西久保 隆
何という海だろう。
十八歳からヨットに乗って、既に四十年になるが、十日間も続いた時化なんて聞いたこともない。低気圧の墓場といわれる冬のベーリング海や、あのロアリング・フォーティ(吠える【南緯】40度線)ならいざ知らず、ここは北緯三十度。どちらかといえば、穏やかな海域なのだ。
普通、低気圧などの気団は、時速三十五キロ程のスピードで東へ移動し、二、三日で、足の遅いヨットを追い越して行く。或いは、東西に連なる前線があって、その上を次々と到来する低気圧が、ヨットを弄ぶというのか。いやいや、風向が大きく振れないことからいって、それも考えにくい。
***
二十日前、三浦半島の三崎港を出帆した日は、いい天気だった。
ハワイを中継点として、太平洋を横断する俺を、大勢のヨット仲間が見送ってくれた。花束や果物、ビールや清涼飲料水、缶詰やレトルト食品、それに、日記帳やポルノ雑誌、退屈な時にでも遊べと、剣玉や西洋式の凧などの餞別で、デッキは足の踏み場もなかった。
舫い綱を解くと、誰かが、半分、茶化し気分で「蛍の光」を唄いだした。それが、いつか合唱となり、何か、本当のお別れ気分になっていったのには、いささか閉口したものだ。岸壁を離れる艇に、何本かのテープが投げられたが、それらは、一本も艇に到達しなかった。何本かは届かず、何本かは艇を越えて海中に没した。
暫くは、伴走艇もあった。しかし、城ヶ島を過ぎ、本船航路に差し掛かる頃には、みんな引き返し、やがて、俺は、独りっきりになった。
夕方には、遥か西方に三宅島が見えた。それが、夕闇に溶け込んでいく時、本当に独りでこの航海を始めたのだという実感が湧いて、俺は、急に心細くなってしまった。変な話だが、それまでは、何か、他人事のような側面があったものだ。
荒れることで有名な日本近海は、案外と穏やかに過ぎた。天候が悪化しだしたのは、出航後八日目、北緯三十三度、東経百五十八度を東航している頃だった。
空は、次第に重く垂れ込め、北から、大きなうねりが、連なってやって来た。艇が,大きく持ち上げられ、次には、壁のように立ちはだかるうねりの谷間に、落ち込んで行った。いよいよ本格的な奴が来るなと身構え、荒天準備にとりかかった。それは、二日間ほど、さして悪化もせず、膠着状態が続いた。それでも、セールは、2ポイント・リーフ(縮帆)のメイン(主帆)と、ナンバー3ジブ(前帆)で荒天に備えてはいた。
十日目の明け方、俺は、物凄い音と衝撃に叩き起こされた。
今まで、南のアビーム(横風)だった風が、前方に回り、四十ノットの北東風に変わっていた。ブーム(帆桁)とセールやシート(帆綱)が暴れまわり、北から来るうねりと、東からの風波に、艇は、捩れるようにピッチング(縦揺れ)とローリング(横揺れ)を繰り返していた。時折、凄まじいパンチングに、船体が、ビリビリと振動し、俺は、艇がばらばらになるのではないかと恐ろしくなった。やがて、風は、五十ノット、波高は、八メートルになり、昼過ぎには、五十五ノットにまで吹き上がった。
前方からの強風では、前進よりもリーウェイ(横流れ)の方が大きかった。終いには、徒労感に打ちのめされ、ヒーブツー(漂泊)する以外に手はなかった。そんな三日間が続くと、五十ノットの風が、前進は出来ないにせよ、次第に、暴風としての脅威感を失っていった。時には、ほとんど四十五度もヒール(傾斜)するキャビンで、飯も炊いたし、ちゃんとシチュウだって作った。勿論、何度かは、パンチングで鍋が飛び上がり、料理を、天井にぶちまけたこともあったが。
