戴できるとはとても思えない。


****


七月二十七日。朝まで、さらに二度、トフィノ・トラフィックは、何か困ったことはないかと僕をコールしてくれた。本当に親切で心の底から感謝の気持でいっぱいだった。

 午前九時の時点で、ファン・デ・フカ・ストレィトの入口までの残航は二十七・七浬。沿岸に近づいて風も波も随分穏やかになり、[禅]は、滑らかに機帆走を続けて行った。

 ところが、海面にはいたるところに得体の知れない浮遊物が浮かんでいる。何だろう?一見して、消防のホースのようだ。そして、ガラスの浮子(アバ・網のウキに使うガラス玉)とほぼ同じ大きさの茶色い玉が浮いている。

「こんなところに不要になった消防ホースや浮子を捨てなくてもいいものを・・・」そんなことをボヤキながら、僕は、障害物を縫うようにして航行した。

 後で気がついたことだが、これは消防ホースなんかではなく、ケルプ、すなわち海藻だった。茎の直径が十五センチもあって、海底から十メートル、さらに大きなものは二十メートルにもなるそうだ。アメリカ西海岸では、どこへ行ってもこの巨大ケルプが自生していて、時化などの後は、根元で切れて海面に浮かび上がるものらしい。バンクーヴァー島沖同様にこのケルプが多かったのは、サン・ディェゴのラ・ホヤ沖だった。かつてのアメリカスカップの折、各レーサーが、ケルプカッターという珍妙な装備を積んでレースに挑んだのをご記憶の方も多いのではないだろうか。

 海中のことは詳しくないが、このケルプが繁茂する海域のダイビングは、まるで森林を散策するようだという。フンボルト寒流流域だから、海中では、ケルプの森の木陰から突然オットセイや鯨が現れて、とてもスリリングなのだそうだ。

 うっすらと朧気のかかる朝だったので、たった二十七浬しか離れていないバンクーヴァー島をランドフォールしたのが朝九時を回ってからだった。そして、陸が見えた後は、島影はたちまち巨大に膨れ上がり、[禅]の眼前に立ちはだかった。いよいよカナダだ。

 ファン・デ・フカ・ストレィトに関する海図は、日本ではなかなか手に入らなかった。大縮尺の海図にはストレィト自体定かでないし、小縮尺とはいっても細かなデテェィルは載っていない。ただ、入口からビクトリアまでは、さらに四十浬以上も距離があることが分った。

 ストレィトの入口に差し掛かったのが、午後二時半過ぎだったから、僕は、とても日中にはビクトリアまで辿り着けないと判断した。知らない海域を夜間走るなんて無謀は慎むべきだ。僕は、VHFでトラフィックをコールした。

「トフィノ・トラフィック、こちらはヨット[禅]。一つ相談がある。現在位置から計算して、日中にビクトリアへ入港することは無理だ。途中に、ポート・レンフリューという港がある。今夜、そこで錨泊することを許可願いたい。それから、レンフリューでは、入国手続きは出来るだろうか?」

「手続きは出来ない。何とかビクトリアまで来られないか?」 「ビクトリアまでは、まだ五十浬近くもある。知らない海を夜間走りたくはない」

「ラジャ。レンフリューでの錨泊を許可する。 ただし、入国手続き前は上陸出来ない。了解か?」 「了解した。これからポート・レンフリューへ向かう」

 それにしても、あの親切なトラフィックが、何故、夜になるというのにビクトリアまで走れというのだろうと、僕は不思議に思った。後で分ったことだけど、七月、八月のカナダは、午後九時まで日が暮れない。いわゆる白夜なのだ。だから、本気で走ったら、なるほどビクトリアまで[禅]は行けたことになる。

 それを知らない僕は、ポート・レンフリューへ入港した。ポートといっても、別に港という訳ではない。かつて原木の積み出しに使われたらしい朽ちかけた木組みの桟橋が一つあるだけの深く静かな入江だった。

 セールをきちんと畳み、僕は、ゆっくりと入江へ入って行った。五艘のヨットが思いおもいにアンカリング(錨泊)していた。ベイを一回りして、僕は、トラデショナルなスタイルの小さなヨットの脇へ行って、

「この辺りにアンカーを入れて構いませんか?」と尋ねた。老夫婦がにこにこと応えてくれた。僕が、〈May I〉と尋ねるべきを〈Can I〉といったものだから、測深用のサウンドレットを持ち出し水深を測り、

「ウン、五ファゾム(尋/9メートル・一尋は1.8m)あるゾ。大丈夫、アンカリング出来る(You can)よ」と、ユーモアたっぷりの答が返ってきた。

 七月二十七日、午後四時半。遂に僕はカナダまでやって来た。五十二日間掛って、僕は太平洋を横断し、今、カナダの小さな入江に錨を打ったのだ。よくここまで頑張ったものだ。僕は、[禅]と僕自身とを素直に褒め称えた。

 レンフリューを囲む山並みは深々とした緑に溢れ、その上を覆う青空は汚れなくどこまでも透明だった。遥かに一羽の鷲が空にとけるように輪を描き、水面は、原生林の濃緑を湛え、原初の趣で静まり返っていた。

 入江の最奥は砂浜になっているらしく、幾張りものテントが見え、そこからは何本もの夕餉の煙がまっすぐ立ち昇っていた。何と長閑なんだろう。そして、この入江に集う人々の何と豊かなことだろう。それらは、僕が思い描いていたものの朧気なイメージを形にして見せてくれているようだった。辛かったけど、やっぱり来て好かった。

 明朝は、早々にビクトリアへ向けて出航だ。朝は五時に起き、六時には出航しよう。そう思って、僕は、燃料の補給や艇の整備をした。

夕食を摂って薬缶に一つ残った水でコーヒーを淹れ、のんびりと、暮れてゆく入江の景色に酔った。

 あァ、陸の音がする。鶏や犬の声。車のエンジンやクラクションの音。遠くの人の話し声・・・全てが、景色といっしょにしみじみと心へ染みてきて、僕自身も知らぬ間に、辛かった思いも、両親指の腱鞘炎も、徹底的に痛めつけてきた体の疲労も、何もかもが優しく癒されていくようだった。

 夕食が終わり、日が暮れてまだ間がないのに、時計は既に、夜中の〇時を回っていた。翌朝の早発ちを考え、僕は、ゆらりとも揺れないバースにもぐり込んだ。




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