『癌』

西久保 隆

「癌」イラスト

面識もない貴社に、突然こんな長々しい手紙を差し上げる無礼をお許し下さい。

貴誌には、若い頃から愛読させていただいた気安さがあります。それに、海洋関係の専門家である編集者諸氏には、この航海の発端と経緯の曲折をご理解いただけると信じます。

そして、私自身が見失ってしまったかも知れない航海の目的、それでもなお逆らいがたく私を誘う海洋との葛藤をご批評下さることをお願い申し上げます。

念のため申し添えますが、雑誌掲載やご返信は無用です。どなたかにお読み頂き、そんなことがあったのかと認識され、ひそかにご感想をお持ち下されば、それで満足です。

唐突ですが、私は癌です。

こんな個人的なことを申し上げて不快に思われるかも知れませんが、これがそもそもの発端です。

癌は自分で見つけました。

余談になりますが、病気にはそれぞれ固有の臭いがあるものです。専門家には一笑にふされるかも知れませんが、私はそう信じています。

というのは、二十歳代前半の三年半、私は肺結核で入院していました。その時の経験でそう信じるようになったのです。

隣のベッドには、北大の大学院生で匂坂という青年がいました。理論物理の学者のくせに、妙に詩作の才能を具えた奴でした。

私たちは、結核患者には固有の体質みたいなものがあることを発見し、テーベー(結核)体質と、そうでないものをクレブス(癌)体質とに分類していました。テーベー体質の特徴はヘモ(痔)体質であり、夢想家でオナニー常習者なのです。

さらに匂坂と私は、結核病棟には特有の臭いがあることに気づきました。匂坂は結核菌の臭いといっていましたが、はたしてそんなものがあるのかどうか、私は知りません。しかし、患者にも病棟にも特別な臭いがあることは確かでした。

それから随分と年月が経った或る時、叔父が喉頭癌で入院しました。見舞いに行った私は、叔父と話していて特異な臭いを感じていました。何というか、普通の口臭とは違う、乾いた腐敗臭とでもいうのでしょうか。その臭気は、私の記憶の奥深く、癌の臭いとしてインプリントされていたのです。

五十五歳の秋、私は胃の不調に悩んでいました。食欲不振、吐き気、食後の胃痛、腹部のしこり、胸焼け、便秘と下痢の執拗な繰り返しなどです。知人が癌の検査を勧めてくれましたが、私は笑って無視しました。

それから半年後の或る朝、私は歯を磨いていてあの臭いを嗅いだのです。

それは、何というか凄く納得のいく啓示のようでした。胃の不調のみならず体調の全てに対し、なるほどと思える帰納性が、未解決の問題を片付けたような安堵感で感じられたものです。

夏も過ぎた頃、衰弱の激しい私を、会社は半ば強制的に人間ドックへ入れました。

一週間後、診断書といっしょに再診の指示が届きました。私は、事実をありのままに告げてくれること条件に再診を受けました。私の胃には、噴門の付近に後期一歩手前の癌があり、このままでは後一年半の命と宣告されたのです。

治癒の可能性は、手術をして経過が順調なら更なる問題はないが、かなりの確率で他への転移が考えられるとのことでした。つまり、手術をして痛い目をみて抗癌剤で苦しんで、それでも一年半の命が三年に永らえるのが関の山ということです。しかも、その大半が病院のベッドに縛りつけられて、です。三年後というと、丁度、私の定年退職の時期に当たるのも皮肉な話です。

それくらいなら、私は、残された一年半を自分流に生きてみたいと思いました。勿論、最期は惨憺たるものかも知れません。出来ることなら、その惨憺たる様を人目に晒すことなく自分だけで凌ぎたい。

この時、私は、日頃から敬重していた森鴎外に自分を重ねていたのかも知れません。鴎外は、肺結核と萎縮腎を患い、著述の継続について友人に宛てた書簡でこういっています。

「(上略)コレヲヤメテ一年長ク呼吸シテヰルト、ヤメズニ一年早ク此世ヲオイトマ申スト、ドッチガイイカ考物デアル。(中略)ココニドンナ名医ニモ見テモラワナイト云結論ガ生ズル」と。

私の場合、鴎外のような大事業を抱えている訳ではなく比較にもなりませんが、それでも、自分の命の能動的な終わり方という近似性を感じていたのだと思います。

いちばんいい方法は、単独で遠洋航海をすることです。

私は、青年時代からヨットにのめり込み、その頃も小さいながらセーリングクルーザーを所有していました。だから、どう余命を費やすかと問うた時、何の躊躇もなくヨットで世界周航することを決意していたのです。

しかし、言うは易しです。いざ決心してみると、今まで生きてきた社会との絆というか、キリをつけておかなければならないしがらみが何と錯綜していることか。

幸いにも、私には残していく家庭というものがありません。若し、そんな大層なものがあったら、それこそ病院のベッドに縛りつけられて過ごさなければならなかったことでしょう。

会社は、急に退職されては困る。規定では三ヶ月前の予告となっているといいました。冗談じゃありません。一年半しか残っていない命の、その中の三ヶ月です。私の状況を説明すればそれなりに了解してもらえたのかも知れませんが、第三者に変に悲壮感をもって聞かれるのが厭でいいませんでした。結局、退職金からなにがしかを差し引かれはしましたが、とにかく、一週間後には自由の身になりました。

さて、次は船の準備です。それも大至急で。出来れば十日間ほどで準備を終え、二週間後には出航したいものだと考えました。

私の船は、既に、かなり老朽化しています。そこで、耐航性と取り回しのしやすさに配慮し、少し小さな二十八フィートのまだ一年ほどしか乗っていないヨットを買いました。

前のオーナーの私物が撤去されるのも待たず、私は船の補強に取り掛かりました。

マストを支えるスティのワイヤーを新品の一段階太いものに替え、そのワイヤーをデッキに留めるターンバックルとその基部の金物を緻密にチェックしました。更に、力の掛かるデッキ部分を補強し、セール(帆)は同じものを二枚ずつ、合計八枚の新品を作らせました。キャビンの座席の下には強化ゴムの水タンクを三本、満タンで五百リットル分を取り付け、どれからも任意に清水をギャレー(台所)へ引けるようにしました。

