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3月23日(金)/快晴・29℃・北東の風10Kn/Very fine

“HPの日記が更新されていませんが、如何なさいましたか?”というメールをいただき、慌てて書き溜めた分をUSのコロラドに住む山崎さんへ送りました。

折り返し彼からメールが届き、“Letter掲載しました。内容、読みましたが、鹿児島はいい所です。昔、脇坂さんをスキッパーにハワイへ向かう時、立ち寄ったことがあります。お世話いただいた方は今井さんといったと記憶しています。”と、ありました。

私も早速HPを開き、新しいレターを確認しました。

そこへ、今給黎さんからメールです。開いてみると、“ホームページのレター新しくなりましたね。ぜんさんが私をどういう風に見ているか分って面白〜い。間違いを見つけました。「単独無帰港世界一周」となっていますが、無帰港では、私がちょっと可哀想。”

急いでHPを見ると3月17日の部分に、ご指摘の通り“無帰港”となっています。いやァ、今給黎さんがいうとおり、“帰る港が無し”では少々かわいそうだ。これじゃァ“さまよえるオランダ人”よろしく、彼女は未だ海上を放浪していることになる。

すぐに山崎さんへメールを出し、無寄港に訂正していただくようお願いしました。

かたや、今給黎さんへ山崎さんのメール(脇坂スキッパーと鹿児島へ立ち寄った話)を伝えると、“脇坂さんとは今でも大の仲良し。広島へ行くと、いつもお宅に泊めていただいております。ヨットの世界って狭いですね”との返信がありました。

ヨットの世界が狭いといえば、こんな話があります。

1995年、私が日本を出帆する前、ご挨拶のため銀座で絵の個展をやっていた田代先生を訪ねました。先生は、私のクルージングの師匠ですが、本当は独協大学の数学の先生で、ご趣味でヨットと絵をやって居られます。先生に関しては物凄く沢山のエピソードがありますが、それは別の機会にお話することにしましょう。

先生のヨットは“瑶沙”といいます。以前は、防衛大のフリートがある走水港に艇を係留していたのですが(先生は、防大アカデミー・フリートの生みの親)、時代が変わり、その頃は、決まったホームポートもなく放浪されていたと記憶しております。

近々、出帆する旨を告げると、先生は、

「そうですか。いよいよ行きますかァ。航海の計画なんぞ聞いても、たかだか目安でしかないのでしょうが、何年くらい世界を回られますか?ほう、その予定もない。いいですねェ。私の甥も何処かを放浪しとるんですが、今は何処をうろついているやら。以前の便りはアメリカの東海岸からだったと思いますがね。艇名は○○○(覚えてもいなかった)といいます。どこかの海であったら、よろしくといっていたと伝えて下さい・・・・。」そんな風におっしゃったと記憶しています。

私の航海が始まって既に3年目に差し掛かっていました。サン・ディエゴを出て30日間の航海の末、フレンチ・ポリネシアのヒバオア島に着き、マルケーサス諸島を訪ね歩くうち、ヌクヒバ島でケンと彼のヨット“Further”に会いました。その後、会ったり別れたりを繰り返し、タヒチの隣の島、世界一美しいといわれるモーレア島にやって来ました。そこでは、彼のビックリするほど純真な人柄に、じっくり接する機会を得ました。

その頃、“唯我独尊”と“April 4th”(通称、フォー・フォー・ツー)がタヒチまで来ていました。ケンは、時々タヒチへ所用で出掛け、パピエテ港で彼らに会っていたのです。是非、みんなで舳先を並べて共に寛ぎたいというと、ケンはそれを彼らに伝えてくれ、次の寄港地ライアテァ島でミーティングする段取りを立ててくれました。ライアテァでの様子は97年頃の“長期航海者たち”の特集に詳らかですので、ここでの詳報は避けます。ただ、もう、楽しくて楽しくて、この時間が永遠に続いて欲しいと願ったことのみを述べておきます。

さらに日本からの客を迎えて、ケンの“Further”とボラボラ島へのクルーズなどを楽しみ、夢のように、あまりにも楽しい日々が続きました。しかし、全てには終わりがあります。やがて、ケンは西へ向けて出航して行きました。

