■Part―4・The South Pacific Ocean / to Australia 《その先の海》
[南太平洋クルーズ・パート2]
《ヤサワ諸島/Yasawa Islands》
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自然が相手だから、勿論、毎日が快晴順風という訳にはいかない。次の碇泊地へ向かおうとすると、前夜から強風が吹き荒れた。天気図によると、かなり活発な前線が接近しているようだった。
六月二十八日、朝十時、僕は強風に苦労しながらアンカー・チェーンを巻き上げた。目的地は、フィジーのハイライトであるヤサワ諸島、その南端に位置するクアタ・アイランド(Kuata Island)だ。
航程は、北へたった七浬。しかし、風は真正面のクアタ島から吹いてくる。がぶられて船足が伸びず、サンディー・ビーチの入江に投錨したのは四時間後の午後二時過ぎだった。
クアタ島は、ダイバーたちの憧れの的、The Coral Cliffs of Kuataで有名だ。Cliffは崖の意味で、珊瑚礁が三十メートルの深みへ落ち込んでいるそうだ。煌くような色彩にあふれる珊瑚礁が、はじめなだらかに傾斜して、次第に色彩を失いながら垂直に濃紺の海底へと落下する。僕はダイビングをやらないから詳しいことは分からないが、かつてタハア島のパスで経験した不思議な感動をもとに、それがダイバーにとって如何に魅惑に満ちたものか想像がつく。
錨泊したサンディー・ビーチに至る途中の危険なリーフは海図が示す位置に発見出来なかった。あるべき障害物が見つからないということはとても不安なものだ。疑心暗鬼で錨を打ち、僕らはCliffへ出掛けた。ところが、Cliffもまた海図が示す位置にはなかった。
地形に照らして見当をつけシュノーケリングで海面を漂ってはみたものの、Cliffとおぼしき潮流の激しいポイントはスキューバの道具を持たない僕らには手強過ぎた。
ヤサワ諸島に関する詳細な海図はない。僕らの手元には、ニュージーランドで或るヨッティーからコピーさせてもらった八ページほどの手書き海図があるばかりだ。それが、この海域では最も信頼できる海図だった。
これからは海図を目安として、航路は、これまた誰かにコピーさせてもらったクルージング・ガイドと相談しながら目で確かめて進むしかない。精査されていないこの美しくも危険いっぱいの海域と、素朴で魅力にあふれる島々を訪ねることこそは、若しかすると、僕らが初めて体験する冒険なのかも知れない。
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クアタ島のすぐ北にワヤセワ・アイランド(Wayasewa Island)があって、さらに、それに接するようにワヤ・アイランド(Waya Island)がある。
クアタ島の次に、僕らはワヤ島を訪ねた。
ワヤ島は、ヤサワ諸島で唯一高い山が聳え、周囲は切り立つ崖に囲まれた風光明媚な島だ。
クアタ島を出航すると、ワヤ島南西端の迷路のような水路を進む。このまま進むと行き止まりになりそうなリーフの間を、ヨットが通れる隙間を目で見て探しながら前進する。
ワヤ島の西側へ出ると、大きなバリアリーフに囲まれた水路を北へ向かう。右手の島は深い緑が綾なす断崖の絶景だ。さらに北上すると、断崖はなだらかなビーチへと続く。そこは、オクトパス・クラブというバックパッカー・リゾートのあるリクリク・ベイ(Liku Liku Bay)だ。さらに島の北端を回れば今日の碇泊地ナラウワキ・ベイ(Nalauwaki Bay)に到着する。
ベイの中にもいたるところに浅瀬やリーフがあって、広いベイなのに意外と錨泊に適した場所が見つからない。僕らは、岸とリーフに挟まれた狭い水面に錨を入れた。
早速上陸してセブセブを済ませ、僕らは、北へ伸びる半島のくびれた部分の尾根を越え、先ほど通り過ぎたリクリク・ベイへ行ってみた。
