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七月三十日、朝、イアンが子供たちを連れてビクトリアへ会いに来てくれた。子供たちは、長女のANNE(アン)、次女のAYAKO(綾子)、長男のMASUMI(真澄)の三人で、僕は、彼等がもの心ついて以降会うのは初めてだった。それでも僕を見つけると、まずAYAKOが一直線に僕の広げた腕の中に飛び込んで来た。続いてちょっとはにかみながらMASUMIとANNEが・・・。子供たちは、まるで天使のように愛らしく純真だった。そして、イアンは僕同様、この出会いの感動を言葉に表す術もなく口篭っていた。
しかし、じきに落ち着くと、ほとんどみんな同時に話し始め、イアンは、熱烈に僕への賞賛と歓迎を口にした。
イアンによると、僕は、バンクーヴァー市のVIPとして迎えられるのだそうだ。そして、ウエスティン・ベイショァはバンクーヴァーの最高のホテルで、そこに付属するマリーナに一ヶ月間無償で碇泊出来ることになったといった。また、近日中に日本の練習帆船が入港するが、僕は、日本の領事と共に船を訪問し、パーティーに出席するという。何だか、想像もしなかったいろんなことが、バンクーヴァーで僕を待ち受けているようだ。
やがて、イアンと子供たちは、八月一日の再会を約束して帰って行った。
テリー・窪田と電話が繋がった。彼もまた、海外で暮らす日本人の例に漏れず熱血漢だった。コーストガードが、三日前から僕のサポートを続けていたこと、これからもそれを続け、そのために六十八チャンネルを空けておいてくれること、特に、ビクトリアからバンクーヴァーへの航路では、一般の電話とジョイント出来るように二十六チャンネルをキープしておくこと、さらに、僕がバンクーヴァーへ着いたら、テリーが経営するミネラル・ウォーター会社のタンクローリーを[禅]に横付けして、清水タンクをミネラル・ウォーターで満タンにするつもりであることなどを熱っぽく語った。
いろいろな状況が分って来ればくるほど、僕の周りに善意の渦が沸き返っているのが見てとれた。
僕たちは、通常、善意や厚意に対しお返しをする。それらは、お返しが出来る種類の、或いは収支感覚のある善意や厚意だ。しかし、今、僕を取り囲むそれらは、混じりッ気なんか微塵もない。ただ、僕を喜ばせたいという純粋な意思だけだ。だから、お返しなどというちゃちな考えなんか入り込む余地がないのだ。僕は、どう受け止めたものか真剣に悩んでしまった。
結論からいえば、こういう善意や厚意は、ただ素直に受け止め、そして、素直に喜ぶ以外、方法がない。そして、可能なら、その喜びの輪を、さらに大きく広げてゆくことだ。
日本でこういう善意を経験出来るだろうか。特に、公共機関が関与した場合・・・?
僕は、随分人間関係に悩んだと思う。この航海だって、そういう所から飛び出して来たという側面も大いにある。
文化や経済が驚異的に発展して、若しそこにギクシャクした人間関係が顔を覗かせるとするなら、それは発展そのものに背伸びや無理があったからではないだろうか。世界の経済大国なんかにのし上がらなくてもいいから、日本にも、素朴な善意と感謝の輪が幾重にも広がる文化が培われたらどんなに素晴らしいことだろうと僕は考え込んでしまった。
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翌三十一日、昼、僕はビクトリアを後にした。バンクーヴァーまではちょっと距離があり過ぎるので、途中のペンダー・アイランドのベドウェル・ハーバーに一泊することにした。
マリーナを出ようとすると、僕を呼ぶ声があった。振り返ると、イミグレーションのクリスティーンが、ポンツーンの先端に立ってしきりに手を振っている。僕は、何か手続きをし残してきたかと思った。そうしたら、
「気をつけてー。好い航海を続けてくださーい!」と彼女が叫んだ。あァ、ここにもまた温かな善意がある。僕は、夢中になって手を振り返した。
