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拝啓

長らくご無沙汰しております。ご容赦ください。

ご無沙汰している間に、日本の冬は過ぎ春になろうとしています。こちらはそろそろ秋の気配…時折赤とんぼを見かけますし、油蝉の声もめっきり減りました。今日(3月14日)朝8時(日本時間7時)のシーガルネットで函館のハム仲間から、禅のホームページに新しいインフォメーションが入っていないとご指摘を受け、もとより自分自身、怠惰を気にしていたことでもあり、慌ててペンを執った次第です。

何しろ、日々なにも変わったことがない毎日。気取っていえば、「来日は去日に似たり、今日また昨日の如し」といったところです。日本と違って、何でもかんでも広大で巨大で大雑把、加えて大らかとなると、まるで今日という日が切れ目なくずうっと続いているような錯覚に囚われるほどです。私の南洋ボケに大陸ボケがプラスされた訳で、今もし私が日本へ帰るとでもなったら、どこかの施設に入ってリハビリを受けなくては、とても慌ただしい日本社会には一歩も入っていけないのではないかと思います。

去る1998年10月29日、オーストラリアに入国。11月何日かに苦労してここMooloolaba Yacht Clubへやってきました。去年のことは、もうその程度しか覚えていません。まあ、1年半、共にクルーズを体験したクルーのすみ子が約束の期間を満了し艇を降りたことや、同行のシーマ松浦氏が正月帰省したことなどはボンヤリ記憶しておりますが。

1999年に入り、1月末に松浦氏がMooloolabaへ戻ってきたことや、マリーナからMooloola Riverに広がるカナル(水路)に建つプライベートドック(自家用船着き場)を持った豪邸に住む日本人カップルと知り合いになったこと、さらに2月末、3日間ばかりシドニー(Sydney)を旅したことなどがニュースといえばニュースらしいところでしょうか。

その辺りを述べる前に、現地の人々のホスピタリティについてちょっと触れておくべきかもしれません。

そもそも、このMooloolaba Yacht Club(MYC)にドックがとれたのも、入国手続きのため入港したBundabergにRon King夫妻が居合わせ我々の世話を焼いてくれたことから始まります。MYCのメンバーであるRonは、既に満杯というマリーナに何とか空きバースを見つけてくれました。

Cimaと禅がGreat Sandy Straitを苦労して航行している頃、Ronのヨットは勝手知った水路を通過し、MYCに帰っていました。私達が入港のためマリーナオフィスにVHF無線を入れたときは、もうすっかり用意が整い、バース番号まで決まっていました。

禅が舫いをとって間もなくRon King夫妻が現れ、「ゆっくり疲れを休めてください。後日、近郊のドライブ観光をしましょう。」と言い残して帰っていきました。

程なく、2、3日後のある日、夫妻は私達を伴い、この近辺、広大なサンシャインコーストと展望が素晴しい山々を、およそ300kmも車を運転し見せてくれたのです。それだけでも老齢のRonには大変なことなのに、車はそのまま彼の自宅へ…そして、心尽しのディナーといった歓待です。

それだけでも身に余るもてなしと恐縮しているのに、数度にわたるディナーの招待、加えてクルーのすみ子帰国後の大晦日には、日本食レストランでディナー。MYCのニューイヤーズイブパーティに私をエスコートしてくれるという徹底ぶりです。(クリスマスや大晦日に一人で所在なくしている人を見ると西洋人は事情さえ許せば決して放ってはおきません。)おかげでにぎやかなシーズンに寂しい思いもせずに過ごせました。

1月に入るとオーストラリアは正に盛夏。時々デッキに水を撒き、キャビンの温度を下げるため苦労をしている私を見て、Ronは彼の家の庭で使っていたメッシュの布を使い、デッキのオーニング(日覆い)を作って持って来てくれました。ちゃんとキャビンのキャンバスやテントを工作する業者に作らせたものなのに、その代金さえ受け取ろうとしません。