尾根のてっぺんから見下ろすと、渺々と展がる真っ青な海原の向こうに朧気にかすむナヴィティ・アイランド(Naviti Island)が見える。この無限とも見える景色の中に、小さな点のように[独尊]と[禅]があった。あらためていうのもおかしな話だが、僕は、広大無辺な海のスケールに比べ、ヨットのあまりにも小さく非力であることの、このかけ離れた対比に目を見張った。それは、太古から、夢を追い求めてやまぬ人類がたゆむことなく海へ向けて舟を進める精神の原図のようだった。僕は、フィルムには収まり切らない風景に向けて何回もシャッターを押していた。
オクトパス・クラブは僕らを歓迎してくれた。クラブでランチを頂きながら、僕らはメケ(フィジアン音楽とダンスのショー)のことを尋ねた。クラブでは、人数が集まればショーを開催するそうだ。現在のリゾート客の人数では無理だけど、若しあなたたちが参加するなら、明日の夜、メケを開きましょうということになった。
夕方、僕らは再びリクリク・ベイのオクトパス・クラブを訪ねた。今夜は、待望のメケを堪能することが出来る。
ところが、午後から北東の風が勢いを増してきた。ベイの開口部から吹き込む風でちょっと心配だったが、僕らは尾根を越えてリクリク・ベイへ出掛けた。
メケが始まるのは夕闇が迫る頃だから、僕らはナラウワキ・ベイの強風も忘れてビーチで遊び呆けていた。
黄昏の頃、地元の男が、「向こうのベイのヨットはあなたたちのものか?」と尋ねた。
男は、ナラウワキの漁師だった。
「リクリク・ベイは山で遮られているから穏やかだけど、向こうのベイは今、大時化になっている。ヨットが危ないかも知れないので、今のうちにこちらへ回航してはどうか」と男がいった。
とはいえ、今や足早に夜が迫っている。この暗礁だらけの海を、どうやって回航するというのだろう。男は、この辺りの海底は掌を指すように知り尽くしているから、私が水先案内をするといった。しかし、ヨットは二艘だ。それに、彼はヨットのキールの深さを知らない。
僕らが思案していると、男は、もう一度ナラウワキへ行って様子を見てきてやろうといった。僕らは縋る思いでお願いした。
僕らが参加することで今夜のメケが開催されることになった。そして今、歌い手や踊り手が既に四十人ほども集まって来ていた。仮に今、僕らがメケをキャンセルしたら、彼らが蒙る損失は計り知れない。それに、ヨットへ戻ったとして、僕らに一体何が出来るだろう。
男が戻って来て、何とか凌げそうだといった。もう運を天に任せてメケを楽しむしかない。馨くんと僕は、そう胆を括った。
メケに先立って、カバを飲み交わすセブセブが行われ、やがてディナーが進み、歌が始まった。フィジアン音楽とダンスは、タヒチアンのそれと大いに違っていた。タヒチアンはスイートで軽快なリズムが明るくハッピーだけど、フィジアンのそれは素朴で勇壮で、そして微かにインドネシアやニューギニアのようなフィーリングを帯びていた。男の踊りは戦闘や狩りなどを象徴したものが多く、女性のそれは婚礼などの祝いごとや農作業などの日常を題材にしていた。そして、女性の舞の仕種に日本舞踏に通ずる身振り手振りが見られたことが印象的だった。
彼らのコーラスは本当に見事だった。まるで、どこかの有名なグリークラブのように重厚で完璧なハーモニーが、磯の波音が轟く熱帯の夜の闇に溶けていった。そして最後に、全員の別れのコーラスでメケが終わった。
宴の幕は降りた。さあ、戦闘開始だ。
僕らは、先を競って山道を駆け登った。尾根が近づくと猛烈な風が襲ってきたが、風に逆らって僕らは走った。原始の闇の中、遥かなベイから怒涛の音が聞こえてきて、僕らを苛立たしいほどに急き立てた。
岸には巻き波が押し寄せ、夜目にも白く磯に砕けていた。懐中電灯の明かりの中に見る僕らのヨットもまた巻き波に翻弄され、荒馬のように舳先を天に突き上げていた。それは、海底を噛むアンカーがいつ外れても、そして、ヨットが磯に打ち上げられても不思議がない修羅場だった。