しかし、呑気にしていられたのも、三日目までだった。四日目になると、何となく、焦りみたいなものが頭をもたげてきた。ヒーブツーをしていたのでは、どこにも着けないし、何か、工夫をしなくてはと思い、デッキに出てみた。海が、物凄い形相で、荒れ狂っていた。晴れていると、サファイア色に輝く海が、溶けた鉛のような色で沸き返っていた。艇が、うねりの頂上にせり上がると、見渡すかぎり、徹底的に荒廃した広野が見えた。圧倒的な水の連なりでありながら、それは、微塵の潤いもなく、あたかも、常識的な社会規範からはみ出して生きてきた、俺の無頼な人生を展望しているようだった。
風速は、五十ノットを下ることはなかった。処置なしという諦め気分でキャビンに戻り、ハッチを閉め切った。しかし、何分もしないうちに、またデッキへ出た。そんなことを何度か繰り返して、俺は、やっとストーム・セールで走る決心をつけた。
オアフ島へのアプローチを考えると、せめて、西経百七十度に到達するまでは、北緯三十度より南へ下りたくはなかった。東北東の強風は、ストーム・セールを揚げた艇を、ほとんど南南東の針路でしか走らせない。日付変更線にも至らぬ位置で、北緯二十度海域に入ったら、北東貿易風で、マリアナ諸島付近まで吹き流されかねない。かといって、北向きのタック(帆が風を受ける向き)で走らせると、本当に真北に進む。そんな試行錯誤を繰り返し、暴風五日目には、遂にベアポール(全ての帆を降ろした状態)で、また漂泊に戻った。
考えてみれば、それは、現状を、どう受け止めるかという問題でしかない。永遠に続く嵐はないのだから,少々のことは待てばよいものを、それが出来ない不思議な焦燥感が俺を駆り立てて止まない。ストーム・セールを、揚げては降ろし、降ろしては揚げ、その挙句、敗北感に打ちのめされて、バース(船の寝床)で不貞寝する。しかし、極度の苛立ちが,心身ともに疲れ果てた俺を、安らかに眠らせることはなかった。
そんな繰り返しで、十日目を迎えた。
身体の疲労は、とうに限界を超えていた。そればかりか、何度も襲いかかるノックダウン(横倒し)に、精神は沈滞し、現状に立ち向かう気力は萎えていった。睡眠が、ほとんどとれない状態が続き、九日目あたりからは、幻覚と幻聴が俺を悩ませた。
差し板をノックする音で目覚め,俺は、バースを抜け出して、ハッチを開けた。この航海計画を,真剣にサポートしてくれたKさんが、「やあ」といって顔をのぞかせた。
「元気にしているかい」と、Kさんがいった。
「まあ、何とかやっているよ」俺は、虚勢を張って答えた。
「随分、時化ているじゃない。これじゃ、オアフまでの道のりは遠いね」
「いつかは、時化も収まるよ」それから、やや声を落とし、俺は、「でも、本当は、もう疲労困憊の状態なんだ」と、いった。
そう応えながら、こんな所に、Kさんがいる筈がないではないかと思った。幻覚だと気づいた時、ハッチの空間から、Kさんは消えていた。しかし、俺は、暗雲の渦巻くその空間に向かって、一生懸命、苦境を訴えと続けていた。このままでは、気が狂ってしまうという恐怖感に、俺は、身震いした。
俺は、デッキに身を乗り出し、大声で、何度も「馬鹿野郎」と、叫んだ。それは、海と空と風と波と、この天然の運行を司る何か、例えば、神というようなものに向けての、精一杯の罵倒だった。そのせいかどうか、その直後に、風は、遂に60ノット(約31m/秒)にまで吹きつのり、俺を、徹底的に打ちのめしてしまった。
冷静なセーラーなら、一時、風下へ艇を流すという避難方法をとったのかも知れない。しかし、俺には、その時、そんな精神的な余裕もなかった。やみくもに艇を風上に向け、愚かにも、烈風と怒涛のさ中を進もうとしていた。艇は、正に、木の葉のように翻弄され、精も根も尽き果てた俺は、いつの間にか、キャビンの床で気を失ってしまった。
***
デッキで、俺は、忙しく働いていた。セールを揚げ、シートを調整し、上手くいかないといって、セールを交換した。或いは、固縛したロープが解けて、装備や搭載物がデッキやキャビンを暴れまわり、もう一度、初めからロープを掛け直す。そんな作業が、果てしなく続いた。そして、俺は、何故か、その作業が、永遠に終わらないことを知っていた。頭の隅で、その徒労を訝りながら、それでも俺は働いた。