潮汐図が示すとおり、島や岩礁を縫うように続く航路は、激しい潮波に渦巻いていた。しかし、潮時を合わせて来ていたから、それらはむしろ、[禅]の走りを助けてくれた。
美しい街並みが続き、次に小島が現れる。静かな入り江には、絵本の中で見るようなログハウスが建っていて、どの家も美しく花で飾られていた。中には、小さなログハウスの桟橋に小さなヨットが繋がれていたりする。誰かが、『夢のある暮らし』というテーマで絵を描いてごらんといったら、僕は、こんな情景を描くかも知れない。
午後六時半、ペンダー・アイランドのベドウェル・ハーバーに着いた。素朴で、静かで、遊び心がいっぱいの美しい入り江。
まだ日暮れまではたっぷり間があるとはいえ、時間が遅かったので、アンカレッジは既に錨泊したボートでいっぱいだった。僕は、マリーナへ[禅]を進め、応対に出てきた若いハーバーマスターにいった。
「日本のヨット[禅]といいます。一晩係留したいのですが」
「コーストガードから[禅]がここへ立ち寄ると連絡がありましたよ。ようこそカナダへ。最高のバースをとっておきました」
[禅]は、五十フィート艇が係留出来る広々としたバースへ案内された。
マリーナに付属するこの村は、六月半ばから九月半ばまでの三ヶ月間だけ活動するそうだ。それなのに、カフェ、レストラン、ディスコ、いろいろのお店、スーパーマーケットなどの他に郵便局まであった。そして、ただの遊び場でしかないペンダー・アイランドのそうした充実振りを、クルーザー(航海者)の誰もが当然のこととして享受していた。
***
翌朝、五時半、僕はペンダー・アイランドを出発した。いよいよ、このレグの最終目的地バンクーヴァーへ向けて最後のレグだ。
一時間半ほど走ると、難所といわれるアクティヴ・パスが近づいてきた。潮目が渦を巻いて流れ、そんなに広くもない曲がりくねった水路を、たくさんのヨットやフェリーが走っている。フェリーなどは、両方向から行き来するので全く油断が出来ない。それなのに、機帆走で走っている[禅]は、潮の加減でフェリーの水路へ吸い寄せられて行ってしまう。
やっとアクティヴ・パスを抜けたのが、七時四十五分だった。コーストガードへはパスを出るのが八時と告げてあったので、ゆっくり帆走の準備を整えてからコールをした。コーストガードは、
「無事通過出来てよかった。それでは二十六チャンネルで妹さんに電話を繋いで上げよう。彼女は、バンクーヴァーへの正確な到着時間を知りたがっている」といった。
妹には、到着は一時半頃と告げた。もうここまで来ていれば、時間なんて、そんなに急くこともないのにというと、妹は、
「マスコミが知りたがっているの」といった。僕は、その意味を深く考えもせず、電話を終え、帆走に精を出した。
バンクーヴァー湾のイングリッシュ・ベイ辺りから、テリー窪田のVHFがしきりに入ってきた。彼は、僕よりも興奮しているようだった。そして、ナローポイントを過ぎ、ライオンゲート・ブリッジを通過したら右へ曲がって・・・と道案内をしてくれる。
ライオンゲート・ブリッジを過ぎ、しばらくスタンレー公園沿いにゆるく右へ曲がるように走ると、バンクーヴァーの中心街が見えてきた。さらに右へ進むと、海上ガソリンスタンドがいくつも並んでいて、その向うにタワーのようなウエスティン・ベイショア・ホテルが見えた。
近づくと、ホテルのマリーナで、巨大なカナダ国旗が左右に揺れている。よく見ると、誰かがそれを打ち振り、その背後に、
「ZEN/WELCOME TO CANADA」と大書した横断幕まで掲げられ、大勢の人がいる。こんなに大事になるなんて考えてもいなかった。
さらに近づくと、人間の半分はテレビカメラやマイクを持った報道陣のようだ。僕は周囲を見回した。誰を取材にきているのだろう。しかし、そこには僕以外の誰もいない。エッ、オレが・・・?裕子がいったのは、このことだったのか!