以降、私の禅は、独尊とフォーフォーツーと会ったり別れたりしながら、NZまでいっしょでした。そして、NZでも、時々集まっては楽しい時を過ごしたものです。

或る日、懐かしい人々の噂になりました。いろんな奇行や感動的に純真なお人柄などが話題になりました。私は、例の田代先生のお話をしました。いつも下駄しか履かない方で、コックピットの片隅には歯を互い違いに重ね合わせた下駄がある“瑶沙”の話、教育の専門家である先生が、或る日、突然“瑶沙”を訪ねた私に、“西久保さん、教育って、一体何でしょうかねェ?”と尋ねられた話などでした。

恐らく、先生は、一心に情熱を傾ける教育の場で、何か衝撃的なご体験をされたようでした。いつもの飄々として楽天的な様子が窺われないのです。専門家に向かって教育を説くほど私も思い上がってはいませんから、“ハァー”といったまま、何もいいませんでした。そうすると、先生も全く無言なのです。何か、私がお話しないことには・・・という雰囲気です。思い切って、私は良寛さんの話をしました。

家督を弟に譲って出家した良寛は、修行の歳月を経て、人望の篤い僧になっていました。かといって、経を読むでもなく、ありがたい仏教の説話を説くわけではなし、日がな和歌を詠み、書に親しみ、食べるものが底をつくと山中の五合庵を降りて巷へ赴き托鉢し、日が暮れるまで子供と戯れるというお坊さんです。しかし、良寛さんがそこに居るというだけで、まわりの雰囲気や人々の心が平和になるというお人柄でした。誰からも好かれ、どこぞの家によばれては、大好きなお酒をご馳走になることもしばしばでした。

そんな或る日、弟の家に何日か滞在する折がありました。大庄屋である弟は、良寛さんを手厚くもてなし、唯一の悩みである放蕩者の倅のことを話しました。そして、“兄さん、倅にひとつ説教してもらえませんか。私のいうことなど、全く耳を傾けようとしません。でも、兄さんのお話なら、あいつも肝に銘じて聞くでしょうから”といいます。

良寛さんは、うん、うん、といって聞いていました。でも、次の日も、またその次の日も倅に説教してくれた様子がありません。そのうちに、庵へ帰る日が来てしまいました。弟は、良寛さんの草鞋の紐を結んでさし上げるよう倅にいいました。倅はいわれたとおり、草鞋の紐を結んでいると、その手に、ひとしずくの涙が落ちてきました。ハッとして倅が良寛さんを見上げると、やさしいその目に涙をいっぱいに湛え、じっと慈しむように見下ろしているのです。

ただそれだけです。一言もお説教などせず、良寛さんは山へ帰って行きました。

倅は、自分の手に落ちてきたたったひと雫の涙で、どうにも手のつけられなかった放蕩者から、親思いの息子に変わっていったといいます。後に弟が“どういう説得をされたのですか?”と問いました。良寛さんは、“我が身の迷いさえ去らぬこのわしに、何がいえるものか・・・”と申されたといいます。

田代先生に、私は、憚ることもなくぬけぬけとそんなお話をしました。うららかな午後でした。誰もいないマリーナのヨットのデッキで、互いにウーロン茶のカップを手に、無言のまま俯いていました。ふと見ると、田代先生が、たった一滴ではなく、まるで子供のようにぽたぽたと涙を流していらっしゃるのです。私は驚いてしまいました。こんな良寛さんの話など、どこにもある逸話ですし、それに、社会の第一線にある頃ですから、人に弱味を見せることも、ましてや涙を見せることなど絶対になかったのです。それなのに、目の前の田代先生は、何の恥じることもなく、平気で泣いておられるのです。戸惑いより、私は、理屈なしに感動しました。こんなに純真な人が世の中に居ることが信じられなかったのです。

その時、私は、自分の心に正直になることを先生から教わりました。今は、辺りを憚ることもなく、私は、感動すると涙を流せる人間になりました。それは、私の人生を通じ、最も大きな自己改革であり、得難い教訓でした。