手を休め、マストに凭れ掛かって暫し休息する。途端に、誰かが、「働け!」と、厳しく叱咤した。奴隷のごとく、俺は、その声に従順に作業を続けた。
何度目かの叱咤の末、その声の主がどんな人物なのか、未だ知らないことに気づいた。コックピットでシートを手繰りながら、俺は、こっそりとキャビンを覗いてみた。
そこには、数え切れないほどの人々がいて、その中心に腰を降ろした女に、何かを申告している様子だった。何をしているのかと尋ねてみたが、誰も振り向きはしなかった。
俺は、何度も大声で尋ねた。しかし、結果は同じことだった。終いに、この人々にとって、俺というものが存在しないのではないかと、次第に不安になっていった。
俺は、キャビンに降り、ギャレィ(船の台所)のポットから、カップにコーヒーを注いだ。それを女に差し出し、「一服しては?」と、いった。
女は、顔を上げ、無表情に俺を見た。女は、智子だった。
***
かつて、俺は、智子と所帯を持ち、三人の子をなした。その頃の俺には、生活力もなく、ただ、夢のようなことばかりいっている理屈屋の能無しだった。
本当は絵描きになりたかったが、そんな才能もなかった。手先の器用さから、商業デザインをやった。商業デザインで何とか食べていながら、それは、ただの生活手段でしかないと俺は嘯いた。思うに任せぬ現状に不満を燻らせ、さしたる努力もせず、世間が公正でないという憤懣に、常に苛立っていた。
そんな時、俺の危なさを、個性的な魅力と勘違いした馬鹿な女が現れた。遊ぶ分には、女は、馬鹿な方が面白かった。女は、真由美といった。俺が、常軌を逸した行動をとることを、反社会的なヒーローでも見るように喜ぶ女だった。
俺は、真由美と遊び呆けた。家には、生活費も入れず、家に帰ることも稀だった。貧しさの中で育ち、耐えることに慣らされた智子は、あたかも、それが、自分の宿命であるかのように、じっと絶えていた。
或る日、家へ帰ると、洗濯籠に、無造作に脱いだ衣類を放り込んだ。俺は、その下着に、生理のさ中の真由美と交わった痕跡が付着していたことを知らなかった。
智子は、初めて、女の狂気を爆発させた。今まで耐えてきただけに、それは、嫉妬というよりは、正に、狂気というに相応しい激しさだった。泣き叫ぶ子供らを尻目に、彼女は、包丁を振りかざして迫った。殺されても構わないと思ったから、俺は、何の抵抗もしなかったが、まだ幼かった子供らが取り縋って、母親の狂気を諌めた。それは、余りにも凄惨で、未だに、思い出すことさえ躊躇われる修羅場だった。
糸が切れたかのように、智子の生活は方向を見失い、挙句,新興宗教に救いを求めた。それを、俺は、知性の欠如した女の所業と嘲笑った。みぞれの吹きつける夜更け、インフルエンザの高熱に喘ぐ子供をおぶって,集会とやらに出かける女を、俺は、ただ、苦い思いで見ていた。
新興宗教が争点となって、やがて、俺たちは離婚した。離婚してやることだけが、智子を救ってやれる道だという思いが、傲慢にも、俺の中にあった。三人の子供らは、当然、智子が引き連れて行き、俺は、真由美との退廃的な同棲生活を始めた。
後年、初老に差し掛かった智子と,成長した子供らに逢った。あの新興宗教が支えとなって、彼らは、真実、立派に育っていた。その時、俺は、自らの愚かさと、その日まで積み上げてきた、絶対に赦免のない巨大な罪業を、魂の底に打ち込むように自覚した。そして俺は、生涯、この重罪を担って生き、やがて死して、地の底へも引きずって行こうと決心したのだ。
***
その智子が、目の前にいた。そして、彼女の周囲には、真由美との間に生まれた子を含む子供らがいた。