そんなことをしているうちに、一週間はあっという間に過ぎていきました。気ばかり焦っても仕事はまだ三分の一も進んでいません。無線機やGPS(衛星航法システム)、ウインドベーン(風力自動操舵装置)の取り付けと調整、エンジンの総点検、予備パーツや安全備品、太平洋全域の海図、燃料、食料などの買い物もまだです。背後から命の締め切り時間が迫ってくるという脅迫感に追い上げられ、夜、ウイスキーをしこたま飲んで断末魔の腹痛を味わったりもしました。

それでも、何とか先が見え出し、作業を終えたキャビンで、お世話になった人たちに葉書を書く余裕が出てきたのが二週間目を過ぎる辺りからでした。

やっと台風シーズンも過ぎた十一月一日、かれこれ二十日間の準備期間で、一応の出航の目途が立ちました。今にして思えば、半年間はかかる仕事を、よくぞまあ、あんな日数で仕上げたものだと思います。

私は、生来、見送るのも見送られるのも好きではありません。それで、船のテストと称し、十一月三日の早朝、小笠原へ向け出航しました。出国手続きは小笠原で済ませ、そのまま旅に出る魂胆です。

途中、八丈島近海で大時化に遭い、余程引き返そうかと思いましたが、何とかストームセールで凌ぎ、十一月十日、辛うじて父島の二見港に辿り着きました。

起き上がるのもやっとという船酔いと身を捩るほどの激しい腹痛に翻弄され、これからが思い遣られました。でも、考えてみれば、もともと無事に帰還することが前提の航海ではなし、それに、まがりなりにも二見に辿り着いたのですから思い煩う必要なんかない訳です。やれやれ、何という選択をしたものかと我ながら呆れたものです。

マリーナオフィスや、義理のある知人や友人たちに、ここから放浪のクルーズに出発することを電話で知らせたり、出国手続きをしたり、不十分な食料や日用品を買い足したりして一週間が過ぎました。

十一月十八日、いよいよ日本脱出です。もう祖国の土を踏むことはないと思うと、五十数年の来し方が一瞬脳裏を過ぎり、惜別の感傷など微塵もない、まるごと自分の存在を切り捨てていくという殺伐とした寂寞感に心が震えました。それでも、出入国管理事務所の職員に舫いを解いてもらい、「気ぃつけてね」といわれると、覚悟みたいなものが出来て、私は笑って手を振っていました。

風は北東八メートル、波高一・五メートル、天気はまあまあです。ワンポイントリーフのメインセールとワークジブにやや追手の風を受け、船は快調に走り出しました。

針路をグァム島に合わせたので、もう日本領の島影を見ることもありません。船内の片付けなどもあって、セールのトリム以外にはデッキに出ることもなく三日間が過ぎました。

雲行きが怪しくなったのはその頃でした。

ラジオ放送によると、マリアナ諸島に熱帯低気圧が発生し発達中とのことです。海も空も鉛色になり、風は東十八メートル、波高五メートルです。何か険悪な気配が立ち込めていました。

荒天準備を終えた頃は、もう二十一時を過ぎて真の闇です。夜光虫のせいでしょうか、波頭だけが仄白く見えています。それも、マストの半分以上も上だったり、時には遥か目の下だったり。荒天準備をしているうちはよかったのですが、何もすることがなくなると、只々この険悪さと対峙するだけです。ハッチをしっかり閉めてキャビンに閉じこもり、バース(寝床)に横になっているのですが、いざという時のためにオイルスキン(合羽)を着たまま。それに、船のヒール(傾斜)が四十五度にもなり、戸棚の中身が恐ろしい音をたてます。とても寛げる状態ではありません。

午前二時には風速は二十五メートル、風向は北西に変わりました。ウインドベーンを解除し、ストームトライスルをセットし、ストームジブを逆張りにするヒーブツーの作業で一時間以上も荒れ狂うデッキで奮闘しました。

三十四時間、一瞬の休息もなく嵐と戦い続け、吐血の中へ突っ伏して私は意識を失ったのです。

嵐が始まった翌朝から、例の激しい腹痛が続き、必死に耐えながら三日目の夜明けを迎えようとしていました。マリアナ諸島のその日の日昇は地方平時六時二十分で、日本時の私の時計でいえば五時二十分ということです。私はペンライトの明かりで時計を覗き込み、ああ、もうじき五時、もうすぐ日の出だと思いました。その直後、かつてなかったほどの激痛が襲い、私は胃液で薄められてピンク色をした大量の血と、ドロドロした塊を吐きました。ペンライトでその嘔吐物を観察し、身を裂くような痛みで体を捩り痙攣しながら意識が薄れていったのを覚えています。

どれほどの時が流れたのか分りません。意識は何度も戻っては薄れ、戻っては薄れしていました。嵐は疾うに過ぎ、ベタ凪だったりスコールが通ったりしたのを断片的に記憶しています。

痛みが去り、意識は朦朧としながらも少し動けるようになると、何か食べなければと思いました。しかし、あの激痛を考えると、とても固形物を口にする気にはなりません。とりあえず、手を伸ばせば届く所にあったコンソメスープのプルトップ缶を開け、温めもせず啜りました。恐るおそる舌に乗せ喉に流し込むと、胃が握り潰されるように痛み、同時に、舌の付け根がこむら返りのように痙攣しました。それでも、何とかスープを飲み終え、一時間ほどじっとしていました。不思議なものです。スープの養分が体を巡り、筋肉にしみわたっていくのが感じられ、僅かながら力が戻ってくるのが分りました。うつ伏せになり、慎重に肘と膝をつき体を起こしていくと、手足がガクガクと震えます。

見ると、手も足も、気を失う前のほとんど半分の太さしかありません。愕然としながらも、赤ん坊のように掴まり立ちしてヘッド(便所)の洗面台へ行き、鏡を見ました。そこには私の全く知らない顔がありました。いや、見覚えがあります。それは、病院のベッドで死期の間近な父が私を見つめていたあの顔でした。頭骸骨の形に灰色の皮膚が張りいついているだけ。髪はもともと白い方ですが完璧に真っ白になっていました。ああ、これで私も父のように死んでいくのだと思いました。そして、便器の前の狭苦しいスペースに崩れるように座り込み、ほとんど丸一日何も考えず、ボロ切れみたいに蹲っていました。