こうなると、僕もさすがに身構えざるを得なかった。セィルを丁寧に畳んでおいて本当によかった。
僕は、着岸にこだわりがある。余程の事情がない限り、伝統的なポートで着ける(左舷着岸)というものだ。それに、[禅]のライフラインのゲートもそのように出来ている。
見ると、指定されたバースは、このまま入るとスターボ(右舷)着けになるし、しかも、その状態では出船の態勢にはならない。これは、ここ一番、伝統にこだわって、[禅]の長さを僅かに超えるほどの幅しかないドックの中で妙技を披露してみせるしかない。
僕は、微妙にエンジンと舵を操り、狭いドックの中を旋回し、カメラが居並ぶ正にその前に静止した。こればかりは、見る人が見れば、思わず唸るであろうほどの舵さばきだったと自慢できる。
僕は、静止したヨットから、バウとスターンの舫い綱を持ってポンツーンに降り立ち、 「あァー、やっと着いたーッ」と叫んだ。
ANNEやAYAKOやMASUMI、そして裕子が駆け寄り、僕に抱え切れない花束をくれた。僕は、それぞれと万感の思いを込めて抱擁した。
イアンとテリー窪田は、僕の手をしっかり握ってくれた。それは、男同士だけが通わせることが出来る熱い共感だった。
イアンがグラスを渡した。僕は、デッキに立ち、彼が注いでくれたシャンパンを一息に飲み干した。そして、テレビカメラの前で、
「WONDERFUL!」と大手を広げて叫んだ。そのシーンは、全ての局が、夜のニュースのタイトルとして放映していた。
テレビカメラの列に曝され、僕は、何度もインタビューに答えた。拙い英語をものともせずに。今、その時のヴィデオを観ると冷や汗が噴き出る。それにもかかわらず、ヴィデオの中の僕は、何と堂々と、そして何と誇りに充ちていたことだろう。それは、僕の意識の中に、一つのことを成し遂げたという揺るぎない自信があったからなのだと思う。
*
長旅の疲れがあったとはいえ、僕は、バンクーヴァーに一ヶ月近くも滞在してしまった。それほどバンクーヴァーの居心地は快適だった。それは偏に、イアンの、誰にも真似の出来ないほど心のこもったサポートによるものだった。
彼は、僕が望む全ることをしてくれた。ほんの一例だけど、僕が、「ガスも電気も使える冷蔵庫があればいいんだけど・・・」などとうっかり口にすると、もう翌日にはバンクーヴァー中を探し回ってくれるし、船具が必要になれば、僕が納得するまでいくつもの船具屋を案内してくれる。彼自身、観光関係の仕事をしていたので、僕をVIPとして迎えてくれたバンクーヴァー市や、ホテルや[禅]のバースについて、信じられないような厚遇を用意してくれた。イアンには、本当に言葉では尽せないほどの感謝をしている。
そして、僕は、子供たちがアンクル・タカシと慕ってくれる純真さを心から愛した。僕は、子供たちをマイ・エンジェルスと呼んだ。妹の裕子は、僕の航海に関するマスコミ対策ばかりか、バンクーヴァーで僕が不自由なく暮らせるように、本当に細やかな気配りをしてくれた。それらは、僕にとって最高の喜びであり、そして、かつて経験をしたこともない幸せだった。
また、日本のヨット仲間がバンクーヴァーに僕を訪ねてくれたことは、とてもうれしかった。
彼等は、日本で同じマリーナに属する友人だが、出航前から積極的に僕を援助してくれたし、バンクーヴァーでは、岸くんが指揮をとって、長期の航海で疲弊した[禅]を、徹底的にメンテナンスしてくれた。
高橋くんは、気象ファックスのソケットとペン、それから、ウインドベーンの純正のピンを苦労して見つけ、持って来てくれた。それら全ては、機械音痴の僕として、その後の航海を考える上からも、本当にありがたいことだった。
また、坂庭くんの運転で、レンターカーを駆って、フェリーでビクトリアを訪ねたことも忘れ難い。
ビクトリアでは、僕がはじめてカナダの土を踏んだマリーナをみんなで訪れ、イミグレーションのクリスティーンやジョンに会って久闊を温めた。
それに、エグゼクティヴ・ハウス・ホテルは、イアンのお陰で、僕らを正にエグゼクティヴとして遇し、最上階のスイートを無償で提供してくれた。部屋には、僕宛のフルーツ・バスケットとマネジャーの歓迎メッセージまで届けられた。
