■Part―5・East Coast of Australia《その先の海》
[ムルラバ(MOOLOOLABA)にて]
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ムルラバは素晴らしい街だった。そして、ムルラバ・ヨットクラブは最高のホスピタリティーで、僕らインターナショナル・ヨッティーを迎えてくれた。
都会のような利便性はないが、美しくのびやかな環境や人々の心の広さ、そして、南緯二十六度という亜熱帯の温暖な気候などがそれを補って余りある。オーストラリアでオフシーズンを過ごそうというヨッティーがいたら、僕は躊躇うことなくムルラバを勧める。
ヨットクラブは細長い砂洲の内側にあり、外側、すなわち広い公園の向こう側はサンシャイン・コーストのビーチだ。名が示すように海の青色は輝くばかりに明るく、淡いベージュの砂浜はゆるやかに曲線を描いて目路の果てまで続く。ビーチでは、年間を通して水に戯れる人の絶えることがない。
とはいえ、クリスマス休暇などの一時期を除けば、まるでプライベート・ビーチのように人影がまばらだ。広すぎるビーチは、人で埋まるということがほとんどない。
溢れるばかりに太陽が降り注ぐビーチにはトップレスの若い女性が肌を灼いて横たわり、その傍らの波打ち際を僕は毎日サンダルを手に裸足で散歩する。歩き疲れれば、海に臨むカフェに腰を降ろしてカプチーノをオーダーし、潮風に吹かれながら読書をしたり、いつまでも景色を眺めたりして時を過ごす。僕の周りでは、いつもゆったりと時間が流れていた。
ヨットクラブに停泊するヨッティーたちの多くは、朝目覚めると水着に着替え、ボディーボードを抱えてビーチへ行く。冷たい海水で眠気を吹き飛ばし、泳ぎとサーフィンで朝のストレッチを済ませるとクラブで朝のシャワーを浴び、艇に帰って遅い朝食をとる。
彼らは日中少しばかり働き、夕方になればクラブのバーへ出掛けてクルーズの情報交換と称し、仲間とワインを楽しむ。そんな優雅な日々をさりげなく過ごせるのがムルラバのヨット・ライフだ。
情報交換は単なる酒飲みの口実だけではない。彼らの航海に関する情報は豊富で常に新しく正確だ。仲間に混じって話を聞いているだけで、僕は何度も目から鱗が落ちるような経験をした。
ここまで来るヨッティーに半端な奴はいない。何しろオーストラリアは太平洋クルージング・ルートの終点だから、誰もが敬意をはらうべき航海実績を積んでいる。
或るドイツ人のカップルに航海の予定を尋ねると世界周航だといった。「サーカム・ナヴィゲーション」という言葉を単純に「世界一周」と解釈した僕が、ドイツまではまだ先が長くて大変だねというと、彼女は、
「平気よ。今回が三周目だけど、今まで一度も国へ帰らず地球を回っているわ。これから先もそうするつもりよ」といった。そういう桁外れのインターナショナル・ヨッティーの溜まり場がムルラバ・ヨットクラブなのだ。
内陸へ車で三十分も走れば、早朝なら大学のキャンパスにカンガルーの群れを見ることもある。また、少し山間に分け入れば、童話の情景のような夢いっぱいの美しい村を訪ねることもできる。
そして、キャンプ場やキャラバン・パーク(オート・キャンプ場)が国中どこにでもあるから、アウトドア・ライフをエンジョイするチャンスにこと欠かない。
さらに、およそ人が寛ぐ所には、必ずバーベキューの設備がある。熱源は電気やガスのものも多いが、山間などのBBQプレイスには手頃に割った薪が山積みされていて、使用料は一切不要だ。食材だけ持って行けばいつでも素敵なピクニックが楽しめる。
オーストラリアには野鳥が多いが、ムルラバも例外ではない。極彩色のインコがスズメ以上に多く、夕方ともなれば木立の巣に帰った彼らの囀りは騒音に近いほどだ。水辺にはペリカンが屯し、悠然と大きな翼を広げて飛ぶ姿は目を楽しませてくれる。時に、大型のフクロウほどもあるクッカバラ(ワライカワセミ)がマストの天辺で途轍もない笑い声を響かせて僕らを驚かす。また、稀にではあるが白や黄やピンクの大きな鸚鵡が飛来することもあるし、イーグル(白頭鷲)がテリトリーに侵入してカラスの群れに撃退されるのを見ることもある。
オーストラリアは紛れもない文明国でありながら、身近に計り知れないほど豊かな自然を抱えている。オージーは、それらをアウトドア・ライフとして日常に巧みに取り入れ、彼らの価値観の原点である『人生をエンジョイする』という人生観にバラエティーを添える。