そんなお話をしてフォーフォーツーのクニを見ると、彼も微かに目を潤ませています。そして、クニがいいました。“ぜんさん、それ、おれの叔父さんだよ”。

3月24日(土)/晴:曇・32℃・北の風5Kn/Very sticky

北風の日は蒸し暑い。今日はその典型的な日。32℃という気温には驚かないが、こう蒸し暑くては敵わない。

特に予定のない一日。久し振りにランドリー・ディと決め、汚れ物を大きなビニールのバッグに詰めて艇を出た。(ランドリーは、陸地に上がってすぐ、シャワールームなどといっしょの建物にある。)

つがいの蝶がヨットの際を飛んでいる。その後ろからも何頭かの(蝶は“頭”で数える)蝶が続いていた。周りに目をやると、何と、無数の蝶が飛んでいる。それらは、風向きとは関係なく、風道を斜めに横切ってビーチの方向へ飛んで行く。一体、ビーチの方向に何があるのだろう。

それにしてもすごい数の蝶だ。大きさからいえば、孵化したばかりとも思えぬ。中ぐらいの黒地に瑠璃色の模様がある美しい蝶。見渡すかぎり、蝶は広いマリーナを覆っている。

私は、ドックのランプを渡り切り、土手の木陰に立った。洗濯物のビニールバッグを地面に置いて、木陰にベンチを見つけそれに腰掛け、無数の蝶を眺め続けた。

デジャブーというのだろうか。どこかに、これに繋がる記憶があった。それが、蝶たちを眺めつづけるという行為に私を縛りつけていた。

いつ?何処だったっけ?霧の中の白い蝶の群れ・・・・・。

あァ、あれは、いつかの初夏。土と草の匂いがむせかえるように辺りに充ちていた夕暮れ時。シーボニアからの帰り道、小網代の谷戸道を通った時のことだ。

そこは、雨上がりにはいつも濃い霧が湧くように立ちこめる場所だった。車で通る時も、そこを通るとひんやりした風が車内を通り抜けた。

その夕べも雨上がりだったのだろうか。記憶は朧だが、車のライトの中に、一瞬、霧が立ち込め、土と萌え出す草の匂いが、むせ返るように車内に充ちたと思った。

しかし、霧は何故か透明ではなかった。触れると雫となる夕暮れの大気の中で、遠近の定かでない白い壁が見えるようだった。

私は車を停め、霧の中を凝視した。何と、それは、いま孵化したばかりの小指の爪よりも小さな白い蛾の群れだった。それが、あたかも空気の流れに揺らぐ霧のように、私の視界の中で揺れていた。

生来、私は、虫唾が走るほど蛾が嫌いだ。しかし、今、私が目にするものは、蛾の個体ではなく、無数の蛾が織りなす白い幻想だった。それは、耽美的で、頽廃的で、そして極度に官能的だった。形を定めぬ雲のように、それは、私の想像力の中で、さまざまな姿態に変幻した。

恐らく、それは何秒間かの、束の間の幻覚に過ぎなかったのだろう。しかし、私にとって、それはある種の夢幻世界をさまよい歩くのに似て、計り知れぬ時間のように思えた。

あれは、十年以上も昔のこと、しかも、ほんの瞬間の記憶でしかない。今まで一度だって思い出したこともないそんな記憶が、この異国の、灼熱の真昼にあって私の眼前に展開したのは一体何だろう。そして、全ての蝶がビーチの方向へ向かうのは、一体、そこに何があるというのだろう。

航海をしていて、陸影も定かでない海上で、時折、蝶を見ることがある。あんな柔らかな羽根で、どうしてこんな所まで来られるのだろう。そして、その蝶は、生きながらえるために陸地は帰るということを思うのだろうか。そんなことを不思議な気持で考えることがある。蝶というやつは、どこか耽美的で、頽廃的で、そして夢幻的だと思う。

3月26日(月)/曇・30℃・北の風15Kn/Very sticky

ヨットの世界は狭いというお話をしたのは、つい先日でした。そして、またもや同じネタで恐縮です。

今日のお昼過ぎ、以前にも何度かこのページに登場したWendy & Geoffが来ました。この前、彼らの家を訪ねた時、私は、7枚ほどの写真を繋いだベランダから見たパノラマビューを撮影しそれを完成していたので、差し上げるために会いたいと思っていたところでした。彼らは、そのパノラマ写真をとても喜んでくれて、早速、横長のフレームを見つけて家に飾るんだといいました。