全身ずぶ濡れになりながら、僕らはディンギーに飛び乗った。何度も転覆しそうになりながら岸を離れ、[禅]の舷側に辿りついた。しかし、激しくピッチングするヨットに取り付くことが命懸けだった。やっとデッキに這い上がると、僕はまっしぐらにバウへ走った。そして、アンカーチェーンをさらに十メートル伸ばし、スプリングのロープをダブルにとった。
スターンへ行ってみると、チェーンを伸ばした分、岸側のリーフが船尾のすぐ後に迫っていた。もっと波浪がひどくなればエンジンの力でアンカーの負担を軽減してやる手もあるが、今はこれで凌ぐしかない。
荒れ狂う馬の背にしがみつくようにして一夜が過ぎた。風も波も衰えなかったが、明るくなって海底が見えるようになると、僕らはナラウワキ・ベイを脱出し、[独尊]と[禅]をリクリク・ベイへ回航した。
北に突き出た岬を回ると、海は嘘のように穏やかになった。僕らは、オクトパス・クラブの正面にアンカーを入れた。尾根を見上げると木立が大きく風に撓んでいたが、リクリク・ベイはまるで別世界のように美しく平穏だった。
しかし、はじめ静かだったベイも、その日の夜中から荒れ始めた。巻き波こそ入ってこないものの、三十五ノットほどの突風をもろに受けると、アンカーの把駐力が弱い珊瑚砂の海底が心もとない。
しかも突風は狂ったようにいろんな方向から吹いて、時化を逃れてリクリク・ベイに避難して来たアメリカ艇の[Hanabela]が、すぐ近くの[禅]と互いに舳先を向かい合わせている有様だ。快晴というのに、何という風だろう。僕は本当に強風に魅入られているようだ。
七月二日。こんな海況では出航は無理だ。僕一人アンカー番に残り、みんなはナラウワキで親しくなったアメディおばさんの一家と、鍋と調味料だけ持ってピクニックに出掛けた。食材は全て海と山から得られる。船から眺めると、遠くのビーチで碧ちゃんを含む子供たちが走り回っているのが見えた。
***
七月三日。美しいリクリク・ベイを後にして、五浬ほど北上した。今日のアンカレッジは、ドラワクァ島(Drawaqa Is.)とナヌヤバラヴ島(Nanuya Balavu Is.)の間のドラワクァ・パス。ガイド・ブックによれば、カンフォタブルでグッド・プロテクションの泊地となっている。
しかし、実際は潮の干満で流れの向きが入れ変わる急流の泊地だった。幅の狭い河に縦に並んだ格好でアンカーリングした[独尊]と[禅]は、折からの二十ノットの風とは無関係に、潮流の向きにあわせて前になったり後になったりして錨泊していた。
七月四日、十時半、僕らはドラワクァ・パスを出航し、すぐ隣りのナヴィティ・アイランド(Naviti Island)へ向かった。寄港地はナヴィティ島北端のソモソモ・ベイ(Somo Somo Bay)。たった五浬ほどの航程だ。
ソモソモ・ヴィレッジのチーフは女性ということだった。文化の違いに折々驚かされたり感心させられたりしてきたが、ただ一人の女性酋長がフィジー文化の中でどんなふうにヤサワ諸島最大のヴィレッジをまとめているのか興味があった。僕は直に女性酋長に会って、その人柄に触れてみたいと願った。
今日は土曜日。学校が休みで、ベイは陽気な子供たちに溢れていた。上陸のためにディンギーに乗り移る頃から、僕らは元気な子供たちに囲まれた。本当に純真で明るい子供たち。見ているだけで、思わず笑顔がこぼれてしまう。とても、ナタンドラで会った子供たちと同じフィジアンとは思えない無邪気さだ。
彼らのエスコートに導かれてビーチに着くと、僅かに年長の女の子が出迎えてくれた。名前はサルといって、とても利発そうな子だった。彼女は、僕らをチーフの家へ案内してくれた。
しかし、セブセブに出向いてみると、チーフは不在だった。話によると、彼女はフィジーでも相当の実務的な権力者で、毎日、あちこちの島を訪ね歩き、今日もラウトカでの会議に出席しているそうだ。残念ながら、僕らはついに彼女に会うことは出来なかった。
代理チーフにカバを献上しセブセブを終えた。サルはヴィレッジを案内してくれた。そして、僕らは彼女の家に招かれ、カッサバと紅茶をご馳走になった。
サルの家にはベンという老人がいた。ベン爺さんは村の有力者で、年寄りを敬うというフィジーの文化的気風と相まって、全ての村人が彼を尊敬していた。