そのうち、かすかに空腹を感じ、更に今日が何日なのかが気になり出しました。

掴まり立ちして、そろりそろりとギャレーへ行き、今度はスープを鍋にあけ火に掛けて温めました。フランスパンをスープに入れて食べようと思いましたが、パンは黴に覆われていました。仕方なくソーダクラッカーを三枚スープに混ぜ、粥状にして食べました。

一時間ほど食休みをし、GPSのスイッチを入れてみました。十二月八日でした。気がついたのが前の日ですから、私は、何と十五日間も仮死状態にあったことになります。急に船の現在位置が気になり、GPSのモードを切り替えると、北緯一四度〇二分、東経一三九度三〇分、グァム島の西三〇〇海里と表示されました。風は東の風七メートルです。これでは私の体力を考え、逆風で真登りのグァムへ行くのに何日を要するか見当もつきません。

食料も水もまだほとんど手つかずですし、時間を気にすることもないのですから楽なアビーム(横風)でのんびり赤道を越えるのも悪くはないと考えました。セールの張り替えをするため苦労してハッチを開けデッキに出ました。私を唖然とさせたのは、張ってあったあの分厚いストームジブが、僅かな帯状の布切れを残して形をとどめていなかったことです。這うようにしてマストに辿り着き、セールの残骸を取り除き、三時間余り掛けてワンポイントリーフのメインセールとワークジブを揚げました。ウインドベーンの駆動部にこびり付いた塩を掻き落とし、ウイングを風向きに合わせてやると、船は生き返ったように走り出しました。

私はキャビンに降り、コンデンスミルクとお米でお粥を作りました。出来上がると、バースのいちばん安定する所に蹲り、膝の間に鍋を抱えて食べ始めました。とにかく食べて体力を回復すること。野菜ジュースや鰯の水煮、アスパラガスなどの缶詰をお菜にして、お米二カップのお粥を二日かけて少しずつゆっくり食べたのです。その間、デッキへ出ることもGPSをチェックすることもありません。強烈な下痢が三日間続きましたが、気にせず、とにかく食べ続けました。

それから一週間が過ぎました。

風が落ち、かすかなうねりで船が揺れる度に、セールがパタンパタンと力なく左右に振れています。私は赤道が近いことを感じ、GPSをチェックしました。パラオの南東二十海里です。

何となく陸が恋しくなっていたので、憧れの南の島に立ち寄ってみようかと思いましたが、鏡を見て止めました。少し肉がついてきたとはいえ、どちらかというとまだ骸骨の域を出ていませんし、これでは楽園の美女に合わせる顔もありません。このまま南下して、ニューギニアの西のダンピール海峡を通って南半球へ船を進めることにしました。赤道越えは丁度クリスマス頃になる計算です。

人間は、健康な時は自分の臓器を意識しないものです。しかし、いったん健康を害すると、傷んだ臓器の存在に突然気づくのだそうです。病んだ臓器に気づくから病気というんだといった人がいましたが、語源として正しいのかどうか、私は知りません。

掴まり立ちが一人歩きになり、ものを食べるにしてもさして配慮の必要がなくなってくると、私は、いつの間にか自分の胃を意識せずにいられるようになりました。そればかりか、ほとんど十年以上も忘れていたことですが、食べ物を美味しいと感じることさえありました。

赤道無風帯を西へ東へ、潮流にまかせて漂流する何日かが過ぎました。ああ、今日は十二月二十三日、明日はクリスマスイヴだと思い、GPSのスイッチを入れてみました。北緯一度〇五分、東経一三三度三〇分、ダンピール海峡の玄関口に差し掛かっているのです。そうすると、赤道と海峡の交点までは六十五海里、メートル法でいうと百二十キロメートルです。風さえ吹けば明日にも到達出来る距離です。

そよそよと風がそよぎ出していました。私はデッキに飛び出し、素っ裸でセールの交換に掛かりました。風はお誂え向きの北。風速は四メートル。ほとんど波もありません。メインセールをフル展帆し、まだ使ったこともなかったクルージングスピンを試してみました。微妙ですが、風に正しくトリムすると目に見えてスピードが上がります。私は、赤道へ一海里の距離に到達したらアラームが鳴るようGPSをセットし、涼しいオーニングの下でトム・クランシーのスパイ小説に読み耽りました。セールトリムの調整もなく、船はひたすら快走しました。

風は次第に落ち、十九時にはついに無風になりました。GPSの対地速度を計算すると、右斜め前方二一〇度から、左斜め後方三〇度へ向けて〇.五ノットで船を後戻りさせる海流があることが分りました。今後十時間、つまり半径五海里以内に船を危険に陥れる島や珊瑚礁などの浅瀬がないことを海図で確かめ、航海灯を点灯して私は就寝しました。

何時間眠ったのでしょうか。コックピットから誰かが覗いているのに気づき、私は、「どなたですか?」と尋ねました。返事はありませんが、何故かそれが私の父であることは分っていました。

「こんな時間にどうしたのですか、お父さん」と私がいうと、父は、

「お前を迎えに来たんだが、どうやら無駄足だったようだな」といいました。

「そんな所にいないで、さあ、中へ入って下さい」といい、私がバースから起き上がってみると、コンパニオンウエィの形に区切られた星空しかありません。

「お父さん!」と叫びかけて、それが夢といわぬまでも現実ではないことを悟り声を呑み込んでいました。コックピットへ出てみると、星は、正に降り注ぐばかりに夜空を満たしていました。父への懐かしさと我が身の消え入るばかりの定めなさを思い、涙がぽたぽたと音を立ててデッキに落ちました。

顔を上げると、旗がなびいていました。わずかに風が出てきたようです。

子供のように手の甲で涙を拭い、私は気を取り直してセールを揚げました。船は四ノットで星明りの海を静かに滑って行きます。

やがて、東の空が白みはじめました。十二月二十四日はそんな風に始まり、不気味なほど静かに過ぎていきました。そして、忘れ難いあのクリスマスがやってきました。

GPSは、赤道まで後二十二海里、所要時間は現在速度で六時間十二分と表示していました。二十五日の一四一二時に赤道通過の予定です。まあ、風任せのヨットのことですから、あくまでも目安でしかありませんが。

