西久保 隆
「どこから来たの?」と彼女がいった。
「日本から」僕が答える。
「私、ニュージーランド。これからどこへ行くの?」彼女が尋ねた。
「カナダ」僕が答える。
「ふーん。私、サンフランシスコ。カナダもきっといいだろうなあ。ねえ、力ナダつて素敵な所?」
「さあ、どうだろう。知らないから行くんだと思う。素敵な所も、そうでない所もいろいろあるんじゃないかな。それに、素敵なことも、そうじゃないことも」
「多分ね。ねえ、毎日なにしてるの?」
「何にも。そう、本読んだり、昼寝したり、食事を作ったり食べたり。きみは?」
「同じだわ。本諸んだり、昼寝したり、料理をしたり。ああそうだ、私お酒を飲むこともあるわ」
「そう。僕はお酒は飲まないんだ。そのかわり音楽を聞くことが多い」
「ねえ、どんな音楽?それから、どんな本を読むの」
「普通のやつさ。ロックとかジャズとかクラシックとか。いま読んでるのはアービング」
「私、ジョン・アーピング好きよ。それにレイモンド・カーヴァーも。ねえ、こっちへ来ない?それとも私がそっちへ行ってもいいけど」
「どっちでもいいよ」
「それじゃ、あなたが私の所へ来る。それから二人であなたの所へ行く。ねえ、それでいい?」
「ああ、いいよ」
* 僕は35日前にヨットで日本を出発しカナダへ向かっていた。北緯43度、西経165度、大体その辺りだ。
今朝、起きてみたら、海はうっすらと靄のかかったべた凪だった。かすかなうねりでヨットはほんの少し揺れるだけで、ほとんど油を流したようだ。周囲何百マイルにもわたって陸地などない太平洋のど真ん中で、まるで他のような凪に船を漂わせているのって、何かとても非現実的な感じだ。
ふと見ると、20メートルほど離れた所に僕のヨットと似たりよったりのもう一隻のヨットがいた。それは凪なんかよりもっと非現実的に見えた。だって日本を出て35日、僕は一隻の漁船にだって逢っていなかったし、水平線の向こうを横切っていく船影らしいものさえ見なかったのだから。
それが、南太平洋ならともかく、よりによってこんな高緯度を同じようなヨットがすぐそこに漂っているのって、どう考えてもリライアブルな話じゃない。
僕ははじめ、まだ僕が眠っていて夢を見ているのだろうと思った。そして、どうすれば夢と現実を見分けられるかを考えてみた。頬や手の甲をつねってみたりしたが、全然決め手になりそうには思えなかった。
そこでバケツに海水を汲み、ザフザプと顔を洗った。タオルで顔の水を拭っていると、「どこから来たの?」と声がしたのだ。
彼女もいま起きたばかりのようだった。ブロンドの髪が後ろの辺りで逆立ち、腕にはまだ眠気が残っているようだ。唇の端にラッキーストライクを挟んではいるが、まだ火は着いていない。彼女はこんなへんてこな出会いを鷺いている様子もなく、大学のキャンパスで暫く逢っていなかった友達に逢ったように僕に話しかけてきた。
僕は夕べ寝る前に焼いたマフィンとポットに入ったコーヒー、それに100%キャロットのジュース2瓶を持って彼女の船に乗り移った。一応、太めの舫いローブで2つの船を繋いで。
* 僕は次郎。彼女の名前はテスといった。オークランドの大学の大学院を出て暫く母校の講師をしていたが、人生の転換を試みる目的でサンフランシスコへ行くのだと彼女はいった。年齢は僕より2、3歳上くらいだろう。多分32、3歳。そばかすだらけの日焼けした顔と茶色の大きな目に知的で優しい笑みが漂っている。
去年の秋ニュージーを出てフィージーに寄り、南太平洋のいくつかの島を繋いでカロリン諸島、マリアナ諸島、そして北太平洋を北上してきたのだといった。
「それじゃあ、秋の次に夏が来て、それからまた北半球の秋を体験することになる。クルーズは楽しい?」
「とても。でも、シスコに着いたら、多分もう暫くはヨットには乗らないと思うわ」
「分かるよ、テス。でも、僕はエーゲ海までは行くつもりなんだ。多分3年くらい掛けてね」
「何か目的があるの?」
「何にも。でも、行きたいんだ。いろんな人に出会い、いろんな感動を経験して、そしてエーゲ海までたどり着く。そこで想像もしなかったような何かに出会えるかも知れない、そんな気がするんだ」
「きっと何かに出会えるわ、次郎。ひとつ質問するけど、感動して、そしてどうするの?ねえ、感動って共鳴かないと完成しないと思わない?