或る日、彼は、僕らをピクニックに誘ってくれた。
当日、朝八時、今日の予定を尋ねにベン爺さんの家を訪れると、爺さんは未明の五時前からピクニックの準備に出掛けたそうだ。僕らは、彼の誠意を無にしてはいけないと、眠い目をこすりながらディンギーでワンダラー・ベイへ駆けつけた。爺さんは、幾人かの若者と炊事のかまどを作ったり、カッサバを掘り、椰子の実を採り、魚を獲ったりして僕らを待っていた。
ベン爺さんをはじめ、島の人々の厚意で、僕らが心のこもったピクニックを経験したことはいうまでもない。
さらにベン爺さんは、僕らを、ワンダラー・ベイの反対側のリーフにあるスピットファイア・ラグーンへも案内してくれた。
そこには、第二次大戦中に墜落した英国の戦闘機が今なお海底に眠っていた。日本と敵対したフィジアンとして、或いは、兵士として実際に日本軍と戦ったかもしれないベン爺さんが、日本人の僕らにどんな感情を秘めているのか、僕はとても気になった。しかし、爺さんは、そんなことはおくびにも出さず、終始、にこやかに僕らを楽しませてくれた。
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七月七日。僕らは、ベン爺さんや心優しい村人に見送られ、ソモソモ・ベイを後にした。行く先は、ヤサワ諸島クルーズのハイライト、ブルー・ラグーン(Blue Lagoon)。
ブルー・ラグーンとは、一九八〇年製作のアメリカ映画『青い珊瑚礁』の舞台となった所で、正しくはナヌヤ・セワ・アイランド(Nanuya Sewa Island)という。僕は、日本で何度もその映画を観ていたので、南国のロマンそのもののようなナヌヤ・セワに大きな憧れを抱いていた。
いくつかの島に沿って北東へおよそ十浬。さらにマタカワ・レヴ島の北側のパスを東へ入ると、島々に囲まれた静かな入江があった。アンカレッジには、何艘もの旧知のヨットが碇泊していた。彼らもまたブルー・ラグーンに憧れを抱いてここを訪れ、彼らの夢を物語のロマンに重ねているのだろう。
アンカレッジにはあちこちにショールやリーフがあって、デッキから眺めても変化に富んだ水の色が美しい。海の透明度も良く、島々の緑と白砂のビーチのコントラストも非の打ち所がない。なるほど、大自然そのままのこんな景観に囲まれて何日も過ごしていると、少年と少女のあの夢のような物語も生まれてくるというものだ。あれは、文明に失望した人間が描いた人生のユートピアだ。そして、決して実現することがない夢だからこそ美しく、観る者に果てしないロマンを与えてくれるのだろう。
僕らが物語の少年や少女にはなれない。それでも、この類まれなパラダイスを味わい尽くすことは出来そうだ。変化に富んだ磯を訪ね歩くことも、白い砂浜で時を忘れて過ごすことも素晴らしい。それに、岸辺のリーフも、潮が早く荒々しいパスもシュノーケリングやダイビングの第一級のポイントだ。自然は、いつだって僕らの遊びとロマンの宝庫なのだ。
ナヌヤ・セワ島の向かい一浬ほど北にタヴェワ・アイランド(Tavewa Island)という小島がある。そこには、タニース・プレィスというケーキ屋があった。
ケーキ屋といっても、白くペイントされたフランス窓の洒落た建物ではない。フィジーの村に見る普通の家ではあるが、確かに美味しいケーキを食べさせてくれる。僕らは、強い風に逆らい、飛沫にずぶ濡れになりながらディンギーで何度もそこを訪れた。驚いたことに、あまり遅く行くと売り切れでケーキにありつけないこともあった。こんな人も住まぬ所なのに、文明の香りがする甘味を懐かしむヨッティーやバックパッカーが絶えないようだ。
蒸しパンをちょっと飾ったほどのケーキと紅茶は、灼熱の太陽や足の裏を焼く白砂、そして何も彼もが潮ッ気を帯びてしまう世界にあって、どんなにか僕らの日々に潤いを与えてくれたことだろう。タヴェワ島を訪れると、僕らは日がな一日、ケーキ屋の鶏を追いかけたり、犬と遊んだり、木陰で本を読んだり、時を忘れて話に興じたりして過ごしたものだ。