余談になるが、『豊かな人生を楽しむ』という人生観は、オージーのみならず西欧諸国の普遍的で究極の価値観なのだと気づいたのはカナダでのことだった。カナダ人のセーラーが、僕に何度も「何故、シングルハンドで航海をしなくてはならないのか」と尋ねた。勿論、彼らが、ストリクトな生き様に価値を見出さないというのではない。ただ、クルージングという本来楽しむべきステージで、何故辛い思いを敢えて選ぶのか、そこが彼らにはどうしても納得がいかないらしい。
僕ら日本人は、苦しみに耐えて何かを成し遂げることに達成感と価値感を見出す。しかし、原点に立ち返って、苦しみを凌ぐことがなぜ価値あることなのか、よくよく考えてみると確たる根拠がないのはどうしたことだろう。
因みに、僕ら日本人の価値観の原点は何か。思索の結果思い当たったのは『生産性』だった。
働くこと(モノを産み出すこと)は全てに勝る価値であり、遊ぶこと(働かず消費すること)は無価値なことという図式が浮かび上がってくる。それが極度に単純化した日本文化の一面だ。
そうした考え方が間違いとはいわない。しかし、海の向こうに『人生をエンジョイする』ことが究極の価値観とする国があることを僕らは知らなくてはならない。そこをしっかり抑えて理解しないと、いつまでも日本はアジアの片隅の不思議な島国という西欧の常識を脱することはない。
世界を周航するということは、単に大洋をいくつも踏破する冒険ではない。南・北太平洋を巡ってオーストラリアに辿り着いた僕は、多くの国を訪れて肌でその文化や人情に触れ、異なる考え方の人々を理解し友情を結ぶことこそが航海というものの真の目的なのだと実感した。
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どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう?
ロンとドロシーのキング夫妻(Dorothy & Ron King)は、戸惑ってしまうほど僕の世話を焼いてくれる。常識的に、僕はお返しを考えるが、気持ちに適うアイディアが浮かばないし、下手な返礼は却って彼らの厚意を侮辱しかねない。
西洋人は、クリスマスやニューイヤー・イヴなどに独り淋しく過ごす人を放ってはおけないらしい。ロンとドロシーが正にそうだった。本来なら彼らが水入らずで楽しむべき夜を、僕のためにわざわざパーティーをアレンジしてくださった。
メンバーたちがヨットクラブで羽目を外して大騒ぎしているのがマリーナの[禅]にも聞こえてくる。パーティーが賑わえば賑わうほど静まり返るキャビンは孤独を浮き立たせるし、かといって一人ではカップル単位の場には入り難い。一人で入れないということではないが、独り者に同情して周囲の仲間たちが余計な気遣いをすることが却って僕を滅入らせてしまう。
そんな夕暮れ時、ロンが車で僕を誘いに来てくれた。予想もしていなかったので、僕は買い置きのワインを一本持ってあたふたと迎えの車に乗った。
家では、ドロシーが料理を用意して待っていてくれた。僕は、爽やかな夏の夜風が吹き抜ける二階のベランダに設えたテーブルで、彼らと共に世界一素晴らしいクリスマス・ディナーを頂いた。
また、ニューイヤー・イヴには、僕を日本料理店へ招待してくださった。オージー風にアレンジされているとはいえ、すき焼きは味覚だけではなく僕の心にまで沁みわたった。
僕は、思案の末、自作の書と絵を額装し、年が明けた或る日、間の抜けたクリスマス・プレゼントとして差し上げた。彼らの深い思い遣りには到底応えられるものではないが、ロンとドロシーは心から喜んでくれた。
その他、艇の整備やヴィザ絡みの法的な手続きなどに、若し彼のヘルプがなかったら僕は一体どうしていただろう。彼は労を惜しまずどんな所へも僕を案内し手助けしてくれた。
特に、僕の二年目の居留で生ずる課税に対処して、ロンがブリスベンの税関まで出向いてくれたことは忘れ難い。マリーナに碇泊するヨット[スカイ・ウエーブ]のライル(Lyle)がカスタムス宛てに書いてくれたレターも効を奏し、七十万円近い税金が非課税になった。僕としては、はじめから非課税であることは承知していたが、それを稚拙な英語でどう説明できただろう。