感動したのは、僕らが夜遊びしてホテルへ帰って来た時だった。部屋へ入ると、州議会議事堂を包む絢爛たるイルミネーションが眼下に広がり、完全に僕らの目を奪ってしまった。暫くは誰も口を利く者がなかった。それは、正に夢のようにきらびやかに美しく、何かの宣伝ではないが、何も引かず何も足さず、そのままで完結した一幅の絵画だった。
テリー窪田も本当によくしてくれた。
僕がカナダに着くまででさえ、日々、カナダでの[禅]の受け入れ情報を日本へ伝えてくれたし(僕はそれを、日本からの無線で受信した)、加えて、バンクーヴァー到着の歓迎ステージを演出してくれたのも彼だった。到着の時は、彼のみならず、奥様と可愛いお嬢さんまでが僕を出迎えてくれた。特に、僕の頬へのお嬢さんのキッスは、どんなに僕の心をほのぼのとさせてくれたことだろう。
テリーは、「わが社のタンクローリーを[禅]に横付けにして、ミネラルウォーターでウォータータンクを満タンにする」といった。勿論それは、あまりにももったいない話なので辞退した。それに、マリーナの桟橋まで車は入れないから、所詮、横付は無理だった。
しかし、彼は本気だった。毎日のように彼は[禅]を訪ね、都度、一ケース、二ケースとミネラルウォーターを運び込んでくれた。だから、僕は、アメリカへ渡って後もテリーのミネラルウォーターでコーヒーを淹れ、味噌汁を拵えた。
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僕はテリーに、コーストガード(トフィノ・トラフィック)に感謝の意を伝えたく、何とか表敬訪問の段取りを立ててほしいとお願いした。それは、程なく実現した。
或る日、テリーと僕は、バンクーヴァー国際空港の敷地内にあるコーストガード本部を訪問した。
当日のローテーションは、僕を受け持ってくれたボブ・ホリディーと彼のボスのワーレィス・マンツだった。僕は、たどたどしい英語で、不安の塊みたいな今航海の最終レグ辺りで、ボブのサポートがどれほど僕を安心させたばかりか楽しい気分にさえしてくれたことを感謝の言葉として述べた。さらに僕が、航海者の心理を完全に理解したサポートを絶賛すると、ボブは、
「僕らの仕事は、セーラーをパニックに陥らせることじゃないからね。折角の航海を、誰もが精一杯楽しんで欲しいと思うんだ。だから、ただ注意を喚起するというのではなく、楽しい気分でそれが行えるように話をする。そうすると、彼等は、何でも相談してくれるし、僕らはまた、それに対して適切な協力をする。そうすると、海上の事故は激減するものなんだ。笑い話にもあるけど、遭難者から救助要請の無線が入った。コーストガード自身がパニックに陥って、『現在、ボートの場所はどこだ!』と強い調子で尋ねた。そうしたら、遭難者がいった。『岩の上だ!』。
これじゃァ駄目だ。若し、事故が起きても、コーストガードにコンタクト出来たからもう安心だ、彼等が何とかしてくれると思える信頼関係が出来なくては、ね」
本当にそうだ。レンフリュー入港の前夜、僕よりもコーストガードが、一生懸命[禅]の安全を考えてくれていると感じたものだ。
その後、いろんな施設や装備を見学した。ボブが、ボスと何か相談していた。「壁から脱落して紛失したことにすればいい・・・」とボスがいっている。ボブが僕のところへ来て、「zen、これはカナダ・コーストガードの紋章だ。あなたのヨットのお守りにプレゼントするよ」と、ドアに取り付けてあった楯を贈られた。これは、南北太平洋を一周する間、正に[禅]の安全を守り続けてくれた僕の宝物になった。
イアンはまた、僕をバンクーヴァー市観光局へ案内してくれた。これは、僕をVIPとして迎えてくれ、様々な便宜を図ってくれたことへのお礼の表敬訪問だった。
観光局長のパトリック・バード氏、観光行政局長のヒーサー・チャップマン女史同席で航海やヨットの話題に花が咲いた。三十歳代の女性局長のヒーサーは、僕に、バンクーヴァーのロゴ入りの真っ白いトレーナーをプレゼントしてくれた。また、パトリックは、全ての公共施設や市内バスの無料パスを下さった。