或る日、[独尊]から賑やかな声が聞こえてきた。デッキに出てみると、馨くんが釣りをしていた。突然、イカの大群が回遊してきたそうだ。碧ちゃんがはしゃいでいるのは、釣り上げるたびにイカに墨を浴びせられるためらしい。倫子さんが、汚れたデッキを洗いながら、墨が粘着性で海水を流しただけではきれいにならないと嘆いていた。僕は、馨くんからイカ針を一つ借り、早速、釣りの仲間に入れてもらった。
イカ釣りのコツは、針に掛かったイカの体が白くなるまで海中で墨を吐かせることだ。僕は、海水しか吐かなくなったイカを五匹釣り上げた。それでも、バケツに取り込んでから、何度か最後の抵抗の墨を浴びせられてポロシャツを汚した。倫子さんがいう通り、墨は粘着性で洗濯しても薄黒いシミになって残った。
活きのいいイカは、その夜、刺身となって僕らの食欲を満たしてくれた。イカの本場・北海道出身の僕だけど、今まであんなに美味しいイカ刺しを食べたことがない。
僕の頭の中で、究極のイカの本場は、函館からブルー・ラグーンへとするりと変わってしまった。
時には現実にかえり、船のメンテナンスに精を出す。
数日前からバッテリーの不調が気がかりだった。二系統のうち、220アンペアの大きなバッテリーが完全に死んでいるようだ。本来なら、ニュージーランドで新しいバッテリーを積み替えるべきだったし、それに永い間バッテリーの手入れをしなかったことは僕の手落ちだ。
バッテリー液を調べてみると、ほとんど空っぽだった。これではいくらウインド・ジェネレーターが唸りを上げて回ってもチャージするはずもない。
バッテリー液の持ち合わせがない。せめて蒸留水でもあればいいのだが・・・。船具屋も薬局もない無人島のようなところでそれだって無理な話だ。馨くんに相談すると、ミネラル分が少ない造水機の水が適切とのことだった。[独尊]では、毎日、バッテリーチャージでエンジンを回す折造水機を稼動させるので、その水を少しずつ分けてくれることになった。
勿論、完全に生き返りはしなかったが、バッテリーは三十%ほど回復してフィジー本島までの航海に役立ってくれた。長期航海には、稀硫酸液を持ち歩くのは危険だが、せめて蒸留水を一ガロンほど常備する必要があることを痛感した。
パラダイスとはいえ、僕らが行く所は常に無防備な大自然のど真ん中だ。ブルー・ラグーンもまた北風が吹くと地形的に風道になって強風の脅威にさらされる。
その頃、ヤサワ諸島には連日ウインド・ワーニング(強風注意報)が発令されていた。しかもほとんどが北風だったから、ブルー・ラグーンといえば圧倒的に強風の想い出が多い。
ヤサワ諸島に来たからには、当然、僕らは最北端のヤサワ島を目指していた。しかし、強風の折にいつもやって来る偏頭痛が僕の気力と好奇心を萎えさせ、とても向かい風に逆らってクルーズを断行する気にはなれなかった。
[独尊]は、予定通りヤサワ島へ向かったが、[禅]はブルー・ラグーンにとどまった。そして、風が衰えたら、来た道を逆にたどってフィジー本島のヴィチレヴへ戻ることにした。シーズンを考えれば、そろそろ次のヴァヌアツ行きの準備に取り掛からなくてはならない時期だった。
《ブンダ・ポイント(BUDA POINT)》
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強風注意報が解除された七月十四日、[禅]は一週間あまり楽しんだブルー・ラグーンを後にしてソモソモ・ベイへ向かった。風は依然として強かったが、追い風に助けられて楽な航海だった。
さらに翌日、ワヤ島南端のヤロンビ・ベイ(Yalobi Bay)に来た。美しい島、美しい入江。しかし、高い岩山から吹き降ろす突風が静かな入江を駆けめぐり、[禅]をあちこちに振り回した。
セブセブの後、僕らは村を散策した。学校を訪ねると、明日から定期試験が始まるそうで、生徒たちは熱心に自習をしていた。邪魔にならぬよう、彼らに頑張って!と声をかけて僕らは学校を辞した。