その時、かすかにエンジン音を聞いたようです。コックピットに駆け上がってみると、目の前に聳え立つような黒い船体がありました。足の遅いヨットではどうすることも出来ません。癌で苦しむよりは、本船に轢かれて死ぬ方が簡単かも知れないなどと考えながら、私は衝突の瞬間を待っていました。

本船がヨットに気づいたとみえ、激しく汽笛を鳴らしています。急激な転舵をしているようですが、バウは右を向きかけているのに、船体は真っ直ぐこちらへ進んで来ます。終いに、後進にした巨大なスクリューががむしゃらに海水をかき回しているのが見えました。船腹にぶち当たり、ヨットは大破し、私はあのスクリューで挽き肉みたいに切り刻まれ海中に撒き散らされるのだろうかと想像しましたが、別に恐怖感もありません。みるみる迫る本船の壁のような船体には、喫水のゲージが白くペイントされていました。赤い船底塗料にところどころ錆が浮いていて、排水口から勢いよく水が吐き出されているのを、私はぼんやりと眺めていたと思います。

ヨットは、一瞬の間に紙のように押しつぶされ、ライフラインのワイヤーに足を絡めながら、私は衝撃で五十フィートも飛ばされたそうです。まあ、そのせいでスクリューに巻き込まれずにすんだのでしょうが。

気がつくと、私は英国船籍の貨物船ブリストル号の病室にいました。オーストラリアのパースへ行く途中とのことです。とりあえず、船で出来る治療をした上でパースの病院へ入院させるといいます。

私は、ヨットさえ弁償してもらえば、入院など必要ないと答えました。船医は困ったような顔をし、船長らしい人と何やら相談していました。やがて、その人物は、

「私は、この船のキャプテンでジャック・ハミルトンです。この度の不幸な事故に心から同情します。我々は、あなたに対し、可能な限りの医療的処置と財産の補償を致します。

あなたの負傷について説明しましょう。どうか、冷静に聞いて下さい。

率直にいって、あなたの右足の骨は、残念ながら、ほとんど原型をとどめていません。さらに、筋肉と腱も同様です。復元は難かしい。多分、切断することは避けられないでしょう。船の設備は、そうした外科的処置に十分ではありません。そのために入院する必要があるのです」といいました。

私は、あのアクシデントにして、そのくらいのダメージは当然だろうと考え、それほど驚きも落胆もしませんでした。

「またヨットでクルージングが出来るだろうか?それさえ出来れば、さしたる問題はない。もともと私の命は、後一年半もないのだから」といい、私が癌におかされていることを告げました。

「オー、マイ ゴッド!」

船長は、全身で大袈裟に嘆き、我々に出来ることがあれば、何でもいって欲しいといって病室を出て行きました。

それから五日間、私は時々襲ってくる高熱や激痛と戦いながら、ほとんど揺れることもないベッドで、溜まった疲れを癒していました。

或る日、船医が、癌の検査をしてみないかといいました。私は、そんな必要はないと答えましたが、彼は、進行状況を知れば、何かと今後の指針になると勧めます。私がどちらでもいいというと、既に用意していたのか、すぐにレントゲン室へ移され写真を撮られました。胃カメラには少々閉口しましたが、約二時間で検査が終わりました。船医は、

「私の所見では、あなたの癌は極めて軽微なものでしかない」といいます。

「冗談じゃない。気休めなら止してくれ」と、私は気色ばんでいいました。

「いや、信じてくれ。船の設備とはいえ、この検査に不足なものはない。唯一、組織培養の結果はすぐには出ないが、その裏付けを必要とするとも思えない。それに私は、陸では癌と付き合いの深いドクターなのだ」

私は信じなかった。それでも、船医の所見は所見として敬意を表すべきかと思い、

「ありがとう。あなたの言葉を一筋の光明として頂いておく」といいました。

「ああ、あなたは信じていない。よく考えてくれ。あなたは今、救われようとしているのだから」と力説します。

それが事実で、容易に治癒するものなら嬉しいことに違いありません。でも、そんな奇跡みたいなことがあろうとは到底思えません。船医の権威にけちをつけるつもりはありませんが、東京で検査を受けた病院にだって、私は十分な権威を認めます。しかも、私は、レントゲン写真やその他の検査結果を示され、なるほどそうかと納得した経緯もあるのです。

夜になり辺りが静かになると、私はどうにも落ち着きません。癌の進行度判定に誤謬があったのか、それとも正に奇跡が起きたのか。

若し、現在の私の癌が極めて軽度のものであるとしたら、私のこの行動は一体何だったのでしょう。会社を辞め、友人も日本も捨て、そして、死に場所を求めて始めた旅。挙句の果て、大切な右足まで失ったこの旅とは・・・。

まんじりともせず朝を迎えた私は、いつものように船長の訪問を受けました。ある種の威厳と温かな思いやりのこもった笑顔で握手を交わし、加減は如何かと問い掛けます。近くの椅子を身振りで示し、座らせてもらうよと目顔で告げます。

「ブリストル号は、午前中にパースへ入港します。接岸したら一番にあなたを病院へ送るつもりです。全て我々の責任で、十分な手当てと補償がなされるはずです。本船は次の積荷を待って三日後にパースを出航しますが、手術とあなたの身分認定、そして賠償手続きを完了させるまで、次席パーサーがあなたの付き添いとしてパースに残ります。我々が負うべき責任と、あなたに寄せる深い同情を含め、彼は全ての事情を承知しています。彼には何でも相談していただいて構わないし、それなりの決済権を託しておきました。勿論、あなたの新しいヨットについても」そういって、船長は片目をつぶってみせました。私は、

「船長とドクター、それに、この船の多くのクルーには過分のお世話になりました。どうか、私の感謝の気持ちを受け取って下さい。私は、あなたに全幅の信頼を寄せているから何も心配はしていません。世界の海はひと続きです。きっと、どこかの港で再会する日があるに違いありません。私のクルーズに大きな楽しみが増えたことになります」といいました。

「オー、それは私も同様です。あなたの元気な姿が見られることを、私はとても楽しみにしています。入港が迫ると忙しくなって、もう会う機会がないかも知れません。どうか、早く元気になって下さい。そして、よい航海が続くことを祈っていますよ」