僕などがバンクーヴァー市のVIPなどとはちょっと面映い感じだったが、これも民際外交!なんて気張って、一応脱線することもなく表敬訪問を終えた。
イアンの長男のMASUMIは、現在、サッカーU16のBC代表チームの優秀なFWだ。イアン自身、ジュニア・サッカーのコーチであり、さらに、イアンのお父さんは、イギリス・プレミア・リーグのプロ選手だったというから、MASUMIのサッカーの卓抜した技量は血筋かも知れない。
全てのTV局が、僕のニュースを流した後だった。MASUMIのプレイを観戦にサッカー場へ向かうと、いろんな人に声を掛けられ励まされた。ホームステーの日本人留学生などは、ホストファミリー共々いっしょに写真を撮らせて欲しいといった。勿論僕は、喜んで彼らと写真に収まった。
競技場へ入ってゆくと、みんなが立ち上がりこちらを見ていることに気がついた。中には、僕に向かって拍手をしてくれる人もいる。こんなに素直に賞賛の気持を表す彼等に、僕は、心から親しみを感じ、そして、その率直さを羨ましいと思った。僕は、大勢の観客に向かって手を振って、彼らの歓迎の意思に応えていた。
さらに後日、或るTV局が、日本語番組の時間に僕のインタビューを特集番組に組んで放映した。
それ以降、[禅]を訪れる日本人が絶えなかった。「元気づけられました」とか、「日本人がこういう形でカナダ国中に報道されたことがうれしくて・・・」とか、「さらに頑張ってください」とかいう言葉と握手に、僕は何日間も忙殺された。終いには、イアンにお願いしてウエスティン・ベイショァ・ホテルに一室をとってもらい、訪ねてくれる方々には申し訳なかったが、逃げ込んでしまったこともあった。
また或る時、豪壮なバンクーヴァー・ホテルにある有名な寿司屋へ行ったら、目敏く僕を見つけて、板前が、「あんた、ヨットのおじさんでしょ」といった。そうだと答えると、周りの客の握手攻めにあった。そして、板前は、「今日は、オレのおごりだから、思う存分、うちの寿司を食べていってください」といった。支店とはいえ、元は築地の名だたる老舗だ。思う存分にといわれても・・・と躊躇ったのもはじめのうちだけ。根が食いしん坊の僕のことだから、本当に腹いっぱい美味しい寿司を食べてしまったこともあった。
バンクーヴァーでの歓待の数々は枚挙にいとまがない。とにかく、前にも述べたとおり、混じりッ気のない善意に包まれたバンクーヴァーの一ヶ月間ほど、心をオープンにして楽しめたことは他にない。
***
航海への気持だけは、前へ進んでいた。しかし、居心地が良すぎてなかなか腰が上がらない。航海にはシーズンというものがある。本当は、アメリカ西海岸を南下するつもりなら、もう、出発していなくてはいけない季節になっていた。
僕は、八月二十八日を出航と決めた。窪田氏やマリーナのマネジャーのミセス・バディーに心からのお礼とお別れを告げ、朝七時半、イアン一家に見送られ、バンクーヴァーのウエスティン・ベイショァ・マリーナを離れた。もう、いつ会えるかも知れないイアンや妹の裕子や、僕がマイ・エンジェルスと呼ぶ子供たちとの別れは実に辛かった。それに、これからが本当の一人旅。この先、誰かが待っていてくれるということはもうない。
心細さと別れの辛さが重なると、僕は胸が熱くなって自制が利かなくなりそうだった。だから、素っ気なく、「See you again!」といって出て来てしまった。
今まで[禅]がいた空っぽのポンツーンに立って、イアンたちは夢中になって手をふってくれていた。やがて彼らの姿が見えなくなると、僕は気を取り直して操舵に専念した。
ライオンゲート・ブリッジを過ぎ、僕はふとスタンレー公園の高台を振り返った。そこは、みんなでよく散策した美しい森だった。
きっと、大急ぎで車を飛ばして来たのだろう。イアンをはじめ、みんなが高台から手を振っている。イアンが何か叫んでいるようだが、遠くて聞こえない。多分、「気をつけてー。必ずまた戻っておいでよー」とでもいっているのだろう。僕は、着ていたカナダ国旗のジャンバーを脱いで打ち振った。もう、堪えることもなかったから、彼らの姿はたちまち泪で見えなくなってしまった。