そして、彼らは、明朝出発(空路)して1ヶ月間程ヨーロッパへ行ってくるので、若し私が予定通りに航海へ出るならば、恐らく、もう逢えないかも知れないと、その挨拶に見えたのだといいました。

十数年前、彼らは二人の娘を伴って、ワールド・クルーズに出かけました。オーストラリアを北上し、インドネシア、シンガポールなどを通り、日本、韓国、中国などへも行き、再び南下してインド洋を横断し、紅海を遡り、地中海へ出ました。そして、フランスで一旦航海を中断し、オーストラリアに帰ってきました。ボートは今、フランスのボートヤードに保管されています。

今回の旅行は、そのボートの状態をチェックし、そして、長期にわたる外国籍のボートの保管に関する法的処理などをするのが旅行目的だそうです。序でに、彼らのルーツであるイギリスにも立ち寄り、久し振りに親類にも会うのだと楽しそうでした。そして、30分ほど歓談し、ヨットクラブでフィッシュ&チップスのランチを頂くといって帰って行きました。

今給黎さん宛にメールを書いている途中でもあったので、“今、Wendyさんという友人が来て・・・”と、メール書きを再開しました。メールを発送して間もなく受信を知らせるサインが鳴りました。すぐ開いてみるとkairen,今給黎さんです。

文章は、少し興奮気味に、そのWendyさんとは、十数年前、奄美や九州を航海していた人ではないか?というのです。ご主人の名前は忘れたが、可愛い娘が二人いて、パーティーをやったり、船に遊びに行ったり、とても親しくお付き合いし、今でも時々、その頃の仲間が顔を合わせると、Wendyさんたち、どうしているかねェ、と話に出るのだとメールに書かれていました。

彼らは、沖縄、奄美、九州で忘れ難い歓待を受けたそうです。一升瓶ぶら下げて毎夜ヨットを訪れる漁師やヨットマンたちとの尽きることのない歓談は、言葉の壁を越え、まるで裸の人間同士のような友情を育んだといいます。今でも、WendyもJoeffも、毎晩の酒盛りに健康の危機感を覚えながらも、楽しく、尽きることなく幸せなひと時だったと述懐します。

私は早速返信を送りました。“間違いなく、そのWendyさんたちです”と。かたや、私はWendyさんのところへ電話して、“鹿児島のミズ・今給黎を知っているか?”と尋ねました。“勿論知っているヨ”電話のJoeffがいいます。“彼女は、フェィマスなワールド・セーラーだけど、オレは彼女を、その前から知っているんだ”と、とても誇らしげです。

私が経緯を説明すると、Joeffは、“It' s so small world!”(世の中、狭いねェ)と慨嘆し、とても懐かしそうでした。Wendyさんは買い物に出掛けて不在でしたが、“帰ったらその話、伝えるよ、すごく喜ぶぜ”と、Joeffはとても嬉しそうにいいました。

いやー、全く、世間は狭いですねェ。

3月30日(金)/曇・雨・27℃・南の風30Kn/Stormy weather

午前中、すごい雨が降りました。あんな雨は、赤道に近い島々でも経験がありません。何しろ、ゴルフボール大の雨滴が、ざあざあではなく、ぼたぼたと、しかも激しく降るのです。

初めは、キャビンの中にいて、何の音だろうと訝ってハッチを明けました。そうすると、普通の雨に混じって、巨大な雨が落ちてきます。降るなんて感じじゃなく、正に落っこちてくるという感じです。あっけにとられ、キャビンの中にまで飛沫が入るのも構わず眺めていました。雨は、塵を核として水蒸気が一滴の雨粒になるはずですから、大きいといっても限度があるはずです。まあ、想像ですが、空中で雨滴同士が寄り集まってああなったのだろうとしか考えられませんが、それにしても、おかしな雨でした。

昼過ぎ、マーガリンや卵が切れたので近くのスーパーへ行きました。帰りは、いつものように、マリーナの金網フェンスの海側をくぐってショートカットします。そのため、近くのコーストガードの窓の下を通ります。