船長は、力強い握手をし、

「きっと、また会いましょう」といいました。

「また会いましょう。船長も、よい航海を」と私は答えました。

十二月三十一日、午前十時。ブリストル号は岸壁に接岸し、私は、担架で救急車に移されました。船で何度か会ったことのある三十歳ほどの感じのいい青年が同乗してきて、

「ジェームス・キャラハンといいます。船長からあなたのお世話をするようにいわれています。何でも申し付けて下さって結構です。私のことはジムと呼んで下さい」といって手を差し延べました。

「こちらこそよろしく、ジム。何かとお世話になるよ」と答え、私たちは握手を交わしました。

正午には病院の快適なベッドに落ち着き、昼食を頂きました。午後からは診察です。ジムは、私のカルテやレントゲン写真などを医者に渡し、いろいろ補足説明をしました。ジムの話を聞きながら、医者は、既に青黒く変色し、不思議な形をした私の右足を、いろんな角度から触ったり押してみたりしていましたが、胃部の写真には、ほとんど興味を示しませんでした。

それから三日間は、いろんな検査の連続です。右足の激痛や発熱を除けば、まるで人間ドックに入ったみたいに快適だと思いました。

そうこうするうち、私は、胃癌のことを、つまり、東京の病院で末期の癌の宣告を受けたこと、そして、船医から癌は軽微だといわれたことを医者に告げました。私にしてみれば、さして拘りはないとはいえ、気になることに違いはありません。医者は、初め、その両方が誤りでないとすれば、奇跡が起きたとしかいいようがないと笑っていましたが、ベッドの脇の電話をとると、暫く誰かと話をしました。やがて、病室のドアが開き、東洋人の医者が顔を覗かせ、

「ああ、こちらですね」と、日本語で話しかけます。そして、医者同士、何やら医学用語で話し合っていました。日本人の医者は、

「私は、あなたが検査を受けられた病院に勤務したことがあります。おっしゃる通り、あの病院の診断がいい加減なものとは思いません。しかし、船の胃カメラの写真は、船医の診断の正しさを証明しています。こいつはミステリーですね。確かに、あなたの癌は軽度です。東京の病院に友人がいますから、必要な資料を取り寄せてみましょう」といいました。

その間、ジムは、日本領事館やオーストラリアのイミグレーション、海難事故を扱う役所などを駆け巡り、私の身分の証明やパスポートの再発行、緊急入国のヴィザの発給などに奔走していました。何度か行き詰まった様子で憔悴したり、時には、日本領事館員やオーストラリアの役人を連れて来て、

「この通り、本人は動けない状態なのだ。船長の報告は微塵も事実に反しない」といって、乱暴にシーツをはがし私の右足を見せたりしました。私が傷みに顔を歪めると、自らの乱暴に恐縮し、

「こいつらが私のいうことを信じようとはしない。あなたが何か不正を企んでいないかと疑うのだ」と口惜しそうにいいました。

入院から五日目に手術が行われました。心配そうに、ジムは朝からベッドの脇に付きっ切りで、「痛いのだろうか。いや、きっと苦しんだりしないやり方があるに違いない。だから、落ち着いて、気を楽にした方がいい」と、冷静な私にいわずもがなの不安をかき立てます。

「ジム、私は大丈夫だ。きみを見ていると、手術を受けるのが私ではなく、まるできみのようだ。どうか落ち着いてくれ。そうだ、きみに一つ頼みがある。私が麻酔から醒めた時、きみが私のそばにいてくれると嬉しいのだが」

「分りました。片時もあなたのベッドを離れないと誓いますよ」

ジムは、自分のやるべきことが出来たので少し落ち着いたようです。

十時から始まった手術は、午後三時に終わったそうです。五時過ぎに私が麻酔から醒めると、夏の強烈な日差しを白いカーテンで遮った窓を背に、ジムが私を覗き込んでいました。

「ああ、ジム。きみはそこにいてくれたんだね。手術はうまくいったのだろうか?」私は、まだ十分に回らぬ舌に苦労しながら尋ねました。

「全て順調。あなたはラッキーです。船医は大腿部からの切断といっていたのに、膝から下の切断で済んだそうです」といって、嬉しそうに私の手をとりました。将来、義足を着装するようになると、膝が在ることが大きなメリットになるのだそうです。

「それに、パスポートもヴィザも届きました。後は術後の回復を待つだけです。明日からは、あなたの新しいヨットを選んで貰わなくては。オーストラリアのヨットもいいが、何といってもイギリスのものにはかないません。僕の好みでいえば、スループ(一本マスト)よりカッターリグのケッチ(前帆が二枚張りになった二本マスト)がいいと思いますよ。兎に角、カタログをどっさり集めてきますからね」

ジムは、それから二時間ほどいましたが、手術が上首尾に終わったせいか、何かうきうきとした様子で帰って行きました。

実をいうと、麻酔が切れてくるにつれ、私は激しい痛みに苦しんでいました。彼が帰ったことで内心ほっとすると同時に、腹の底から呻き声をもらしました。看護婦を呼んで鎮痛剤を打ってもらい、その晩は、浅い眠りの一夜を過ごしました。

入院から三週間過ぎた日、ジムの仕事は一応完了しました。つまり、手術を含む私の入院生活の世話、パスポートなどの私の身分の証明、海難審判と私への賠償などです。ジムは、現在シンガポールに碇泊中のブリストル号に合流するのだそうです。

「きみには、随分世話になってしまったね、ジム。船長には、私がとても感謝していたと伝えて欲しい。これからもよい航海が続くことを祈っているよ」と、私は別れの言葉をいいました。

「ヨットを決めて上げられなかったことは、本当に残念です。それは兎に角、不思議なのは、あなたが今もいったように、我々に感謝することが理解出来ません。あなたは、我々の船のせいでヨットばかりか、大切な右足まで失ってしまった。それについて、あなたは憤るどころか、新品のヨットを拒み、更に、船長に感謝の意思を伝えて欲しいという。何故、もっと権利を主張しないのですか。何故、そんなに穏やかでいられるのですか?」