また、大の親日家のウェンディー・デイヴィス(Wendy Davies)と彼女の家族にも一方ならぬお世話になった。
デイビス・ファミリー(ご主人のジェフ、長女のキャシー、次女のデビー) は十数年前、ヨットで世界の海を周航した。その折、沖縄、奄美、九州に立ち寄り、どこよりも温かい歓迎を受けたそうだ。以来、日本が第二の故郷になり、ウェンディーは今でも大学で日本語を勉強しているし、たくさんの日本人のホームスティーを受け入れている。
ところが、その航海で彼らは今給黎教子(キュウリ)さんと親交を結んだ。彼らの日本での思い出の随所に彼女が介在している。何という奇遇だろう。彼女から届いたばかりのメールをウェンディーとジェフに示すと、彼らは、「It's so small world!(何と世の中狭いんだ!)」と感嘆の声を上げた。
ウェンディーは、彼女の家のあらゆる行事に僕を招待してくれたし、折々、僕と松浦氏のために多くの友人を招いてパーティーをアレンジしてくれた。
それらは、ロンとドロシー夫妻の場合と同じく、どういう方法で厚意に報いるべきか、僕は随分悩んだものだ。そして、遂に到達した結論は、『この真心を僕が次に回す』ということだった。
そういえば、カスタムスにレターを書いてくれたライルもそうだ。ヨットが故障して苦境に陥っていた父島の二見港で、日本の税関と二見の人々の真心に助けられたことが忘れられないと彼のレターにも書かれていた。
恐らく、ウェンディーもライルも日本で受けた厚意を順繰りに僕に回してくれたのではないだろうか。だから僕は、次の誰かへ厚意として実践するのが彼らへの感謝を示すことになる。こういう厚意の輪が世界中を巡り次々に拡がっていったら、どんなに素晴らしいことだろう。
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話を元に戻そう。
十一月十四日、[禅]はムルラバに着きオフシーズンの休養に入った。そして、十二月十五日、二年間の航海の約束を満了してスミコが[禅]を去りサン・ディェゴへ帰って行った。
十五日の早朝、僕はムルラバのバス停で彼女を見送った。
やがてバスが来た。僕はスミコをハグし、「元気で!」と一言だけいって彼女を見送った。いろいろあったけど、振り返って彼女には随分お世話になった。その感謝を言葉に表すには、見送りの時はあまりにも束の間に過ぎた。
[禅]に戻った僕は、自失したように呆然と数日を過ごした。艇が急にがらんどうになったようだった。
僕は考えるともなくぼんやりと思索し続けた。航海そのものや航海を続ける意味、言葉を変えれば僕自身の人生について。そして、僕の中に物憂い精神の疲れがうずたかく積っていることを悟った。
一九九五年の日本脱出から既に三年半が過ぎていた。当初の計画では三年間で世界を一回りして日本へ帰るつもりだった。しかし、距離こそ一万六千海里(約3万km)走ったとはいえ、まだ、僕は北・南太平洋を回ったに過ぎない。それにも拘わらず、僕はどこかで航海にマンネリを感じていた。
この先にまだ見ぬインド洋や紅海や地中海、さらに大西洋もある。しかし、それらに興味が失せた訳ではないのに、僕の眼前に展開するであろう世界にはもう新鮮な驚きの予感がなかった。
燃えるような好奇心もなく続ける航海は不毛な苦行でしかない。この先僕はどうしたらいいのだろう。
航海を止めることは簡単だ。もともと僕自身の航海なんだから、誰に気兼ねすることもないはずだ。
でも、本当にそうだろうか。
そこには、海への情熱や初めに掲げた世界周航の夢、それを成し遂げると何かに誓った決意など、航海そのものよりも厄介な内面の問題があった。それらを、汚れたシャツを脱ぐように捨て切れるだろうか。
内面の問題とは、正に自分自身に問い、自分自身に答え、思索を反芻し、さらに再考して、そして僕自身が心から納得できなくては決して解決しない。そして、航海を断念するという選択は、どういう道筋で考えてみても、逃避とか挫折とかいう思いが介在して僕自身を納得させることはなかった。
一九九九年の歳が明けた。激しい夏の暑さにも、やがて日を追って秋の気配がしのび寄る。その頃から、マリーナのクルーザーたちの間で、来たるべきシーズンの航海計画が語り交わされ始めた。
そんな雰囲気の中で、いつの間にか僕の悶々とした思いは晴れていった。多分あれは、心身の疲れが、ひと時僕をナーヴァスにしただけのことだったのかもしれない。