後ろから“Zen!”と呼ぶ声が聞こえました。振り返ると、コーストガードの建物の窓から、クラークが呼んでいます。彼は、Kawanaの街にあるローリース・マリーナという所にヨットを止めて暮らしているオージーで、ボランティアで週に一日コーストガードに勤めています。

オーストラリアのコーストガードは、ほとんどがボランティアで組織されていて、十分に機能しています。勿論、無給ですが、時には命がけの救助活動もします。しかも、彼等は、こうしたサーヴィス(軍事的活動を含むこの種の活動のこと)に参加することを、心から誇りに考えています。この辺りに、西欧諸国の官と民の捉え方、考え方が潜んでいるようです。彼等にすれば、潜んでいるのでも何でもなく、そのままにそこにあるということでしょうけれど。

クラークは、朝8時から午後3時まで勤務なのだそうですが、彼等は、見張り塔のように高いオフイスから水路を看視し、無線の呼びかけや応答、地域の天気予報や警報の発令、出航しエントリーした船の帰港確認、さらに、いざという時の救助活動などをします。

クラークは、時間があれば寄っていかないか、といいます。こんな荒天じゃあ、忙しいだろう、というと、こんな天気に出る船がないから、逆に暇なんだそうです。

見張り塔のようなオフイスで、コーヒーをご馳走になりながら、一時間ばかり世間話をしてきました。彼は、ボランティアとはいっても、勤務につけば立派に拘束力を持った“官”です。でも、そこに、“民”との隔たりが全くありません。

私のヨットの3艘向うには、ウオーター・ポリスのパトロール艇が係留されています。日本でいえば水上警察ということになりますね。彼等の詰め所はシャワールームの棟にあって、ヨットクラブを訪ねた日本人がいたりすると、ロバートなどは、わざわざ、私の所へ案内して来たりします。そして、歓談にまじって、楽しげにウオーター・ポリスの説明などをしてくれます。案内された日本人は、よく、“気さくでいいですねェ”といいます。

以前、カナダで入国する時、イミグレーションとカスタムスのオフィサーが凄く親切で驚いたことがあります。すべての手続きが完了すると、そのオフィサーは、私は寛容だったか(対応が優しかったか)?と尋ねました。勿論!あなたたちはとても親切で寛容だった、と私は答えました。

その後も、非番の時などでも、何か困ったことはないか?と尋ねてくれます。どうしてそんなに親切にできるのか不思議だったので、そう尋ねてみました。そうしたら、

「私たちは、カナダという国を誇りに思っている。だから、あなたにも、この国の素晴らしさをを理解してもらいたいし、出来れば、カナダが好きになってもらいたいから」という答えでした。私は、無条件でカナダが大好きになりました。

アメリカは、入国ではストリクトという評判ですが、それでも、カナダほどソフトではないとはいえ、自国の良さを理解してもらおうというスタンスが窺えます。カスタムス(税関)が厳しいといわれるニュージーランドもオーストラリアも、その厳しさを押し付けるのではなく、よく理解してもらおうという努力を怠りません。そして、入国者に接する態度は、常にフレンドリーです。

私は、外国人として日本に入国したことがないから経験はありませんが、外国人の評判を聞くと、日本では、オフィサーから後進国並みの強権意識を感じたといいます。それが事実なら、とても残念なことです。確かに、南太平洋の小さな国の中には、権力を前面に押し出し、威嚇するような応対を経験することがあります。それほどではないにせよ、日本という国の分類が、自国の素晴らしさを理解してもらいたいというスタンスか、威圧的な傾向なのかということは、本当に気になります。

禅がケアンズに碇泊していた時、ケアンズ在住の日本人が遊びにきてくれました。初めは、その方がどういうお仕事をされているのか知りませんでしたが、仕事では、“毅然として、つけいる弱味を見せられない”といいました。どういうお仕事ですか?と尋ねると、領事館に勤めています、とおっしゃいました。

あア、この姿勢が問題なのだ。これじゃあ、全く、南太平洋のあの小国と変わりがないじゃありませんか。勿論、この方が特別なのかも知れませんが、官の“依らしむべし、知らしむべからず”という明治時代並みの常識が、今でも当たり前と思われているのでなければよいのだが、と願わずにはいられませんでした。

Zen/西久保 隆


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