「何故だろう。私は、そんなことを考えたこともないのでね。しかし、船長もきみも精一杯のことをしてくれたことは事実だ。そうすれば、私は他に何を主張することがあるだろう。本当に大切なのは、補償の額なんかじゃない。どれほど親身に私のことを考えてくれたかではないだろうか。現にきみは、サブパーサーの仕事を放り出して、三週間も私の世話をしてくれたではないか」

ジムは、それでも納得がいかない様子です。

「これからは、あなたのフィロソフィーをじっくり考えてみますよ。実をいうと、船長も私も、あなたのその物静かな考え方に感銘していたのです。船長は、あなたを本物のジェントルマンと賞賛していました。どうか、早く元気になって、素敵なクルーズに出発できるよう祈っています」といい、少し目を潤ませていました。

右足の切断面がきれいになったのは、術後二十日目頃でした。包帯がとれると、早速、義足の寸法採りがあり、更に二週間後には義足が届きました。

しかし、それからが地獄でした。義足に切断面を馴染ませ、踵のような丈夫さに仕上げなければなりません。義足をつけての歩行訓練は、正に血みどろの苦行でした。

切断面が破れ血を吹きます。それがかさぶたになって、また破れ、そして次第に固くなっていくのです。

一方、一月の下旬、東京から私の癌の診断にまつわる資料が届きました。主治医によると、それは紛れもなく末期の胃癌だったそうです。医局で話題になったとみえ、いろんな医者が私に会いに来ました。また、どこから聞き込んだのか、テレビ局の取材申し込みまで舞い込む始末です。勿論、テレビ取材は断りましたが、それでも、電話に呼び出されコメントを求められました。私は見ませんでしたが、新聞にも報道されたそうです。

主治医と日本人医師により、かなり緻密な経緯の聞き取り調査がありました。それによると、嵐の中で、私が吐血して意識を失った辺り、そして、昏睡状態の十五日間に秘密が隠されているということ以外何も分らないとのことです。医師たちは、ただ「ミラクル」を連発するばかりでした。

東京の病院からは、パースから送られた資料だけでは不十分で、是非、東京へ戻って診察させて欲しいといってきました。私は、どんな検査にも協力は惜しまないが、今、東京へ帰る意思はないと答えました。ささやかな見栄でしょうか。こんな尾羽打ち枯らした様で、一度は捨てたはずの祖国へ帰りたくなかったのかも知れません。

或る夕暮れ時、いつもの歩行訓練を兼ねて海辺を散歩していました。埠頭のボラードに腰を降ろして、岬の向うに沈む夕日を見ていると、酔っ払いの漁師が話し掛けました。

「お前さんが、例のミラクル・キャンサー(奇跡の癌)だね」といいます。私は、ただ笑っていました。漁師は、よく見ると相当の年配のようです。話を聞くと、第二次大戦ではボルネオ島で日本軍と戦ったそうですから、七十五歳は過ぎている訳です。

「まあ、昔の話だ。今は何とも思っちゃいねェよ。それよりも、医者という奴らは何も分っちゃいねえ。知ってるかね。マッコウクジラが癌を吐き出すという話?」

私は、一瞬呆気にとられて老人の顔を見つめました。彼は、手に持った紙袋の中のボトルからウイスキーを一口飲み、

「マッコウクジラの好物はイカだ。イカの嘴は、鯨の腹の中で消化されずに残るんだ。それが胃を刺激して人間の癌に似たものになっていく。マッコウクジラは、その嘴と変質した細胞を蝋のようなものでくるんで自分の胃を守るそうだ。そいつがある程度大きくなると、奴は、海に吐き出す。それは竜涎香(ambergris)という高価な香料で、そいつを拾うと、どえらい金になる。漁師なら誰でも知っている話だ」そういって、またウイスキーを一口飲み、そのままふらりと立ち上がり、咳き込みながら黄昏の中へ消えて行きました。私は、不思議な伝説でも聞いたように、呆然と、残光で朱に染まった海を見つめていました。

それでも、三月になると、私の癌の話題も沈静化し、やっと歩行訓練だけに集中出来るようになりました。私は、ステンレスの杖に頼りながらも、結構遠くまで足を伸ばしていました。

海は初秋の妖しい煌きで私を誘っています。そして、私は、間違いなく再び海へ出て行くであろうことを信じました。

でも、何故?今はもう、日本を出て来たあの必然はありません。若しかすると、手術で健康を取り戻せるかも知れないのです。

しかし、私の中には、何かが終わっているという感覚がありました。日本を出たあの時、しっかりと自分の肚に叩き込んだ覚悟がそう告げているようです。滅亡感などというよりは、むしろ、動物が自分の寿命を悟ってそれに従順なように、自然の摂理に全てを任せるという感情に近いかも知れません。

五十歩百歩という言葉も脳裏を掠めます。仮に、余命の五年が十年になるといって、自分流の生き方を捨てるつもりもありません。そんな思いを引き摺って、私は手頃なヨットを物色して歩いていました。

三月の半ばだったと思います。ジムが見たら飛び上がって喜ぶに違いないヨットを見つけました。しかも、舷側には「FOR SALE」の札が下がっています。こうなったら、航海継続への疑問も躊躇もいっぺんに霧散し、まるで坂道を転げるように事態は急速に展開し出しました。

艇は、三十四フィートのワンオフ(非量産艇)。船体はFRP、バウスプリットのあるロングキール艇で、カッターリグのケッチ(船底全長がバラストキールで、二本マスト、前帆が2枚展帆出来る)です。デザインはオールドスタイルですが、居住性も耐航性も良さそうです。スピードはあまり期待出来ませんが、急ぐ旅ではなし、むしろ、クルージング・ボートとしての乗りやすさを優先しました。

オーナーとは、初対面なのにすっかり意気投合してしまい、病院へも帰らず、夜明けまでヨットで飲み、語り明かしました。嬉しいことに、もう、酒を飲んで死ぬほど胃が痛むこともありません。

翌日、ヨットをボートヤードに陸揚げし、週末には譲渡契約書を交わしました。そして、翌週からは大掛かりなヨットのオーバーホールです。オーストラリア人の仕事の遅さというか、呑気さには呆れましたが、それでも丁寧に仕事を進めてくれました。私は、もういつ退院してもいいといわれていたので、ヤードの近くにアパートメントを借り、通院とボートヤード通いです。