こんなにまでしてもらって……と途方にくれている私に、ある日、TVが運ばれてきました。亡くなったRonのご子息が使っていたものとのこと。Ronにしてみれば大切な思い出の品のはずです。早速、電源(240V)を入れ、室内アンテナを調整、クリアではないにせよ一応見られることを確認し、Ronが帰って行きました。Ronと奥さんのDorothyの姿が見えなくなった直後、TVから白い煙が吹き出しました。私は急いで電源を抜きました。何かがショートしたのでしょう。もう通電するのは危険です。そのままにして夕方になりました。修理は自分でするつもりですが、どこへ修理に出していいものかを尋ね、さらにこの顛末は一応Ronに報告しておくべきだと考え、電話しました。物の10分もしないうちに、Ron夫妻が飛んできました。「ボートにダメージはないか?」といって。私が修理を云々は全く聞き入れてもらえず、夫妻がTVを運び出し車で持ち帰りました。まあ、早くて1週間、もしかすると半月間はかかるだろうと考えていると、土曜日にもかかわらず、翌日の昼過ぎ、「今度は大丈夫だ」とRonがニコニコしてTVを携えて禅を訪ねてきました。「今夜8時、シドニーホバートレース(今回は多数の事故が発生した)があるから、禅が見たいだろうと思って急がせた」ということです。

その後も、痒いところに手が届くといったホスピタリティー。全く骨身を惜しまぬそれに頭が下がります。しかも、これがRon King夫妻だけではなく、Wendy & Geoff(無線関係)やRick & Ann-Louisといった地元の人々、さらにそれに触発された他の国のヨッティ達までもが、少しでも快適にオーストラリアを楽しんでもらおうと真心を尽くしてくれるのです。そうした善意が良好な人間関係を育み、美しい輪を広げてゆきます。

もし私が日本にいて、ホームポートに外国のヨットが入ってきたら、彼らのようにこれほど心を尽くしたホスピタリティーを振る舞えるだろうか?私はいつもそう自分に問いかけています。でもそれはできるできないの話ではなく、そうせずにはいられない自分を、そしてマインドを培うことなのだと思います。

ある日、RonとDorothyがBBQパーティを開いてくれました。そこに招待されたのが私の他にMooloola Riverのカナルに豪邸を構える木綱夫妻、そして奥さんのお母さんでした。お母さんは日本が一番暑いときと寒いとき、ここにきてのんびり過ごすのだそうです。

家にはプライベートドックがついていて、42フィートのカスタムメイドの新しいヨットが係留されています。広々とした居間で寛ぎ、お茶を飲みながら目の隅に自分のヨットを捉えているというのはヨット乗りにとっては夢です。しかも、日本ではほとんど絶対に実現しえないことなのです。フロリダやヨーロッパの一部にこうした家を見ることがあるとはいえ、それはやはり贅沢の極みであることに違いはありません。

彼らは共にドクター(博士)で若くから東京で事業を始め、30歳台半ばで生涯、贅沢に生きてゆく分は稼いだ、とさっさと事業を人に譲ってリタイアしてしまった人達です。その辺が物凄く日本人離れしている訳で、一般的に日本人は魚釣りでも金儲けでも実入りのあるうちは、とことん獲り尽くそうとします。夫婦に子供一人という家族なのに、大きなクーラーボックスいっぱいに魚を釣ってきては近所に配って(もらってもらう)歩いている人がよくいます。金儲けも、これでもか、これでもかと稼ぐのが普通の日本人ですよね。ところが木綱夫妻はこの辺で十分と、まだまだ儲けを生み出す事業に見切りをつけたのです。

欧米では若いうちに日本人も及ばぬ程バリバリ仕事をして、まだ若い(十分人生を楽しむ活力がある)うちにリタイアするというのが共通の夢です。「人生は苦なり」という日本人の人生哲学と「人生とは楽しむもの」と考える西欧人の違いでしょうか。だから、西欧人にとって、何歳でリタイアしたかということはその人の非常に大きなステイタスとなる訳です。

さらに欧米人は儲けた金を使うことを喜びとします。資産を蓄えることが究極の目的とは考えません。日本が世界有数の金持ち国になりながら、さっぱり富裕感がないのはそこの違いです。(使うために稼ぐか蓄えるために稼ぐか)だから、私は常々いうのですが、金持ちとは稼いだ金が十分にあり、更にそれを使う時間と場をもつ人のことである、と。

そうした意味で、木綱さんは本当のRich Manといえます。まだ40歳台半ばで、仕事もなくさぞや退屈だろうという人もいますが、これこそ余計なお世話。本当の贅沢の中にはなにもしない贅沢という優雅な世界もあるのです。