昼前、アクティヴ・パスの北側にあるポーラー・パスを過ぎた。ここは、アクティヴ・パスよりはずっと短く、船の数も少ない。それに、静かでのびやかな美しさがあった。
パスを過ぎ、名も知らぬ小島の間を抜け、スチュアート・チャネルへ入った。風が弱かったこともあるけれど、波一つない静かなフィヨルドだ。ところどころに深く抉れたようなインレットがあり、そこにはお伽噺のような丸太組みの家がある。恐らく、夏用の別荘なのだろう。全く気取ったところがない。家々は花に飾られていて、何となく住む人の心の豊かさが感じられる。
ソルトスプリング・アイランドが左手に高く聳え、サンサム・ナローが、せり出したバンクーヴァー・アイランドとの間に吸い込まれるように続いている。そして、くねくねと曲がった水路は、正に秘境の趣きだ。
やがて、今日の碇泊地、メイプル・ベイが右手に見えてきた。フィヨルドの中だから、ここもまるで池のように穏やかだ。ずーっと奥へ進むと、くびれるように細くなった辺りにたくさんのマストが見えた。あァ、あそこがバーズアイ・コーヴだ。
木材だけで組んだ素朴なポンツーンに[禅]を繋ぎ、オフイスへ行く。「一晩だけだけど、どこに係留したらいい?」と尋ねると、「空いてる所ならどこでもいいよ」という。少し雑談して船に戻り、明日の航路を検索し、それからカメラを持って村へ行ってみた。
美しい村だ。一軒、一軒の家が森に囲まれて、しかも小ぢんまりと佇んでいる。ぶらぶらと道をたどり、入り江のいちばん奥まで来た。そこにマーケットがあると聞いていたので、タバコを買うつもりだった。何故かドアが開かない。暫くその辺りをうろうろしていると、向かいの小さなレストランから一人の若者が出てきて、「マーケットは五時で閉店ですョ」といった。
「困ったなァ。タバコが切れちゃってね。ここで買うつもりだったんだ」そういうと、若者は、ちょっと待って下さいといって、レストランの中へ消えた。少しして、彼は、シガレットを三本持って現れた。誰かから分けてもらって来たようだ。すまないねェというと、
「僕からのプレゼントです。あなたは、日本から来たセーラーでしょう。これからも、航海を楽しんで下さい」といってにっこり笑った。僕は、彼の手を握って、
「カナダは、僕を凄く楽しませてくれている。そして、きみもネ。本当にありがとう」そういって、僕は[禅]へ戻った。心がほのぼのと温かかった。
この辺りのマリーナには、フローティング・ハウスというのがある。海面に浮かんだ家だ。それが、ポンツーンに繋がれている。そもそも、家を浮かべるという発想からして遊び心の最たるものだ。だから、それぞれの家は、思わず手を打って感心してしまうものや、笑い出してしまうものがたくさんある。中には、二階のベランダが操舵席になっていて、コンパスやスロットルレバーや舵輪がついている。本当に海上を走れるかどうかは分らないが、そこが遊び心というものだ。
また、ボートの越冬のためだろう。ポンツーンに屋根がついたものが多い。このバーズアイ・コーブのみならず、バンクーヴァーや翌日訪れたツェッハム・ハーバーやその隣のシドニーにもたくさんあった。こんなに和やかな地域でも、やはり冬は僕なんかの想像を超えた厳しさがあるのだろう。
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夜半から雨になった。寝ながら雨の音を聞いていると、何となく翌日の出発が億劫になってくる。どうしようかなァーと考えながら眠ってしまった。
朝になっても天気は好くなかった。気持はどんどん消極的になる。出てしまえばたかだか十七浬、三時間も走れば、次の目的地ツェッハム・ハーバーへ着いてしまう。それが分っていても、天気が好くないと気分が乗ってこない。
昼近く、これ以上遅くなると潮が替わっていささか厄介なことになる。仕方がないと腰を上げると、同じ思いのヨットが二艇、バーズアイ・コーブを出て行った。
メープル・ベイを出て、サンサム・ナローへ入ると、如何にもカナダらしい深い森に包まれた景色が広がる。午後になって、いくらか青空も見え出した。さらに、変化に富んだ岸辺には、美しいログハウスがたくさんあって楽しませてくれる。僕は、三十六枚撮りのフィルムを一本、これらのログハウスに向けて撮りまくった。