トラブルは突然やって来ました。

初めはマストでした。アルミ製のメインマストの根元は、電喰でボロボロでした。当然、マストごと交換しなければなりません。まあ、よくあることだと高を括り、仕様の似たプロダクションボート用の新品マストをオーダーしました。これには、マストのサイズに合わせ、何枚かのセールの新調が伴いました。

マストの到着には少々間があったので、エンジンの調整などの作業を済ませようと、ヨットを水面に降ろしました。何と、ハル(船殻)を貫通する給排水口、ポートライト(船窓)、デッキとハルの接合部などの水密性が十分ではなく、それに、何処とも知れぬ船底からの水漏れが見つかりました。これは、不良個所の特定がしにくく、トラブルの中でもとても厄介なものです。

そんなことで、作業は足踏み状態の日が多くなりました。いつの間にか、時々顔を見せていた前のオーナーの足も遠のき、終いには全く姿を見せなくなりました。

水漏れやマストの電喰につき、私が、彼から何も知らされていないことを知った造船所の技師は、然るべき補償を要求すべきだと忠告してくれました。

家へ行ってみると、彼は、契約は正しく履行され、もう、この取引は完了していると取り合ってくれません。私は、自分の迂闊さがこのトラブルの原因の一つだと考え、それに、代金は契約時に全額支払ってしまっていたので、為す術もなく帰って来ました。

経過を説明すると、技師は、「彼の態度は、余りにも不誠実じゃないか。それに、このヨットは、必要な手入れさえほとんどされていなかった。見ていて、船が可哀想だと思ったことが何度もあったよ。故障が多発するのも、そんな乗り方をした彼の責任なんだぜ。彼は、去年、近くの岩礁でひどい座礁事故を起こしたんだ。水漏れは、船体の歪みのせいだ。念の為、キール(竜骨)などに挫屈がないか調べた方がいい。あなたも悪い買い物をしたものだ」といいました。

キールまで直すということは、大袈裟にいえば船を新しく作るに等しい作業です。金額だって、幾らかかるか分ったものではありません。それに、そんな重大な欠陥も知らずに荒海に乗り出していたかも知れないと思うと、私は、全身から血の気が引く思いでした。

幸いにもキールに致命的な損傷は見つかりません。それでも、大事をとって、船底の内と外から厚いステンレス板で補強してもらいました。簡単なオーバーホールのつもりが、船を買い取った金額にほぼ近い費用を修理に要した訳です。以前から、私のお金の管理能力はひどいものでしたが、こんな騒動を経て、経済状態が極度に悪化したのは当然の成り行きでした。

かつては一年半だけ私が生きてしのげればよかった訳で、潤沢とはいわぬまでも、不自由がないだけのお金は用意していました。しかし今は、何年生きながらえるのか見当もつきません。大雑把にいって五年か十年か。要するお金が幾らかなんて、計算のしようもありません。

生きるということは、私の場合、持つ当てもないお金が必要になるということです。こうなってみると、余命の不確かさが疎ましく思えてきます。意地でも見栄でもなく、今さら日本へ帰って仕事に就く気はさらさらありません。まして、誰かに無心するなんてことは論外です。

胃の手術も、随分医者に勧められました。しかし、多くの場合、特定の患部を切り取ってパッピーエンドということはあまり期待出来ないそうです。特に私の場合、東京の検査結果から推して、他への転移の可能性を計算にいれておくべきだと医者からもいわれました。どうせ癌で終わる命であれば、手術とケアでベッドに縛りつけられたままなんていうのは、私の生涯の閉じ方としては最悪です。人生の終焉にあたり、誰からも邪魔されず自分の死と静かに対峙したい。例え断末魔の苦痛を味わっても、やはり自分の二本の足で歩いていたいのです。そうそう、私の足はもう、一本しかなかったのでした。

そんな訳で、私は、行ける所まで行くしかないという結論に達したのです。

真夏の一月にパースを出航し、先ずニュージーランドのニュープリマスに立ち寄り、珍しく穏やかなホーン岬を越え、南米東岸のプエルト・サンタクルスやバイアブランカ、モンテビデオなどに寄港しました。

モンテビデオ対岸のラプラタでは、造船所のアルバイトを見つけ、四ヶ月ばかり働きました。

たまたま、ある給料日の夜でした。ラプラタにブリストル号が入港したという噂を聞き出掛けて行きました。

予告もなく、ギャングウェイを義足で登って行く私をいちばん先に見つけたのはジムでした。彼は、歩いている私を見て目を丸くして驚きました。私に駈け寄り飛びつくように私を抱擁し、やがて我に返ると船内に案内してくれました。船長や船医、航海士たち、食事の世話などをしてくれた甲板員などが押しかけ、私を温かく迎えてくれました。

船長室で夕食をご馳走になり、つもる話に夜の更けるのも忘れて楽しいひと時を過ごしました。私の新しいヨットと思いもかけぬ大修理の顛末では、ジムが地団駄踏んで口惜しがり、自分がちゃんと世話出来なかったことがこんな事態を招いたのだといいます。私は、もう済んだことで、今ではそれも懐かしい思い出だというと、「ほらほら、またあなたの無欲の哲学が始まった」といって冷やかしました。

ブリストル号は九月にマルセーユで一ヶ月間ドック入りするそうです。今度はマルセーユで再会出来るかもしれません。その時は、是非、あなたのヨットでクルーズに誘って欲しいとジムが懇願します。私は、「九月までにマルセーユに着けたらね」と、約束しました。

本当に久し振りに腹の底から笑い、言葉の不自由もなく人と話すことの楽しさを満喫した一夜でした。ヨットへの帰り道は、ブリストル号のクルーたちが送ってくれました。全員、相当に出来上がっていて、千鳥足で大騒ぎの道中でした。

みんなが帰って静かになり、寝る前に貴重品の隠し場所を何気なくあらためてみると、貰ったばかりの給料とささやかな貯えが消えていました。留守にした間に船に泥棒が入って、そっくり持っていってしまったようです。

リオデジャネイロでは、サンゴンサロで十日間、船専門の塗装屋で働きました。この時は、ひょんなことから、逆に泥棒の片棒を担ぐ格好になりました。しかも、仕事(泥棒)仲間から分け前まで頂戴するという得難い経験をしたのです。確かに危ない橋を渡る訳ですが、その分ぞくぞくするようなスリルがあります。それに、労少なくして十分な報酬を得る泥棒とは、これは一度味をしめたらなかなか止められないもののようです。