彼らのところは、マリーナからディンギーで3分のところ。時々遊びに行き、とりとめのない話をしてきます。この4月か5月、彼らは愛艇で南太平洋を2年間ほどクルーズする計画です。すべては私が既に通ってきたところですので、いろいろなアドバイスができますし、所蔵の航海誌(海図やクルージングガイドブックなど)も役立つはずです。

ただ、南東貿易風帯を東進する困難をどう克服するかが今課題として話題の中心です。一つの方法は、南緯40度域まで南下(ここは南緯26度)し、名だたるロアリング・フォーティ(吠える40度線)の追手の風で走るか……しかし、奥さん同伴でこの修羅場が凌げるかどうかが問題です。

今夕も、メルボルン - 大阪レースに出場するためオーストラリア東岸を南下途中ここMooloolabaに立ち寄った日本艇「ルナIII」のクルー3人ともどもBBQパーティに招かれているので、Cimaの松浦さんと5人で押しかける予定です。

***

シドニー(Sydney)はオーストラリア一の大都市。一度は行ってみようと考えていました。幸いにも、日本から友人が来るということで2月27日、ここを発ちバス(グレーハウンド)でシドニーを訪れました。ブリズベン(Brisbane)の隣の都市というのに、1000kmも離れています。バスは午後3時ブリズベンを出発し、夜行で翌朝7時半シドニー着という強行軍です。

シドニーのバスターミナルからタクシーで空港へ行き、9時半に日本から着く友人を迎えると、シドニー在住のハム仲間石崎さんに電話しました。彼とは声だけのおつきあいで実際お会いするのは初めてです。私と友人はHotel Nikkoヘ赴き、荷物を預けてから石崎さんの到着を待ちました。シドニーは、特に日系のホテルともなるともうそこら中日本人ばかりですから、彼を見分けるのは一苦労です。石崎さんは亡くなられた有名なセーラー多田雄幸さんの甥ということで、何となく多田さんの優しそうな風貌を想像していました。しばらくしてホテルの車寄せに車が止まり、大柄で精悍な男性が降りてきました。多田さんとは全く似ていないにもかかわらず、その自由人そのものといった様子から石崎さんに違いないと判断しました。彼のほうも恐らくホテルニッコーに泊まる日本人とは人種的に違う私をすぐ発見したのだと思います。会った途端、旧知の友人といった感じで握手を交し、早速市内観光のスタートです。

昼も近かったので、南半球一といわれる中華街へ行き、久々に飲茶(ヤムチャ)の昼食です。積もる話を交しつつ、美味しい中華料理に舌鼓を打ちました。

シドニーの東側にはBondi(ボンダイ)という美しいビーチがあります。Bondi地区は高級住宅地でそこへ至るまでにもいろいろ見るべきところが沢山あります。まずオックスフォードストリート(Oxford St.)は歓楽街であると同時にゲイの拠点として世界的にも有名なところ。本物の女性顔負けの美女(?)もチラホラ散見します。石崎さんの説明ですと、昨夜(27日・土)世界中から集まったゲイのパレードがあったそうです。

美しい街並みは花と緑と豪壮な邸宅であふれBondi Beachへと続きます。Bondiは何でも揃ったリゾート。超高級からバックパッカーまで幅広く楽しめます。残念ながら天気が今イチで、Beachは目を見張るというほどではありませんが、よい天気に恵まれれば本当に素晴しいところだというのがうなずけます。

Bondiの帰路はシドニー湾の入口であるサウスヘッド(South Head)へ立ち寄りました。目も眩むばかりの断崖が海にそそり立ち、目の下に怒涛が渦巻いています。対岸はNorth Head。その間を青々とした海が広がっています。昨年末、ここをスタートしたシドニーホバートレースのヨット達が、史上希な大きな遭難事故が待つとも知らずここを通ってタスマニア(Tasmania)へ向かったのだと思うと感慨もひとしおです。

再び市内方向へ戻りつつ、ハーバーブリッジ(Harbour Bridge)とオペラハウスの見えるポイントへ立ち寄り記念撮影。さらにオペラハウスへと車を走らせました。オペラハウスは近くで見るとその巨大さと滑らかな美しさに驚嘆します。残念ながら、滞在中コンサートのチケットが遂に取れず音楽鑑賞はできませんでした。

入植時代の石の建造物や石をくりぬいたトンネルの残るロックス(The Rocks)も、ちょっと中世ヨーロッパ風の情緒をたたえた楽しいところ。時間が十分にあって一日いろんなところをほっつき歩いたら、とても楽しいだろうと思います。