或る夏、きっとここへ戻って来よう。僕は本気でそう思った。恐らくは賃貸のログハウスもあるに違いない。小さな小屋だっていい。丸太組みのその小屋を花で飾って、家の前には小さなヨットを浮かべよう。時には、森の小動物が遊びに来るかも知れない。贅沢なんか必要ない。ただ、夢いっぱいのこの自然の中で、心通う人と一夏を過ごせればそれでいい。美しいログハウスの際に[禅]を走らせながら、その時僕は真剣にそう思った。
やがて、サニッチ・インレットの前を過ぎサテライト・チャネルへ出る。サニッチ・インレットは、物凄く奥深いフィヨルドだ。中ほどに、ブレントウッド・ベイという小さな街があり、入江はさらに奥へ続いている。今回は素通りだが、機会があれば船を進めてみたい所だ。
サテライト・チャネルの出口辺りに、小島が重なるように二つあった。そのツェッハム岬の岸寄りのカルバーン・パッセージへ入ろうとすると、突然、二つの島の間からフェリーが飛び出してきた。フェリーは、直進してスワッツ・ベイというフェリーの発着所へ向かうところだったから、僕は、慌てて[禅]を回転させて衝突を逃れた。実をいうと、その時も僕は、両岸に連なる美しい家々をうっとりと眺め続けていた。
午後三時二十分、ツェッハム・ハーバーに着いた。今までのフィヨルドの入江と違って、何だか都会の鬱陶しさがある。案の定、ファン・アイスル・マリーナという所に係留を申し込むと、屋根つきのポンツーンに挟まれて、まるで倉庫の裏というような所に[禅]を泊めさせられた。まあ、一晩だけだからいいか。しかし、全く人目が届かない場所だったので、いささか無用心過ぎないかと不安だった。
翌八月三十日、午前十時、ツェッハム・ハーバーを出発して、懐かしいビクトリアへ向かった。十時に出たのには訳がある。上手くすると、ビクトリアへ続くハロ・ストレィトが連れ潮で五ノット以上になるのだ。但し、その先の岩礁帯のプランパー・パッセージに差し掛かった時には、この潮が停まっていてくれなくては通過が難かしい。
シドニー・チャネルは二つの小島に挟まれた狭水路で、潮の流れが速いことで恐れられている。そのチャネルに差し掛かると、[禅]は十二ノットで走った。六ノット辺りが機帆走の速度だから、六ノットの潮流ということになる。
用心して走っていると、後方からゾディアックがかっ飛んで来る。見ると赤い船体にPOLICEと大書している。僕は、追われているような気分で不快だったが、一応、艇速を落とした。どうも、おかしな習性で、警察というとつい構えてしまう。ゾディアックは、[禅]に横付けした。何事かと思うと、
「何か困っていることはないか?クルージングは順調か?」という。何だか拍子抜けしてしまったが、そうだ、ここはカナダ、これが彼らの日常なんだと思いなおし、
「ありがとう。全て順調だ」と答えた。 「日本から来たのか?何日間掛った?嵐には会わなかったか?・・・」と、例によって矢継ぎ早の質問がはじまる。
激しい潮流の中、POLICEは[禅]の舷側に横付けしたまま、すっかり雑談をはじめる気配だった。まあ、一五〇馬力のエンジンがついたゾディアックが付いているのだから、岩礁へでも流されたら何とかしてくれるだろう。そう思って僕も雑談のお相手を決め込んだ。僕が答えると、都度、警官は、「Great」と受ける。別に、偉いといっているのではなく、ただ、ちょっと賞賛を交えた「そうか」ほどの意味だ。暫く「Great」を繰り返し、POLICEはまた、来た方向へ、かっ飛んで戻って行った。
さらに進むと、難所のプランパー・パスだ。予めインプットしたルートを慎重に辿って行くと、突然、GPSがとんでもない針路を示した。どう考えても、それは潮波が渦巻く岩礁帯を向いている。咄嗟に、僕は、ウェィポイントの誤入力と判断した。危うく座礁を免れ、危険水域のブイだけを見て舵をとった。日頃、あまりGPSに頼り過ぎていると、時にこういうことが起こる。やがて、難所は過ぎ、冷や汗を拭う頃は、目の前に穏やかなファン・デ・フカ・ストレィトが広がっていた。