さらに、その周辺に目を転じると、かつて、何らかの関わりを持った、数え切れないほどの人たちがいた。彼らは、俺の心の隅に、拭いきれずにしまい込まれた、大小の罪や負い目を秘めた人々だった。
彼らは、智子に、俺によって与えられた損害や心の傷を、細やかに申告していた。
***
俺は、その場を逃れ、デッキへ引き返すと、再び、終わることのない作業に戻った。徒労感はあっても、自分の罪状を、つぶさに聞かされているよりはましな気がした。
相変わらず、海は、暴風のさ中にあった。頭上から崩れてくる大波に、何度も、叩きのめされ、押し流されながらも、辛うじて、艇から転落することもなく、途方もない作業が続いた。
スピーカーから聞こえるような声が、俺に、聴聞室へ出頭するようにといった。
聴聞室は、キャビンへ降りるステップを、逆に、上へ登った所にあった。犬小屋の入口ほどの、人が屈んでやっと通れる小さなドアを潜ると、そこは、会議室風の大広間だった。威厳を湛えた人々が、奥の壁際に控え、まるで、実験動物を見るような目で、俺を見ていた。
中央に、裁判官が着る黒いマントに身を包んだ智子がいて、木槌でテーブルを打った。その音を聞いた途端、俺は、自分が被告になったことを悟った。
***
書記のような男が立ち上がり、いつ終わるとも知れない長文を読み出した。それは、俺の罪状であり、そのまま俺の人生だった。
朗読と並行して、壁面のスクリーンに、その情景が投影された。その映像は、俺の記憶の投射だった。改めて、客観的に観るそれは、時に、俺自身の目をそむけさせた。
朗読と映像が大きく食い違うと、耳障りなノイズが入った。そこで、智子は、書記の朗読を休止させ、俺の記憶因子をチェックした。いくつかは、記述に訂正が加えられ、いくつかは却下された。
智子と書記以外の威厳ある人々(陪審員なのか、検事なのか)は、雑談をしたり、席を立ったりして、審理に参加しているようには見えなかった。時折、わざわざ俺の目の前にやって来て、「人でなしめが」とか、「お前は、社会の害虫だ」などと、満足気にいった。
社会的に観て、俺が、何の益ももたらさぬ害虫であり,人でなしであることは、とうの昔に承知していた。凡そ生産性とは無縁であり、現実の利害よりも、内面の倫理性が優先した。醜悪な姿を晒し、屈辱的な生に甘んずる奴を、心から軽蔑したし、面と向かって、何故、そうまでして生きるのかともいった。しかし、それは、他に対してよりも、俺自身について、さらに峻厳だったはずだ。
俺は、自分の美学しか信じなかった。だから、思考や行動は、自ずと,独断的な美意識によって規定された。それを、強引に押し通すことで、俺は、どうしようもなく頑迷で身勝手な存在となった。
赦免があり得ない巨大な罪業を背負って生きることは、それ自体が罰だった。それは、俺の内面に根ざした、純粋に自意識の問題だった。人が知ろうが知るまいが、そんな生きざまを、人目に晒す訳にはいかなかった。だから、俺は、この航海に出たのだ。
人が老いるという条理の中で、否応なく、俺も老い、衰えつつある。だが、一歩海へ出たら、もう、それは問題ではない。海に人生を描く者は、常に、不測の事態に処する己をみがいている。そこには、老いの寂寥も,若さの奢りもない。海で死ねたら・・・という憧憬とさえ無縁に、ただ、普遍的に死があるだけなのだ。
***
そうした思念までが、映像として、あからさまに投射された。内面の映像であってみれば、しょうがないのかも知れないが、しかし、俺にとって、これ以上の屈辱があるだろうか。ひそかに罪業を自覚し、永遠に償い切ることのないそれを、一片ずつ償っていく自意識を、衆目と、張本人である智子の眼前に晒すことの恥辱に、俺は、思わず呻いていた。