二月、ブラジル艇の[ガーディアン]のジョンが相談にやって来た。インドネシアのヴィザと領土内の航行許可を取る場合、三艇以上まとまると申請費用が安くなるそうだ。彼は、カナダ艇の[ゴーカ]と[禅]に協力を求めていた。
僕らは早速、バリ・インターナショナル・ヨットクラブのヴィザ申請代理人宛てにメールを送った。数日後、費用を送金するように通知を受け、すぐに手続きを完了した。
僕にはもう迷いはなかった。
五月末か六月初めに出航し、オーストラリア北端のケープ・ヨークを回って木曜島経由でトーレス海峡をダーウイン(Darwin)へ行き、出国手続きを済ませてインドネシアのバリ島へ向かう。そして、ジャワ海を北上し、カリマンタン(ボルネオ島)やシンガポールを経由してマラッカ海峡を上り、クリスマスはプーケットで過ごそう。
ムルラバ・ヨットクラブで毎週木曜日に行われるインターナショナル・ヨッティーのためのBBQパーティーでは、バリやシンガポールでの内陸ツアーや、プーケットでの派手なクリスマス・パーティーの計画が賑やかに語られた。僕らの心はすでに、海賊の脅威が噂される東南アジアの海域を軽やかに飛んでいた。
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オーストラリアを出ると、少なくても一年半は深刻な艇の故障に対処する方法がない。東南アジアでもスリランカやインド、さらに紅海沿岸の中東の国々でも、ヨットの装備や機関のパーツなどの入手は全く困難なのだ。しかも、燃料の質などが良好とはいえない地域だから故障も起きやすい。出航前に、徹底的な補修と整備が欠かせなかった。
まず、継ぎはぎだらけだったディンギーを新品に換えた。さらにバッテリー充電用にウインド・ジェネレータをスワップ・ミート(マリーナなどで行われる蚤の市)で処分し、大型のソーラー・パネルを購入した。そのためにはパネルを船尾に掲げるステンレスのフレームが必要になり、地元の舶用の鍛冶屋にオーダーした。
また、ウインドラス(揚錨機)がほとんど機能していなかったのでウェンディーのご主人のジェフにお願いして徹底的に修理してもらった。彼は腕のいいエンジニアだ。パーツはイギリスのメーカーのシンプソンに複雑な仕組みのオーダーをし、ジェフが二ヶ月掛かりで取り寄せてくれた。
八ミリのアンカー・チェーンがウインドラスのギアにマッチしていなかったので、適正な十ミリ・チェーンに換えた。そうしたらチェーン・ロッカーの容量が完全に不足することが判明し、ロッカーを拡張する大工事が始まった。
オーストラリア海域を航行する許可を申請すると、プロパンガスのボトルをロッカー内に収容することが違法で、船尾に外付けのラックを設える必要が生じた。ロンが設計図を描き、信頼できる鍛冶屋にオーダーしてくれた。また、船内の配管工事の大仕事もロンが手伝ってくれた。
さらに、マスト中段の電食の補修や水深計、風速・風向計、コンパスの新調も必至だった。そのメーター表示部を取り付けるコックピットのバルクヘッドも大幅な改修が必要になった。
出航の時期が迫っているのに、手をかけるべき個所はまだ無数に残っていた。仕事を急かしても、誰も真剣に取り合ってくれない。しかしそれは、オーストラリアでは特に驚くべきことではない。例えば、ソーラー・パネルやガス・ボトルのラックは、オーダーから取り付けまでに二ヶ月半を費やした。発注から二ヶ月目になって、僕が職人に、「もう待てない!」と強く迫ると、「Why not?(どうして待てない?)」という返事が戻ってきた。当初の約束は十日間で完成する話だったのに。
全てがそういうペースだった。気ばかり焦っても、仕事は遅々として進まない。いつの間にか、仲間たちは出航してしまった。それでもなお、手付かずの仕事がどっさり残っていた。
費用が突出したことも作業が遅れた原因の一つだった。僅かな貯金はたちまち底をつき、次の年金給付を待たなくては新たな仕事ができなかった。
どうせ仲間は行ってしまった。今期の出航を見送れば時間はいくらでもある。それに、二ヶ月毎に年金の給付がある訳だから、月日を重ねればかなりの修理だって可能になる。インドネシアのヴィザは無駄になってしまったが、僕は今年の出航を諦めるしかなかった。
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