ホテルへ送ってくれた石崎さんと再会を約し、部屋で一服。昨夜来の旅の汚れをシャワーで洗い流し、服を着替え、暮れなずむダーリングハーバー(Darling Harbour)hへ。港をぐるりと囲むレストラン街は夕暮れのなかに灯が美しく点り、ロマンチックな都会美を演出しています。とあるイタリアンレストランでディナーを楽しみ夜更けにホテルへ戻りました。

翌3月1日(月)はバスツアーでブルーマウンテン観光です。あいにくひどい雨でアメリカのグランドキャニオン縮小版という絶景は何も見えず、ただ真っ白な霧の帳と対面して帰ってきました。しかし、ガイド兼ドライバーのジャックの日本語はもうそれだけでエンターテイメント。たった4年間日本にいただけで、あれほど外国語が身につくものかと感心しました。たとえば、東北地方へ行ったことがあるかと誰かが尋ねると、「フクスマ(福島)」と東北訛りで答えると、若い人が「僕は関西から来ました」というと、「ホンマ」と受けるし……

霧のブルーマウンテンの後は、Wildlife Park。まあ自然動物園ということ。羊の毛刈りショーはニュージーランド同様、コメディ仕立て。刈った羊の毛を少々もらってきました。カンガルーは餌を与えると寄ってきて、撫でても体に腕を回しても逃げません。手触りはとてもソフトです。コアラは夜行性でほとんどが木の股に体を安定させ眠っています。新鮮なユーカリの葉に食欲をそそられた何匹かがスローモーションで動いています。友人は10ドル払ってコアラと並んで写真を撮っています。試しにコアラの体(毛)に触れてみると、ベルベットのような感触です。

翌日は午後4時15分の列車でシドニーからブリズベーンへ行きます。朝ホテルをチェックアウトすると、荷物をシドニー駅の荷物預かり所に預け、中心街とボタニックガーデンの観光をしました。

ロイヤルボタニックガーデンは恐ろしく広い植物園(どこの都市にも必ずある)で、中に州立美術館、開拓時代の総督官邸、オペラハウスとハーバーブリッジを最良の角度から眺められるミセスマックォリーズポイント、そして公園のはずれがオペラハウスといった具合です。本来なら丸一日かけて味わう内容です。もちろん、珍しい樹木や美しい花々もいっぱいあります。

石崎さんと歩いた折り、美術館でセザンヌ展をやっていました。今日の主目的はセザンヌの鑑賞のつもりでした。ところが行ってみると、セザンヌは28日、つまり石崎さんと外から美術館を眺めた日で終わったとのこと。しかし通常展示もすごい迫力で十二分に堪能しました。

列車の旅は本当に何年ぶりでしょう。しかも映画で観るようなコンパートメントの寝台車です。客室は隣り合う部屋と共用のシャワー、トイレ、洗面所が実にコンパクトについていました。

3月3日、ブリズベーンに朝6時半着。バスでムールーラバへ戻り、友人は数日艇に泊まり帰国しました。3日の朝まで降り続いた豪雨も上がり、4日、5日は真夏へ逆戻りの快晴。サンシャインコースト(Sunshine Coast)の本当に美しい海で久し振りの海水浴(?)も楽しめました。

何しろ100m間隔に2、3人しか人がいないビーチにさんさんと陽光が降り注ぎ、さわやかな風がそよぐというシチュエーションは、さすがに年配の友人も青年のような気分にさせたようです。帰り際、ビーチに寝そべるだけで何もしない最後の2日間が一番オーストラリアらしくて良かった、といっていました。

以上がシドニー旅行記です。だいぶ端折って書きましたが、何かの折りにもっと詳しくお話しできれば、と思っています。

***

いろんな事情で、今シーズン(5月頃から)の航海計画はありません。心身共に疲れたのが主たる理由ですが、一年間ばかり、この美しいムールーラバに滞在しようと考えています。航海のこと、旅行のこと、その他諸々、より詳しく知りたいと思われる方は、お手紙を下さればお答えできます。住所は下記の通り。

それでは、この辺でペンを措きます。お元気で。

禅ホームページ読者の皆様へ

Zen
西久保 隆
1999年3月14日


以前の手紙(ムールーラバより)