私もはじめそう思ったわ。いろんな感動を胸いっぱいに詰め込んでクルーズを続けようって。でも、何かか違うのよ。一人で感動しても完結しないの。分かる?感動って共鳴かないと完成しないと思わない?
血のように真っ赤な南太平洋の夕焼けにも出会ったわ。美しさを超えて何か荘厳な神秘ささえ感じた。真昼のような月夜に銀色の虹が懸かるのも見たわ。ごんどう鯨が子鯨を守るために鮫の大群と戦って死んで行く壮絶な母性愛も見たわ。でも、それだけ。見たということだけなの。写真に撮って後で誰かに見せるとかいうこととは全然違うし、その心のたかまりはリアルタイムなものでしょ。
ねえ次郎、あなたの意見が聞きたいわ」「さあ、どうだろう。僕はまだクルージングを始めて35日しか経っていないし、その辺の疑問にまだ出会っていないんだ。でも、シングルハンダーが誰も感動を持ち帰れなかったという話は聞いたことがないよ。また、もしー人じゃ感動できないのなら、誰か気の合った相手とクルーズする手もあるんじゃないかな」
「ああ、そういうことじゃないのよ。感動のテクノロジーではなく、感動の本質が何なのかということ、または人間の出会いや交わりの意味、そういったことなの。それに、私は自己中心的だから、人と上手にやっていくことは難しいわ」
「それは僕も同じだと思う。何人もの友人がいっしょに行こうといってくれたけど、やっぱりー人で出てきてしまった。一人でやる方が僕には合っていると思ったからね。
確かに一人で感動する虚しさは僕も知っている。いつだったか、もうすぐ時化がやってくるという鉛色の海を走っている時、ある島と島の間にさしかかると突然海の色がエメラルドグリーンに変わった。海底が滑らかな白砂の海域に入った訳だ。初めは気づかなかったけど、周囲が急に明るくなったと思った。何も彼もが濃いグレーに塗り込められた陰鬱な風景が突如バッと明るくなったんだ。よく見ると、海が珊瑚礁の海のような色に輝いていた。僕はデッキをグルグル走り回って大好きな人の名前を叫んでいた。でも、どんなに叫んでみても、その心のたかまりを納得して自分のものにできなかった。テス、きみがいうとおり、確かに感動は完結していなかった。その時、僕はその虚しさから愛する人と共にある意義、または常に身近にいるべき必然といったことを汲み取っていたんだ」* 僕らはマフィンを食べ、コーヒーを飲み、そしてキャロットジュースの瓶を手に話し込んだ。話がひとくぎりすると、音楽が聞きたいとテスがいった。僕は彼女を僕のヨットこ案内した。ジミー・ヘンドリックの「朝日のあたる家」と小沢のブラームス、パバロッティのナポリ民謡を数曲聞いてから僕らはセックスをした。何か体中のしこりが抜け落ちてゆくような爽やかなセックスだった。
テスは暫くまどろんでいた。やがて起き上がると、凪のうちに少し自分の船に戻って眠っておくわ、といって帰って行った。僕はそのまま眠ってしまった。
2時間ほどして目覚め、僕はデッキへ出てみた。相変わらず海は油を流したようにまっ平らだった。しかし、そこにテスの船の姿はなかった。僕の船のクリートからー本の太いロープが鏡のような海中に垂れ下がっているだけで、テスの船がいた形跡はどこにもなかった。こんな凪の海を風の力で走るヨットがどこへ行けるというのだろう。
僕は小さな声で「テス」と呼んでみた。あたかも独り言のように小さな声で。そうすると、完璧に無色で透き通った寂しさが感じられた。それはとても静かで、風のように僕のなかを流れていった。
終