そこへ、ブレザー・スーツの男が現れ、一同に向かって、権威ある者の尊大さで一礼した。男は、国が認定した法定計量士であると宣告した。
「どういう職務をなさるのですか」
と、俺が尋ねた。法定計量士は、軽蔑した目で俺を眺め、
「一切の世事は量で計ることが出来る。つまり、数値化が出来るということだ。善や悪の量、権利や義務の量、寄与や損耗の量。私は、そんな半端仕事はやらないが、食べ物の味や商品の出来の良し悪しなども、数値化できる。
かつては、法律に準拠して裁判が行われた。しかし、知っての通り、恐ろしく専門的で,複雑な法知識が必要だった。原告も被告も、当事者でありながら、結果以外、裁定の経緯がさっぱり分からない。
ところが、この計量方式は単純明快である。ただ、量の判断は主観だ。そこで、国家が、厳正無比な試験を課して認めた専門家が、公正な計量をすることになる」
そんなことも知らぬのかといった語調で、彼がいった。
「量は、長さですか、重さですか、それとも体積ですか」
俺は、半分は茶化し気分で、さらに尋ねた。法定計量士は、ここぞ吾が哲学の披瀝の場といった様子で、胸を張っていった。
「計量は直観の芸術です。すなわち、誰もが膝を打って、成る程と感動し、納得でき、思わず平和な気持ちになれる。そういう計量を達成することが、私の信念です。それはもう、仕事を超えた芸術といえます。
感動的な計量の基準は、時に、体積であり、時に、重量であるという流動性が不可欠です。単位は、gの時もあるし、匁の時もある。立方メートルの時もあれば、升や斗の時もあります。単位は、芸術的感動の重要なファクターであり、計量対象と、その傾向による必然なのですから。
私は、本件には、立方ファゾムこそが似つかわしいと考えた。どうだろう、みなさん、ご賛同いただけるだろうか」
一同に拍手が起こった。ファゾムとは、海洋で用いられる単位で、一尋ということだ。それに、立方という計測単位があったかどうか、俺は知らない。
報告書が、智子から法定計量士に手渡され、彼は、厳粛な様子で、計量に取り掛かった。小一時間程して、電卓や算盤、計算尺などを駆使し、彼は、計量値を立方ファゾムに置き換え、さらに現実的な数値に換算した。
やがて、一枚の紙片が、智子に渡された。彼女は、その数字を凝視し、「そんなに・・・」と、呟いた。一同は、興味を募らせ、発表を待った。「計量の結果を、申しあげます」心もとなさそうに、智子がいった。
「罪の計量値は、1万3765立方ファゾム。罰に換算して、時化の海を、3421日間、無寄港で航海を継続すること」
拍手が巻き起こった。俺は、ただ、ああ、約十年間か・・・と、思った。
そうした絶望感の対極に、俺によって最も痛手を蒙ったはずの智子が、「そんなに・・・」と、絶句したという慰藉があった。あれは、あの女の優しさだったのか。
俺は、この裁決に、本気で絶望しつつ、しかし、これが夢であることを承知していた。3421日、つまり、夢の中の十年間を経なければ、この夢が覚めることはない。そして、夢の中の罰は、確実に実行され、確実に俺を苛んでいった。
***
今日で、3420日目。明日一日の苦役に耐えれば、この夢も終わり、現実に戻れるだろう。その時、あの赦免のない罪業が償われているのだろうか。否、そんなことはない。揺るぎない俺の美学が紡ぎ出した、あの絢爛たる罪業に、智子の優しさがもたらす悲傷を添え、もう一度、最初から担い直そう。
夢の中と同じ壮大な大時化が、俺を、待ち受けてくれている。
[完]
* この作品は、1995年5月、すなわち、私が、日本を出帆する直前に書かれたものです。あの頃の張りつめた心理が反映していて興味深く、少々加筆して発表します。
西久保 隆
2000年2月・AUS
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