夕方、ベイに戻ると[独尊]がいた。彼らは、朝、ヤサワ島を発ってヤロンビまでの五十浬を一気にやって来たそうだ。岩礁とコーラル・リーフだらけの五十浬を走ることは容易なことではない。よくぞ明るいうちに到着できたものだ。
いっしょに夕食を頂きながら、明日、僕らはフィジー本島のヴィチ・レヴへ戻ることを決めた。
ラウトカのマリーナは昨年(一九九七年)のハリケーンで決壊したと聞いていたし、無人になったマリーナは治安が悪化しているとも噂されていた。だから僕はブンダ・ポイント・マリーナへ向かうつもりだった。しかし、[独尊]は、街に近く便利なラウトカへ行くという。兎に角、出航準備が整ったら、ヴァヌアツ行きの航海もいっしょに行こうと話が決まった。
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ヤサワ・クルーズ中はあんなに強風続きだったのに、翌朝は快晴微風のセーリング日和だった。
ヤロンビを出航した[独尊]と[禅]は、かつて一夜を過ごしたクアタ島の南を回って、一路、二十八浬先のヴィチ・レヴへと向かった。北東十五ノットの風は心地よいアビームでヨットを走らせ、所々に真っ白い砂洲(サンディー・キー)を浮かべる海は陽光を反射して紺碧に輝いていた。[独尊]と[禅]は互いに写真を撮り合った。
海という奴は皮肉なものだ。こんな素晴らしい日を例え一日でもブルー・ラグーンで過ごしていたら、どんなに美しい想い出ができたことだろう。
ブンダ・ポイントへ五浬ほどの所で[独尊]と別れ、[禅]はマリーナへ直進した。
ブンダ・ポイント・マリーナは、岬を過ぎた辺り、岸側を閉ざす砂の浅瀬を掘り分けて、見落としてしまいそうな航路標識が示す水路の向こうにあった。
狭く浅い水路を進むと、覆い被さるように張り出したバーの東屋があって、ブラジル艇[Guardian]のジョンがヒナノ・ビール片手に手を振っていた。僕らは、まるで身内に再会したような懐かしさと安堵を覚え、夢中で手を振り返した。
マリーナは、その中心に巨大なハリケーン・ブイを浮かべ、それを囲むように石垣を組んだ円形をしていた。出来たばかりということもあって、マリーナの設備は整っていた。それに、来年あたりからは、ブンダ・ポイントでも入国手続き(エントリー)が出来るようになるそうだ。スヴァがそんなに見るべきものもないとすれば、これからは、ブンダ・ポイントがクルージングの基点になるのかもしれない。
マリーナ職員の小舟に誘導され、僕らは岸辺に接近した。舫いロープに手を差し伸べてくれる人がいた。ふと見ると、何とカナダ艇[Goolka]のジョンとエレィンだった。彼らとは、サン・ディェゴ以来、ほとんど同じ航路を同じ時期に航海してきた仲だ。僕らは、上陸すると互いをしっかりと抱擁し無事を喜び合った。
ブンダ・ポイントには、マリーナのショップ以外にお店はない。何か欲しければナンディー(Nadi)かラウトカ(Lautoka)までバスかタクシーで出掛けなくてはならない。
マリーナにはいつも三台の個人タクシーがいて、運転手たちは兄弟だった。陽気な男たちで、名前は、長兄がA、次男がB、末っ子がCと呼ばれていた。
或る日、僕らはナンディーへ買い物に行った折、スミコがタクシーの車内に財布を置き忘れた。財布には現金だけでなく、クレジット・カードやアメリカのIDカードや運転免許証など彼女にとって非常に重要なものが入っていたから、僕らは途方に暮れてしまった。何といっても、ここはフィジー本島だ。欲しい物があれば、本人が見ている前でも平気で持ち去ることもある。それは彼らに盗癖があるというのではなく、所有という概念が僕らの常識と全然違うことに起因する。だから、乗ったタクシーが分かっていても少しの気休めにもならない。どうしよう・・・。僕らは、本気で考え込んでしまった。
買い物もそこそこにマリーナへ戻り、タクシーの溜まり場へ行ってみた。Aがいたので顛末を話すと、彼は、にやにや笑いながら「Bが、あなたたちのヨットへ行ったから、あなたたちも行ってごらん」といった。
ヨットの前で、僕らはBに会った。彼はスミコの財布を差し出し、「注意しなくてはいけないよ。僕らのタクシーでなかったら、絶対に戻らないからね」といった。