その後、バイアのサルバドルやリオ・グランデ・ド・ノルテのナタール、ガイアナのジョージタウンなどを経てカリブ海に入りました。ジャマイカ、ドミニカをはじめ、バハマ諸島を巡りながら、デークルーズの観光船、怪しげな逢引のチャーター船、海の仕事がない時は陸の使い走りやレストランの皿洗いなど何でもこなしてきました。胸を張って堂々といえることばかりではありませんが、これらのことは機会があれば別に書き残しておこうと思っています。

まあ、生きんがためのドタバタ喜劇です。サンゴンサロの泥棒をはじめ、結構やばいこと、プライドも何もかなぐり捨てた卑しいことなど、食うためには仕事を選んでなんかいられないのです。これこそ紛れもないヨット乞食とでもいうのでしょう。

しかし、どうか誤解しないで下さい。私は、その日暮らしのこのクルーズを心から楽しんでいます。そして、かつて経験したこともないほど、活き活きと生きているのです。

バハマをクルーズしている折、さる寒村で泊まる宿がなくビーチで野宿している女性がいました。フランス人でジュノというバックパッカーでした。ビーチよりは少しは益しだからと、私は、ジュノを沖がかりのヨットに泊めました。

彼女とは、約二ヶ月間、私がバハマ諸島を後にするまで一緒に暮らしました。友達でも、恋人でもない不思議な関係でしたが、互いに自由で、そして楽しいパートナーでした。

彼女と手をつないで、常にはあまりやったこともないシュノーケリングをしたのも楽しい思い出です。

濡れた体をパウダーシュガーのような砂に横たえていると、ジュノが私の胸を枕に寝そべり、私の目を覗きこみました。

「ねえ、幸せって今この瞬間のことだと思わない?」といいます。私は、ただ微笑んで彼女の額にキスをしました。ジュノは、だまってそれを受け、そして、

「あなたは本当に人生をエンジョイしているのね。目が、子供みたいにキラキラしている」といいました。

それから二人は、日が傾くまで何も話さずに横たわっていました。

翌日、彼女は、本気であなたが好きになってしまうと、いいました。

「そうなってはいけないのかね?」と、私が尋ねると、

「そうなると互いに相手の人生に関与するようになり、お互いに自由じゃなくなるもの」といいました。そしてその夕方、ジュノは、大きなバックパックを担いで、彼女の自由に向けて旅立って行きました。

彼女を思い出す度に、「目が、子供みたいにキラキラしている」という言葉を思い出します。それはまた、私にとって掛け替えのない記念の言葉なのです。尤も、目がキラキラしていた半分の理由はジュノが居てくれたからなんですが。

日本を出て、既に三年半経ちました。やがては、かなり進行しているであろう癌で命を落とすことでしょう。それまでは、本当の自分の人生を、精一杯自由に生き続けます。正に、徒然草の百八段にいう、『もし、人来たりて、我が命、明日は必ず失わるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん』なのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、こうした消息の涯に、私は、癌であるが故に自分の生にこだわって生きていられることを感謝しています。

嵐の日は入り江の隅で息をひそめ、晴れていい風が吹けば、海を我がものとして疾駆する。風が絶えれば、ただ潮にまかせて漂い、時化がくれば、大自然の怒りが一刻も早く収まることを必死に祈ります。そして、三年半も過ぎてやっと分ったことは、全ての活きとして生けるものの源であるこの海の、人間などの評価の余地もなく真に素晴らしいということ。その只中に身を置く私は、あり余るほどの幸せに包まれているのだということです。

現在は、バーミューダ諸島、アゾレス諸島を経て大西洋を渡り、アフリカ大陸に漂着しました。手はじめにモロッコのカサブランカに、そして今、五日前からラバトに投錨してこの手紙の残りを書いているところです。

ジムと約束した九月のマルセーユには遥かに及びませんでしたが、この手紙を投函したらいよいよ地中海へ向けて出航です。

私の満ち足りた人生とクルーズはまだまだ続きます。

既に開封され、まるで小包のように分厚い手紙を編集長から渡されたのは三日前の午後だった。

雑誌編集者の澤田はもう何度もそれを読み返し、都度大きな溜息をついた。はたしてこの「私」とは、人生をドロップアウトした放浪者なのか、それとも、真のロマンを頑なに体現しようとする本物の冒険者なのか。いずれにせよ、本人が雑誌掲載を望んでいない。そうであれば、一体、彼は何を訴えたかったのだ?持て余し気味に、澤田はまた溜息をついた。

近所の学校のベルが正午を告げていた。同僚が、「おい、澤田、飯に行こう」と声をかけた。澤田は、その分厚い手紙を抽出しに放り込み、立ち上がりかけて逡巡した。

「先に行ってくれ。まだやり掛けがあるんだ」そういって再び腰を降ろした。抽出しを開け、彼は、棘のように気持ちに引っかかって離れないその手紙を見下ろした。

「こんなことが出来るのは余程運がいい奴なんだ」と独り言をいった。

彼は二十年も前からヨットの世界周航を夢見ていたが、未だに果たせなかった。それは、条件が整うとか整わないとかいうことではなく、出掛けるか否か、その決断だけの問題なのだということは承知していた。

それにしても、この男は俺に比べ運が良すぎると彼は思った。停年間近で家庭もなく癌で死にかけているという運だ。俺だって、これだけの運があったら・・・・。

昼休みで誰もいなくなった編集室は静かだった。放心した目線だけが分厚い手紙の上を彷徨っていた。澤田の脳裏を金食い虫の倅と娘、ヨットと外車を含む二台の乗用車、ヨットやテニスのクラブメンバーとしての社交、そして、海を見下ろす高台の家と、もっと広い家に住み替えたいと執拗に食い下がる美しい妻の姿が過ぎっていった。

【完】

 

* 短編小説「癌」は、平成五年の第四回・鳥羽マリン文学賞の入賞作品です。従って、鳥羽市教育委員会が、刊行に関する権利を保有します。

* 2000・9・9/Cairnsで加筆しました。



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