航海に出て、今日で五日目。ようやく体も慣れてきて少しは作業もできそうな感じ。まず最初に、僕は出港の日から気になっていた或ることから手掛けることにした。というのは、最初の夜いきなり猛烈な時化に見舞われ、本当にどう対処したらいいのか分からず戸惑っているその時、スターンの方からロ笛が聞こえてきたのだ。それは、何ともたよりなげな単調な響きだった。その響きがまた僕の不安をさらにかき立てた。
日中、風の穏やかな時など、まるで夢だったかのようにそれは鳴りをひそめ、口笛の正体が知れぬままニ、三日が過ぎた。
昨日の朝は、この航海を始めて最初の快晴だった。船酔いで眠ってばかりいたので、舵はウインドベーンに任せっ放し。スピードアップのためにも少しは自分でティラーを握ってみようと僕はコックピットに座った。
間違いなく1ノットはスピードが上がる。
僕はすっかりいい気分になって舵を引きながら大声で古い裕次郎の歌を唱っていた。そうしたら、調子っぱずれな伴奏が聞こえてきたのだ。そう、あの口笛だ。
僕は唱うことをやめて、思わず音のする方を振り返った。何てこった。その音はスターンパルピットに穿ったいつかの穴から出ていた。穴はかつて電気配線やビスで何かを固定するために開けられたもので、今はただ馬鹿みたいに虚ろな穴でしかなかった。それがいくつもあるものだから、風の侵入する穴と抜ける穴との関係でいくつかの音程が構成され、その組み合わせでへんてこな和音が生まれていた訳だ。
分かってみれば何とも呆けない話しだ。僕は伴奏を無視してまた歌を唱った。
でも、夜中の時化にあの調子っばずれのロ笛はどう考えても精神衛生上よろしくない。
もう少し体調が回復したらあの穴を塞いでしまおう。夕べそう考え、今日僕はそれを手掛けたのだ。
作業といったって、十一の穴のうち水抜きの三つを残して、ただ黒いビニールテープを巻くだけのことだ。ものの三十分でそれは終わり、僕はそのことをとうに忘れてしまっていた。
日中もそうだったけれど、今日は夜になっても海はわりと穏やかだった。本船との衝突を防ぐため、僕はいつものようにー時間半眠っては起きるというワッチ体制で体を休めていた。それがちょっとした手違いで僕は随分眠ってしまったようだ。
僕はライフハーネスを装着してコックピットに飛びだし、まず周囲に本船の航海灯が見えないかチェックした。次に針路や風速、海況、セールのトリムなどを点検する。何も異常はない。僕はほっとしてキャビンに降りていった。
薄暗い室内灯の明かりの下で、一人の小柄な少年がソフアに腰掛けて僕を見ていた。その子は、何かひねこびた皮肉な表情が身についたといった子供だった。
「きみは誰?」僕は聞いた。
少年はフンと鼻でせせら笑うと、
「毎日会っているじゃないか。いまさら名乗るのもお可笑いや」と皮肉な調子でいった。
「ここはヨットの上だよ。僕はー人で航海を始めたんだぜ。きみがこの艇にいたなんて、僕は全然知らないよ。それに、きみはまだ子供じゃないか」
少年はまたフンとせせら笑って、
「おれはあんたよりも、この船には永く乗っているんだぜ。それに子供扱いは止してくれよ」
「僕よりも永くって・・・。ああそうか、きみは前のオーナーのAさんの子なんだね」
「違うよ。あまり勝手な想像で決めつけないでほしいね。おれはこの船が出来た時からこの船にいるんだ。強いていえば、おれはこの船の子供さ。おれはAさん達とホーン岬だって廻って来たんだぜ」
「へぇ、きみって凄いんだね。でも、Aさんはきみのことを知っていたのかな?Aさんは、きみのことを僕にはー言もいわなかったけど?」
「そんなことおれの知ったことじゃないよ。互いに対面して名乗り合った訳じゃないから知らなかったかも知れないし、うすうす知っていたかもしれないし」
「でも、そのきみが今日僕の前に現れたのは何か特別な訳でもあるのかい」
「もちろんだとも。おれは人の前に姿を見せないはずだった。本当はおれは音だけの存在だったのに、あんたはおれを追い込んでしまったんだぜ」
「ちょっと待てよ。僕がどうしてきみを追い込んだりするんだね。もう少し僕に分かるように話してくれないか」
少年はちぇっと舌打ちをすると、
「あんたは今日、あの薄汚いテープでおれをぐるぐる巻きにしたじゃないか。あのままじゃおれは消滅してしまうしかないんだ。おれは音になるから存在するんだ」
「えっ、それじゃ、きみはあのスターンパルピットなのかい?いやいや、その穴なんだろうか」
「そうじやないよ。おれは音だっていっただろう」
「でも、きみはテープでぐるぐる巻きにしたといっただろう。僕は穴の開いたパイプをテープで巻いたんだから。音を巻いた訳ではないよ。そして、きみはあの口笛なのかい?」
「口笛?ああ、あの音のことか。あれをロ笛と理解したいのならその通りさ」
「分かったよ。テープは明日剥がそう。それでいいんだね」
「ああ。念を押すようだが、おれはあんたのいうロ笛そのものでも、また他の特定の音でもないよ。おれは音という存在なんだ」
少年は、そういってソファを立つとキャビンを出て行った。僕はすっかり考え込んでしまった。ロ笛だけではない音という存在と少年はいった。それではロ笛以外の他の音も出ているのだろうか。そんな音を僕は聞いたこともない。多分、僕の耳に聞こえない音域でいろんな音がこの僕を取り巻いているのだろう。
翌朝、僕は歯を磨くとすぐにテープを剥がしに掛かった。一つずつ剥がしていくうちにあの不確かな音が聞こえてきた。やがてそれがへんてこな和音になると、僕は、その音に向かっていった。
「これでいいんだね。さあ、好きに歌うといい。でも、音を自分の存在というのなら、その音痴な和音はどうにかならないものだろうか」
口笛はフッと途絶えた。僕の言葉であの少年の自尊心が傷つけられたのかも知れない。それから数分すると、とても遠慮勝ちな口笛が鳴りだした。前よりももっと調子っばずれな音で。僕は思わず苦笑し、よく晴れた水平線に視線を向けた。
終
June 13, 1995
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