僕らは、早速現金の一割を持ってお礼に出向いた。しかし、彼らはそれを受け取らないばかりか、照れてお礼の言葉さえまともに聞こうとはしない。
僕らはヨットに戻り、今度はウイスキーを一瓶持って彼らを訪ねた。今度はよろこんで受け取ってくれた。
文化の違いとは、物事の価値観や所有の概念だけでなく、感謝の気持ちの伝え方にも大きな違いがある。下手をすると、感謝の行為が相手を侮辱することだってあり得るのだから。そうした感覚の違いは、フィジー、トンガ、ニウエ辺りの国に顕著なようだった。
出航を目前にして、バッテリーを積み替えなくてはならない。或るヨッティーの話だと、フィジーで積んだバッテリーが三ヶ月持たなかったという。僕がフィジーでバッテリーを買うというと、誰もが眉をひそめた。
とはいっても背に腹はかえられぬ。僕らはナンディーへ行って、サンライズ商会という店を訪ねた。アリという店員が、フィジー製とオーストラリア製があるが、どちらがいいかといった。僕は迷わずオーストラリア製を選んだ。しかし、フィジー製もオーストラリア製も、僕が見た限りでは外見的にほとんど違いはなく、どこにもオーストラリア製なんて表示がない。しかし、値段は格段に違う。疑心暗鬼のまま艇に戻り、僕らは夕方の配達を待った。
五時という約束なのに、アリは八時にバッテリーを届けに来た。6ボルト・110アンペアのバッテリー二個を直列に繋ぎボルト・メーターを見ると12ボルトを僅かに下回っている。十分チャージしてあるといっていたのに、おかしな話だ。翌朝、二時間ほどチャージしても、キャパシティーの13.5ボルトには届かない。
僕はバッテリー液の比重を計ってみた。1.225しかなかった。本来、1.275でなければいけないのに、稀硫酸の比重が足りないのだ。これでは、いくらチャージしてもボルテージが上がるはずがない。
僕はサンライズ商会へ電話をして、不良品だから引き取ってくれと抗議した。詳しく理由を説明すると、夕方、1.275比重の稀硫酸液を持って行って、液を交換しようといった。
バッテリー液の交換が終わって、アリがいった。フィジーでは、自動車バッテリーは1.225の液を使うのが普通だ。それは、太陽の直射熱と気温が高いからなのだそうだ。ちょっと怪しい理論だが、フィジーではそれが当たり前のことらしい。それを知らずにヨットに積み寒い地域へ行けば、結果として不良バッテリーということになる。
僕らが積んだバッテリーは、その後二年間、何の問題もなく働いてくれた。フィジーのバッテリーは粗悪品という噂は、どうもそんなところに原因があったようだ。
七月二十一日に出国のクリアランスを終えた。しかし、連日、ウインド・ワーニングが出続け、出航のタイミングが掴めなかった。
所在なく、僕らは、[Goolka]のジョンとエレィンや彼らのお客でラスという七十歳ほどの引退した裁判官らと、マリーナに隣接したファスト・ランディング・レストランで食事と歓談を楽しんだ。トロピカルを絵に描いたようなとても雰囲気のあるレストランでトロピカルの夜を過ごすというのもフィクションっぽく、そしてミステリアスで面白かった。
また、[Guardian]のジョンとアチラ、[Ichi]のマイクとレス、それに[Kiaroa]のみんなと、水路に張り出した東屋のバーで折から開催中のワールドカップ・サッカーをテレビ観戦したのも想い出深い。
夕暮れ時、遥か彼方のマロロライライのリゾートにいくつもの灯が揺れていた。さらに北の方角には、影絵のように遠いワヤ島の山並みも見える。あそこも、そしてあそこにも、みんな僕らの想い出が刻まれている。いろんなことがあったけど、振り返ってみればこの一ヶ月あまりのアイランド・クルーズの何と豊かな日々だったことだろう。もうすぐフィジーを後にすると思うと、僕らを取り囲む全てに僕はとても深い愛着を覚えずにはいられなかった。
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