パスを過ぎると、後は小一時間でビクトリア港だ。右手の美しい岸辺の景色を眺めながら、僕は、懐かしいガーデン・シティ、ビクトリアへと[禅]を進めた。
*****
多くのカナダの人々が僕に望んだように、僕は、心からカナダが好きになっていた。僕は、カナダを愛した。そして、自国でもないのに、その愛国心みたいな感情が誇らしくさえあった。でも、そのカナダともそろそろお別れだった。
バンクーヴァーから始まって、ガルフ・アイランズのそこここには秋の兆しが見えていた。毎年のことだけど、夏が去って行く季節は、僕をとても寂しい思いにさせる。そこへもってきて大好きなカナダとのお別れだ。自ずと、惜別の感傷が膨らんでくる。
でも、ビクトリアには、まだ僅かに夏が残っていた。それが僕にはとてもうれしかった。
僕は、思い残すことがないように、あちこちを心ゆくまで歩き回った。はじめは二日間ほど滞在したら出航するつもりだったのに、風邪気味とか天候とかを理由に五日間、僕はビクトリアに居続けた。
イミグレーションに電話をして、出国の手続きを尋ねた。当然、クリアランスといって、どこの国でも出国手続きはあるものだ。パスポートや入国時に作成した書類などをイミグレーションへ提出し、パスポートに、入国の時と同様、スタンプを押してもらい(押印しない国もある)、さらに、クリアランスを完了したという書類をもらう。この書類は、次に入国する国の手続きに必要になる。
ところが、カナダでは、一切クリアランスが不要だという。はじめ僕は、英語の拙さから大切なことを聞き漏らしているのだろうと思った。それで、翌日もまた電話をしたし、クリスティーンにも尋ねに行った。そうしたら、「You can go out anytime as you want.」という。どう考えても、「好きな時に出国していいんだよ」という以外の意味にはとれない。僕は、半信半疑だったが、一応それで納得することにした。
そうしたら、或る日、珍しく無線に日本語が聞こえてきた。耳を澄まして聞いていると、どうやら、フレンチ・ポリネシア在泊の[ホロホロ]の溝田さんのようだ。僕は、日本語が聞こえたことに狂喜してブレイクを掛けた。
「ちょっと待って下さい。[禅]が出ているようです」と溝田さんが誰かにいった。そして、
「ヨット[禅]、お久し振りです。お元気ですか?今、どこからコールしていますか?」と呼びかけて下さった。
「カナダ、ビクトリアからです。いやー、初めて電波が届いたようです。元気ですよォ。溝田さんや日本の皆さんはお変わりありませんかァ・・・?」そんな対話が続き、僕は、一両日中にカナダを出国してアメリカへ向かうといった。そうしたら、溝田さんは、カナダのクリアランスの仕組みはどういうものかと尋ねられた。ここ二、三日、十分おさらいをした後だったから、僕は、自信をもって、「クリアランスは不要です」と答えた。そうしたら、溝田さんばかりか、他の方々までが、「そんなはずはない」といい出した。
本来、僕自身が不審に思っていたことだから、この反応は、僕を再び疑心暗鬼に陥れた。
九月五日、出航に先がけ、僕はイミグレーションへ出掛けた。そして、無線で、誰もがクリアランスが不要ということを信じない旨をいった。そうしたら、当直のオフィサーが笑って、「スタンプがあればzenが納得するというのなら・・・」といって、カナダ・コーストガードのスタンプを押してくれた。何だか、ちょっと照れくさかったが、これで安心して出国が出来る。
午前九時、ゾディアックで港口まで見送ってくれたジョンに別れを告げ、僕は想い出いっぱいのカナダを後にした。
ありがとう、カナダ。人間の温かさを教えてくれたカナダ、ありがとう。富や最新鋭のハイテクなんかより、もっと豊かなものを教えてくれたカナダ、真の善意が感謝と繋がって大きな輪を広げ、本当の平和を築くことを教えてくれたカナダ、ありがとう。カナダに来られて、本当に好かった。そう呟きながら、僕は、[禅]を、南東三十五浬先のポートタウンゼント(USA)へ向けた。
Japan to Canada編/[完]
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